「サッスーン財閥」の歴史

「サッスーン財閥」の歴史


●「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)には、「サッスーン財閥」の歴史について詳しい説明が載っている。


■エトランゼの上海


◆上海は清朝がイギリスとの「アヘン戦争」に敗れた結果結ばれた「南京条約」により、1843年11月開港した。

上海はイギリスによって、イギリスのために開港され、イギリスの中国市場支配の拠点となった。これは動かしがたい事実である。


◆自由貿易による世界市場を展開するにあたって、19世紀半ばのイギリスは、シンガポール以東の西太平洋地域においては、各地域の政治経済の中心地に近く、かつほとんど無人の地に良港を獲得し貿易拠点とする戦略を取っていた。シンガポールに加え、香港・上海・横浜などはみなこの戦略に合致する港である。

旧イギリス租界の正面に位置する外灘の建築列のファサードには、現在でも上海がイギリスを始めとする列強の中国市場支配の拠点となってきた歴史が色濃く刻み付けられている。しかし人々がそれを「偽りの正面」と呼ぶように、上海を単に国際貿易の要という意味で外から眺めた場合においてさえもその奥にひしめくものに気付かされる。 〈中略〉


◆イギリス勢力が東アジア海域に進出した18世紀末にその貿易の中心となっていたのは、「イギリス東インド会社」というより会社によってライセンスを付与された地方貿易商人であり、彼らが従事したのは、イギリスとアジアとの貿易というより「アジア間貿易」であった。

さらにこの時期にはイギリスによるアヘン三角貿易によって「アジア間貿易」が拡大せしめられていた。

 
■アジアの都市・上海


◆この「アジア間貿易」自体は、ヨーロッパの大航海者が参入する以前から、「海のシルクロード」として、また中国を中心とする朝貢貿易のネットワークとして存在しており、そこは日本と琉球・中国・東南アジアやインド・イスラム圏の商人たちが活躍する舞台であった。

最近「海のシルクロード」と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏には、航海・造船技術の点でも中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の構造船が航海の主役となっていた。

そこにはイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も含まれていた。

たとえばインド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来ユダヤ人貿易商が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占した。

現在もコーチンで胡椒の取引を行なう市場は「ジュー・タウン」(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。


◆「サッスーン財閥」は、上海開港後にいわば二番手として登場したイギリス商社で、イギリスの支配する開港場上海の代表とも目されるが、その実、サッスーンは二代のうちにアラブ圏のユダヤ人からイギリス紳士へと変身を遂げたユダヤ商人であって、アヘン三角貿易の申し子ともいうべき存在である。

イギリス紳士とはいいながら、その存立の基盤の一方はユダヤ人のネットワークに置いており、いわば「海のシルクロード」を舞台とするアジア人の商人という性格を持ち続けていた。

イギリスのアジア市場展開の一面はサッスーンの活動を通じてより明らかとなろう。

 
■「海のシルクロード」とユダヤ人サッスーン


◆上海外灘のウォーターフロントでもっとも目立つ建物といえば、旧香港上海銀行(上海本店)と並んで、現在和平飯店北楼として使われている旧サッスーン・ハウスであろう。

私は1970年代末の最初の訪中のときに和平飯店に滞在して旧名がキャセイホテルだということを聞き、その後の滞在の間にこのホテルがイギリスのユダヤ人財閥によって建てられたことを知った。そのユダヤ人財閥はサッスーンといい、ジャーディン・マセソン、バターフィールド&スワイヤー、英米タバコと並ぶ上海のイギリス系四大財閥の一つであった。

「サッスーン財閥」はイギリスでもロスチャイルドと並び称されるユダヤ人大財閥であったが、いろいろな点でロスチャイルドとは対照的であった。

何よりも、ロスチャイルド家がドイツのフランクフルト出身のヨーロッパのユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジアのユダヤ人、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であった点である。


 ◆「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続き活動の場を広げていった。

もともとイスラム世界には「ユダヤ人」という考え方はなく、「啓典の民」ユダヤ教徒として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていた。


◆サッスーン家の祖先も、代々、イスラム帝国の都であったバグダッドの名族で、オスマン帝国の支配下では、オスマン帝国によって任じられたバグダッドの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官のもとで、主席財政官の地位を与えられ、ユダヤの「族長(シェイク)」とみなされていた。

ところが18世紀後半になると、バグダッドではユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サリは一時族長の地位を追われた。1826年、サリの子デビッド・サッスーン(1792~1864年)が族長の地位を引き継いだが、彼は「ヴァリ」の迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。

1829年、デビッドは老父を伴い、夜陰に乗じてバグダッドを脱出し、バスラに移住した。バスラは別の「ヴァリ」が統治していたが、ここもサッスーンにとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシアのブシェルヘと再度移住した。ブシェルは当時ペルシアにおける「イギリス東インド会社」の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。

 
★デビッド・サッスーン
インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘン密売で莫大な富を築く。「アヘン王」と呼ばれた。

 

◆1832年、デビッドは商用でインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れ、イギリスの勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デビッドはサッスーン家を挙げてボンベイに移住を果たした。

当時のボンベイは人口20万、ユダヤ人も2200人を数えた。この頃ボンベイは発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャ綿製品がインドに流入し、「東インド会社」の貿易独占も廃止され、ビジネスチャンスが広がっていた。

ボンベイに来たデビッドは、1832年に「サッスーン商会」を設立し、ボンベイで本格的に活動を開始した。

★これが「サッスーン財閥」の始まりである。


◆この頃、イギリス綿製品がインドヘ、インドのアヘンが中国へ流入するという「アジア三角貿易」が形成されてきていた。このルートに乗って「サッスーン商会」はイギリスにも支店を開設し、ランカシャ綿の輸入などにあたるほか、後述のように「アヘン貿易」に従事した。

また、1861年アメリカで南北戦争が起こってアメリカ綿花の取引が途絶すると、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。


◆デビッドは1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンのもとで発展を続けた。

 

■「アヘン王」デビッド・サッスーン


◆デビッド・サッスーンは1854年にイギリス国籍を取得したが、アラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語・ヘブライ語・ペルシア語・トルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。


◆デビッド・サッスーンはイギリスの世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆であることは、彼自身の生活態度に現れている。

すでに大航海の初発、すなわち15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」のとき、インドでガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。

デビッドがバグダッドを脱出してボンベイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークを通じたからであった。そしてイギリスがアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にアジアに存在していた、中国からインドを経てアラビア世界にいたる交易圏を前提にしていたのであった。

 
◆デビッドはビジネスで成功すると、同胞のユダヤ人への恩を忘れなかった。彼は私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。特に、1861年、バグダッドにユダヤ教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、後継の養成に資したことの意義は大きい。

「サッスーン商会」の幹部職員はこのユダヤ学校からリクルートされることになったのであり、「サッスーン財閥」が「イギリス帝国主義の尖兵」という姿の奥に「海のシルクロードのユダヤ商人」という原籍を持っていたことは、その活動の最後に至るまで見出すことができる。


 ◆ボンベイの「サッスーン商会」は2代目アルバート・サッスーンのもとで工業投資に力を入れるようになった。

1885年以後、「サッスーン商会」は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。

インドでサッスーンが産業資本の性格を持つという事実は、上海におけるサッスーンの活動とは好対照をなすといえよう。またアルバートは親子二代にわたる多大な慈善事業が評価されて、1872年、ナイトに叙せられた。この地位は上海のサッスーン家にも引き継がれていくことになる。

 

■上海と「新サッスーン商会」


◆デビッドがアジア三角貿易展開のため東アジアを重視したのは当然である。彼が華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」のターニング・ポイントとなった。

「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリスと結んだ条約)締結後の1844年、デビッドは次男のイリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでイリアスは香港に移動し、1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜・長崎そのほかの都市にも支店網を広げた。

そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。

ところで、中国におけるユダヤ人の足跡も、イギリスの世界市場展開を遥かにさかのぼる。イリアスも、1844年に中国に来たとき、10世紀から存在した開封のユダヤ人について聞いたはずである。彼らは完全に中国人に同化しながら清代にまで生き延び、1652年にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を再建していた。


 ◆イリアスの弟アーサー・サッスーンは1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、中国での活動の地歩を固めた。

しかしデビッドの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバートが継承したので、イリアスは1872年、別会社として「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。

 

◆「新サッスーン商会」の活動は次の三期に分けられるとされる。

第一期は1872~1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。

第二期は1880~1920年、イリアスの子ヤコブと
 エドワードの時代で、不動産投資に精力が注がれた。

第三期は1920年以後、エドワードの子ビクターが不動産だけでなく、
 各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期である。


 ◆19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、ほかの外国商社と比較しても際立っている。

開港間もない1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス系の前3社はいずれもアヘン輸入を大宗としたが、サッスーンの船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。

1870~1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーンが独占した。サッスーンの強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。

 
◆デビッドの孫ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス国内でもアヘン禁止の声が高まり、1908年には「中英禁煙協約」が締結された。それでもサッスーンがアヘン取引にこだわったことは、1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。アヘン禁止による価格の上昇が巨利をもたらしたからである。

 

■「アヘン王」から「不動産王」へ


◆「サッスーン財閥」はアヘンで儲けた金を土地の買い占めに回したと非難されるが、20世紀にはアヘンなどの商業に加えて不動産も主要業務となる。

サッスーンが1877年、最初に手に入れた土地は、あの和平飯店の土地、サッスーンの活動拠点となる「サッスーン・ハウス」の土地であった。「新サッスーン商会」が不動産事業に乗りだしたのは、上海共同租界当局の工部局が財政需要の増大から土地捐をしばしば引き上げたため、地価が不断に上昇し、土地投資が有利となったためである。

「サッスーン財閥」はユダヤ人の不動産王サイラス・ハードンから上海の繁華街南京路の不動産を入手したのを始め、さまざまな手段を用いて不動産を取得し、また建物の賃貸業務などで利潤を上げた。1941年までに上海に建てられた26棟の10階以上の高層建築のうち、6棟が「サッスーン財閥」の所有であった。

「サッスーン財閥」は1926年に「キャセイ不動産」を設立したのを始め、たくさんの子会社や関連企業を設立して業務を拡大し、上海の「不動産王」となった。

 
◆上海を代表するユダヤ人不動産王にあって、サッスーンとハードンは対照的である。

ハードンはサッスーンと同じくバグダッド(現イラク)に生まれたユダヤ人だが、サッスーンのようなユダヤ名族ではなく、5歳でボンベイに移住し、1873年にサッスーンで働いていた父の友人を頼って香港から上海に来たときは無一物であった。彼は上海の「サッスーン商会」に雇われ、1886年には「新サッスーン商会」に移った。そして1901年に独立し、不動産業に乗りだした。

サッスーンがイギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルドとも姻戚関係を結んだのに対し、ハードンは租界の範囲において1887年にフランス租界公董局董事となり、1898年には共同租界工部局董事になるほか、さらに中国そのものに同化していった。この点では、彼の中国人の妻・羅迦陵(らかりょう)の影響が大きい。彼女の影響でハードンは篤く仏教に帰依し、1904年には「ハードン花園」を建造して中国の人士と交際するサロンとした。その中には清朝の皇族から革命派の人物までが含まれる。

しかしサッスーンは武器売却先の軍閥など取引相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行なった慈善事業の対象も、中国ではなく、世界のユダヤ同胞が中心であった。

 

■「上海キング」ビクター・サッスーン


◆ビクター・サッスーンは1924年、父エドワードの死により爵位と「新サッスーン商会」の経営を引き継いだ。彼はケンブリッジのトリニティ・カレッジ出身の完全なイギリス紳士であり、若くから航空マニアで、第一次世界大戦中にはイギリスの航空隊に加わって負傷した。

 
◆彼が上海に君臨したことを象徴する建物がかの「サッスーン・ハウス」である。このビルはパーマー&ターナーの設計で、1929年に完成した。ヨーロッパ式に数えて10階建(日米式では中2階を含めて12階)で、4階から上はホテル、10階は彼自身の住居にあてられた。

彼はまた上海西郊の虹橋路に買弁の名義で別荘を営んだ(現在の龍柏賓館)。

さらに、租界の治外法権を利用して中国側の建築計画にも干渉した。1934年、「サッスーン・ハウス」の並びに中国銀行のビルが建ったが、当初の計画ではマンハッタン風の34階建の摩天楼になるはずであった。ところがサッスーンはロンドンで訴訟を起こし、自己のビルより30cm低い中国風の屋根を持つ現在の建物に計画変更させてしまったのである。

 
◆「サッスーン財閥」は、産業資本・金融資本としての地歩をも固めた。

インドの「サッスーン商会」と比べると、上海に中心を置く「新サッスーン商会」は後までも「アヘン貿易」にこだわり、工業投資はあまり活発ではなかったが、この状況を変えたのが、1923年の安利洋行買収であった。安利洋行の前身はドイツ系の瑞記洋行で、第一次世界大戦後は共同経営者であったイギリス籍ユダヤ人のアーノルド兄弟が安利洋行として復業した。アーノルドは上海共同租界の工部局董事や総董を歴任する一方、紡績・造船などさまざまな企業を興していた。ところが1923年の不況時には経営不振に陥り、サッスーンの買収に帰した。業績不振の企業やその不動産を乗っ取るのはサッスーンの常套手段であった。間もなくサッスーンは経営陣からアーノルド兄弟を駆逐し、すべてを自己の支配下に置いた。

この結果「サッスーン財閥」は、紡績・機械・造船・木材のほかバス会社(中国公共汽車公司)をも傘下に置いた。

「サッスーン財閥」はまた1930年、香港に「新サッスーン銀行」を設立し、上海・ロンドンなどに支店を開設するほか、いくつも投資会社を設立して金融力により上海の産業を支配した。 〈中略〉


◆第二次世界大戦後、租界が回収され、中国の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小した。そして1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。残った不動産も1958年に至り最終的に中国に接収され、「サッスーン財閥」は中国から姿を消した。

時は移って現在、かつて上海最大のイギリス財閥であった「ジャーディン・マセソン商会」は香港からバミューダに本社を移す一方、再び中国との関係を深めている。この動きと比べると、興味深い。

★ジャーディン・マセソン商会
この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。(1841年に本社を香港に移転した)。

 
◆史上イギリス資本の世界市場展開、イギリス帝国主義のアジア支配と呼ばれている事態も、事実に即していえば、まずアジア市場を開拓したのはもともとこの海域でアヘン密売をしていた地方貿易商人のジャーディンやマセソンであった。さらにさかのぼると、イスラム圏からインド圏を経て東アジアに至る海域にはイスラム商人やユダヤ人・アルメニア人などが活躍していた。

サッスーンもこのルートに乗って中国に至ったのである。

さらに開封のユダヤ人やサイラス・ハードンのように終着点の中国に安住の地を見出す人々(ユダヤ人)もいた。これからの世界に占めるアジアの力量を考えると、アジアの海から世界を見る視角も意味を持ってくるといえよう。


以上、日本上海史研究会[編] 『上海人物誌』(東方書店)より。

 

 
 

 


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by kabu_kachan | 2014-05-16 17:38 | Comments(0)
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