カテゴリ:日中戦争( 3 )

「日中戦争」とは何か?

日中戦争の発端は何だったのか?


★【日いづる国より】水間政憲、
「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M


★さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U


渡部昇一&水間政憲
http://www.dailymotion.com/video/x115f4x_%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80-%E6%B0%B4%E9%96%93%E6%94%BF%E6%86%B2-2013-06-21_news


「ひと目でわかる『日の丸で歓迎されていた』日本軍」
https://www.youtube.com/watch?v=IJv_2rlLe_U


★【超限戦】報道スペシャル-中国プロパガンダ写真の真実
https://www.youtube.com/watch?v=_djUwHFV0yE



詳しく説明しているブログを紹介します。



以下は、http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2718.htmlより引用


昨日も書きましたが、この事件をねずブロで最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことでした。
当時は、この事件について知る人は、まだほとんどいなかった頃で、まれに知っている方でも、名前を聞いた事があるくらいで、それがいなかる残虐非道な事件であったかを知る人は、まだ少ない状況でした。
その意味では、戦後「消された歴史」です。
ですからこの事件を当ブログでご紹介したときは、「またねずきちが嘘を書いた」とか、「ありもしないねつ造を書いた」、「でっちあげだ」、ねずきちは「差別主義者だ」とか、さまざまな中傷が行われ、あげくの果てが私の人格否定論まで飛び出しました。

騒いでいたのは、日頃保守を自称する在日韓国人の方々ですが、上にありますように、この事件で酷い殺され方をしたのは、朝鮮人の人たちが半数を占めます。
昨日の記事の「Sさんの体験談」にもありますが、事件前に、この朝鮮人たちは、支那人の流す噂に反応し、率先して日本人や日本軍の悪口を吹聴していた人たちです。
そして、「その悪口を言っていた当の本人たちが、まさに率先して残虐な行為の犠牲になっています。

これは支那の工作員側から見れば、当然のことです。
工作によって扇動して陰口をたたかせていたのです。
事件後、生かせておけば、そんな工作があったことを、彼らはペラペラと喋ってしまうことでしょう。
そもそもさんざん恩恵を受けておきながら、他人の扇動に安々と乗って、その恩恵を与えてくれた人たちの悪口を並べ立てるような連中など、どうして信用することができるのでしょう。

ですから、通州事件では、日本人居留民が襲撃されたとき、どさくさにまぎれて、日頃支那人に焚き付けられて日本人の悪口を言っていた朝鮮人が、まっさきに殺されているのです。
そして支那人のスパイ(Sさんの旦那)は、事件のさなかに、その様子を一件ごとに確認をしています。
その様子がまさに「Sさんの体験談」に描かれているわけです。

在日の方々は、自分たちの同胞が、このような悲惨な事件に遭遇したことを、なんとも思わないのでしょうか。
数年前には「嘘だ〜」と言っていた方々も、今では、冒頭の新聞記事が出てきたりすることで、事件が事実起こったことを認めざるを得なくなっていようかと思います。
そしてこの事件は、このたび自由社の『新版・新しい歴史教科書』に、日本の教科書として戦後、初めて掲載されるに至っています。
通州事件は、まぎれもない現実なのです。

 *

通州事件が起きるまでの経過を少し追ってみます。
事件の経過を知ると、日本という国、日本人という民族、そして支那人や共産党の恐ろしさが、はっきりと見えてきます。

通州事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起こりました。
そして半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
そしてこの事件に、支那共産党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

共産党というのは、もともと世界革命を目的としています。
具体的には、これは「世界をクレムリンの支配下に置く」というもので、クレムリンが世界を支配し隷属させる、そのためには、既存のあらゆるものは破壊して構わないし、抵抗する者は殺して構わないという主義であり政党です。
そんなクレムリンは、ソ連の崩壊とともに、いまでは無くなってしまったのですが、世界中にはまだその残党があり、また国家規模でも、中共などは、まさに新たなクレムリンになろうとしているわけです。

ですから当初、共産党は、世界の征服のために「コミンテルン(Communist International)」をつくりました。
そしてロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

ところが欧州の各国は手強い。
手強いわけです。欧州各国は世界中に植民地を持ち、巨大な富を持っているのです。
地上の8割は、欧州各国の支配地だったのです。

そこでコミンテルンは、欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置くことを、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定しました。
混乱が生じている国に工作員を送り込み、その混乱をさらに煽り立てる。
当時の支那は、清王朝が倒れた混乱期にありましたから、まさに狙い目だったのです。
コミンテルンは、決定に基づいて大量の工作員を支那に送り込みました。
そして毛沢東率いる支那共産党に巨額の経費を与え、支那の共産主義化の促進を図ったのです。

共産主義革命の基本は、「対立をあおる」ことにあります。
支那は古来、外国人が王朝を築いた国です。
隋も唐も元も明も清も全部、外来王朝です。

つまり支那は、他の民族によって住民が支配され収奪されることが常態化していた国です。
そして清王朝が倒れ、国内は混乱のルツボにありました。
無政府状態のカオス状態です。
そんななかで、各地の軍閥が、次の覇王を狙って互いに争っていました。
そして治安の悪化した支那には、世界11カ国から軍が派遣されています。

当時の支那は、まさに対立と闘争と混乱のさなかにありました。
しかもソ連と国境を接し、国土は広大で人口も多く、人が人を殺すことを何とも思わないという国風です。
欧州の列強各国も、まだ完全には支那を支配下においていない。
悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったわけです。

この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士である支那国民党でした。
なかでも武力による強硬策推進派だった蒋介石は、支那国土の混迷混乱を加速させようとする共産党を嫌い、これに対して徹底的な弾圧を加えていました。

どのような弾圧をしていたかというと、とにかく共産主義者とわかれば、片端から銃殺にしていたのです。
いま、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときのものです。

ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。

支那の捏造写真73



国民党による共産党の大弾圧によって、毛沢東率いる支那共産党は、勢力を落とし追いつめられました。
ついに支那の奥地の延安にまで落ち、あと一歩で完全壊滅という情況にまで至っていたのです。
中国共産党史では、この逃避行を毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。ただ逃げ落ちていただけです。

ところが、ここで皮肉なことが二つ起こりました。
ひとつは、共産主義革命のための費用です。
共産主義革命のために、莫大な工作費(軍費)をソ連からもらっていた毛沢東は、共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、逆に予算面では余裕がでてきていたのです。
当然です。共産党軍の兵士たちや、革命のための工作員たちは、共産党から給料をもらっています。
ところが共産党員が弾圧され、その多くが殺されれば、逆に人件費予算には余裕が出る。

もうひとつは、毛沢東にとって敵となる蒋介石の慢心です。
あと一歩で共産主義を壊滅できると踏んだ蒋介石は、よもやこの時点で自分が共産主義者によって拉致監禁されるなどと思ってもみませんでした。

そもそも蒋介石と、毛沢東や周恩来は、かつて孫文が大正13(1924)年に設立した黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)の蒋介石が初代校長、そのときの学校の政治部副主任が周恩来、生徒の受験面接官が毛沢東という、いわば上司と部下の関係にあります。
互いによく知った仲なのです。

この関係を利用して起きたのが「西安事件(せいあんじけん)」です。
「西安事件」は、昭和11(1936)年12月の事件で、その時点における支那共産党の最後の拠点である「延安」が目と鼻の先になる「西安」に、蒋介石がやってきたことに端を発します。

この頃「西安」には、地方軍閥である楊虎城(ようこじょう)がいたのですが、この男は、蒋介石も毛沢東もどちらも嫌いで、あくまで自分たちは西安で独自の軍閥でいようと粘っていました。
一方、「延安」に立て篭る八路軍(支那共産党軍)は、この時点の兵力がわずか7万です。
国民党は、兵力210万。その中の20個師団と100機を越える航空機を投入すれば、あっという間に延安を殲滅できる。
さあ、最後の大戦(おおいくさ)だというわけです。

ところが、そのための軍の進出地となる「西安」の楊虎城が、協力を拒みました。
「ヤダ」というのです。
しかも楊虎城は、共産軍と相互不可侵協定まで結んでしまいます。
せっかく延安にまで共産党を追いつめたのに、最後の最後で、拠点の確保ができない。
そこで蒋介石は、わずかな供回りだけを連れて、12月4日に「西安」の楊虎城に会いに行ったのです。

蒋介石がわずかな供回りだけを連れてやってくることを奇貨としたのが張学良(ちょうがくりょう)です。
張学良は蒋介石を襲撃し、12月12日に銃撃戦をして蒋介石を拉致してしまうのです。

そして蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に拉致し、そして蒋介石との間で、8項目にわたる合意を取り付けます。

【西安事件による八項目合意事項】
1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
2 内戦の停止
3 抗日七君子の釈放
4 政治犯の釈放
5 民衆愛国運動の解禁
6 人民の政治的自由の保証
7 孫文遺嘱の遵守
8 救国会議の即時開催

要するに、この拉致事件によって、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ったのです。

ちなみに、共産党嫌いだった蒋介石が、なぜ、突然、共産党と仲良くすることにしたのかについて、当時のある記録によると、張学良に襲撃された時、蒋介石は入れ歯を落としたというのです。
捕まったとき、慌てて逃げたため、入れ歯が落ち、逮捕先で入れ歯がないので、会話もろくにできず、飯も食えない。
そこで蒋介石は、自宅にある換えの入れ歯を要求し、妻の宋美齢がそれを持ってきた、というのです。

蒋介石の旺盛な食欲を満たすために、西安事件で蒋介石は支那共産党に寝返り、それまでの日本贔屓を一転させ、自軍の中に共産党員を多数潜り込ませ、それによって日本人や日本軍を襲撃させた。
だとすれば、蒋介石の寝返りによって殺された多数の人々は、蒋介石の入れ歯の身代わりに殺されたことになります。
これがウシハク支那という国の恐ろしさです。

この西安事件による「国共合作」によって、蒋介石率いる国民党は、「安内攘外」、つまり「まず国内の共産党を駆逐して国内を統一し、それから外国を打ち払う」という方針を捨てて、国民党自体が共産党の手先となりました。
そんなことを当時の日本は、まったく知らずに、国民党軍の訓練の協力などをしていたのです。
酷い話です。

そして昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」が起きました。
この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

実際、支那共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しました。

ところがこの電文の内容を見ると、「最初の発砲ですぐに両軍が衝突した」と書いてあります。
実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていたのです。
それが、両軍が衝突した、と記述されているということは、この78電文は、事件が起きる前に、あらかじめ準備してあった計画電文だったということです。

ですからいまでも中共は、この盧溝橋事件が支那事変のきっかけだったと主張しています。
それどころか、支那事変の名前も「日中戦争」だと言いはります。
けれど、当時、支那国民党も、支那共産党も、まだ国家ではありません。
国民党は、蒋介石率いるただの軍閥のひとつだし、共産党は壊滅寸前です。
さらにいえば、この時点で、まだ「中共政府」は成立していないし、その体もなしていません。
そして、戦争とは、国家と国家が行うものです。
ということは、「戦争」ではなく、これは「事変」と呼ぶべきもので、冷静にみて「日中戦争」とは「おこがましい」と申し上げたいと思います。

しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、

1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
4 抗日団体を取締ること

等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容になっています。
要するに支那共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

そうなると困るのは、支那共産党です。
共産党の予定では、盧溝橋事件で日本対国民党軍閥のドンパチがはじまっていなければならないのです。
それがスターリンのコミンテルンからの命令です。
スターリンは、「日本と国民党軍を衝突させろ!」といっているのです。
これは厳命です。
逆らえば、毛沢東の命はありません。

そこで、なんとかして日本と支那共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の廊坊事件であり、26日の広安門事件でした。

7月11日の停戦から、25日の廊坊事件まで、まる2週間が空いていますが、これは支那共産党に、新たな作戦のための準備期間が必要だったこと、コミンテルンと支那共産党とのやり取りが交されていたと見れば、辻褄があいます。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。
前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本は支那と開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点で支那に対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底して支那を撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところがそこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。
当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国は支那ではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです。

日本は、平和を愛する国です。
支那と戦う気など毛頭ありません。
むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、支那の大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものです。
だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、支那の兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしていません。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
そこでダメ押しで起こされたのが、人類史上類例のない残虐事件である「通州事件」であったのです。
これが起きたのが7月29日です。



元朝日新聞の本多勝一、写真捏造を認める!
https://www.youtube.com/watch?v=9DP7qnXgEFE&nohtml5=False



「ひと目でわかる『日中戦争』時代の武士道精神」
https://www.youtube.com/watch?v=bUOVBisWXDE



「反日朝日の原点と無知な外務省」
https://www.youtube.com/watch?v=QU6J_d4Kj_k



「反国家反日本の『朝日』」
https://www.youtube.com/watch?v=nsYpDWo9uxI



http://ameblo.jp/ohdoh/entry-11374162444.htmlより。


先の日中戦争に至る原因として中国が挙げるのは、第1に1931年の満州事変である。これは奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖の鉄道爆破事件を契機に翌32年には満州国を樹立した。しかし、これは侵略ではないことは断言できる。


なぜなら確かに関東軍将校が鉄道爆破をしたようだが、そもそも満州に関東軍がいたのは、満州に居座っていたロシアを日露戦争で追い出し、ポーツマス条約で南満州の権益をロシアから譲られたからである。


満州事変後、リットン調査団がまとめた報告書は、確かに関東軍への撤兵と国際管理を勧告しているが、それはイギリスなどが日本を追い出し、国際管理で利益を得ようとしたからである。


さらにリットン報告書において「一国の国境が隣接国の軍隊により侵略されたと言える簡単な事件ではない」と、それ以前の中国人による嫌がらせ、排日、侮日の行動を指し、日本の侵略性を否定している。


この満州事変を契機に翌32年には満州国を樹立したのだから、侵略だとすれば満州国建国であるが、これも全く違うものである。


この地を祖先としていたのは女真族であったが、中国・漢民族を征服し、清王朝を樹立後は皆、万里の長城より南に移動していた。だから満州の地は馬賊や部族が跋扈する化外(無法)の地であった。


満州国で初代皇帝となった溥儀について、溥儀の家庭教師を務め、のちにロンドン大・東方研究所長にもなった一級の中国研究者、ジョンストンの手記『紫禁城の黄昏』には、溥儀は父祖の地である満州に戻って独立国家をつくりたいと望んでいたことがハッキリと示されている。


日本は確かに満州国建国を強力に支援したが、化外の地であったし、溥儀の意思にもとづくものであるから、侵略国家ではないのである。


では日中戦争の発端となった1937年7月の盧溝橋事件はどうかというと、これは中国共産党の策謀であることがほぼ明らかになっている。


当時、夜間演習をしていた日本軍に銃弾が撃ち込まれた。日本軍は蒋介石軍がやったと思い、謝罪要求や小競り合いがあったが、のちに蒋介石軍と日本軍を戦わせたい中国共産党が、ソ連共産党の入れ知恵で双方に発砲したようである。


そのことは事件直後、北京大学の構内の通信所から延安の中国共産党司令部に宛てて「成功した」という電報(日本軍・元情報部員による解析の証言、H6.9.8付産経朝刊)、さらには秦郁彦氏の調査などでもほぼ明らかである。


この盧溝橋事件以降、日本人市民が280名も大量虐殺された通州事件(1937年7月29日)などが続き、険悪なムードになって行くのだが、それでも日本はあくまで自制していた。


日中戦争が正式に始まったのは、1937年8月13日の蒋介石軍20万人による上海駐留・日本軍約5000人に対する総攻撃からであろう。エドウィン・ライシャワー元駐日大使の『ライシャワーの日本史』においても、その日を日中戦争開戦の日としている。


さて、問題は「どちらが侵略戦争を仕掛けたか」であるが、日本の上海駐留軍はキチンとした協定にもとづき、米軍2800人、英国軍2600人、仏軍2050人、伊軍770人とともに区域分けし、駐留していたものである。


つまり日本の治外法権が正式に認められていた区域に突然、宣戦布告無しで総攻撃を仕掛けてきた。だから蒋介石軍こそが侵略戦争の開始者である。


侵略戦争の定義は、どこの国の領地で戦争が繰り広げられたかではない。ある国の国家指導部が周到に計画し、正式に認められた区域にいる国の国民ないし軍隊に対して、既存の協定や条約を無視して、区域を侵略して先制攻撃することも侵略戦争である。たんに一部の暴徒や跳ね返りの軍人がやったのではない。敵の総大将・蒋介石の指揮のもと、20万人が5000人を突然、襲撃したのである。


この事件の後、日本は南京を攻めて戦争状態となるのであるが、なぜ蒋介石が襲撃したかというと、ここにも中国共産党が関与している。
『マオ―誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアンら著)によれば、日本政府の不拡大方針にも拘らず、中国の度重なる挑発が続いたのは、中国共産党の大物スパイ・張治中の工作による。


彼は蒋介石軍の一司令官だったが、共産党に共鳴し、周恩来に入党を申し出た。だが周恩来は蒋介石軍にとどまり、ひそかに共産党と共闘するよう要請した。こうして張は蒋介石の懐刀のまま、スパイ活動に専心する。


その詳細は同書を読んでほしいが、張は、日本軍が中国人に対する攻撃を始めたと虚偽の発表までして反日感情を盛り上げ、開戦をしぶる蒋介石をせきたてて行った。


中国共産党はソ連共産党の指導もあり、日本軍とは闘わず、蒋介石と日本軍を戦わせて、蒋介石軍が弱り切ってから殲滅する作戦を採った。まさに「漁夫の利」作戦である。


だから、戦後に訪れた日本社会党・佐々木更三に対し、毛沢東は「・・・何も謝ることはありません。日本軍国主義は中国(共産党)に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしには我々が権力を奪取することは不可能だったのです。この点で私と皆さんは意見を異にしており、両者の間に矛盾がありますね」、

「過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことは良い事であり、我々の助けになったと言えるのです」と語っている。


まとめると日本を最初に襲撃し、侵略戦争をしかけたのは蒋介石軍であり、中国共産党と日本軍とは闘っていない。逆に日本軍が蒋介石軍と闘ったから、共産党は漁夫の利で権力をとれたのであり、毛沢東は日本軍に感謝していた。そのことを今の中国人民ならびに共産党幹部は知るべきなのである。







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by kabu_kachan | 2016-07-08 10:01 | 日中戦争 | Comments(0)

満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動


★学校で使っている日本史の教科書が間違っているのである。


さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U




【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M


★沖縄戦カラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=lwWsnyO0sGQ

★Battle of Okinawa/沖縄戦
https://www.youtube.com/watch?v=ztzuwCX5lWk

★虐殺されたはずの南京市民
https://www.youtube.com/watch?v=W-Erp_T3kjI&nohtml5=False


「南京問題に完全決着をつける英文・中文新作計画他」
https://www.youtube.com/watch?v=d7_wlbSYk08

★「本物の写真」と「ニセモノの写真」の見分け方

「本物の写真」とは、「いつ・どこで・だれが」撮った写真か

という条件が満たされていないといけない。

この条件が満たされていない写真はすべて「ニセモノの写真」

と言うことになる。

報道写真として価値のない「ニセモノ写真」

と付き合ってはいけない。



「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【前編】
https://www.youtube.com/watch?v=wAsbl2Et7lU


「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【後編】
https://www.youtube.com/watch?v=TxcgsrZbniI


「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=ZIEeUCF5_LU


「ひと目でわかる『日中戦争』時代の武士道精神」
https://www.youtube.com/watch?v=bUOVBisWXDE


「ひと目でわかる『アジア解放』時代の日本精神」
https://www.youtube.com/watch?v=f9ApqXzMj5k


「ひと目でわかる『大正・昭和初期』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=RyPk_oblRiM


「ひと目でわかる『戦前日本』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=SgfManWnGFE



  • 満州はシナの一部では無い、万里の長城がその証拠※7
  • もともと満州は満州族の土地であり、皇帝である溥儀が満州国の皇帝になるのは極めて自然※3
  • 満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であったのです


1842年 南京条約で香港島を清朝からイギリスに永久割譲
1845年 マカオがポルトガルの植民地に
1898年 香港領域拡大協約で99年間の租借が決定

1900年6月 北清事変(義和団の乱)
これ以降、ロシアが満州に居座り、日露間の緊張が高まる。

1903年11月 パナマ地域がコロンビアから独立
パナマ運河建設をコロンビア共和国上院に拒否された米国は、パナマを保護国としてコロンビアから独立させ、その憲法に、パナマ運河地帯の幅16kmの主権を【永遠に米国に認める】との規定を置いた。以降、反米運動などを経てパナマ運河の主権は1999年12月31日に返還。

1904年2月 日露戦争

1905年(明治38年)9月 ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)調印
日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得した。しかしロシアからの賠償金は得られなかったため戦費調達による債務が残された。満州の権益は日本人10万人の血と多額の戦費によって得たものだった。

1911年 辛亥革命
これ以降、シナ大陸は一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。

1912年2月 溥儀の皇帝退位
清朝政府と中華民国政府との間で「清帝退位優待条件」締結。内容は、退位と引き替えに溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること、中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払うこと、清朝の陵墓を永久に保護することなど。(1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の清東陵を略奪するという東陵事件が発生、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。)

1914年6月 サラエボ事件、第一次世界大戦へ

1915年 米国が債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領
数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命。米軍は1934年まで軍政を続け、憲法の導入などを行った。

1915年1月 二十一箇条要求 ※1※9
日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。多大な犠牲をはらって得た日本の正当な権益が脅かされていた。
最終的には十六ヶ条が5月25日、2条約および13交換公文として結ばれた。

1915年6月 「懲弁国賊条例」を発布
二十一箇条要求の結果結ばれた条約では「日本人の居住を認め」、国内法では「日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処す」もの。土地商租権は調印と同時に早くも空文と化し、中国は条約に違反した。

1917年3月 ロシア革命(2月革命)
1918年3月 ロシアが第一次世界大戦で単独講和

1919年5月 コミンテルン結成の直後に北京で五・四運動
それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動。四年たってから二十一箇条要求がやり玉に挙げられた。※4

1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印

1922年 九カ国条約締結
日本だけが違反したのではない。蒋介石は1927年の北伐の最中に米英など各国を相手に虐殺を行い報復を受けているし、張学良は1929年ソ連に対して挑発を繰り返し紛争に至っている。要するにそもそも中国側が違反していた。

1924年10月23日 北京政変
直隷派軍閥の馮玉祥によって起こされたクーデター。政変後、馮玉祥は溥儀を紫禁城から追い出した。溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった。

1924年11月24日 社会主義一党独裁国のモンゴル人民共和国が誕生
中華民国はソ連の傀儡国家として独立を認めなかったが、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。

1928年6月4日 張作霖爆殺事件
従来の関東軍首謀説に対して、ソ連特務機関犯行説、張学良犯行説もある。

1928年8月 六三カ国で不戦条約締結(ケロッグ=ブリアン条約
趣旨は侵略戦争の禁止であったが、米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。

1929年10月 ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落、世界恐慌

1929年12月1日 米・英・仏3カ国共同声明でソ連を不戦条約違反と非難
中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を中国が実力で回収しようとしたことが発端
ソ連は自衛戦争と回答

1931年6月27日 中村大尉事件
視察中の中村震太郎大尉らが中国兵に惨殺される。その直後には朝鮮人(当時は日本人)農民と中国人農民の衝突で「万宝山事件」が起きている。満州事変の引き金となる。

1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端)※8
中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。

1932年3月1日 満洲国の建国を宣言

1933年3月 リットン報告書が国際連盟で承認され、日本が脱退
しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペイン国などのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。※5

1933年5月 塘沽停戦協定
その後、蒋介石政府と満州国との間に関税、郵便、電信、鉄道の協定が結ばれた。また1935年、36年には蒋介石は日本との間の敦睦令を発令。

1939年5月~9月 ノモンハン事件
満州国とモンゴル人民共和国との国境線をめぐっておこった紛争。
両国の後ろ盾だった大日本帝国とソ連赤軍も戦闘に加わった。

1939年12月 前月のフィンランド侵攻(冬戦争)について、ソ連が国際連盟から追放される。
フィンランドはソ連と不可侵条約を締結していた。

1974年 ポルトガルでカーネーション革命、新政権は海外植民地の放棄を宣言
マカオに興味を持たなくなったポルトガル政府は即時返還を望んだが、香港との兼ね合いで中華人民共和国は断った。

1979年 香港総督が中国側に香港の帰属をめぐる協議を提案
中国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年9月にはサッチャー首相が訪中して英中交渉開始。

1984年12月19日 英中共同声明
香港の主権を1997年に中国に返還し、香港は中国の特別行政区となることが決定
香港住民は返還を不安視し、カナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。

1997年7月1日 香港返還
1999年12月20日 マカオ返還

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張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。

当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動※4を起こさせ、商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。
今の中国の反日デモ【写真2】と比べても、当時はこんなもんじゃなかったと思います。当時も今も、権力が民衆を誘導して反日デモが起こされました。

満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。

日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を、日本人が長年かけて開拓した土地を「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。※2
こういう自分勝手なところは当時からシナ人は全くかわりませんね。尖閣で同じことを繰り返しています。

それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。※7

もともと満州に合法的に駐留していた関東軍は日本の特殊権益を守ろうとしただけです。中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。中華民国時代の匪賊は推定二千万人、正規軍の約10倍でした。※6

社会が安定しない限り、近代経済社会の確立は不可能です。

中央政府の中華民国※5がやらないから関東軍は権益を自衛するために満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出したのです。民衆に対するいわれなき抑圧を解放したのです。これは侵略に当たりません。

外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。これは国際法的には「無主の地」です。責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法です。こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。※6

ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった”という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していたのです。※3

満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。

満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であったのです。

戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。

満州国は日本の支援によって政治的に安定した地域となり、航空機まで製造する近代産業国家に発展したのです。豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。

毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占め、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。

参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満

※1 暗黒大陸 中国の真実/ラルフ・タウンゼントより
これは交渉に当たった日本の外交官から直に聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、中国側はこう持ち出してきた。
「内容はこれで結構だか、要求と言うことにしてはくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが。」と。これを受けて日本側は「その方が良いのならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりの金が動いたのであろう。中国との交渉ごとは金次第とみてきたからである。
ところが今回は計算違いだった。「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。ところがアメリカがこれにかみついた。「哀れな中国に過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情がわき上がった。(中略)
極東問題に詳しいジャーナリストのジョージ・ブロンソン・リー氏は親日派の雑誌で「当時、外国人の記者にはこの辺の裏事情は知られていた」と述べている。

※2 暗黒大陸 中国の真実/ラルフ・タウンゼントより
次は満州軍閥、張学良の話である。「満州の王気取りで、中国に「満州には手を出すな」と警告まで出すほどになった。こうまでされては中国政府も黙ってはいないと思うのだが、なにもできない。ただ「反逆者、無法者」としただけである。だから張は我が物顔に満州で暴れ回っていた。ところが日本軍はわずか1万4百の兵で、しかもたった数日で20万の張軍を撃退した。負けた張学良はどうなったか。広大な満州から搾り取った金に不自由は無い。選りすぐりの美女2,30人を秘書として従わせ、イタリア旅行へとしゃれ込んだのである。

※3 紫禁城の黄昏/レジナルド・ジョンストン
当時の清国や中華民国内、溥儀皇帝周辺の情勢を記した第一級史料である。東京裁判では、弁護側資料として提出されたが、却下され裁判資料とはされなかった。
岩波文庫版(入江曜子・春名徹訳)は、原書全26章中、第1章から第10章・第16章と序章の一部(全分量の約半分)が未邦訳である。岩波版の訳者あとがきでは、「主観的な色彩の強い前史的部分である第一~十章と第十六章『王政復古派の希望と夢』を省き、また序章の一部を省略した」とのみ述べている。
岩波版で省略された章には、当時の中国人が共和制を望んでおらず清朝を認めていたこと、満州が清朝の故郷であること、帝位を追われた皇帝(溥儀)が日本を頼り日本が助けたこと、皇帝が満州国皇帝になるのは自然なこと、などの内容が書かれている。

※4 櫻井よしこ監修「非難の数々に断固NOと言えるこれだけの理由」別冊正論Extra.08より
リットン報告書は、満州事変は「一国の国境が隣接国の軍隊により侵略せられたるごとき簡単な事件にあらず。なんとなれば、満州においては世界の他の部分において、正確なる類例を見ざる幾多の特殊事態が存在するをもってなり」とした。特殊事態とは、日露戦争後、四半世紀にわたって続けられてきた中国人による「排日」「侮日」の嵐を指す。
リットン報告書は、
「1925年より以来、『ボイコット』組織に確定的に変化起これり。国民党はその創設以来同運動を支援し、順次『ボイコット』にその支配を増加し、遂に今日に於いてはその実際の組織的、原動的、調整的及び監督的要素足るに至れり」
「これらの行為は、中国の法律により明らかに不法なるのみならず、生命及び財産を保護し、並びに商業居住、往来及び行動の自由を維持する条約上の義務に違反する」
と、国民党の積極関与を認定している。(中略)
満州事変の16年前に米国は「居留民を保護する」という口実で中米のハイチを武力制圧し、19年にわたって居座った。それに比べると日本の行動は極めて穏健なものだった。日本に続いて南米のエルサルバドルが承認するなど、23カ国が満州国を国と認めた。当時の独立国家は80ほどだから、かなりの数である。

※5 ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」より
リットン報告は「中華民国」の「中央政府」と言う考え方は、法的擬制に過ぎないことを認めている。また、同報告書によれば、「軍閥」政権の多くは、南京政府(蒋介石)を中央政府として認めておらず、単に「たまたま外国勢力から中央政府として認められているに過ぎない」と考えているのである。日本にとって、リットン報告の見解は「法的」にきわめて重要である。もし、ある「軍閥」政権が外国勢力に認められたと言うだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めてならない理由は無いのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的擬制なら、日本の満州政府も同じである、と日本は考えたのである。

※6 倉山満(歴史通2011年3月号)より
日本が戦った蒋介石の中華民国が、今日の日本人が考える「中国」とはどれほど違うのかを、次の2点で確認しよう。
第二に、万里の長城の内部のシナ本土でも統一性が無い。建国当初から南方系の孫文派と北方系の袁世凱は分裂し、各地で軍閥が跋扈していた。最大の軍閥である閻錫山などは「山西モンロー主義」を唱え、独立国のように振る舞っていたほどである。つまり、蒋介石の国民政府は大陸全土を支配していないのである。治安維持能力が存在しないし、外国との約束を守れない程度の”国”なのである。これを国際法用語で条約遵守能力の欠如と呼ぶ。国家としての資格を有していないと言うことである。当時の国際法では、このような国に対する先制武力攻撃はまったくの合法であり、むしろ速やかな軍事行動で秩序をもたらすことが文明国の義務とされた。
なぜ大日本帝国と中華民国は武力紛争に至ったのか。第一義的には、中華民国が国家としての当事者能力が無かったからである。中華民国は現在の「中国」ではないし、「シナ」ですらなかった。単なる政権の集合体である。いわば、巨大な秘密結社にすぎず、主要構成員である軍閥も巨大な野盗にすぎない。

※7 岡田英弘(歴史通2010年3月号)より
南方のいわゆる漢人の建てた明は、山海関まで延々と万里の長城を築いたわけですから、その東も北も夷狄の土地と考えていたことは明らかです。1636年、万里の長城の北の瀋陽で建国した清は、のちに北京に入って中国支配を始めました。支配層のマンジュ人も続々と万里の長城を越えて華北に入ったので、故郷の満州は人口が減りました。しかし、清は漢人が満州に移住することを禁止する封禁令を出し、満州の地を特別行政区域として軍政下におきました。日露戦争のあとの1907年まで、満州は黒龍江、吉林、奉天という満州旗人出身の三将軍が管轄する地域でした。

※8 中西輝政氏と北村稔氏の対談(歴史通2011年3月号)より
(柳条湖事件について)戦後の東京裁判では、日本側が爆破しておいて、それを中国側のせいにして一気に軍事行動に出た、という筋書きになっています。しかし、その「証拠」とされたものを一つずつ克明にたどってゆくと、案外薄弱なものばかりなのですね。まだ結論を変えるほどの新証拠はありませんが、従来の「証拠」とされてきたものは、リットン調査団の報告書も含め、間接的なものや伝聞資料ばかりなのです。それも細部ではかなり食い違いもあります。肝心の石原完爾は、戦後、何度も聴取されていますが、一貫して「そんなことはしていない」と否定しています。板垣征四郎も、否定しています。満州事変の主役、二人はともに否定しています。もっぱら東京裁判での、例の悪名高き田中隆吉の証言だけだった。(中西輝政氏)

※9 黄文雄(歴史通2011年3月号)より
「二十一箇条要求」は1915年1月、大隈重信内閣が中華民国大総統袁世凱に提出したもので、今日では日本でも中国でも、「中国の主権を著しく侵害する要求で、最後通牒を突きつけてむりやり承諾させた」というのが定説になっている。だが、当時の日本政府は、それらの要求が他の列強諸国に比して特に過酷なものとは考えていなかったし、実際その通りだった。「二十一箇条要求」は第一号から第五号まであるが、たとえば第二号にある「租借期限の99年延長」は、香港の租借に関して英中間で同様の取り決めを行っていたし、第三号の「漢冶萍公司の日中合弁」についても、漢冶萍公司(中華民国最大の製薬会社)はすでに日本と提携関係にあったのである。つまり日本は中国における政治経済活動の「西洋列強並み」を求めたにすぎない。日本の中国進出は他の列強諸国とは違い、まさに国家の死活問題だった。日清戦争以降、何かにつけ列強各国から妨害を受けて不安定な状況にあった中国での既得権益を、第一次世界大戦で各国が中国を顧みないあいだに整理・設定してしまおうとしたのが、この「二十一箇条要求」の狙いだった。主権侵害として中国側から最も非難されたのは第五号である。(中略)
これに限っては、日本の要求というより希望に過ぎなかったし、最終的に中国への配慮から大きく譲歩して同年5月に締結された「日華条約」では、この第五号の七箇条は全て削除されているのである。日本が最後通牒を行ったことにしても、それは袁世凱が英米などに日本に対する圧力をかけさせるため交渉を引き延ばしたため、そこで断固たる措置を執らなければ排日勢力が増長することを懸念したからだ。また、国内の反対派に配慮した袁世凱が、逆に「最後通牒」を求めてきたという説も有力である。(中略)
このようなものを内外に宣伝することで、内においては排日運動を巻き起こし、外においては列強に対日圧力をかけさせた。こうしたパターンの反日工作はその後も継続され、それが満州事変・シナ事変の原因となった。袁世凱にとっても「二十一箇条」は理解できない内容ではなかったはずだし、孫文は白人に対抗するため「日中の親善を図る上で妥当なものだ」と考えていた。だから、中国政府による「二十一箇条」への反発は、袁世凱の策略という側面があった。一つは反日運動を利用して国民の団結を図り、一つは「夷を持って夷を制す」という狙いがあった。つまり外国同士を対立させて、それをコントロールしようとしたのである。

田中秀夫 月刊正論2014年7月号より
 日露戦争は外債を募って始めた戦争であり、勝利したと言っても賠償金は取れず、その債務は昭和になっても残り、日本はそれを払い続けねばならなかった。日本人の血を代償に、ロシアから取り返して中国にただで返してやったその満洲で、そのお金を稼ぎだすことはおかしいことかと彼ら(河本大作ら)は考えていたのである。
 張作霖がやろうとしたのは日本の満洲利権の無慈悲なる回収だったのだ。息子の張学良もその遺志を受け継いで、さらなる排日手段を行使するようになった。これが満洲事変の最大原因である。

おもしろい質問と回答がありますのでお時間があればお読みください。
『溥儀は財産の保障と引き替えに、退位宣言書にサインしたのに、財産どころか命まで狙われ、日本の租界に逃げ込み、日本の税金によって、優雅に暮らしている。一方的に約束事を破棄されたのですから、溥儀の退位自体も無効になっている、つまり、法的には溥儀が中国全土の皇帝になっても問題はないのではないでしょうか?』




満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変関東軍による自警行為の発動であり、満州国は満州の正当な所有者である満州族清朝の復活です。

 

 「侵略」の英語はAggressionです。プログレッシブ英和中辞典によると「 1 (…への)侵略行為, 侵犯, 攻撃;(権利などに対する)侵害*1  a war of aggression 侵略戦争」となっています。国士舘大学講師の倉山満氏によると、これは誤訳であり、本来の意味は「挑発もされていないのに先に手を出す行為」であり、重要なのは「挑発の有無」と述べています。どうも東京裁判のときに一般的な「侵略」を当ててしまったためのようです。これは重要な話でしょう。

 

 清朝崩壊後、満州も支那も軍閥が跋扈(ばっこ)し、治安維持能力が低く、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされ、「日支懸案370件」というほどでした。さらに条約違反によって満州の日本の権益が損なわれ、鉱山の爆破のほか、南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件も発生しています。日本の権益日露戦争後に条約によって得た正当な権益です。それに対して軍閥は挑発行為を繰り返してきたのです。慣習国際法という概念は当時にもあり、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされれば主権者たる満州軍閥は日本人を保護しなければなりませんが、それができないなら主権国家と呼ぶべきではないし、日本の関東軍は自警行為を発動しても法的にはなんら問題はありません。

 

 1922年に中華民国に関する九カ国条約が結ばれており、中華民国の主権を尊重し、中華民国に独立と自助努力の機会を供与する条約であることを明記しています。これで満州国建国は違法だという人もいるようですが、満州は中華民国のものではありません。条約締結時にブリアン議長から「What's China?」と疑問が提示されましたが、曖昧なまま条約に至っています。歴史的経緯からすると満州は満州族のものであり、支那(China)は漢民族のもので、万里の長城に境界があり、現地の人々の意識もそのような意識でした。蒋介石の北伐は万里の長城が終点です。また中華民国は紛争に対する中立義務がありましたが、それを破って南京、漢口で各国大使館に対して殺人・略奪行為を行っています。もはや条約遵守に値しません。

 

 1928年にパリ不戦条約が結ばれますが、この内容は現在のGHQ憲法九条の内容とウリ二つで、国際紛争解決の為に戦争に訴えない」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」「あらゆる紛争または紛議の解決は平和的手段によること」というものです。結局米国が自衛戦争は禁止されていないという解釈を打ち出し、ここで早くも空文化してしまい、先にあげた「A war of aggression 挑発もされていもいないのに先に手を出す戦争」侵略戦争として否定されるが、自衛戦争は容認するとしています。また英米は「自国の利益に関わることで軍事力を行使してもそれは侵略ではない」としています。しかも各国に自己解釈権まで与えられています。

 

 これらのことを見ると1931年に関東軍鉄道爆破によって満州事変が勃発しますが、合法的な自衛権の発動であり、その後の満州国満州族皇帝即位し、各軍閥が従い、関東軍により治安が維持できるようになったということで、侵略でも違法でも何でもありません。



★大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!
https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w&list=PLF01AwsVyw328JWxhGfxIh8OlCax9dGxz



【GHQ焚書図書開封】#118 加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判1
https://www.youtube.com/watch?v=SfDaA0FfqgI&index=51&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp



【GHQ焚書図書開封】#119 加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判2
https://www.youtube.com/watch?v=2OPZm2yzBA8







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by kabu_kachan | 2016-06-23 22:28 | 日中戦争 | Comments(0)

日中戦争と大東亜戦争

日中戦争と大東亜戦争


『歴史通』 2015年3月号増刊 より。


渡部昇一(上智大学名誉教授)
石平(評論家)


シナ事変前夜と同じ


石 「尖閣問題」が起こったとき、当時の仙谷(由人)官房長官が中国に気をつかって、「かつて日本は中国に迷惑をかけたんだから」というようなことを言っていましたね。ああいう認識がいまも日本人のあいだにある。


渡部 あれでまず思ったのは、これは〈シナ事変〉のときと同じだということです。


 あのころも、シナは尖閣と似たような事件をしょっちゅう起こしていた。それで日本人はシナに対してカンカンに怒っていたんです。だから、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)という言葉ができた。それは、私ら子供でも、みんなそう言っていました。いちばんひどかったのが、昭和12年(1937)の中国軍による通州の日本居留民大虐殺、いわゆる「通州事件」(注1)です。あれだけひどいことをされたら、やり返すのは当然ではないか、というのが一般的な考えでしたね。


石 いまの中国は「暴支」どころか「暴走」していますね。シナ事変、つまり日中戦争について、私は中国でこういう教育を受けました。


 日露戦争当時からすでに、日本は中国をほろぼして大陸を我が物にする計画を立て、着々と対中侵略を進めてきた。その過程に満洲事変があって、盧溝橋事件(注2)があり、そうして全面的な侵略が始まったと。


 そう教えられて、私は「日本人はすごいな」と感心した。何しろ、百年の計を立てて、そのとおり実行していたというのですから。


 しかし、日本に来て歴史の本を読むと、全然話が違うのでとても驚きました。いったいどこに侵略計画があったのか。ズルズルと戦争に巻き込まれていっただけではないのか。


渡部 日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっているんです。田中義一首相のいわゆる「田中メモ」ですが、そこに日本は満洲を征服して、まずシナを、最後には世界を征服するというシナリオが書いてある。


 しかし、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっている。ところが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。信憑性がないから、証拠として認められなかったんです。最近の研究では、このメモは、コミンテルンがモスクワで捏造して、世界中に広めたのだと言われています。


石 中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい。


渡部 「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まってしまった。A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実がそもそもないんですよ。


「対華二十一カ条」の中身


石 そういう意味では、日中戦争にはコミンテルンが大きな影を落としていますね。もう一つ、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だと、中国では必ず言うんです。


渡部 あれは14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求です。最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望でしたが、結局、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる。後半の7カ条は、希望なんか出すと誤解されると言って、日本の議会でも批判されていたんです。


石 その7カ条に中国は反発したわけですが、結局、その部分は削除された。それはどの国家間でも行われている当然の外交交渉ですね。一方が希望を出して、相手が反発すれば一歩引く。


渡部 あのとき、アメリカが「民族自決権」を持ち出して、いかにも日本が悪いかのように騒ぎたてて中国を焚きつけた。それで問題が大きくなったところがある。民族自決権そのものは非常に立派な考えだけれど、自分たちが持っている植民地のフィリピンや、あるいはイギリスが世界中に持っている植民地については問わない。しかし、中国に対してはしきりに民族自決を煽りたてた。だから中国の青年たちのあいだで排外運動が起きた。最初は日本だけでなくて、イギリス、アメリカも排除しようとしたわけですが、日本だけが武力で抑えることをしなかった。だから、なめられて排日運動だけが大きくなった。


石 それは日中関係の大きな教訓ですね。肝心なときにきちんと武力で対応しなかったから、中国はますますつけあがって「暴支」になった。


渡部 「二十一カ条要求」を出した時期が第一次世界大戦のさなかだったのもまずかった。英米がヨーロッパの戦争で忙しい隙を狙ったかのような、ずるい印象を与えてしまった。


石 日本のそういう判断ミスが、アメリカに利用された結果、中国の五四運動(注3)がはじまり、反日的な風潮が高まった。


渡部 反日運動についてだけは、ソ連とアメリカは同調していたという印象を受けますね。談合したわけではないとしても、日本を大陸から追い出すことが両国の利益だった。


日本は満洲を中国に返した


石 五四運動の後、しばらくしてコミンテルンが中国で共産党を作った。中国共産党は自分たちで作ったものではなくて、コミンテルンの中国支部に過ぎない。日中関係のすべての問題がそこから生じてきたと言ってもいいのではないでしょうか。


渡部 ロシア革命とコミンテルンがなければ、大陸はずっと穏やかなままだったと思います。中国人も誤解していると思うんですが、日露戦争前の満洲はロシア領になっていたんです。ロシアはまだ自分の領土であると主張してはいなかったけれど、清国の役人が満洲に入るときには、ロシア官僚の許可を得なければいけなかった。


 その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返したんです。そしてロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。あのままほうっておいたら、いずれ「満洲スタン」(「スタン」は国や地方を表すペルシャ語起源の言葉)なんて地名になっていた。


 北シナも朝鮮もそうです。半島はいまごろ「コリアスタン」になっていますよ(笑)。


石 朝鮮人も満洲人も何々スキーという名前をつけられていたでしょう。キムスキーとかね(笑)。


渡部 だからスターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったんです。もしもロシア革命がなければ、満洲と東半島は日本が租借し、鉄道は日本が管理して、あとは平和だったはずです。満洲事変も不要だった。


石 日中戦争も起こらなかった。万一、満洲があのころソ連と共産党に侵略されていたら日露戦争以来のすべての国防上の安全保障の成果を日本は一気に失うところだった。


渡部 しかし、アメリカが愚かだったから、日本の敗戦でそれが失われたわけです。朝鮮戦争以後、アメリカの歴史家は口をそろえてこう言った。何がシナ大陸を失わしめたか、それは日本を潰したからだと。


石 結果的に共産主義中国という化け物を生み出した。いま世界中でいちばんやっかいな国を生んだのは、あの頃の痛恨の歴史だった。


ミステリアスな事件


渡部 満洲国に清朝の王朝が続いていれば、大きな緩衝地帯が存在して、世界平和のためには非常によかった。ただ、清朝にクーデターが起こって愛新覚羅溥儀が日本公使館に逃げ込んでこなかったら、満洲国建国のアイデアは生まれなかったと思う。溥儀は満洲のヌルハチの直系ですから、その故国に正統の皇帝を立てたのは、誰からも文句を言われない良いアイデアだったと思う。


石 満洲国は、ある意味では、日本本土よりも近代国家でした。私は大学時代に満洲を旅行したことがあるんですが、ほかの中国の都市よりずっと整備されていた。まず、橋が丈夫です。日本人が作ったから(笑)。当時の鉄道がいまでも走っていますしね。結局、近代中国の産業基盤はすべて満洲にあった。満鉄の遺産です。現代の中華人民共和国の自動車産業も、旧満洲からはじまっています。


張作霖

渡部 張作霖爆死事件にしても、当時は昭和天皇まで河本大作大佐が事件の首謀者だと思っていたらしいけれど、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、日本軍が起こした事件だとは言っていないんです。イギリスの諜報部は、爆発物の分析をし、火薬がソ連のものであると突き止めている。日本は気づかなかったけれど、リットンは知っていたんだと思います。だから、あえて日本を責めなかった。石 リットン報告書を読めば、日本を一方的に断罪していないことはすぐわかる。それなのに、東京裁判以降、歴史的事実が塗り替えられて、どういうわけか、すべてが日本を断罪するものになってしまった。それを、なぜか日本人は否定しようとせず、それどころかむしろ積極的に認めている。



「引かれ者史観」


渡部 戦前・戦中に反日運動とか左翼運動をやって帝国大学を追われた人たち、お縄になって牢屋に引かれていってもおかしくなかった人たちが戦後、大学に復帰して東大や京大の総長・学部長におさまった。そういう彼らの歴史観を、エッセイストの山本夏彦さんは「引かれ者史観」と呼びました。戦後の歴史経済学者はみんなこの人たちの弟子にならざるを得なかったから、学界は「引かれ者史観」に染まってしまった。ジャーナリズムも同様です。昔ならくさい飯を食っている人たちが、刑務所のかわりに学界とマスコミに集まっている(笑)。みんな日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」なんです。


石 コミンテルンは、戦前は日本周辺で工作を行って大日本帝国を潰しましたが、戦後はさらに日本国内に入り込んで、日本の心まで潰そうとした。


渡部 潰されなかった人たちは、史学や法学の本流にいなかった人たちですね。本来であれば、法学部の教授なら、「日本に主権がないときにできた憲法など憲法ではない」と言うべきです。国際法の学者であれば、「交戦権のないような憲法を持ってはいけない」と言うべきでしょう。しかし、東大や京大では言わない。むしろ、歴史や法律が専門ではない文学の先生とかがそういうことを言っているわけです。敗戦利得者ではないからまともなことを言える。敗戦利得者の弟子たちは、その口移しを言っているだけです。そして、弟子の秀才たちが各地の大学に散って「引かれ者史観」を学生に教え、あるいは高級官僚として、あるいは朝日新聞やNHKに入って反日的な言動をしている。


石 不思議なのは、そういう誤った歴史観が70年たったいまも、大半の日本人の頭を占めているという現実です。占領軍は指導者たちの精神まで占領し続けているようです。


中曽根内閣で一変


渡部 「引かれ者史観」は「東京裁判史観」と言ってもいいのですが、それに反対して憲法改正を党是にしていたはずの自民党が、中曽根康弘内閣(1982~87)のときに明らかに変わってしまった。昭和60年(1985)の外務委員会で、「日本は東京裁判において中国に対して有罪になった。その罪をいまも背負っている」と答弁したんです。


石 それはサンフランシスコ条約を無視していますね。


渡部 サンフランシスコ講和条約で、東京裁判については白紙になったんです。にもかかわらず、自民党も講和条約を無視した歴史観を持つに至った。田母神(俊雄)元航空幕僚長の事件でも、田母神さんをやめさせる理由がなかったので、「日本の侵略は歴史的事実である」と言った、村山元首相のいわゆる「村山談話」(1995)に背いたという理由をこじつけた。しかし、村山さんは社会党の党首じゃありませんか。社会党はサンフランシスコ講和条約に参加しなかった党ですよ。


石 中国共産党も講和条約に一切参加しなかった。


渡部 社会党は当時、国会で第二党でしたから、当時の吉田茂首相はぜひ参加させたかったのに、請われても行かなかった。スターリンの意図に従ったのです。そういう左派の意見に、中曽根さんは外交に関しては乗ってしまった。それ以来、「南京事件はなかった」とか、「朝鮮に対しては良いこともした」と発言しただけで大臣の首が飛ぶようになった。


石 第3次中曽根内閣の文部大臣だった藤尾正行さんは、歴史教科書問題で「日韓併合」は韓国にも責任があると言っただけで罷免された。「東京裁判史観」はサンフランシスコ条約後も続いているわけですね。


渡部 講和条約の11条に、東京裁判ですでに判決が下りている人は、刑期の継続を実行する、ただし、関係国が許せば免罪されるとあります。それに従って、国内でも「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が与野党一致で可決され、A級戦犯も免責されました。これで国内的にも国際的にも、戦犯はいなくなり、本人や遺族にも年金の支給が行われることになった。


 A級戦犯として有罪を宣告された重光葵は鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣になって、日本が国連に加盟したときには、国連に日本代表として出席して演説し、拍手喝采を受けて、帰国後に急死したときには国連で黙しているんです。


石 要するに講和条約を締結した時点で、日本は歴史的な名誉を回復し、国際社会に復帰して独立をきちんと果たした。そのときに、もう戦後ではなくなった。


渡部 だから、日本の内閣は、中国にも韓国にもペコペコしなかった。それが中曽根内閣から一変したんです。そのときの外務省の知恵袋が小和田恆さんでした。小和田さんが、「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と勝手に答弁してしまった。国賊と言ってもいいでしょう。小和田さんは非常な秀才ですから、敗戦利得者の東大の法学部教授の言うことを全部そのまま暗記していたらしい(笑)。



共産中国という"化け物"


石 日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至り、歴史は取り返しのつかない方向に進みました。盧溝橋事件がなければ中国共産党も蒋介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったでしょう。すべてあの瞬間、昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋での発砲事件から、日本にとっても、中国の人民にとっても不幸の歴史が始まった。


渡部 盧溝橋事件も、いまでは国民政府軍に入り込んでいた共産兵が発砲して、意図的に武力衝突を引き起こしたという説がほぼ確立していると思います。もともと戦争をする気はなかったのだから、どうもおかしいなぁと日本軍も国民政府軍も思っていたでしょう。


石 だから、本当に奇妙な戦争だったと思うんですよ。


渡部 盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったんです。ところが、そのおよそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれなかった。だから、本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。ただ、それも蒋介石が望んだことではなく、京滬警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中という共産党とみられる将軍が仕掛けたことだった。


執拗な挑発


石 蒋介石は、〈中国人にとって本当の脅威は日本ではなくて中国共産党〉であることがよくわかっていた。だから日本と戦う気はなく、中国共産党殲滅に専念しようとしていました。にもかかわらず、日中は全面戦争に突入した。


 そのA級戦犯は、国民革命軍第二十九軍を率いていた宋哲元です。盧溝橋周辺に駐屯していた中国軍は、国民党軍ではなく、二十九軍なんです。宋哲元の二十九軍は事あるごとに日本軍とトラブルを引き起こしていた。だいたい二十九軍は共産党員だらけでした。だから、どう考えても盧溝橋事件は二十九軍の共産党員が引き起こしたとしか思えない。


 蒋介石も、二十九軍に対して日本にちょっかいを出すなとしきりに言っていた。にもかかわらず、日本が盧溝橋事件の現地解決、不拡大方針を決めると、二十九軍はその翌々日の7月13日に日本軍のトラックを爆破して大紅門事件(注4)を起こし、25日に廊坊事件(注5)、26日に広安門事件(注6)というように、次々に日本軍を攻撃した。"じっと我慢"の動かない日本軍をなんとしても全面戦争に追い込もうとした。そしてついに通州の中国保安隊(冀東防共自治政府軍)による日本人虐殺事件、いわゆる通州事件が起こる。


渡部 そういう挑発は、ソ連の指示によるものでしょう。日本軍がシナ大陸で戦争をしていれば、それだけソ連軍も楽になる。それを見破ったのが石原莞爾です。彼はナポレオン戦争の専門家なんですが、当時、彼が書いたパンフレットを読むと、「シナ事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわらず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、シナ事変などに巻き込まれてはいけない」と書いてある。


石 冷静に見ていた石原さんのような人が、発言力を失ったのは日本の不幸ですね。


渡部 もし日本が計画的に戦争をするつもりでいたら、まっすぐ南京に向かったでしょう。それで一挙に南京を占領して終わりですよ。


石 日本が計画的に侵略したというようなことはまったくなくて、二十九軍のような中国側の執拗な挑発にのってしまった。


渡部 通州事件のときは、日本人は非常に憤慨したけれど、中国側が謝ったことで戦争にまで至らなかった。


石 本来であれば、謝ってすむ問題ではありませんね。なんと言っても民間人を含めた230人が虐殺されたんですから。


渡部 日本はすぐ水に流すんです(笑)。


宋美齢の反日宣伝


石 通州事件でも日本が動かなかったから、いよいよ日本が応戦せざるを得ない状況を作り出すために、8月13日の上海事変を起こしたのでしょう。


渡部 中国は民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行ったから、日本は居留民を保護するために陸軍を派兵せざるを得なかった。司令官だった張治中が満洲の反日スパイを動かしていたことは、奉天(瀋陽)の日本軍憲兵にも知られていました。その張治中が、日本の陸戦隊約4000人が日本人居留民を守っているところに約5万の大軍で攻撃してきた。そこで翌8月14日、日本政府は急遽第三師団と第十一師団を上海に派遣したのです。


 これが本当の日中戦争のはじまりであると、元米駐日大使のライシャワー教授も言っています。


石 つまり、戦争を始めたのは中国だというのが歴史的真実だということになる。


渡部 そのとおりです。結局、日本が「断固として不拡大方針を貫く」などと言っていたからなめられたんですよ。


 第一次上海事変(昭和7年=1932)のときも、中国軍は共同租界に対して攻撃を仕掛けたので、イギリスもアメリカも反撃している。日本だけは抵抗するなという命令を出されたので反撃せず、公使館まで襲われてしまった。これで中国は「日本与しやすし」と考えたと思いますね。こういうときは、やはり断固たる態度をとらなければいけない。これも、今日の状況とよく似ています。


宋美齢

石 日中の全面戦争が始まるまでの一連の経緯は、どう考えても中国側のコミンテルンの指令を受けた人間たちが一方的に日本を挑発して、あらゆる手を使って日本を全面戦争に引きずり込もうとしたということになる。


渡部 それを、いかにも日本のほうから侵略を仕掛けたと宣伝したのは、もちろんソ連と左翼の連中ですが、実はアメリカもそうなんです。


 日本と全面戦争になった以上、蒋介石は「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出して、国際世論の同情を集めようとしたんです。そこで蒋介石は、非常に賢明にも、キリスト教に改宗しました(笑)。奥さんの宋美齢もクリスチャンで、アメリカの名門女子大の卒業生です。そして、アメリカのプロテスタントの牧師たちに金をばらまいた。アメリカからは、それぞれの教区の牧師たちが寄附を募って布教に来ていて、妻子もあるから生活費が必要なんですよ。それで蒋介石に世話になっているから、「日本が悪い、日本が悪い」と言うわけです。


石 なるほど。本当は、蒋介石はキリスト教に興味はなかったのに。


渡部 そうすると、アメリカの宣教師たちは、日中戦争をキリスト教徒対異教徒の戦争のようにとらえる。宋美齢のステンドグラスまで入れた教会もあるそうです(笑)。


石 聖母マリアのかわりに(笑)。


渡部 だから面白いことに、当時のアメリカの宣教師は口をそろえて日本軍の悪口を言っているけれど、それはプロテスタントばかり。カトリックの神父や尼さんには日本を批判した人が一人もいない。カトリックは単身赴任だし、蒋介石からお金をもらう必要がないから(笑)。


南京の「ナ」の字もなかった


石 中国が捏造した最大の"傑作"は「南京事件」ですね。


攻略からまもない昭和13年初頭の南京露店街 大にぎわいを見せている

渡部 あの話がおかしいと私が思ったのは、まずこういうことでした。シナ事変初期には兵隊さんたちが1、2年でみんな帰国していたんです。うちの近所でも2人くらい帰ってきた。だから、全国では何万人と帰ってきている。にもかかわらず、南京大虐殺など噂にもならなかった。


 昭和17年(1942)に日本の機動部隊がミッドウェーで大敗したときには、それは極秘だったにもかかわらず、私は近所の遊び仲間から、「もう加賀も赤城もなくなったんだぞ」と聞かされました。加賀も赤城も、われわれが幼いころから名前をよく知っていた日本の主力航空母艦ですよ。大変なことになったと思いました。東北の小さな町にも、そういう極秘情報はちゃんと伝わってくるんですよ。だから、南京大虐殺が本当にあったとしたら、その当時、噂にならないわけがない。


石 実は、私も日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載っていませんでした。


渡部 それは重要な証言ですね。


石 もちろん、日本軍がどんなにひどいことをしたかということはさんざん教わってきました。それでも南京の「ナ」の字もなかった。


渡部 南京虐殺について、公式に日本政府に抗議してきた政府はない。


石 蒋介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。


 最初、南京で30万人殺されたという記述を読んだときに、素朴な疑問を感じたわけです。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。どこそこで100万人の捕虜を殺したとか、そういう記述が歴史書によく出てきますが、そういうところを掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、2000年前の記述でもじゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない。


渡部 当時、戦争が起こりそうになると、お金のある南京の市民は大部分が逃げたんです。逃げるところのない人たちや外国人が南京に残っていた。そのときの20万人という人口はかなり正確な数なんです。ところが、それから1カ月後に、市民を食わせなければならないので日本が食糧を調達したときには25万人になっていた。


石 増えているんですね(笑)。そもそも30万人なんか殺せない。仮に30万の死体があったとして、その数字を誰が集計したのか。物理的に不可能です。


 しかし、日本の知識人が南京虐殺をことさらに言いふらしたり、日本を攻撃することによって社会的地位を得たりというのが私には信じられない。本来なら逆でしょう。


★【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』製作へ
https://www.youtube.com/watch?v=1UrY5_YLcSw&nohtml5=False


河本大作説の疑問


渡部 その「逆」のこと、つまり本来の姿に戻す動きが、少しずつ起こりはじめているとは思います。しかし、先ほど言ったように「敗戦利得者」たちの反日的な言動はいまだに尾を引いている。日教組も子供たちに「すべて日本が悪い」と教えてきたわけですから。とくに、そうして地位を築いた人は新たな歴史的事実が出てきても、面子があるからいまさら持論を引っ込めるわけにはいかない。


 秦郁彦さんは『南京事件』という著書のなかで、4万人虐殺説をとっている。30万人説を否定して4万人説をとったから良心的であるように言われていますが、私はこれを批判したことがあるんです。まず市民と戦闘員の死者を区別していないという問題が一つ。それから、曽根一夫という男の証言を重視していること。この曽根という人は2冊くらい南京大虐殺の本を書いている。ところが、この男は南京には行っていないんです。私は仙台で偶然、曽根氏の親類に会ったことがあるんですが、その親類は「あのつきには困ったものだ」と言っていました(笑)。つまり、まったくあてにならない男なんです。


石 4万人という根拠は何ですか。


渡部 それなりにいろいろ計算したらしい。「捕虜を処分せよ」という命令を、「すべて殺せ」と解釈しているんですね。当時の命令では、それは「解き放て」という意味です。食糧も不足しているから、捕虜に食わせる余裕がなかった。それをすべて殺したと計算したんですね。それから戦闘捷報か何かを調べて4万人という数字を出しています。しかし、私は市民に関して言えば限りなくゼロに近いと思う。


 秦先生がいい研究もなさっていることは認めるけれど、やはり面子にこだわっているのではないかと思いますね。張作霖爆死事件も日本軍のしわざだと言われてきたけれど、田母神俊雄さんが「そうでないという説もある」と書いたら、秦さんはものすごく怒って、朝日新聞か何かで「そんなことを言うのは上杉謙信が女であるというようなものだ」と批判した。


 ところが、張作霖爆死事件を日本軍が起こしたという説には根拠がないんですよ。首謀者は河本大作大佐ということになっていて、戦後、河本大佐の手記なる告白記事が『文藝春秋』に出たことがありますが、これは彼の甥である左翼の人間が書いたデッチ上げでした。東京裁判で、パル判事は張作霖事件に関する証言はすべて伝聞証拠にすぎなかったと断定しています。そもそも当時、河本大作は生きて中国に捕らわれていたのだから、証言させればよかったのに、中国が抑えていた。なぜ呼ばなかったのかというと、彼を証人として出廷させるといろいろまずいからだったと思う。


 最近では研究が進んで、ソ連主犯説が濃厚になっています。そういう状況にあって、田母神さんはあくまで穏やかに、「日本軍の犯行ではないという説もある」と言っているのに、激昂して日本軍犯行説を周知のこととして反論するのは、「南京でも虐殺がなければならない」「張作霖も日本軍に爆殺されたのでなければならない」という「東京裁判史観」が崩されるからですよ。それはエゴでしかない。自分のエゴと業績を守るために相変わらず「日本は大虐殺した」と言い続けるのです。


有色人種の解放戦争


石 日本にとっても意味のない戦争をした結果、国益を損なった。日本が中国の挑発に乗らず、もっと大局的な判断をして戦争の不拡大を貫く道はあったのでしょうか。


渡部 南京が陥ちたとき、トラウトマンというドイツの外交官が和平案を出したんですよ。そのときの日本の参謀次長──参謀総長は閑院宮という宮様ですから、実質上の参謀総長です──その多田駿中将は、ぜひとも停戦してくれと涙を流して近衛首相に頼んだ。しかし、近衛首相の周囲はコミンテルン系の左翼ばかりだった。それで「蒋介石政権を相手にせず」という声明を出して、スターリンの思惑どおり、大陸の泥沼にはまり込んでしまった。


 それから日本はものすごい消耗戦を続け、ついにはアメリカと戦争せざるを得なくなった。ルーズベルトは絶対日本と戦争する気でいましたからね。ヒトラーのためにイギリスが息の根を止められそうになっていたから、アメリカはイギリスを助けなければならなかった。ところが、アメリカ国民は第一次大戦に参入してろくなことがなかったから、ルーズベルトはヨーロッパの戦争には絶対参入しないという公約を掲げて当選したんです。にもかかわらず、チャーチルがしきりに助けを求めてくるし、蒋介石からも参戦を懇願してくる。


 だから、アメリカは日本が対米開戦せざるを得ない状況に追い込んだ。これは三国同盟の弱さをつかれたということもあります。三国同盟はもともと日独防共協定でしたから、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだときに、これは三国同盟の意図に反すると言って、同盟を破棄していればよかったかもしれない。しかし、それは死んだ子の年を数えるようなもので、長い目で見れば結局、有色人種の解放戦争はしなければならなかったかもしれません。


石 それが大東亜戦争の歴史的功績ですね。国際的に人種観が変わった。


渡部 いまの人には戦前の白人の人種差別のひどさがわからない。日本人のような全然犯罪者を出さない、優秀な移民団でも、1人も入れないというところまで差別された。


 そもそも、白人に勝てる有色人種もいるということが日露戦争で日本が勝利するまで、白人も有色人種も思ってもみなかったんです。当時、日露戦争は世界の注目の的だったから、誰もが驚いた。


 大東亜戦争のときも、実際、機動部隊を持っている国というのはアメリカと日本しかなかった。イギリスにもドイツ、フランス、ソ連にもない。アメリカと対抗して戦争ができるのはヒトラーのドイツでもなければチャーチルのイギリスでもない。日本だけだった。インドのネルーや、ベトナムのホー・チ・ミンなど、世界中の独立運動の指導者は、みんなそこからインスピレーションを得た。有色人種のイメージを180度変えたのは日本だったんです。


石 そういう意味では、大東亜戦争というのは有色人種と白人の全面戦争でもあったわけですね。


渡部 日露戦争に続いて2度目ですね。それで日本はアメリカから憎まれた。アメリカは人種差別を前提としてできている国です。もしはじめから人種差別はないという彼らの独立宣言が本当なら、インディアンの土地を奪ったり、アフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたりできませんよ。だから、白人と同じステータスの有色人種が現れたということはアメリカにとって非常に不愉快なことだった。日本と戦争をしたころのアメリカの海軍には有色人種もいましたが、軍艦の厨房(台所)以外には配属されなかった。なぜなら、大砲を撃たせたり飛行機に乗せたりすると、有色人種が出世して上官になる可能性があるから。それは白人には耐えられない。戦前のシンガポールでも、マレー人は奴隷に近く、その上に中国人がいて、中国人はマスターであるイギリスに仕える。そういう差別構造を日本が完全にぶち壊した。


 だから、日露戦争はコロンブスのアメリカ大陸発見以来、数百年に一度起こるかどうかの大事件であったとみないと世界史はわからない。20世紀初頭は、人種差別は当然という世界でした。そして21世紀のはじめには、国という名に値しないような国でも国連で一丁前の口をきくようになっています(笑)。この百年の差はどこに起因するかといえば、日露戦争と大東亜戦争しかない。


石 日本はあらゆる国際の場で堂々と「人種差別を破ったのはわれわれです」と言うべきですね。


渡部 そうです。第一次大戦のあと、日本が国際連盟で人種差別撤廃を提案したとき、それをぶち壊したのはアメリカだった。そういうことはプライドと地位をかけて言わなければいけない。ところが、政治家が勉強していない。勇気・胆力がない。


 捕鯨問題で世界を相手に日本の立場を主張した元農水省の小松正之さんの話を聞いたことがあるんですが、「自分が頑張れたのは十数年間、クジラについて勉強したからだ。ちょっと話を聞いてわかったような気がしたというくらいでは必ず言い負かされる」とおっしゃっていた。やはり10年以上研究しないと信念にならないというんですよ。政治家も、それくらい勉強してほしいと思いますね。



(注1)通州事件 昭和12年(1937)7月29日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(冀東防共自治政府軍)が起こした大規模な日本人虐殺事件。通州の日本軍守備隊と、日本人居留民(多数の婦女子と朝鮮人を含む)約106名が、人間とは思えぬような方法で中国兵によって惨殺され、シナに対する国民の怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは言うまでもない。

(注2)盧溝橋事件 昭和12年(1937)7月7日の夜10時、蘆溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。翌八日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こり、状況が曖昧なまま、日中は戦闘状態に入った。事件から4日目の7月11日に、事態収拾のため現地協定が成立した。

(注3)五四運動 大正8年(1919)、第一次大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省におけるドイツの権益を日本に移譲することが容認されたのを発端に起こった中国の反帝国主義・反日運動。5月4日に発生したため、この名がある。

(注4)大紅門事件 昭和12年(1937)7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され、日本兵4名が死亡した事件。

(注5)廊坊事件 同年7月25日に北京の郎坊駅で国民革命軍が日本軍を襲撃した事件。

(注6)広安門事件 同年7月26日、中国の了解のもとに北京・広安門の居留民保護に赴いた日本軍が中国軍から銃撃された事件。


わたなべ・しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr. phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『知的生活の方法・音楽篇』(渡部玄一・共著)などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一の日本の歴史』(全7巻)、『渡部昇一ベストセレクション』シリーズ刊行。



せき・へい 評論家。1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、88年に来日。95年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。07年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)、『中国はもう終わっている』(徳間書店)、『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)、『私はなぜ「中国」を捨てたのか』『もう、この国は捨て置け!』(ワック)など多数。




★ロシア革命はユダヤ人が中心となって起こしたのであり、コミンテルンもユダヤ人が中心となって作った共産主義を世界に広める組織であり、もちろん共産主義思想もユダヤ人であるカール・マルクスが作ったものである。
そしてルーズベルトもユダヤ人であった。




1/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=zo8Nn3-48Ts&nohtml5=False


2/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=6xWI4yKs9Qw&nohtml5=False


3/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=F0zUFwWgTao&nohtml5=False



【水島総】「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」特別編集版
https://www.youtube.com/watch?v=YTu-UZkvXCM&nohtml5=False



十五年戦争史観をこの一冊で完全粉砕!「ひと目でわかる『大正・昭和初期』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=RyPk_oblRiM


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by kabu_kachan | 2016-06-10 15:26 | 日中戦争 | Comments(0)