カテゴリ:歴史( 67 )

極東国際軍事裁判(東京裁判)the international military tribunal for the far east

International Military Tribunal of the Far East

★The atomic bombs
https://www.youtube.com/watch?v=mVCy8CL1EN8

極東国際軍事裁判(東京裁判)


KSM】東京裁判の隠された真実 ベン・ブルース・ブレイクニー 米国人弁護人の発言
https://www.youtube.com/watch?v=N_KaXuTfnP4

東京裁判での死刑判決の矛盾をついたブレイクニー(米弁護士)とは?
https://www.youtube.com/watch?v=vGpCWeKtQ84

「東京裁判」速記録から削除された、米国人弁護士による原爆投下追及シーン
https://www.youtube.com/watch?v=iTG1OYSGMN8

東京裁判 「南京大虐殺」はこうして作られた!
https://www.youtube.com/watch?v=arXcTwv9vGU

極東国際軍事裁判 前編
https://www.youtube.com/watch?v=F-jnUehOMsk

【戦争犯罪とは何か?】 ② 【映画】 極東国際軍事裁判(東京裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=LbYnOrklxfE

東京裁判 vol2/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=c0UKc8EuCfw

東京裁判 vol3/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=SV23Ebt-Jms

東京裁判 vol4/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=UT9ap_FubAY

The International Military Tribunal)東京裁判 板垣征四郎 個人反証段階
https://www.youtube.com/watch?v=YGOYV8wk2wc

歪んだ正義① ― 東京裁判・原爆投下は正義だったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=wUvGN1JCgY4

【日いづる国より】ケント・ギルバート、米国人も恥ずかしい東京裁判と慰安婦像[桜H29/1/27]
https://www.youtube.com/watch?v=-7j3weNWtqk

【Tokyo Trial 】 Pride : The Fateful Moment
https://www.youtube.com/watch?v=0fJVFWvAV8Q&list=PLglPdV6wZ1n6uA3ckH6PGLbQS1VVjmIVH

The Truth about Japan's War 1/5 : Tokyo Trial, Radhabinod Pal
https://www.youtube.com/watch?v=lVbMaJIyhKQ

The Truth about Japan's War 2/5 : "True" Revisionism by Douglas MacArthur, US General
https://www.youtube.com/watch?v=ZgulpS39PzU

The Truth about Japan's War 3/5 : Fair Examination of History, Hamilton Fish III
https://www.youtube.com/watch?v=zBj9NgqaY4Y

The Truth about Japan's War 4/5 : Bushido
https://www.youtube.com/watch?v=ig_VvHFvSr8

The Truth about Japan's War 5/5 : WGIP (War Guilt Information Program)
https://www.youtube.com/watch?v=054h7aujgY0

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan 大東亜戦争の真実 水間 政憲
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

Truth of Greater East Asia War
https://www.youtube.com/watch?v=25rBxE3RyOI



Ben Bruce Blakeney (30 July 1908, Shawnee, Oklahoma – March 4, 1963) was an American lawyer who served with the rank of major during the Second World War in the Pacific theatre.[1]

International Military Tribunal of the Far East[edit]

In 1946–1948, he served as a defense counsel at the Tokyo War Crimes Tribunal, and defended Shigenori Tōgō, General Yoshijirō Umezu, and Admiral Soemu Toyoda, who was found not guilty. Among his arguments were that killing by a nation, wartime or peacetime, and even waging a war of aggression, could not be considered crime under international law, hence he took the bold step of addressing the atomic bombing of Hiroshima in relations to the attack on Pearl Harbor, saying:

If the killing of Admiral Kidd by the bombing of Pearl Harbor is murder, we know the name of the very man who[se] hands loosed the atomic bomb on Hiroshima, we know the chief of staff who planned the act, we know the chief of the responsible state. Is murder on their consciences? We may well doubt it. We may well doubt it, and not because the event of armed conflict has declared their cause just and their enemies unjust, but because the act is not murder. Show us the charge, produce the proof of the killing contrary to the laws and customs of war, name the man whose hand dealt the blow, produce the responsible superior who planned, ordered, permitted or acquiesced in this act, and you have brought a criminal to the bar of justice.[2]

After a number of defense counsel resigned in protest, Blakeney continued his work for the defense team, arguing that the court should not create a double standard where the Japanese were punished but others were allowed to go free for committing acts of war.[1] Blakeney, together with defense attorney George Furness, filed an appeal with the Supreme Court of the United States on behalf of the convicted Japanese officials, arguing that the ruling could not be upheld because General Douglas MacArthur had acted unconstitutionally in constituting the tribunal. The appeal was denied.[1]

Later life[edit]

In 1949, he began work as a lecturer of law at Tokyo University. Blakeney later worked with Tōgō Fumihiko to translate and edit "The Cause of Japan," by Tōgō Shigenori."[1] He was killed in a plane crash in 1963.


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by kabu_kachan | 2018-02-11 11:53 | 歴史 | Comments(0)

鉄砲を捨てた国~日本

日本は織田信長の時代に世界最大の鉄砲保有国に

なっていながら、なぜその後、

日本から鉄砲が消えたのであろうか?

西洋ではその後、鉄砲➡大砲➡軍艦と

軍事技術が進んだにもかかわらず、

日本は刀剣のままであった。

★平和ボケは軍事技術を退化させる。

マッカーサーの作った日本国憲法の狙いそのものである。




http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.htmlより。

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。

前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63)

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64)


最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター)
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」)

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。


慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1.日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。)
2.日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3.日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4.外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5.刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。


この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。


その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。


そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。





★西洋人(白人)が考える「日本の歴史」
http://kabukachan.exblog.jp/28475006/

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by kabu_kachan | 2018-02-03 16:14 | 歴史 | Comments(0)

蘭学(Dutch learning) Part 2

Types of Rangaku[edit]

Medical sciences[edit]

Japan’s first fully-fledged translation of a Western book on anatomy (Kaitai Shinsho), published in 1774. (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

From around 1720, books on medical sciences were obtained from the Dutch, and then analyzed and translated into Japanese. Great debates occurred between the proponents of traditional Chinese medicine and those of the new Western learning, leading to waves of experiments and dissections. The accuracy of Western learning made a sensation among the population, and new publications such as the Anatomy (蔵志, Zōshi, lit. "Stored Will") of 1759 and the New Text on Anatomy (解体新書, Kaitai Shinsho, lit. "Understanding [of the] Body New Text") of 1774 became references. The latter was a compilation made by several Japanese scholars, led by Sugita Genpaku, mostly based on the Dutch-language Ontleedkundige Tafelen of 1734, itself a translation of Anatomische Tabellen (1732) by the German author Johann Adam Kulmus.

A Western book on medicine, translated into Kanbun, published in March 1808.

In 1804, Seishū Hanaoka performed the world’s first general anaesthesia during surgery for breast cancer (mastectomy). The surgery involved combining Chinese herbal medicine and Western surgery techniques,[2] 40 years before the better-known Western innovations of Long, Wells and Morton, with the introduction of diethyl ether (1846) and chloroform (1847) as general anaesthetics.

In 1838, the physician and scholar Ogata Kōan established the Rangaku school named Tekijuku. Famous alumni of the Tekijuku include Fukuzawa Yukichi and Ōtori Keisuke, who would become key players in Japan’s modernization. He was the author of 1849’s Introduction to the Study of Disease (病学通論, Byōgaku Tsūron), which was the first book on Western pathology to be published in Japan.

Physical sciences[edit]

Some of the first scholars of Rangaku were involved with the assimilation of 17th century theories in the physical sciences. This is the case of Shizuki Tadao (ja:志筑忠雄) an eighth-generation descendant of the Shizuki house of Nagasaki Dutch translators, who after having completed for the first time a systematic analysis of Dutch grammar, went on to translate the Dutch edition of Introductio ad Veram Physicam of the British author John Keil on the theories of Newton (Japanese title: Rekishō Shinsho (暦象新書, roughly: "New Text on Transitive Effects"), 1798). Shizuki coined several key scientific terms for the translation, which are still in use in modern Japanese; for example, "gravity" (重力, jūryoku), "attraction"[disambiguation needed] (引力, inryoku), and "centrifugal force" (遠心力, enshinryoku). A second Rangaku scholar, Hoashi Banri (ja:帆足万里), published a manual of physical sciences in 1810 – Kyūri-Tsū (窮理通, roughly "On Natural Laws") – based on a combination of thirteen Dutch books, after learning Dutch from just one Dutch-Japanese dictionary.

Electrical sciences[edit]

Japan’s first electrostatic generator (1776), called Elekiteru, developed through Rangaku. (National Museum of Nature and Science).
A curio shop in Osaka demonstrating and selling an Elekiteru. The sign at the entrance says "Newest curiosities from foreign countries."
Japan’s first manual on electric phenomena by Hashimoto Soukichi, published in 1811.

Electrical experiments were widely popular from around 1770. Following the invention of the Leyden jar in 1745, similar electrostatic generators were obtained for the first time in Japan from the Dutch around 1770 by Hiraga Gennai. Static electricity was produced by the friction of a glass tube with a gold-plated stick, creating electrical effects. The jars were reproduced and adapted by the Japanese, who called it "Elekiteru" (エレキテル, Erekiteru). As in Europe, these generators were used as curiosities, such as making sparks fly from the head of a subject or for supposed pseudoscientific medical advantages. In Sayings of the Dutch, the elekiteru is described as a machine that allows one to take sparks out of the human body, to treat sick parts. Elekiterus were sold widely to the public in curiosity shops. Many electric machines derived from the elekiteru were then invented, particularly by Sakuma Shōzan.

Japan’s first electricity manual, Fundamentals of the elekiteru Mastered by the Dutch (阿蘭陀始制エレキテル究理原, Oranda Shisei Erekiteru Kyūri-Gen) by Hashimoto Soukichi (ja:橋本宗吉), published in 1811, describes electrical phenomena, such as experiments with electric generators, conductivity through the human body, and the 1750 experiments of Benjamin Franklin with lightning.

Chemistry[edit]

A description of a Volta battery in Udagawa’s Opening Principles of Chemistry, published in 1840. The title reads "Decomposition of an alkali with a Volta column."
Chemical experiments in Udagawa’s 1840 Seimi Kaisō.

In 1840, Udagawa Yōan published his Opening Principles of Chemistry (舎密開宗, Seimi Kaisō), a compilation of scientific books in Dutch, which describes a wide range of scientific knowledge from the West. Most of the Dutch original material appears to be derived from William Henry’s 1799 Elements of Experimental Chemistry. In particular, the book contains a detailed description of the electric battery invented by Volta forty years earlier in 1800. The battery itself was constructed by Udagawa in 1831 and used in experiments, including medical ones, based on a belief that electricity could help cure illnesses.

Udagawa’s work reports for the first time in details the findings and theories of Lavoisier in Japan. Accordingly, Udagawa made scientific experiments and created new scientific terms, which are still in current use in modern scientific Japanese, like "oxidation" (酸化, sanka), "reduction" (還元, kangen), "saturation" (飽和, hōwa), and "element" (元素, genso).

Optical sciences[edit]

Telescopes[edit]

Edo women using a telescope. Early 19th century.

Japan’s first telescope was offered by the English captain John Saris to Tokugawa Ieyasu in 1614, with the assistance of William Adams, during Saris’ mission to open trade between England and Japan. This followed the invention of the telescope by Dutchman Hans Lippershey in 1608 by a mere six years. Refracting telescopes were widely used by the populace during the Edo period, both for pleasure and for the observation of the stars.

After 1640, the Dutch continued to inform the Japanese about the evolution of telescope technology. Until 1676 more than 150 telescopes were brought to Nagasaki.[3] In 1831, after having spent several months in Edo where he could get accustomed with Dutch wares, Kunitomo Ikkansai (a former gun manufacturer) built Japan’s first reflecting telescope of the Gregorian type. Kunitomo’s telescope had a magnification of 60, and allowed him to make very detailed studies of sun spots and lunar topography. Four of his telescopes remain to this day.

Microscopes[edit]

Microscopes were invented in The Netherlands during the 17th century, but it is unclear when exactly they reached Japan. Clear descriptions of microscopes are made in the 1720 Nagasaki Night Stories Written (長崎夜話草, Nagasaki Yawasō) and in the 1787 book Saying of the Dutch. Although Europeans mainly used microscopes to observe small cellular organisms, the Japanese mainly used them for entomological purposes, creating detailed descriptions of insects.

Magic lanterns[edit]

Mechanism of a magic lantern, from Tengu-tsū, 1779.

Magic lanterns, first described in the West by Athanasius Kircher in 1671, became very popular attractions in multiple forms in 18th-century Japan.

The mechanism of a magic lantern, called "shadow picture glasses" (影絵眼鏡, Kagee Gankyō) was described using technical drawings in the book titled Tengu-tsū (天狗通) in 1779.

Mechanical sciences[edit]

Automata[edit]

Tea-serving karakuri, with mechanism, 19th century. National Museum of Nature and Science, Tokyo.

Karakuri are mechanized puppets or automata from Japan from the 18th century to 19th century. The word means "device" and carries the connotations of mechanical devices as well as deceptive ones. Japan adapted and transformed the Western automata, which were fascinating the likes of Descartes, giving him the incentive for his mechanist theories of organisms, and Frederick the Great, who loved playing with automatons and miniature wargames.

Many were developed, mostly for entertainment purposes, ranging from tea-serving to arrow-shooting mechanisms. These ingenious mechanical toys were to become prototypes for the engines of the industrial revolution. They were powered by spring mechanisms similar to those of clocks.

Clocks[edit]

An 18th-century wadokei (Japanese clock).

Mechanical clocks were introduced into Japan by Jesuit missionaries or Dutch merchants in the sixteenth century. These clocks were of the lantern clock design, typically made of brass or iron, and used the relatively primitive verge and foliot escapement. These led to the development of an original Japanese clock, called Wadokei.

Neither the pendulum nor the balance spring were in use among European clocks of the period, and as such they were not included among the technologies available to the Japanese clockmakers at the start of the isolationist period in Japanese history, which began in 1641. As the length of an hour changed during winter, Japanese clock makers had to combine two clockworks in one clock. While drawing from European technology they managed to develop more sophisticated clocks, leading to spectacular developments such as the Universal Myriad year clock designed in 1850 by the inventor Tanaka Hisashige, the founder of what would become the Toshiba corporation.

Pumps[edit]

Vacuum pump drawing by Udagawa, 1834.
Description of perpetual lamps (無尽灯) using compressed air fuelling mechanisms.
Air gun developed by Kunitomo, circa 1820–1830.

Air pump mechanisms became popular in Europe from around 1660 following the experiments of Boyle. In Japan, the first description of a vacuum pump appear in Aochi Rinsō (ja:青地林宗)’s 1825 Atmospheric Observations (気海観瀾, Kikai Kanran), and slightly later pressure pumps and void pumps appear in Udagawa Shinsai (宇田川榛斎(玄真))’s 1834 Appendix of Far-Western Medical and Notable Things and Thoughts (遠西医方名物考補遺, Ensei Ihō Meibutsu Kō Hoi). These mechanisms were used to demonstrate the necessity of air for animal life and combustion, typically by putting a lamp or a small dog in a vacuum, and were used to make calculations of pressure and air density.

Many practical applications were found as well, such as in the manufacture of air guns by Kunitomo Ikkansai, after he repaired and analyzed the mechanism of some Dutch air guns which had been offered to the Shogun in Edo. A vast industry of perpetual oil lamps (無尽灯, Mujin Hi) developed, also derived by Kunitomo from the mechanism of air guns, in which oil was continuously supplied through a compressed air mechanism.[4] Kunitomo developed agricultural applications of these technologies, such as a giant pump powered by an ox, to lift irrigation water.

Aerial knowledge and experiments[edit]

Drawing of a Western hot air balloon, from the 1787 Sayings of the Dutch.
First demonstration of a hot air balloon in Umegasaki, Japan, in 1805 by Johann Caspar Horner.

The first flight of a hot air balloon by the brothers Montgolfier in France in 1783, was reported less than four years later by the Dutch in Dejima, and published in the 1787 Sayings of the Dutch.

In 1805, almost twenty years later, the Swiss Johann Caspar Horner and the Prussian Georg Heinrich von Langsdorff, two scientists of the Kruzenshtern mission that also brought the Russian ambassador Nikolai Rezanov to Japan, made a hot air balloon out of Japanese paper (washi) and made a demonstration of the new technology in front of about 30 Japanese delegates.[5]

Hot air balloons would mainly remain curiosities, becoming the object of experiments and popular depictions, until the development of military usages during the early Meiji era.

Steam engines[edit]

Drawing from the Japanese book Odd Devices of the Far West, completed in 1845 but published in 1854.
A steamship described in Odd Devices of the Far West.
Japan’s first steam engine, manufactured in 1853 by Tanaka Hisashige.

Knowledge of the steam engine started to spread in Japan during the first half of the 19th century, although the first recorded attempts at manufacturing one date to the efforts of Tanaka Hisashige in 1853, following the demonstration of a steam engine by the Russian embassy of Yevfimy Putyatin after his arrival in Nagasaki on August 12, 1853.

The Rangaku scholar Kawamoto Kōmin completed a book named Odd Devices of the Far West (遠西奇器述, Ensei Kiki-Jutsu) in 1845, which was finally published in 1854 as the need to spread Western knowledge became even more obvious with Commodore Perry’s opening of Japan and the subsequent increased contact with industrial Western nations. The book contains detailed descriptions of steam engines and steamships. Kawamoto had apparently postponed the book’s publication due to the Bakufu’s prohibition against the building of large ships.

Geography[edit]

Topographical work via European methods, 1848 print from Regional Survey Maps (地方測量之図, Jikata Sokuryō no Zu).
Japanese world map published in 1792, by Shiba Kōkan, "Complete Map of the Earth" (地球全図, Chikyū Zenzu).

Modern geographical knowledge of the world was transmitted to Japan during the 17th century through Chinese prints of Matteo Ricci's maps as well as globes brought to Edo by chiefs of the VOC trading post Dejima. This knowledge was regularly updated through information received from the Dutch, so that Japan had an understanding of the geographical world roughly equivalent to that of contemporary Western countries. With this knowledge, Shibukawa Shunkai made the first Japanese globe in 1690.

Throughout the 18th and 19th centuries, considerable efforts were made at surveying and mapping the country, usually with Western techniques and tools. The most famous maps using modern surveying techniques were made by Inō Tadataka between 1800 and 1818 and used as definitive maps of Japan for nearly a century. They do not significantly differ in accuracy with modern ones, just like contemporary maps of European lands.

Biology[edit]

Animal plate by Itō Keisuke.
Description of insects in the Sayings of the Dutch, 1787.
The first gibbon brought to Japan in modern times (1809), drawn by Mori Sosen

The description of the natural world made considerable progress through Rangaku; this was influenced by the Encyclopedists and promoted by von Siebold (a German doctor in the service of the Dutch at Dejima). Itō Keisuke created books describing animal species of the Japanese islands, with drawings of a near-photographic quality.

Entomology was extremely popular, and details about insects, often obtained through the use of microscopes (see above), were widely publicized.

In a rather rare case of "reverse Rangaku" (that is, the science of isolationist Japan making its way to the West), an 1803 treatise on the raising of silk worms and manufacture of silk, the Secret Notes on Sericulture (養蚕秘録, Yōsan Hiroku) was brought to Europe by von Siebold and translated into French and Italian in 1848, contributing to the development of the silk industry in Europe.

Plants were requested by the Japanese and delivered from the 1640s on, including flowers such as precious tulips and useful items such as the cabbage and the tomato.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:35 | 歴史 | Comments(0)

蘭学(Dutch learning)Part 1

The Chinese characters (kanji) for "Rangaku". The first character "ran" is an abbreviation of the ateji for "Holland" (阿蘭陀, or with 2 Kanji 和蘭), o-ran-da, abbreviated to "ran" – because it is the emphasized syllable; cf. List of foreign place names in Japanese). The second character "gaku" means "study" and "learning".

Rangaku (Kyūjitai: /Shinjitai: 蘭学, literally "Dutch learning", and by extension "Western learning") is a body of knowledge developed by Japan through its contacts with the Dutch enclave of Dejima, which allowed Japan to keep abreast of Western technology and medicine in the period when the country was closed to foreigners, 1641–1853, because of the Tokugawa shogunate's policy of national isolation (sakoku).
A meeting of Japan, China, and the West, Shiba Kōkan, late 18th century.

Through Rangaku, some people in Japan learned many aspects of the scientific and technological revolution occurring in Europe at that time, helping the country build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base, which helps to explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the forced American opening of the country to foreign trade in 1854.

[original research?]

History[edit]

Account of Foreign Countries (増補華夷通商考, Zōho Kaitsū Shōkō), Nishikawa Joken, 1708. Tokyo National Museum.

The Dutch traders at Dejima in Nagasaki were the only European foreigners tolerated in Japan from 1639 till 1853 (the Dutch had a trading post in Hirado from 1609 till 1641 before they had to move to Dejima), and their movements were carefully watched and strictly controlled, being limited initially to one yearly trip to give their homage to the Shogun in Edo. They became instrumental, however, in transmitting to Japan some knowledge of the industrial and scientific revolution that was occurring in Europe: the Japanese purchased and translated scientific books from the Dutch, obtained from them Western curiosities and manufactures (such as clocks, medical instruments, celestial and terrestrial globes, maps, plant seeds), and received demonstrations of Western innovations, such as the demonstrations of electric phenomena, and the flight of a hot air balloon in the early 19th century. In the 17th and 18th centuries, the Dutch were the most economically wealthy and scientifically advanced of all European nations, which put them in a privileged position to transfer Western knowledge to Japan.[citation needed] While other European countries faced ideological and political battles associated with the Protestant Reformation, the Netherlands were a free state, attracting leading thinkers such as René Descartes.

Altogether, thousands of such books were published, printed, and circulated. Japan had one of the largest urban populations in the world, with more than one million inhabitants in Edo, and many other large cities such as Osaka and Kyoto, offering a large, literate market to such novelties. In the large cities some shops, open to the general public, specialized in foreign curiosities.

Beginnings (1640–1720)[edit]

Painting by Kawahara Keiga: Arrival of a Dutch Ship. Philipp Franz von Siebold at Dejima with his Japanese wife Otaki and their baby daughter Ine observing a VOC ship in Nagasaki Bay using a teresukoppu (telescope).

The first phase of Rangaku was quite limited and highly controlled. After the relocation of the Dutch trading post to Dejima, trade as well as the exchange of information and the activities of the remaining Westerners (dubbed "Red-Heads" (kōmōjin)) were restricted considerably. Western books were prohibited, with the exemption of books on nautical and medical matters. Initially, a small group of hereditary Japanese–Dutch translators labored in Nagasaki to smooth communication with the foreigners and transmit bits of Western novelties.

The Dutch were requested to give updates of world events and to supply novelties to the Shogun every year on their trips to Edo. Finally, the Dutch factories in Nagasaki, in addition to their official trade work in silk and deer hides, were allowed to engage in some level of "private trade". A small, lucrative market for Western curiosities thus developed, focused on the Nagasaki area. With the establishment of a permanent post for a surgeon at the Dutch trading post Dejima, high-ranking Japanese officials started to ask for treatment in cases when local doctors were of no help. One of the most important surgeons was Caspar Schamberger, who induced a continuing interest in medical books, instruments, pharmaceuticals, treatment methods etc. During the second half of the 17th century high-ranking officials ordered telescopes, clocks, oil paintings, microscopes, spectacles, maps, globes, birds, dogs, donkeys, and other 'rarities' for their personal entertainment and for scientific studies.[1]

Liberalization of Western knowledge (1720–)[edit]

Description of a microscope in Various stories about the Dutch (紅毛雑話), 1787.

Although most Western books were forbidden from 1640, rules were relaxed under Shogun Tokugawa Yoshimune in 1720, which started an influx of Dutch books and their translations into Japanese. One example is the 1787 publication of Morishima Chūryō’s Sayings of the Dutch (紅毛雑話, Kōmō Zatsuwa, lit. "Red Hair Chitchat"), recording much knowledge received from the Dutch. The book details a vast array of topics: it includes objects such as microscopes and hot air balloons; discusses Western hospitals and the state of knowledge of illness and disease; outlines techniques for painting and printing with copper plates; it describes the makeup of static electricity generators and large ships; and it relates updated geographical knowledge.

Between 1804 and 1829, schools opened throughout the country by the Bakufu as well as terakoya (temple schools) helped spread the new ideas further.

By that time, Dutch emissaries and scientists were allowed much more free access to Japanese society. The German physician Philipp Franz von Siebold, attached to the Dutch delegation, established exchanges with Japanese students. He invited Japanese scientists to show them the marvels of Western science, learning, in return, much about the Japanese and their customs. In 1824, von Siebold began a medical school in the outskirts of Nagasaki. Soon this Narutaki-juku (鳴滝塾) grew into a meeting place for about fifty students from all over the country. While receiving a thorough medical education they helped with the naturalistic studies of von Siebold.

Expansion and politicization (1839–)[edit]

The Myriad year clock, a Japanese-made perpetual clock-watch (wadokei), made by Tanaka Hisashige in 1851 (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

The Rangaku movement became increasingly involved in Japan's political debate over foreign isolation, arguing that the imitating of Western culture would strengthen rather than harm Japan. The Rangaku increasingly disseminated contemporary Western innovations.

In 1839, scholars of Western studies (called 蘭学者 "rangaku-sha") briefly suffered repression by the Edo Shogunate in the Bansha no goku (蛮社の獄, roughly "imprisonment of the society for barbarian studies") incident, due to their opposition to the introduction of the death penalty against foreigners (other than Dutch) coming ashore, recently enacted by the Bakufu. The incident was provoked by actions such as the Morrison Incident, in which an unarmed American merchant ship was fired upon under the Edict to Repel Foreign Ships. The edict was eventually repealed in 1842.

Rangaku ultimately became obsolete when Japan opened up during the last decades of the Tokugawa regime (1853–67). Students were sent abroad, and foreign employees (o-yatoi gaikokujin) came to Japan to teach and advise in large numbers, leading to an unprecedented and rapid modernization of the country.

It is often argued that Rangaku kept Japan from being completely uninformed about the critical phase of Western scientific advancement during the 18th and 19th century, allowing Japan to build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base. This openness could partly explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the opening of the country to foreign trade in 1854.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:30 | 歴史 | Comments(0)

ヒトラー(ヒットラー)は生きていた!(南米に逃亡)

ヒトラーの謎を解くことによって
第二次世界大戦の本質が分かる。
つまり、ヒトラーを利用して
後ろで儲けていた連中がいたと
いうことである。

Why The Rothschilds Invented Nazism - Eustace Mullins
https://www.youtube.com/watch?v=x541EQ2aXlM

Eustace Mullins ~ The Rothschilds & The Two World Wars
https://www.youtube.com/watch?v=tmgJE8hrL1Y

WWII Hitler Germany funded by the Bank of England (Rothschild's) as well Wall-street Industrial's
https://www.youtube.com/watch?v=KLwaNYFixXM

Windsors, Rothschilds & The Mystery of Adolf Hitler
https://www.youtube.com/watch?v=pLpTfD6TwF8


ヒトラーは自殺などしていない。
南米に逃げて生き続けていた。

Harry Cooper - Adolf Hitler's Life in Argentina (1945-1965)
https://www.youtube.com/watch?v=YtQYapKBWTU

この歴史観を世界中の人々が
持つようになるのはいつだろうか?


<(最近)機密解除されたCIA文書はヒットラーがこの南米国に逃げたと主張>
[Sputnik International:2017年11月01日 14:08]

Declassified CIA Docs Claim Hitler Escaped to This South American Country
https://sputniknews.com/latam/201711011058719692-cia-documents-hitler/


    ☟
★アドルフ・ヒトラー(ヒットラー)の正体
http://kabukachan.exblog.jp/26013882/

★ヒトラーの謎
http://kabukachan.exblog.jp/21753974/




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by kabu_kachan | 2017-11-10 10:37 | 歴史 | Comments(0)

ロスチャイルドとウラン鉱山

【ロスチャイルドとウラン鉱山】
『赤い盾』(広瀬隆 著)より引用。


(前略)わが国の「経済団体連合会十年史」を読むと、「財閥の解体」と題する章には、次のように書かれている。

赤い楯1----昭和21年(1946年)2月に発表された財閥の解体についてGHQの基本的見解は次の通りであった。
1.財閥は日本特有のものであって、他国でこれに類似するものとしては、ロスチャイルド以外にない。しかしロスチャイルドは現在存在しない。
2.・・・・

アメリカが冒頭からロスチャイルドに言及しているこの部分は、彼らの対決意識を想像させる興味深い一節である。では、そのGHQ(連合軍の総司令部)を動かしていたアメリカ最大のモルガン財閥とロックフェラー財閥は存在しなかったのか、と反問したくなる一文だが、アメリカの方式はロスチャイルドや日本の三井・三菱とは違っていたのである。彼らは系図より、むしろ能力と資金に重きを置いてビジネス界を作りあげ、新大陸の若い財閥を形成しはじめていた。ところがロスチャイルドの構造は、これまで示してきた通りである。多くの現象は、数百年の歴史を頭に入れておかなかければ解き明かすことはできない。地球の全史と言うべきものの頂点に立ったのが近代のロスチャイルドだったからである。

このメカニズムを解き明かすには、寝台のきしみ具合いをひとつずつ点検し、そこで生まれる赤児の父親と母親の名前を記録してゆかなければならないので、複雑な3次方程式を理解しておく必要がある。ところが一度この数式をマスターすれば、やはり正確な回答が得られる。GHQはそれを財閥と呼んだものらしい。

そして「ロスチャイルドは現在存在しない」と・・・・

歴史の浅いアメリカ人が指した甘い一手であった。広島と長崎に黒い雨が降った1945年、ロンドン・ロスチャイルド家で最年長となったアンソニーは、カナダに広大な山林の開発権を獲得していた。初代マイヤー・アムシュルから数えて5代目にあたる世代で、ネイサン(私の注:アムシュルの三男でロンドン家初代当主)の血を引いて生き残っていたのは、すでにこのアンソニーと、フランスでラジウム製造所を建設したドクトル・アンリのふたりだけであった。

アンリが前述のように「リオ・チント・ジンク」の創業一族と結婚し、スペインからアフリカまで広大な範囲の鉱山を完全支配していたのに対し、ロンドンの当主となったアンソニー・ロスチャイルドは、フランス人の重要な一族を寝室に迎えていた。パリ・ロスチャイルド家の鉱山会社「ペナロヤ」の創業ファミリー、イヴォンヌ・カーエンが妻だったのである。この女性は本書上巻で、すでに第2次大戦のなかで登場し、'テュッセン男爵とシュレーダー男爵の異様な世界'の系図32に'ユダヤ富豪カーエン家'として記されている人物、つまりユダヤ人救済のため、またナチスを打ち倒すため、イギリスの富豪を結集させたあの女性である。その富豪の富は、鉱山から誕生したものであった。

こうして戦後直ちに、ロンドンとパリが人材を交換する形で、今日のヨーロッパ原子力産業の骨格がほとんどロスチャイルド家の手でつくられた。アンソニーがカナダに買い取った山林の開発権は13万平方キロにおよび、それがわが国の面積の3分の1を超える広さであり、イングランドと同じ面積を支配してしまった。原爆成功のニュースによって原子力産業に突進したのはアメリカ人だけではなかった。アンソニーはこのカナダに、ウランの鉱山を開発する新しい事業に乗り出して行った。「ロスチャイルド財閥は現在存在しない」とは、同じ北アメリカ大陸に住む人間としてあまりに軽率な判断であった。ウォール街の頭のうえで、ロスチャイルドは世界最大のウラン鉱を掘り出していたのである。

いまや全世界の原子力発電のシンボルとなり、日本と全ヨーロッパから放射性廃棄物を集めるフランスと、ロスチャイルド家の鉱山会社の関係は、こうして誕生した。アンソニー・ロスチャイルドの妻カーエン家が創業した「ペナロヤ」とその親会社「ル・ニッケル」(現イメタル)を中心に、傘下にあるウラン・メジャーの「モクタ」などがフランス・ロスチャイルド家の鉱山事業であった。これに対してドーバー海峡の向こうにある「リオ・チント・ジンク」を筆頭に、その子会社の「リオ・アルゴム」がカナダをおさえ、この両社が南アを動かしてナミビアの「ロッシング鉱山」を支配、さらに「オーストラリア鉱業」と通じて3大陸をロンドンからコントロールしたのが、イギリス・ロスチャイルド家であった。

ところがフランスとイギリスの両家は、妻を相互に交換し、重役の席を相互に交換していたため、どちらがどちらとも定義できないウランの国際秘密カルテルを形成し、価格を自由に操作できる状況を生み出してしまった。ウランの3大生産地、カナダ・オーストラリア・南アが一家族の手に落ちたのである。これはオッペンハイマー=ロスチャイルド家のダイヤモンド・カルテル~金塊カルテルと同一のものであった。

しかしカルテルとは、その独占価格を崩す違反者をこの世から消し去ることによって、初めて成功するものである。以上のほかに、ウランの資源国がもうひとつあった。アメリカの西部は、ゴールド・ラッシュからウラン・ラッシュへと時代は移っていた。西部の原爆実験と共に、ユタ州を中心に広大なウラン鉱が次々と発見され、カリフォルニア、コロラド、ネバタなどの各州で掘り出されるウランが、こちらは別の力で糾合されつつあった。

1950年代に大量の核実験がおこなわれ、それと同時に西部では異様な光景が展開した。南アのキンバリー鉱山などでダイヤの利権を求めて労働者が殺到したように、アメリカ西部にカウボーイ・ハットをかぶった男たちが野宿のキャンプを張り、翌朝にはピストルの合図で一斉に走り出し、荒れ地に杭を打ち込んで自分の縄張りを宣言するという狂気のウラン争奪戦がおこなわれたのである。

そこに誕生したのが「ユタ・インターナショナル」を根城とするアメリカのウラン・カルテルであった。これは銅山業者の「ケネコット」と非鉄金属で世界一の「アサルコ」が支配するもので、ロスチャイルド家はこのアメリカン・カルテルと提携することさえ可能ならば、金銀ダイヤと同じように地球全土のウランを掌中に握れるのだ。

アメリカン・カルテルを動かすのは、J・Pモルガンの孫ヘンリー・スタージス・モルガンであった。ところが'赤い楯'は、シティーのモルガン・グレンフェルを通じてウォール街と交渉する方法を敢えて取らなかった。モルガン家と公然たる活動をおこなえば、全世界に手の内を読み取られ、カルテルという秘密行動そのものがライバル業者に防御意識を持たせてしまう。そうなれば、'現在存在しないロスチャイルド'に対してビジネス界が驚き、襲いかかってくであろう。これから買収してゆかなければならない鉱山の値が不当に高くなったり、価格操作が不可能になる。

ロスチャイルド家はどのように行動したのだろう。

何もしなかったのである。何ひとつアメリカ西部に働きかけなかった。ところが今日、アメリカン・カルテルはロスチャイルド家の傘下に入り、地球というボール全体が、リオ・チント・ジンクとイメタルのシンジケート団によって、たった一社のものとなっている。ロスチャイルド銀行が全ウランを動かしている。

このミステリーは、本書の第一章に語ったタイタニック号の物語を記憶されている方には、容易に解けるであろう。ユタ・インターナショナルというウラン・メジャーの支配者は、「ケネコット」と「アサルコ」の両社であった。しかしこの2社の'重役・社長・会長'の要職を占めてきたのが、ハリー・フランク・グッケンハイム、サイモン・グッケンハイム、ダニエル・グッケンハイム・・・・わが'赤い楯'の鉱山王だったからである。ロスチャイルド家がどのような契約を取り交わす必要があるだろう。

この関係は、わが国の官僚にまったく理解されていないようである。日本の外務省経済局がまとめた「70年代における資源外交」と題する分厚い報告書を開くと、「ル・ニッケル」と「アマックス」と「パティーニョ」による鉱物資源の争奪戦争が、くわしく解析されている。国境で分ければフランスとアメリカとボリビアの鉱山業者の争いに見えるが、系図が1枚で描かれていることに、日本の外交官は気づいていないのである。

こうしてアンソニー・ロスチャイルドがカナダに土地を購入すると同時に、ドゴール将軍はフレデリック・ジョリオ=キュリーを初代の長官として、原子力庁を創設した。この原子力庁には、大きな特色があった。公的な機関でありながら、「幹部には自由な活動が認められる」ということを、1945年10月18日の政令によって定めていたのである。ウランのロスチャイルド支配を知れば、これがどれほど危険な政令であったかは言うまでもない。しかもそのときドゴールの右腕となっていたのが、死の商人マルセル・ダッソーとギイ・ロスチャイルドであった。

ジョリオ=キューリーの妻イレーヌ・キューリーも原子力委員に任命され、実働チームのボスとして、アメリカのマンハッタン計画を監督したベラルトン・ゴールドシュミットが任命された。この男が化学部門を担当し、ウランの精製と濃縮など、ロスチャイルド家の事業に直結する世界を完全に支配した。名前はゴールドシュミットだが、ウランシュミットと呼んでもよい存在となった。33歳の若さで最重要ポストを握ったこの人物は、パリのキューリー研究所で助手として育てられ、やがて戦時中にはカナダに派遣されてウランの利権をおさえ、アンソニー・ロスチャイルドの土地買収に貢献してきた。

のちに全世界の原子力産業の頂点に立ち、スリーマイル島の事故のあと国際原子力機関(IAEA)の議長となったウランシュミット、この男がロスチャイルドのウラン・カルテルを完成させた人物であった。IAEA、その名はいまや、生体実験の代名詞として使われるようになった。ソ連のチェルノブイリ事故のあと動き回り、「このような事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」と全世界に告げた機関。この秘密組織は、白ロシアをはじめとする広大な範囲で被害が目に見えるようになった1990年、最も危険な汚染地域の住民に放射能測定用のフィルム・バッジを付けさせ、ひそかにこれを回収して、住民にはその結果を教えない。この住民には、死の影が一歩ずつ近づいている状況のなかで、生体実験を続けるIAEA。(後略)

(引用終わり)

まず経団連の「経済団体連合会十年史」にGHQが記したものとして、「ロスチャイルドは現在存在しない」というのが全く意味不明です。仮に世襲制のもとに事業を継続させることを財閥と定義したとしても、そのような血筋に重きをおいて事業を継続している会社はいくらでもあります。しかもロスチャイルドは存在しないどころか世界中の財閥に多大な影響力を及ぼし、世界の覇権者とさえされている財閥です。この「経済団体連合会十年史」の記述に私はロスチャイルドの存在をなくすことによって逆に世界で支配力を拡大させやすくするための企みを感じます。

そして終戦の年にはカナダの広大なウラン鉱山をアンソニー・ロスチャイルドは手に入れる。原子力の原点ともいえる'ラジウムの発見'をキューリー夫妻がした。そのラジウムの製造所をフランス・パリ家のアンリ・ロスチャイルドがつくった。そのアンリは南アとナミビアの地域を中心としてウラン鉱を支配する、と著者の広瀬氏がする「リオ・チント・ジンク」の創業一族と結婚する。一方でアンソニー・ロスチャイルドの妻はパリ・ロスチャイルド家のウラン鉱山会社「ペナロヤ」の創業ファミリーのイヴォンヌ・カーエン。

そのカーエンの「ペナロヤ」の親会社は同じウラン鉱山会社の「ル・ニッケル」(現イメタル)。さらにその傘下にウラン・メジャーの「モクタ」がある。一方リオ・チント・ジンクの子会社「リオ・アルゴム」がカナダをおさえる。アンソニー・ロスチャイルドもカナダのウラン鉱山を手に入れたがそのロスチャイルドの傘下のリオ・チント・ジンクの子会社リオ・アルゴムもカナダのウラン鉱山をおさえた、ということになります。さらにこの両社が南アフリカのナミビアの「ロッシングウラン鉱山」を支配し、「オーストラリア鉱業」と通じてオーストラリアのウラン鉱山も支配するようになった。結果、北米大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸の3大陸のウラン鉱をロスチャイルド一族が支配することとなった。

そしてそのロスチャイルド・ロンドン家とフランス家は妻を相互に交換し、重役の席を相互に交換していたため、どちらがどちらとも定義できないウランの国際秘密カルテルを形成し、価格を自由に操作できる状況を生み出した。つまりウランの価格をロスチャイルドが決めているということになります。

そしてアメリカ西部ではゴールド・ラッシュならぬウラン赤い楯7・ラッシュが起こり、ユタ州に「ユタ・インターナショナル」を根城とするアメリカのウラン・カルテルが出来上がった。このカルテルはロスチャイルドのものではなかった。しかしロスチャイルドはこのカルテルを自分のものにしようとはしなかった。だが不思議なことに、今日では(1995年当時では)アンリ・ロスチャイルドが婚姻関係を結んだリオ・チント・ジンクとアンソニー・ロスチャイルドが婚姻関係を結んだ「ル・ニッケル」(現イメタル)がその「ユタ・インターナショナル」を支配するようになった。

このミステリーの謎解きは、ユタ・インターナショナルの支配者は、「ケネコット」と「アサルコ」の両社であったが、この2社の重役、社長、会長をこれまたアメリカ・ロスチャイルド家のヴィクター・ロスチャイルドの娘アイリーン・ロスチャイルドと婚姻関係を結んだアメリカのウラン鉱山会社「グッケンハイム」の人間が占めていた、というオチだった。だからこのユタ・インターナショナルを支配するためにロスチャイルドは何もする必要がなかった。


そんな中で、第2次大戦後、アルジェリアに進出して、現地の人たちを奴隷のように働かせた自由フランス軍を率いていながら、大戦中ヒットラーがフランスに攻め込んできた時、ロンドンに一目散に逃亡したロスチャイルドの犬でもあるド・ゴールが原子力の原点である'ラジウムの発見'をしたキューリー夫人の娘ムコのフレデリック・ジョリオ=キュリーを初代の長官として、原子力庁を創設した。

この原子力庁というのがロスチャイルドのウラン支配を前提につくられたものであり、公的な機関でありながら「幹部には自由な活動が認められる」ということが政令で定められたものだった。しかもそのド・ゴールの右腕となっていたのが1950年にユダヤ財団理事長に就任したロスチャイルド・フランス家5代目当主のギイ・ロスチャイルドと湾岸戦争で、イラクのクウェート侵攻の際の爆撃機とそれをクウェートが迎撃した同じ爆撃機「ミラージュ」を売り込んだユダヤ人の死の商人マルセル・ダッソーだった。このことをとってみてもいかにロスチャイルドがウラン、原子力、戦争とそれに使われる武器などに深くかかわっているのかが分かります。

そしてキューリー夫人の娘ムコのジョリオ=キューリーの妻までも原子力委員に任命され、さらにはロスチャイルド家創始者のマイヤー・アムシュル・ロスチャイルドの長男アムシュル・マイヤー・ロスチャイルドの本家のドイツ・フランクフルト家の後を、ロスチャイルドと婚姻関係を結ぶことによって継いだゴールドシュミット家のベラルトン・ゴールドシュミットが原子力庁の実働部隊として任命された。

このベラルトン・ゴールドシュミットという男はフランスのパリのキューリー研究所で育てられ、マンハッタン計画(広島・長崎への原爆投下計画)の監督も務め、さらには終戦の年の1945年にアンソニー・ロスチャイルドが手に入れるカナダの広大なウラン鉱山の土地買収に、戦時中は貢献したバリバリのロスチャイルド一族の人間だった。

そしてさらにはこのウランシュミットことベラルトン・ゴールドシュミットは、「このような事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」とチェルノブイリ原発事故の後に全世界に告げ、そのチェルノブイリの最も危険な地域の住む人たちを早急に健康被害から守るのではなく、敢えてその危険な地域に住まわせ、生体実験を行い、その実験結果を本人に教えることすらしなかったIAEAの議長までも務めたということです。

この著者である広瀬氏の「赤い楯」のほんの一部分の、この引用文だけをとってみてもいかにロスチャイルド財閥が、戦争、原子力、そしてそれに使うウラン原料に多大な影響力を及ぼしているかがわかります。こうやって調べれば調べるほど、「世界の覇権者はロックフェラーだ!!」とする論説に懐疑的にならざるを得ません。



ロスチャイルドの歴史
http://kabukachan.exblog.jp/25345027/


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by kabu_kachan | 2017-09-12 22:32 | 歴史 | Comments(0)

NHKスクープドキュメント「沖縄と核」の感想。

まず最初に言っておくが、私はNHKの受信料を払っている。だから感想を書く。

NHKの「沖縄と核」という番組を見ていたが、この番組、何か肝心なことが抜けている。

米ソ対立で冷戦構造ができて、核兵器競争が激化して沖縄を中心として、一発触発の核戦争が起きるところであった・・・というような内容だったと思うが。

そもそも、このNHKは米ソ冷戦体制が猿芝居であったことに気付いていない。
当時のアメリカとソ連の両方に同じ穴の狢がいたんだぜ。(今でもいるが。)
だからアメリカの情報はソ連に筒抜け。
アメリカの核開発はソ連に筒抜けということ。
米ソ対立を煽って、両方に核兵器開発競争させておいて、両方に核兵器の原料を売って儲けた連中がいるんだぜ。
第二次世界大戦のとき、アメリカとドイツの両方に武器を売って儲けた連中がいるだろ。
日露戦争を裏で画策して儲けた連中がいるだろ。
戊辰戦争の時に、幕府側と薩長側の両方に武器を売って儲けた連中がいるだろ。
み~んな同じ穴の狢なんだぜ。

戦争が起きれば儲かる連中がいる。戦争が起きなくても戦争や対立を煽るだけで儲かる連中がいる。
爆弾原料会社も武器製造会社も武器商社も同じ連中によって握られていることを知っておかなければならない。



以下は馬渕睦夫氏の本の引用である。

米ソ冷戦は仕組まれたものである、と著者は言っています。


国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 国難の正体――日本が生き残るための「世界史」
(2012/12/25)
馬渕睦夫


 『 戦後世界の枠組みを決めたヤルタ会談で、なぜソ連だけが多くの恩賞を得ることができたのでしょうか。…ソ連はアメリカの武器貸与法による軍事支援を得ながら戦争を継続することができた…

 ソ連とアメリカの国力の差は絶大でした。たとえ、ソ連軍や人民の犠牲者が連合国の中で一番だったとはいえ、東欧をソ連に差出し、たった一週間日本と戦っただけで火事場泥棒的に南樺太や千島列島を戦利品として分け与える厚遇をする必要はどこにあったのでしょうか。

 戦争終結時、ソ連は悲惨なまでに脆弱化していた…他方アメリカは世界の富の半分を所有するほどに、圧倒的な国力を保持していました。

 そのようなソ連をアメリカに匹敵する大国として扱う必要があったのは、なぜでしょうか…

 アメリカはソ連に戦争の恩賞を過分に与えただけではありません。資本主義の天敵共産主義国ソ連との経済関係を促進したのは、なんとアメリカの資本家たちだったのです…

 そして、俄には信じがたいかもしれませんが、ソ連から見て共産主義イデオロギー上の不倶戴天の敵であるアメリカの大富豪は、実は話しがよく通じる相手であったのです。 』


 『 アメリカの資本家はソ連との貿易を促進し、ソ連の工業化のための投資を行うなど、ソ連を強化するために経済協力を進めます。その一方でアメリカ政府はソ連の脅威をアメリカ国民に植え付け、アメリカの軍拡を実行します。米ソ冷戦は、アメリカにとって、そしてソ連にとってはもちろんのこと、大いにメリットがあるドラマだったわけです。

 それでは、ソ連はなぜ崩壊し、冷戦が終了したのでしょうか。その理由を解明するには、ソ連という人工国家を産んだ1917年のロシア革命の実態を知る必要があります。ボルシェビッキ革命を指導したレーニンはユダヤ系でした…歴史教科書に出てくる他の革命指導者のトロッキー、ジノヴィエフ、スベルドルフ、ラデック、リトヴィーノフなどはユダヤ人でした。革命後のソ連政府幹部の八割以上がユダヤ人で、これらのユダヤ人のうち大多数はロシア革命を期に、トロッキーとともにアメリカから渡ってきたユダヤ人だった…世界のユダヤ勢力がソ連を支援した…

 …結局、ソ連はユダヤ人など少数民族が政権の中枢を担うという極めて不安定な人工国家でした。その不安定さゆえに、共産党支配は血の粛清を繰り返さざる得ない過酷な宿命にあった…ボルシェビッキ革命を支援した英米の金融勢力にとっては、ソ連は彼らの理想とする独占的経済秩序のいわば実験場であった…しかし、中央計画経済は内部に矛盾をはらんだシステムであって、次第に欧米諸国の経済発展から取り残された結果、ソ連経済は停滞しこの壮大な実験は成功の見通しがなくなりました。

 そこで、この実験を終了させる役割を担ったのが、1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフでした。1986年には原油価格の暴落などによってソ連経済は悪化し、チェルノブイリ原発事故が追い討ちをかけます。ゴルバチョフはペレストロイカ(民主化)とグラスノスチ(情報解禁)という思い切った改革路線を打ち出します。なぜゴルバチョフは共産主義システムを否定するような政策を取ったのでしょうか。

 偶然ではありません…ソ連は行き詰まって自然に崩壊したわけではない…ゴルバチョフによって意図的に解体させられたのです。 』 

いかがでしょうか?

ロシア革命はロシア人ではなく、ユダヤ人主導であった、

米ソの国力には大差があったが、冷戦を演出することで双方にメリットがあった、

ソ連は、意図的に崩壊させられた。。。

ゴルバチョフは、なぜそんな行動をとったのでしょうか?


戦争ビジネス
http://kabukachan.exblog.jp/21057912/


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by kabu_kachan | 2017-09-10 23:44 | 歴史 | Comments(0)

真珠湾攻撃前の石油禁輸


<安保理>北朝鮮制裁を協議 石油禁輸が焦点


9/5(火) 1:08配信

毎日新聞


<安保理>北朝鮮制裁を協議 石油禁輸が焦点


国連安全保障理事会の緊急会合の議場でヘイリー米国連大使(右)、ライクロフト英国連大使(中央)と会話を交わす日本の別所浩郎・国連大使=ニューヨークの国連本部で2017年9月4日、AP


 【ニューヨーク國枝すみれ】北朝鮮の6回目の核実験を受け、国連安全保障理事会は4日午前(日本時間同日深夜)、緊急会合を開き、北朝鮮の核実験を厳しく非難し、北朝鮮へのさらなる制裁強化について協議した。米国は新たな制裁に関する決議案を近く配布し、週内に議論したうえで、今月11日に採決を目指す考えを明らかにした。

【動画】北朝鮮国営放送「水爆実験に完全成功」と発表(ロイター)

 緊急会合は、日米韓英仏が要請した。英仏が要請に加わるのは異例。中国も今回の核実験について「断固たる反対と強烈な非難」との声明を出しており、核実験を厳しく非難するという安保理としての意思表明では合意するとみられる。

 米国のへイリー国連大使は会合冒頭、過去20年以上、何度も対話を図ったにもかかわらず北朝鮮は核・ミサイル開発を続けたと指摘し「もう十分だ」と述べた。「外交的手段は尽きつつある」として「可能な最も強い手段」で北朝鮮に対処すると警告した。

 日本の別所浩郎国連大使も「時間を無駄にはできない」と話し、安保理が一致して最大限の圧力をかけるため、新しい制裁決議案を採択するよう求めた。英仏両国の大使も決議案の採択を主張した。

 中国の劉結一・国連大使は、北朝鮮に対し「断固たる反対と強烈な非難」を表明。一方で「朝鮮半島で戦争と混乱が起きることは決して容認しない」と述べ、北朝鮮が挑発的な行動を慎む一方で、米韓両国が合同軍事演習を取りやめるべきだとの中露の考えを繰り返した。ネベンジャ露国連大使も「平和は深刻な危機に直面している」と認めながら、朝鮮半島情勢に関与する関係国が「直ちに対話を再開すべきだ」と強調した。

 新たな制裁として検討される可能性がある分野は、北朝鮮経済に打撃を与える石油の禁輸、北朝鮮の外貨収入源となっている派遣労働者の禁止や削減、北朝鮮産の縫製品の禁輸などが挙げられる。北朝鮮と取引する企業や銀行に対する制裁強化も検討されるとみられる。

 安保理は先月5日、北朝鮮が7月に行った2度の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射を受け、北朝鮮の主要な外貨獲得源の石炭や鉄などを全面的に禁輸し、海外派遣労働者の新規査証発給を停止する制裁決議を採択した。この決議が完全に実施されれば、北朝鮮の年間輸出額の3分の1を削ることができる。安保理は4日、加盟国に対して決議の完全な履行を求めた。

 安保理は先月29日、日本の上空を飛び越えた弾道ミサイル発射を受け、「言語道断」と非難する議長声明を採択した。



Emergency United Nations Security Council Meeting On North Korea Hydrogen Bomb Test!
https://www.youtube.com/watch?v=-PnfqEMGGxI

BREAKING NEWS 9/4/17 | U.N. AMB. HALEY: N.KOREA’S LEADER “BEGGING FOR WAR”
https://www.youtube.com/watch?v=hJDVBNfk1ho


ALERT - NORTH KOREA RISING TENSIONS, U.N. CALLS FOR STRONGER ACTIONS
https://www.youtube.com/watch?v=hJDVBNfk1ho


President Trump Breaking New Today 9/4/17 ,Danger North korea leader Kim Jong-un Threat TO STRIKE US
https://www.youtube.com/watch?v=C40S7j8bHWs



太平洋戦争前に、アメリカが日本に対して石油禁輸をやっただろ。
そのとき日本は、欧米が世界中に植民地を持っているのに、日本が同じように植民地を持ってどこが悪いと思っていただろ。

ICBMも水爆も、アメリカやロシアや中国はすでに持っているんだぜ。
北朝鮮が同じように持ってどこが悪いと金正恩は思っているんじゃないのか?

Vladimir Putin "North Korea Would Rather Eat Grass Than Give Up Nuclear Weapons Program"
https://www.youtube.com/watch?v=0MflwmD47pY
これは、真珠湾攻撃前にハル・ノートを突き付けられたときに、「中国大陸の領土を手放すのは戦争に負けたのと同じだ」と日本が言っていたのと同じじゃないのか。

あのとき日本は、アメリカが石油禁輸をやったから真珠湾攻撃をしたんじゃなかったのか?
日本はなぜアメリカと一緒になってやっているんだ。
日本の立場がおかしいと思わないかね?
それともあの時の中国の立場になっているのかね?(笑)


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by kabu_kachan | 2017-09-05 06:55 | 歴史 | Comments(0)

NHKスペシャル「インパール作戦」に物申す。



このNHKは、


日本国民から受信料を


強制徴収しておきながら、


日本国民に対して反日放送を


堂々とやっている。


受信料を返せ。


https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34850875.htmlから引用。


戦慄の記録 インパール
相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。
「援蒋ルート」の遮断を主目的とし、ミャンマー(当時ビルマ)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。餓死・戦病死した日本兵の死屍累々が並んだ道が「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨な戦いの実態はどのようなものだったのか。
これまでインドとミャンマーの国境地帯は戦後長く未踏の地だったが、今回、両政府との長年の交渉の末に現地取材が可能となった。さらに、新たに見つかった一次資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから「陸軍史上最悪」とされる作戦の全貌が浮かび上がってきた。
数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録は、決して忘却してはならない悲劇の記憶を、未来へと継承していく
2017.8.15 NHKスペシャル)
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NHK813日から15日にかけて「731部隊」「樺太の地上戦犠牲者」「インパール作戦」と3日間連続で「戦争の悲惨」について報じた。
お気づきと思うが、これらすべて帝国陸軍を悪とする放送なのだ。
NHKの戦争ものといえば陸軍を悪者に、海軍を平和主義者のように報じる傾向が強い。どうして陸軍を憎むのか?
これは日教組もそうだが、日本陸軍の強さにある。日本陸軍の強さにはスターリンも相当に恐れ、戦後左翼はソ連を苦しめた陸軍が憎くてしょうがないのだ。特に関東軍は目の敵だ。
しかし、今回のインパール作戦に至る経緯を見れば、大東亜戦争当初の海軍が足を引っ張ったのが大きな敗因の原因であることは明らかである。
開戦前の昭和151月に「陸軍省戦争経済研究班」が設立され、大東亜戦争は太平洋ではなくインド洋を攻略して英国の制海権と海上輸送の遮断で屈服させ、それによりソ連とシナへの補給も断たれて孤立し、ドイツとスエズで合流していくはずだった。
しかし”真珠湾”と言い出したのは海軍の山本五十六であり、ドイツがエジプトに侵攻するとインド洋へ向けようとしたが、山本五十六がガダルカナル島と言い出して、日本は敗北に向かって行ったのが実態であった。
さて「インパール作戦」であるが、今回のNHKスペシャルもそうだが、日本のインパールに関する多くの著書も大事なことに触れない。
つまり「インパール作戦=無謀・悲劇」というのが多くの日本人のイメージである。
特に牟田口や東條は悪者そのものだ。
しかし、大東亜戦争の意義とは何であったか?
目覚めた日本人がよく言うではないか。アジア解放戦争であったと。

だからNHKスペシャルの番組の中でも東條首相や牟田口司令官がインパール作戦について何度か言っていた。「如何なる犠牲を払っても実行する価値がある」と。

しかし番組ではその「価値」には全く触れずに「インパール作戦はいかに無謀な戦いであったか」「国家の指導者層の理念に疑いを抱く」とナレーターが決めつけてしまい、視聴者はそのまま受け取ってしまう。
確かに戦いそのものは凄惨、悲惨を極めた。昭和193月の段階でインド作戦は日本にとっては無理があった。インド洋作戦のように大東亜戦争初期にやるべきであった。
ではなぜ東條首相や牟田口司令官が「いかなる犠牲を払っても実行する価値がある」と言ったのかである。

戦後、インドがなぜ日本に感謝の言葉を述べたのか?
なぜインドは親日国であるのか?
我々日本人はその意味をよく考えなければいけない。
「インパール作戦」はインドでは「インド独立戦争」と呼び「日本軍が協力したインド国民軍の戦い」という認識である。
インパール作戦の前年、東条首相はチャンドラ・ボースに日本がインド独立のために支援することを約束した。
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この時、ボースは日比谷公会堂で演説した。
「約40年前に私がようやく小学校に通い始めた頃に、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国ロシアと戦い大敗させた。
このニュースがインド全土に伝わると興奮の波が全土を覆った。インドのいたるところで旅順攻撃や奉天開戦や日本海海戦の勇壮な話によって湧き立った。インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を慕った。
この度、日本はインドの仇敵であるイギリスに宣戦した。日本は我々インド人に対して独立のための千載一遇の機会を与えてくれた。我々はそれを自覚し心から感謝している。一度この機会を逃せば今後100年以上に渡って訪れることはないだろう。勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信している」
昭和193月、戦局がすでに日本軍に不利になっている中、日本軍はインパール作戦を敢行した。
チャンドラ・ボースはインパール作戦にインド国民軍(INA)で参加して「チェロ・デリー」(デリーへ)としてインド独立戦争と位置付けた。
つまりインド国民軍を無視してこのインパール作戦は語れないのだ。実際、英軍秘密報告にはインド国民軍の役割を重視し、英インド軍からインド国民軍への投降が頻発して「脅威であった」と認識していた。
しかしNHKスペシャルではインド国民軍のことは一切触れない。そのことは触れずに「日本軍は悲惨だった」「軍の上層部が無謀だった」と、日本軍ばかりを責め立てるタコツボ史観そのものであった。タコツボの外のことは一体考えない戦後日本の歴史の見方である。
インド国民軍を創設した藤原岩一はインド独立は「日本の建国の大理想を具現すべく、身を以て実践したものである」と言った。
戦後インドのレッド・フォート裁判で藤原岩市の主席弁護士インドのデサイ弁護団長は日本側証人に「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは共に戦ってくれた日本である。インドの独立は日本のお陰で30年早まった。インド国民はこれを深く肝に銘じている」と述べた。
昭和32524日、インドに訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催された。ネルー首相は「インドは敢えてサンフランシスコ講和条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これはインドが金銭要求より独立のために戦ってくれた“友情”に重きを置くからにほかならない」と述べた。
インパール作戦の時、日本軍が入ったのはインドのナガランドで、そこにはナガ族が住んでいた。ナガ族は山岳民族で山の谷間のあちこちに部落を作っていたが日本軍が来るとどこかへ姿を消した。
戦後、栃木県にアジア学院という農業指導者を養成する学校が出来て、そこへナガ族の人も毎年何人か留学に来ていた。ナガ族の青年達は非常に感激し、彼らがおじいさんから聞いた話としてこう言った。
「日本の兵隊は非常に勇敢で、規律も正しく、イギリス軍を相手によく戦った。残念ながら日本は負けたけれど、お蔭でインドは独立出来た」とインパール作戦に感謝した。
インパール作戦は多くの日本人やインド人の犠牲があったが、大東亜解放の大義が達成された尊い戦いであった。

「忘却してはいけない未来への継承」とはこういうことをいうのだ、よく覚えておけ反日放送局(NHK)。


よく「平和には軍事力が必要」というと「違う」という人がいるが、「平和」を守ることが出来るのは軍事力を中心とする「力」だけであることを日本人は知るべきである。


【大東亜戦争】韓国・中国の「日本悪玉論」は大ウソ!日本は植民地解放のヒーローだ!【ザ・ファクト#005】
https://www.youtube.com/watch?v=KIeJfgYeMMY&nohtml5=False

大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!【真珠湾攻撃74年】

https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w

青山繁晴 何故!日本だけが植民地支配を受けなかったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=ow5xDrU1984


★大東亜戦争の世界史的意義
http://kabukachan.exblog.jp/19094794/


★世界史上、初めて『日本が人種平等を主張』
http://kabukachan.exblog.jp/22400185/


★祖先の目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI





おまけ!


【渡邉哲也】池上彰の正体をバラす!テレビ番組で反日報道する理由は●●だった?マスコミ偏向報道【高山正之】
https://www.youtube.com/watch?v=TaExVJYZqqE

Khazars full video
https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk

EUF: The Khazarian Supremacy (HIDDEN DOCUMENTARY)
https://www.youtube.com/watch?v=lvpNQpgZrnk


もうすぐ9月11日だぜ。


★FINALLY the truth & PROOF of 911

https://www.youtube.com/watch?v=Pqhr_f7MTjQ


★9/11 Exposed - 2nd Edition (2015) Full Documentary Film

https://www.youtube.com/watch?v=DXRDq9nKJ0U


★Energy Weapon on 911?


https://www.youtube.com/watch?v=U0NXlcmJIkk


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by kabu_kachan | 2017-08-21 09:56 | 歴史 | Comments(8)

American people ! Think about the Facts ! (日本のアジア解放論)

AMERICAN PEOPLE !
JUST THINK ABOUT THE FACTS !

The japanese army liberated asian people from the western powers.

    ☟


The Truth of World War II - Asian Point of view.
https://www.youtube.com/watch?v=U63QSCIo-tQ

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

(English subs, CC icon) Truth of Japanese annexation of Korea
https://www.youtube.com/watch?v=xauBLG1zZGY


(English subs, CC icon) Truth of Japan's annexation of Korea and Senkaku
https://www.youtube.com/watch?v=K1FAClJccVA


Meanings of the Great East Asia War for Asia
https://www.youtube.com/watch?v=P-FgUhbTSV4


Independence of Southeast Asia
https://www.youtube.com/watch?v=jGc6TJAdE_k&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j&index=214


India and Japan / Subhas Chandra Bose
https://www.youtube.com/watch?v=CNKzkPnFQJ0&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j&index=216

(Official) Who Are the Revisionists? Check the Facts (Kent Gilbert)
https://www.youtube.com/watch?v=qwumVaUQi2M

Japanese Still Brainwashed by the War Guilt Information Program
https://www.youtube.com/watch?v=fpmFSn2d5x4&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j&index=210






Historian, Arnold Toynbee
In World War II Japanese people left a great history Not for their own country but for countries that achieved benefit from the WarⅡ.

Historian, Arnold Toynbee
Those countries were ones that were included in the Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, a short-lived ideal that Japan held out.

Historian, Arnold Toynbee
The biggest achievement Japanese people left in history is that they succeeded in displaying the fact that Westerners who dominated the world were not "Undefeatable Gods".




おまけ!


SHADOW GOVERNMENT Who Rules America? (Full Documentary)
https://www.youtube.com/watch?v=cg2VtbRr8qM



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by kabu_kachan | 2017-08-03 03:06 | 歴史 | Comments(0)