「ロシア系ユダヤ人のアメリカ移住」の研究論文(3)

第二節 ドイツ系ユダヤ移民との比較


ここで社会的成功要因を述べる前にロシア系ユダヤ人とドイツ系ユダヤ移民との比較を しておきたい。ドイツ系ユダヤ移民はおおよそ 17 万人、ロシア系ユダヤ人は 250 万人近 くが移住している。


1.居住と職業

ドイツ系ユダヤ移民は、国中に散らばったことでアメリカ文化に融けこむことが容易に なった。ドイツ系ユダヤ移民が移住した時期は 1820 年代からでアメリカが地理的にも経 済的にも拡張期にあった時だった。彼らは拡張ルートに従い、東部、中西部、極西部さらに南部を、行商人として扇形に広がっていった。行商には資本や技術もいらなかったが、郵送販売が発明されるまで行商は都会の商品を地方に普及させる主要な方法であり、重要な経済的需要を満たしていた。しかし、行商生活の不安定さや孤立感、肉体労働の苦しさは否めず、チャンスがあり次第一定の場所に定住して店を出すか、他のビジネス、例えば衣料産業、投資銀行家、大手の小売商などを確立することが彼らの目標であった。ジョセフ・セリグマン、マーカス・ゴールドマン、ソロモン・ロエブなどがドイツ系ユダヤ移民として挙げられる。あらゆる大きさの都市や町において商業ビジネスを打ち立てたドイツ 系ユダヤ移民のため、1860 年代までに 160 を下らないユダヤ人コミュニティが存在する ようになった(40)。 一方、ロシア系ユダヤ移民は 1900 年代前後の都市化と産業化が頂点に達した時に移住 してきた。彼らは行商人になるにも貧しすぎた。1900 年に到着した移民全体について一人 当たり 15 ドルを所持していたことと比較すれば、ロシア系ユダヤ移民は平均 9 ドルしか 持っていなかったのだ(41)。そこで彼らは衣料工場などに飛びついたが、人口過密なユダヤ 貧民街を大都市に作り出していったのだった。


2.宗教

ドイツ系ユダヤ移民は居住をよりよい地区、アッパーイーストサイドなどへ移っていくにつれてシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会にもお金をかけて建築するようになった。と同時に祈祷文と礼拝形式にも急激な変化が起こった。礼拝の長さは極端に縮められ、エルサレム神殿の復興、ダビデ王時代のような王政復古への伝統的な祈りは放棄された。オルガン音楽が導入され、祈祷の主要語としてヘブライ語の代わりに英語が用いられるようになった。そして、家族席で男女共に座れるように差別が取り払われ、男性礼拝者がショールと帽子を身に付けることを禁じる規則が作られたのだ。この点は伝統との最終的な訣別を意味し、最も意味の深いことであった。なぜならそれは、ユダヤ教とプロテスタント礼拝の目に見える不要な相違を取り除いたからである。ドイツ系ユダヤ移民はアメリカ社会に受け入れられようと同化への意欲が高いことを示している。反対にロシア系ユダヤ人は正 統派ユダヤ教であり、アメリカに移住してからも伝統を貫いていった。 ロシア系ユダヤ人はユダヤ教会に限らず、ユダヤ食用のコシェー肉、公衆浴場、イディッシュ語新聞の発行など移住前の生活やユダヤの伝統を崩すことなくその地域にユダヤ社会をつくり上げたといえる。ユダヤ人街は異国風の活気と強烈さに溢れていた。アメリカに社会に同化したドイツ系ユダヤ移民にとってはロシア系ユダヤ移民の強烈な信心深さ、貧しさ、急進主義は反ユダヤ主義を起こさせるのではないかと震え上がらせた。しかし、ロシア系ユダヤ移民の支援をいち早く開始したのもドイツ系ユダヤ移民であった。移民住宅、無利子ローン貸付会、孤児収容所など衣食住の面倒を見、多岐に渡ってロシア系ユダ ヤ移民を"向上"させ、アメリカ社会への定着を試みたのだった。


第四章

社会的成功の原動力

これまで見てきたようにロシア系ユダヤ移民はドイツ系ユダヤ移民より極貧の生活にも関わらず、急速なスピードで中産階級入りを果たし、地位を上昇させていった。この社会的地位上昇の原動力、要因は何なのだろうか。ロシア系ユダヤ移民についての要因を第一節で挙げ、続く第二節でドイツ系も含めたユダヤ移民全体についていえる要因について述べていきたい。以下に挙げる要因①~⑦はユダヤ人の適性、歴史、環境、宗教といった視 点で分類できる。


第一節 ロシア系ユダヤ移民における原動力

① 天職の不動産業 ―機会の利用―

ロシア系ユダヤ移民が社会的上昇の階段を登る一番の要因・原動力になったのがこの不動産業との出会いだと思われる。ロシア系ユダヤ移民は手近にある機会を何であれ利用することに長い習練を積んでいた。生計を立てるためには麻薬売買などの犯罪すらもやってのけたし、数種にまたがって仕事をする器用さも持ち合わせていた。アメリカの都市化と工業化は、ユダヤ人が長期にわたって持っていた小売業と卸売業を拡大させた。住宅の需要増加と都市の住民、なかでもユダヤ人の居住地から居住地への頻繁な移転が、大工や電 気工、不動産関係者に仕事の機会を創り出していた。20 世紀初めの土地需要の増加によっ てロワーイーストサイドからブラウンズビルにかかる土地価格は一区画の値段を二年間に 50 ドルから 3000 ドルに高騰した(42)。1920 年までにニューヨーク市の建設業者や開発業 者の 40%がロシア系ユダヤ移民になっていたが、大工やペンキ屋、あるいは店主や衣料品 製造業者出身であり、少ない資本金で一軒の家屋を買うことから始め、徐々に増やしていき、自前の建設業者へとなったのだった。資本金を貯める方法は前述したが、自宅に下宿 人を置くことであった。1911 年の調査では、ニューヨーク市内のロシア系ユダヤ移民世帯 の 56%が少なくとも一人の下宿人を置いていた。あるロシア系ユダヤ移民主婦は下宿人を 家におくと、彼女の料理が評判になり、その評判を聞いて人が集まってくるのでレストランを経営すると繁盛した。彼女は産婆としても働き、夫も衣服工場に仕事を持っていたの で毎週いくらか貯金できた。ニューヨーク到着後 8 年経った 1911 年、夫は小さな貯金で ビルを買うことを提案した。そして小さな不動産物件を次々に買っていき、1920 年までに その夫婦は裕福になっていた、ということが実際に起きていたのである。 不動産業はロシア系ユダヤ移民にとって理想の天職であった。理由として主に二つ挙げよう。

第一に、不動産業はロシアで長い間禁止されてきた土地所有への欲求を満たしてくれるからだ。土地を所有することは蔑まれてきた自分たちが「自由の国アメリカ」で「尊敬に値する市民」になったことを宣言する行為であり、同時に流浪の歴史に終止符を打ち、アメリカを安住の地として定めたことの決意表明に他ならなかった。ただし、感情的愛着だけで土地を求めたのではなく、権力者によって容易に奪われてしまう土地そのものに本質的な価値があるのではなく、土地が生み出す利潤こそに価値があるという認識をロシア 系ユダヤ移民は体得していた。この点の認識は他の移民とは異なるところだった。1915 年の研究で、ハーバード大学と MIT 大学の学者たちは、「ユダヤ人は不動産所得に異常に 飢えている」と報告している(43)。移住前は不動産を持つことができた時でさえ、ロシア系ユダヤ移民はそれをせず、なんらかの固定資産に投資することは差し控えていた。彼らの世界では、どんな時でも逃げ出せるように資本をできるだけ流動的なものにしておきたがったのである。資本の流動性への要求は強いものであり、現在も専門職を好むように、ユダヤ人の行動を規定しているとされる。

第二に、不動産業のいくつかの特殊性はロシア系ユダヤ移民にとって魅力的であったのだ。製造業とは違い、多額の設備投資は必要なく、卸売業のように仕入れた商品の在庫を常に抱え込むリスクを負う必要もなかった。知的専門職のように高い学費を払いながら何年も高等教育機関で学ぶ必要もなかった。さらに、通常、借入金で仕事に着手するため、自己資金もわずかで済んだのだ。何よりもエリート度の高い産業に存在したようなユダヤ人を排除する社会的障壁が、この業界には存在しなかったのである。サンフランシスコの不動産開発業者ウォルター・ショレンスタインがいうように「不動産の仕事は会社組織としては成り立ちにくいので」、完全に開かれていたのである。事実それは興行性のある活動 であり、大きなリスクと同時に大きな報酬を伴う仕事である(44)。ショレンスタインの公式によれば「個人こそが鍵を握っている」のであり、さらに「ユダヤ人は自分に賭けるのが好き」なのである。不動産業は貧しいユダヤの移民家庭に育った野心的な若者にとって文 字通り理想的な天職となった。1920 年までにニューヨーク市内の不動産開発業者、建設業 者の実に 4 割までを彼らが占めるようになっていた(45)。 ビジネス雑誌『フォーブス』が毎年 10 月に特集として掲載している「全米資産家最上 位 400 人の長者番付」の 2000 年版では 400 人中 64 人、16%がユダヤ人であった(46)。対照的に黒人、ヒスパニック系、イタリア系、東欧系のキリスト教徒はほとんど登場しないのだ。この 16%という数値はユダヤ人がその人口比、全米総人口の 2%強を大幅に上回る 経済力の持ち主であることを示す証拠といえる。2000 年度では 1990 年から 1993 年の深刻な不動産不況に遭い、後退しているものの 1985 年度版をみるとわかるようにユダヤ系資産家最上位 20 組のうち、10 組までを不動産業が占めている(47)。1985 年の長者番付 400 人中ユダヤ人は 26%を占めており、これがピークの年とされている。不動産業ではシカゴ のプリッカー家、ロサンゼルスのイーライ・ブロード、同じくドナルド・ブレンが有名である。プリッカー家は複合企業「マーモン・グループ」の社主でハイアットホテル・チェ ーンなど 100 以上のホテルを所有し、個人資産額は 55 億ドルとされる。イーライ・ブロ ードは短期企業貸付の「サン・アメリカ」の会長であり、住宅建設の「カウフマン&ブロ ード」の社主でもある。個人資産額は 52 億ドルである。ドナルド・ブレンは太平洋岸諸 州で不動産経営管理を行う「アービン・アパートメント・コミュニティーズ」の社主であ り、カリフォルニア州オレンジ郡最大の土地所有者でもある。個人資産額は 40 億ドルと される。残り 10 組のうち 5 組が渡米前に行っていたエスニック・ビジネス(被服の製造 と小売、穀物取引、蒸留酒製造など)で資産を築き、さらに 4 組は化粧品やマスメディア、 残りの 1 組が古くから WASP に支配されていた「伝統的基幹産業」である石油業であった (48)。以上よりユダヤ人大富豪のうち半数が不動産の開発・投資により資産を形成していた ことがわかる。不動産業は 19 世紀末から 1980 年代に至るまでアメリカ・ユダヤ人最大の 蓄財源であったのだった。 ② 帰国率の低さ 1908 年から 1925 年の帰国率は、イタリア系移民は 55.8%、ルーマニア系移民は 67%、 日系移民は 40%に達している(49)。一方のロシア系ユダヤ移民は 5.2%であった。他の移民 は出稼ぎ的意識が強く、結婚資金や故郷で農地を手に入れるための金稼ぎができると帰国してしまったのに対し、ロシア系ユダヤ移民は法的差別を受け、賤民だった本国に戻る気は毛頭なかったのである。新天地アメリカで成功するという不退転の決意を胸に秘めてい
たのであった。移民は、くつろげる我が家にいる立場から軽蔑される外国人になるという、多数派から少数派への苦しい移行を経験しなくてはならなかったが、イタリア人やポーランド人に比べて、アメリカ社会への調整の過程でさほど傷つかずに済んだともいえる。本国にいても主流に入れなかったロシア系ユダヤ移民にとってアメリカへ来ることは地位の上昇でこそあれ、下落ではなかった。生活が事実いかに困難であろうと以前より自由であ り、将来にも楽天的であった。 ③ 都市的・商工業的背景 第二章第二節の2でも触れたようにロシア系ユダヤ移民は 82%が都市型集落に居住し、 3 分の 2 のユダヤ人は仕立工や靴職人、大工など何らかの職を身に付けて商工業の技術を 蓄積してきた(50)。とくにロシア帝国内における衣服製造業には 25 万人、ユダヤ人製造業 従事者の 47%を占めており(51)、もともと高度な技術を擁していたのだった。このことは 20 世紀のアメリカで急速に発展した都市化・産業化の流れにユダヤ人が適応することを可 能にさせたのである。都市化により自給自足の農場とは異なり、人々は生産者から消費者へと変化し、産業化はコストを大幅に下げ、急成長下の消費物資の需要を満たすことを容易にした。そこで、ロシア系ユダヤ移民はロシア帝国でも従事していた衣服製造の術をアメリカでも活かしていき、他移民との差別化を図ったのである。対照的に、イタリア系移 民の 4 分の 3 は、農民出身の手に職のない労働者であり、都市的生活環境への適応力をロ シア系ユダヤ移民ほどには持たなかったのである(52)。


第二節 ユダヤ移民の原動力


次に、ドイツ系、ロシア系含めたアメリカのユダヤ移民全体についていえる環境とユダ ヤ教観による原動力について述べる。 ④ 周辺性 ユダヤ人は伝統的なユダヤ人の社会から離れたものの、キリスト教徒の世界では完全に受け入れられなかったからこそ、一つの文化に固執する先入観や懐疑的な敵意からも解放 されて創造力の源になったという周辺性の考えがある(53)。しかし、ロシア系ユダヤ移民はもともと熱心なユダヤ教正統派であり、ユダヤ教の伝統を遵守した生活を送っているのでユダヤ人社会から離れた存在とは言えないだろう。イギリス系ユダヤ人の政治哲学者で歴 史家であるサー・イザイア・ベルリンが述べているように(54)、ユダヤ人の周辺性の結果はそのための疎外ではなく、その先にある社会の受容への強烈な欲求であり、ユダヤ人はそのために隣人を執念と言えるほどの注意深さで研究したのであると示唆している。習慣のわからない部族のなかに居を構えた一群の旅人にロシア系ユダヤ移民を例えると旅人には自分が歓迎されているかわからないのでホストの考え方や行動の仕方をすべて学ぼうとする。その過程において、ユダヤ人の異邦人たちはその部族の権威になる。彼らはその言語や習慣を分類し、その部族の辞典や百科事典を編纂し、その社会を外部から解釈するのである。ここから時流を探知し、変化する個人や社会情勢の持つニュアンスの違いに早く注目する力が発達するのだ。批評力、分析力、観察・分類・解釈の能力をこうして身につけ
ていった。

具体例を2つ挙げる。一つ目は、映画産業初期の大御所の一人、かつては衣服産業で働いていた東欧系ユダヤ人サミュエル・ゴールドウィンだ。彼は映画館の前列に座り、映画を見るよりも観衆の反応を見るためにスクリーンに背を向けて座ったという。大 衆をつぶさに観察し、時流を嗅ぎわけ、社会情勢のニュアンスを見分けていたのだった。

二つ目の例は 1980 年代のウォール街で企業乗っ取り屋として恐れられたロシア系ユダヤ移民アーウィン・ジェイコブズ(1941 年~)である。彼は少年時代、ミネアポリスで中 古の麻袋の売買に携わった父を手伝っていた。穀物が一度穀物エレベーターの中に収納されると袋は不要となる。アーウィンはこの使用済み袋を安く買い求め、破れ目につぎ当てを施した後に、新品の袋よりも安い値段で飼料業者へ売り歩いたのであった。これは、ロシア系ユダヤ移民のエスニック・ビジネス、廃品回収業の一形態である。彼は、他の同業者が捨てた袋の中に価値を見出したのである。アーウィンはこの父の商売から「他人が見 落としたところに価値を見出す術を学んだ」と述懐している(55)。 ⑤ 教育・節約 教育を重視する宗教的・歴史的伝統が挙げられる。幾多の迫害に遭い、その度に逃避行を繰り返してきたユダヤ民族は身ぐるみを奪われるような迫害を受けたとしても、頭の中の知識だけは人が生きている限り、誰にも奪われることはない。その知識をもとに頭脳を使ったニュービジネスを考案して生き延びていくことができると歴史的に考えるようになった。宗教的には、ユダヤ教徒にとって無学なことは恥とされ、ユダヤ教の聖典を読めないことは罪とみなされ、来世では永遠の罰が定められていると信じられていたのである。
そのため識字率は高く、ヘブライ語、イディッシュ語、ロシア語、ポーランド語などの読み書きもできる者が多かった。ロシア系ユダヤ移民は識字率だけではなく、教育水準・勉 学への傾倒も比類ないものであった。
ただし、ニューヨークにおける 1908 年の調査では、 ドイツ系移民の子供たちは最も成績がよく、次にアメリカ生まれの子供たち、そしてロシア生まれのユダヤ人、その次にアイルランド系、イタリア系移民の子供たちという順になっていたのでロシア系ユダヤ移民学童が他の諸民族の学童に比べて飛びぬけて優秀だった というわけではない(56)。一つロシア系ユダヤ移民学童の特徴として言えるのは、多くが非常に勉強熱心であり、その理想主義、知識の渇望が教師たちを魅了したことである。欠点としては肉体を犠牲にしての精神の過剰な発達、極度にラディカルな思考、過剰な感受性、 体育への無関心が挙げられている。 子供たちが専門職を得るために必要な長期の学問への費用を捻出するため、節約を欠かさなかった。ユダヤ人は未来に焦点をあてているのであり、現在よりも未来を期待している度合いが他の移民よりも高い。この視点の置き方は、メシヤ到来に重きをおき、贖いは歴史の外でよりも歴史の中で起こるという信念を持つユダヤ教の世界観に補強されている (57)。他の移民集団の若干を特徴付けていた運命主義と対照的に、ユダヤ人はつねに世界を人間の統制の受けやすいものと考えてきた。神と人は創造行為においてパートナーであるとみなしているのだ。この思考により、教育や節約に重点を置くのであろう。未来は自分 次第なのである。 教育と節約の結果、1915 年のロードアイランド州プロビデンスにおいてロシア系ユダヤ 人男子の中に占める高卒者の占める割合が、既に 21.9%に達していた。他の移民集団全体 の平均値 11.9%、アメリカ生まれの白人の平均値 13.8%を上回る数値であった(58)。ロシ ア系ユダヤ移民の教育水準の高さは社会的地位上昇において土台になったことは言うまで もない。現在でもユダヤ人の 60%以上が大卒で、非スペイン語系白人の 3 倍に達している。 高校男女を対象にした進路調査でも全体では 50%が大学進学希望でうち 20%が専門職の 資格取得あるいは大学院への進学を希望していたが、ユダヤ人の 83%が大学進学希望、そ の半数以上が専門職の資格取得あるいは大学院への進学を希望している(59)。進学への意識 が高いといえよう。 ⑥ 親子関係 ⑤に挙げたような未来に期待する考えは一方で、子供の将来のために自分の快楽や幸福 を犠牲にさせるようになる。ユダヤ人の親は伝統的に、子供を従属物はおろか、別の存在 というよりも自分の分身と考えてきた。ロシア系ユダヤ移民の公式に従えば、子供たちは両親のナハス(60)である。子供の成功と功績は両親の成功と功績になる―子供の失敗は親の失敗になる。とくに息子は幼少の頃から家庭生活の中心になる傾向がある。子供たちは思春期が終わるまでは壊れやすい、保護を必要とする生き物とみなされるので外部の人間には、ユダヤ人の両親は子供を甘やかすと見えた。アングロアメリカの伝統に基づいて育てられたキリスト教徒は子供にさほど依存しないために、子供の要求にもそれほど動かされなかったのでユダヤ人の許容度を甘やかしと見たのだが、ロシア系ユダヤ移民の親たちは子供が望むようなやり方で業績を上げるよう褒美をあげていたのである。子供たちが溺愛されていたのは確かであり、それは反対に、高度の期待と一番以外は受け入れられないという厳しい基準が伴っていたことを意味する。親たちが子供にかける野心には謙虚さは微塵もなかったのである。自営業の父親は子供に跡を継がせたかったが、大抵母親は医者や弁護士の専門職になることで出世するのを望んでおり、高度の教育こそが身を立てる方法だと考え、母親の意見が通ることが多かった。しかし、子供全員が母親からの愛情と期待を受けていてもトップをとれたわけではない。期待に応えられず、子供の精神が病んでし まうことはなかったのであろうか。5 つの大都市圏内での精神衛生や精神病の研究による とユダヤ人はプロテスタントやカソリックよりも"軽度"または"中ぐらい"の神経症の 率がやや高めであるといえ、重大な機能不全の精神病者の率は相当に低いという(61)。実は子供たちにとっては、これは逆にプラスに働いているのである。愛情や世話の行き過ぎがもたらすリスクは、それらが少なすぎる場合に比べてはるかに小さい。息子たちの若干が母親の献身でつぶされるとしても大部分は学校やキャリアで成功するのに必要な強力なエゴを発達させるのだ。事実、ユダヤ人学生はクリスチャン学生より自信が強く、リーダーシップ、学術能力、オリジナリティで自分を平均以上と位置づける学生が多い。こうしてロシア系ユダヤ移民の子供たちは親の愛情と期待を背負って熱心に専門職への道を歩んだ のである。 ⑦ ユダヤ人社会ネットワーク 新たに事業を立ち上げようとするものにとり、資金調達は極めて切実な問題である。この点に関して、小口の事業資金を無利子で貸付ける制度がユダヤ人社会の中に存在した。 その代表が 18 世紀のヨーロッパに起源を持ち、19 世紀末、ロシア系ユダヤ移民が移住す ると共に続々と全米各地に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会(Hebrew Free Loan Society )」であった。商才に長けた日系や中国系は母国から無尽や互助会といった同胞同 士の資金調達システムを持っていたが有利子であり、出資者も借り手と同じく貧しい移民であるのに対して、「ヘブライ人無利子貸付協会」は無利子で、出資者は借り手と異なり、アメリカですでに成功を収めていた比較的裕福なドイツ系ユダヤ移民などであった。さらに、日系の宗教色を持たない団体と違ってこの協会はユダヤ教の教えに乗っ取って設立さ れた宗教的慈善団体であった。1927 年時に全米で 509 存在した「ヘブライ人無利子貸付 協会」のうち、実に 427 までがユダヤ教会堂の中に設置されていた事実からも明らかであ る。協会設立背景には、貧しい同胞に無利子で金を貸すことを宗教的義務と定めたユダヤ教律法の規定、そして同胞が貧困の悪循環を断ち切り、商売で身を立てられるよう援助す ることこそ最高の慈善行為と称えた中世のユダヤ教賢者マイモニデス(1135~1204 年) の教えがあったのである。1892 年に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会」のニューヨ ーク支部が創設以来、1 世紀の間に数十万人の借り手に対して総額 1 億 800 万ドルもの貸 付を行い続けてきた事実からも明らかである。貧者救済に加えて雇用斡旋部と職業訓練学 校をも運営し、小事業を発足させようとする者を援助していた(62)。 とくにロシア系ユダヤ移民コミュニティは家族生活の上に立脚していたのであり、家族を最小単位としつつ、移民たちはランズマンシャフトと呼ばれた同郷集団の網の目を打ちたて、多くの種類の諸組織を作り出していった。宗教的にはシナゴーグと宗教学校、慈善・相互扶助団体、教育機関、労働団体が設立され、活気に満ちたエスニック・コミュニティが成立した。具体的には老齢者を保護した「ヤコブの娘たちの家」、孤児を収容した「ヘブライ孤児院協会」、「ヘブライ収容保護協会」、身体障害者を受け入れた「聾唖者教育協会」、 到着するユダヤ移民の援助をするための「ヘブライ移民協会」、などが挙げられる。 「ヘブライ人無利子貸付協会」の他にもう一つ移民に密着していたのは故国の同じ町や地域からきた移民たちからなる団体、ランズマンシャフトだった。ユダヤ人は国としてのロシアやポーランドに対して強い忠誠心を感じることは稀だったが、かつて住んだ小さな土地に対しては強烈な愛着をよせ、ノスタルジーにかられて同郷者団体を作り上げていた。 1914 年にニューヨーク市内には 534 のランズマンシャフトがあった。機能としては、病 気や死亡、失業に対する相互扶助組織だった。第二の機能はユダヤ人墓地の一区画を購入することだった。生活の必要に迫られて異邦人のあいだで過ごすとしても、ユダヤ人はユダヤ人のあいだで永遠を過ごすことを望んだのである。第三の機能として、非公式的な雇用斡旋機関としても役に立ったのである。ボスは自分の企業に同郷者を雇おうとしたからである。こういったネットワークはロシア系ユダヤ移民にとって苦しみを分かち合える憩いの場であり、ドイツ系ユダヤ移民なども含めてユダヤ移民全体で社会的上昇を目指して いける支え、原動力だったのである。 以上①~③が、特にロシア系ユダヤ移民について、④~⑦がユダヤ移民全体について言 えるアメリカ社会で地位を上昇していくことのできた要因であると考える。


終章

現在のアメリカにおけるユダヤ人の社会的影響力がどのようにして得られていったのか を探るため、今日のアメリカ・ユダヤ人 9 割を占める 1900 年代前後に移住したロシア系 ユダヤ移民を通して検証してきた。

ロシア系ユダヤ移民が移住当初の窮乏した生活から中産階級へと上昇を遂げていき、アメリカ社会のメイン・ストリームまで上り詰めた原動力、 要因は何だったのかという論文の目的の答えとして 7 点を列挙した。①天職の不動産業と の出会い、②帰国率の低さ、③都市的・商工業的背景、④周辺性による視点、⑤教育・節 約、⑥親子関係、⑦ユダヤ人社会ネットワーク、の 7 点である。

この中で、ロシア系ユダヤ移民にとくに限って言えるのは①~③の要因だろう。数字の扱いに長けたユダヤ人の不 動産業における適性も関係するが、3 点ともロシアでの土地所有を認められず、土地獲得 への情熱が強かったことや賎民扱いを受けていたことなど移住前の生活や歴史が大きく関 係している。行商人として全国に散らばったドイツ系ユダヤ移民とは背景が異なっている。 第二節で挙げた④~⑦の要因は 2000 年以上の長い迫害・流浪の歴史からくるユダヤ人 の宿命、周辺性といった環境要因と教育・親子関係などのユダヤ教観によるものである。
これらは第一、第二の波でアメリカに移住したセファルディやアシュケナジィのユダヤ移民にも共通していえることである。ロシア系ユダヤ移民を成功させた原動力は①~⑦の順 に重要度が高い順であるとの見方もできる。 夏にアメリカを旅行した際、黒くて長い帽子を被って正装に身を包んでいたユダヤ教徒を見かけ、強烈な印象と共に興味を抱いた。どこの国・社会に行っても流されることなく、ユダヤ教を遵守し、迫害を恐れて自ら多く語らないユダヤ人はベールに包まれた存在となりやすい。そしてアメリカ・ユダヤ人の経済力のみが誇張され、ねたましさを生んでしまったのだろう。アメリカのユダヤ人は成功者であり、果ては世界制服まで狙っているのだ とユダヤ人陰謀説を説く本すら出版されている。日本でもとりわけ 1987 年以後、アメリ カ国内のユダヤ人団体から抗議が相次ぐなか、反ユダヤ主義的出版物のブームが、日米摩擦の火種にもなった。しかし、この論文でも触れたようにロシア系ユダヤ移民は最初からアメリカで富を掴んでいたわけではなかった。衣服産業労働者という立場で貧困に耐えつつ、上昇していったのだった。自分の身と財産の安全を保障するために努力していたのである。ユダヤ人のアメリカでの進出が目覚しかったために「サクセス・ストーリー」と特別視してしまうが、その土台には少数者に対しても競争と共存の機会を等しく提供したアメリカの自由な土壌があって初めて可能であったといえよう。ユダヤ移民の社会的成功要因には挙げなかったが、規制の少ない自由競争社会であることと実利重視の拝金主義的風 土というアメリカ的特質(63)がユダヤ移民に合っていたことも前提としていえる。『アメリカの民主主義』を執筆したアレクシス・ド・トクヴィルもこのアメリカ的特質に合ったユ ダヤ人は水を得た魚のようにアメリカで生き生きと暮らしていると述べている。 多くの移民の中でも成功例として語られるアメリカ・ユダヤ人は、中産階級になった現在でも一方では常に再び迫害や虐殺の歴史がアメリカでも繰り返されてしまうのではという緊張状態に置かれている。中産階級以上のアメリカ・ユダヤ人でも、毎日ユダヤ人迫害の記事が載っていないことを朝刊で確認し、安心することが日課だという。ユダヤ移民に限っても他の人種に対する不信感はまだ拭えず、アメリカ文化への同化の枠にはまっていないことを考慮するとヒスパニック、黒人、日系人、など益々移民が増えているアメリカで多人種が共存していくにはアメリカ人としての自覚・信念を持たせる国歌斉唱や国への 祈り、そして移民それぞれの歴史・文化・宗教を踏まえた相互理解が必要だと強く感じた。


<注釈> (1)佐藤唯行 「アメリカ・ユダヤ人の政治力」PHP 研究新書 2000 年 p48 (2)同上 p48 (3)現ニューヨーク (4)丸山直起 「アメリカのユダヤ人社会―ユダヤ・パワーの実像と反ユダヤ主義―」 ジャパン タイムズ 1990 年 p20 (5)丸山直起 「アメリカのユダヤ人社会―ユダヤ・パワーの実像と反ユダヤ主義―」 ジャパン タイムズ 1990 年 p24 (6)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 2001 年 p208 (7)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク ―移民の生活と労働の世界― 」 山川出版社 1995 年 p20 (8)同上 p22 (9)滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 p88 (10)リトアニア (11) 滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 p89 (12) 野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク ―移民の生活と労働の世界― 」 山川出版社 1995 年 p33 (13) 同上 (14) 同上 p42 (15) 滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 p91 (16)同上 (17)同上 p92 (18)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク ―移民の生活と労働の世界― 」 山川出版社 1995 年 p37 (19)同上 (20)同上 p39 (21)同上 (22)同上 p40 (23) 同上 p42 (24) 同上 p46 (25)同上 p45 (26)同上 p49 (27)シーモア・M・リプセット著 上坂昇、金重紘訳 「アメリカ例外論」明石書店 1999 年 p234 (28)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク ―移民の生活と労働の世界― 」 山川出版社 1995 年 p91




最後にもう一度、映画鑑賞会です。

★Insight - Hollywoodism: The Ideology that has Devoured Western Culture
https://www.youtube.com/watch?v=cwgLczzn5gk



★「アメリカのユダヤ人」の研究
http://kabukachan.exblog.jp/25292635/


★米国の ユダヤが乗っ取る マスメディア
http://kabukachan.exblog.jp/24966612/


★イディッシュ語はドイツ語起源ではない
http://kabukachan.exblog.jp/25184891/


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by kabu_kachan | 2016-07-18 09:10 | ユダヤ | Comments(0)
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