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カテゴリ:フリーメイソン( 10 )

アルバート・パイク(フリーメイソン)の『未来計画』

★The Illuminati, Freemasonry and the New World Order jewish bankers behind all wars and revolutions of 20th centuryEvan Sadler
https://www.youtube.com/watch?v=zdw5_J17V9o




アルバート・パイクの世界操作計画


アルバート・パイク 

(1809ボストンに生まれ~1891年ワシントンで死去)

ワシントン警察本部のそばに銅像が建っている。
主要著書:道徳と教義?

ハーヴァード大学卒業後、弁護士、詩人、多作な作家として活躍していた南部連邦の将軍、アルバート・パイクは、1857年に秘密結社イルミナティの最高幹部(フリーメイソン:スコティッシュ・ライト最高位33階級)となり、「黒い教皇」と呼ばれるようになった。彼は、アメリカ南北戦争操作の(特に南部)総指揮者でもあり、オハイオ州シンシナティに本部を置いていた秘密結社「金の輪の騎士達」がリンカーン暗殺に関与したことが明るみに出た後、その名称を「KKK」に変更した当事者でもある。

彼が1871年8月15日付けで、イタリアのグランド・オリエント・フリーメイソンのトップで「イタリア建国の父」であるジュゼッペ・マッチーニ(イタリア・マフィアや「ヤング・アメリカ」の父でもある)に送った書簡には、(我々にとって)恐るべき「未来計画」が書かれていた。

 それによると、まず、「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ」と書いてあり、「1回目はロシアを倒すために、2回目はドイツを倒すために、3回目はシオニストとイスラム教徒がお互いに滅し合い、いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれ、それが最終戦争に結びつくだろう」と書かれていた。


いわく、

「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための"お化け役"として利用されるだろう。」



「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」


「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」

「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」

このように、何も知らされない世界の「ロボット」達は「笛吹」に誘導され続けてきた。

現在は、第三次世界大戦の初期局面である(そうな)。

なお、パイクの資金源はロスチャイルド代理人ブライヒレーダー[1822-93]だったとか。


http://satehate.exblog.jp/6982937/より。




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by kabu_kachan | 2014-03-14 15:03 | フリーメイソン | Comments(0)

明治維新とフリーメイソン

明治維新とフリーメイソン

フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュはグラントリアン(大東社)のメンバーで徳川幕府を支援し、横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力し、

一方、倒幕側にはイギリス系のメーソンであった、トーマス・ブレイク・グラバーがつき、倒幕諸藩に武器弾薬、艦船などを売り、軍事援助を行いました。

フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、1865年、ブリュッセルで五代友厚と商社を設立しているほど仲が良く、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりもしています。

プロシアのメーソン、エドワルド・スネルは、徳川につき、長岡藩の河井継之助と長岡城(1868年、官軍との戦い)でともに戦い、

フランスのメーソン、ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗しましたが敗北し、戊辰戦争は終結を迎え、イギリス系のフリーメーソンが勝利を手にする事になります。 

このように、幕末の日本は、ヨーロッパのフリーメーソンに溢れ、彼らに大きな影響を受けていたのです。


注)グラントリアン(大東社)

ロンドンにあった4つのロッジが合併してグランドロッジが出来たのが1717年6月24日ですが、この団体はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、フランスでは1725年にパリで初めてのロッジが設立されました。 

1756年にド・クレルモン伯爵をグランドマスターとし、グランドロッジが創設され、1771年にド・クレルモン伯爵が亡くなると、ド・シャルトル公爵(後のド・オルレアン公爵、自称フィリップ・エガリテ=「平等のフィリップ」フランス革命を歓迎してつけた名前)がグランドマスターになると、フランスのフリーメーソンの改革・再編を目指す運動が起き、パリで新憲章を作成するための集会が行われ、1773年にはグランドロッジの廃止とグラントリアン(大東社)の創設が決定されました。

グラントリアン(大東社)の創設は、イギリスのフリーメーソンからの独立を目指したもので、オリアン(東)は太陽の昇方向としての「光」を意味し、「フランスを導く偉大な光」という期待をこめて名づけられたものです。 (Grand Orient de France)

ド・シャルトル公爵がグランドマスターになった時、フランスには104のロッジがありました。  その内訳は、パリ23、地方71、軍隊ロッジ10です。1789年になると、パリ65、地方442、植民地に39など合せて600。フランス革命の直前には、ロッジ数600、会員が2万~3万人と一大勢力となり、宮廷・議会・軍隊・教会など、フランスのいたるところにフリーメーソンはいたと言われています。

このド・オルレアン公爵は、一見品性があり優しそうな顔立ちをしていますが、トンデモない悪党で、フランス革命を扇動した一人でもありました。彼は、ルイ16世の妻、マリー・アントワネットの天敵としてよく知られていますが、首飾り事件をはじめ、イルミナティのヴァイスハウプトと組んで、ことごとくマリー・アントワネットを罠にかけてきた男です。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/647.htmlより引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-23 19:09 | フリーメイソン | Comments(0)

ジョン万次郎について

高知県土佐清水市の中浜に、貧しい漁師の子として生まれた中濱万次郎(ジョン万次郎)は、14歳の時に漁で遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられて、そのまま船長にアメリカに連れて行かれ、育てられました。そしてペリー来航の2年前に帰国し、幕府の旗本となり、アメリカとの交渉の通訳として活躍することになりました。
当時は、フリーメーソンの新世界秩序で、世界をワンワールド化しようとする動きがあり、アメリカでは西部開拓を進めていた時代で、さらにその先の日本に、イギリスに先んじて、進出しようとするアメリカの戦略があり、日本語のできる諜報部員を育成する必要があると、フリーメーソンであるペリー提督も日記に書いていた時期でありました。

ジョン万次郎は、アメリカ、またフリーメーソンの諜報部員として教育され、日本に送り返されたと推測されます。論より証拠、高知県足摺岬にあるジョン万次郎の銅像の写真を見て御覧なさい。左手には、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスをもっています。 

中濱万次郎は、文政10年(1827年)、土佐清水の中浜に貧しい漁師の子として生まれました。 9歳のとき、父を亡くした彼は、家計を助けるために中浜浦の今津嘉平宅に家っ子として雇われ、仕事は子守、米つき、台所係などでありました。
しかし天保12年(1841年)一月の初め、主人に叱られ、浜まで一目散に駆けだすと、そのまま冬の海に飛び込んでしまい、真冬の海を隣村の大浜まで泳いでいくと、たまたまそこで荷揚げをしていた岡郡宇佐浦(現在の土佐市)の漁船に助けられ、事情を話してその船の台所係として雇ってもらいました。万次郎14歳のことであります。
こうして運よく父親と同じ漁師になりますが、一ケ月もしないうちに遭難してしまい、黒潮に流され、伊豆諸島の最南端の鳥島に漂着しました。漂着して約4ケ月後の1841年6月27日に、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に救出されました。 
万次郎と4人の日本人漁師を乗せたジョン・ホーランド号は、それから半年かけて、12月にオアフ島のホノルルに到着。まだ若い万次郎だけが捕鯨船にそのまま同乗し、ほかの4人はホノルルに残ることになりました。
船は、太平洋から南米のホーン岬を回って太平洋を北上し、ホィツトフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着きましたが、アメリカで万次郎は「ジョン・マン」と呼ばれ、いつしか日本でもジョン万次朗といわれるようになりました。
フェアヘブンでは、船長の家に世話になり、アメリカの学校まで入れてもらい、それまで無学だった彼は、そこで初めて読み書きを習い、小学校を終えました。 さらに、パートレット・アカデミーという学校に入り、高等数学、航海術、測量術を学び、優秀な成績で卒業したとされています。
しかしながら、日本での教育を受けなかった万次郎は、会話は出来ても、英語の文章を翻訳することが出来ず、明治維新後に活躍することはなかったようです。
漂流してから、たちまち5年の歳月が流れ、再び捕鯨船に乗り、捕鯨の仕事に就き、一等航海士となり3年後には、乗っていたフランクリン号の副船長にも選ばれました。 
その後、万次郎は故郷が恋しくなり、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、一儲けして旅費を稼いで、日本に帰ったとされていますが、多くの疑問があります。先ず、お世話になった船長に十分な恩返しもせずに、いきなり日本に帰国するとは、当時の日本人の道徳観では理解できない行動です。また、当時の海外渡航費は今と違ってかなり高額と思われますが、そんなに簡単に金を採取することが本当にできたのだろうかという事です。

また、アメリカに滞在しているわずかな期間に、ペリー家、ルーズベルト大統領の祖父にあたるワレン・デラノの名門デラノ家とも人脈を築いているのです。ただの漂流した日本人漁師の少年が、この若さでこれだけの大物たちと接触できるには、アメリカの政府かフリーメーソンなどの組織が関与しない限りありえない話であると思います。

フリーメーソンであったペリー提督の孫娘が、アメリカのクルー駐在大使夫人として長く日本に滞在し、万次郎とのつながりで、ずっと中濱家と親しくしている事実、
また1933年6月8日、ルーズベルト大統領が、当時田園調布に住んでいた万次郎の息子、中浜東一郎氏に手紙を宛てており、その文面を以下のようなものでした。

「石井菊次郎子爵(駐米大使)がワシントンに来たとき、あなたが東京に住んでいることを知り、あなたの有名なお父上について話し合いました。 私はフェアヘブンのワレン・デラノの孫です。 祖父はお父上をフェアヘブンにお連れしたホイットフィールド船長の船の所有者のひとりなのです。 私の記憶によると、あなたのお父上は、私の祖父の家の筋向かいのトリップさんの家に住んでおられたということです。 フェアヘプンの学校に通い、ときどきデラノ家の者と教会に一緒に行った小さな日本の少年についてのいろいろなことを、私が少年のころ、祖父がよく話してくれたのを覚えています。 私もフェアヘブンにはよく行きました。 私の母方の家族は、いまだに古い家を持っています。 中浜という名前は、私の家族の記憶にいつまでも残るでしょう。 あなたか家族のどなたかが合衆国においでになったら、ぜひお立ち寄りください」

ルーズベルト大統領の祖父のワレン・デラノは中国のアヘン貿易で財を成し、長男のフレデリック・デラノは中国で生まれています。
さらに彼は、ロスチャイルドの米代理人のJ・P・モルガンの経営する金融機関「クーン・ロ-ブ商会」と組んで、多くの鉄道を乗っ取り、アメリカの大鉄道経営者になり、デラノ家は代々メーソンで、ここから必ず300人委員会のメンバーが選出されるほどの名門であります。

アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、 「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい」 とまで言い切っています。

実際、ジョン万次郎が沖縄に着いたとき、薩摩藩はジョン万次郎をスパイ容疑で捕らえ、尋問・投獄しています。 
貧しい漁師の子供が、当時の士農工商の身分制度を飛び越えて、いきなり幕府の旗本になれるものなのでしょうか。 

ともあれ、ジョン万次郎は日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸に乗ってサンフランシスコに行き、多くの維新の志士たちに影響を与え、土佐藩の教授館で坂本龍馬、河田小龍、後藤象二郎たちに教えた西洋事情は、龍馬と後藤象二郎が長崎から土佐に向かう船の中で作った「船中八策」に生かされ、それがのちに明治新政府の綱領「五箇条の御誓文」の基礎案となっており、開国、日米修好通商条約、明治維新に大きな貢献を果たすことになりました。 

ジョン万次郎がフリーメーソンであったという事実は、正式な記録として文書に残されていませんが、銅像の左手に持つ、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスは何を言わんとしているのでしょうか。
少なくとも、フリーメーソン、アメリカに諜報部員として教育され、日本に送り返された、彼らのエージェントであった事は事実でしょう。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/623.htmlより引用。
 
 
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by kabu_kachan | 2013-11-09 11:10 | フリーメイソン | Comments(0)

ルーズベルト と トルーマンはユダヤ人でもある

フリーメイソンの秘密

株式会社レッカ社・編集/出版


●戦後日本の青写真はフリーメイソンが描いていた

  マッカーサー将軍といえば、日本でその名を知らない者はいないだろう。ただ、そんな彼がフリーメイソンに加入していたという事実はあまり知られていない。
  1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。その後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のトップとして日本の全権を掌握した人物こそが、ダグラス・マッカーサーである。


  彼は、1936年にフィリピン・グランド・ロッジに加入して、日本占領時には上級である33階位の地位にあり、当時のGHQ部員のほとんどがメイソンだったといわれている。

  そんなマッカーサーが日本に対して憲法改正を要求したため、天皇主権の原則に基づく大日本帝国憲法は改憲されることになり、マッカーサーは自ら改正案をまとめることにした。

  彼はマッカーサー三原則として「象徴天皇制」「戦争放棄」「封建制の廃止」を唱えた。ここにはフリーメイソンの思想の影響が色濃く見られるといっていいだろう。人種や宗派を越えた相互扶助を説くフリーメイソンの「友愛」の理念に基づいて、人類平等に反する立憲君主制や封建制が打倒されることになったのだ。

  日本政府はこれを原案として、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三大原理に基づく日本国憲法を制定した。それは、軍国主義の国家体制を根底からくつがえして、新しい国づくりを進めるための規範となるものだった。
  その成立の背景にあったのは、紛れもなくフリーメイソンの思想であった。


  さらに、太平洋戦争終結の決め手となった原爆投下にも、フリーメイソンが深く関わっている。ソ連との覇権争いで優位に立つべく、日本への原爆投下を決めたのは、アメリカ合衆国第23代大統領のハリー・トルーマン。彼もメイソンだったのである。
  マッカーサーとトルーマン。日本が敗戦の苦難を経て新しい歴史を刻み始めた背景には、フリーメイソンの存在があったのである。

●戦後の日本政界で活動した日本人メンバーとは?
  日本では、政財界でもメイソンになった者が誕生していた。その中には、総理大臣を務めたような大物も多数含まれていたのである。それぞれの人物について簡単に説明していこう。
  公式に伝わっている政財界初の日本人メイソンといわれているのは、1950年に加入したとされる佐藤尚武、三島通陽(みちはる)、高橋龍太郎らである。
  佐藤は、第二次大戦時に駐ソ大使を務めた政治家。三島は、ボーイスカウト日本連盟の総長を務めた人物。高橋龍太郎は、大阪麦酒(のちのサッポロビール)の社長として日本のビール文化普及に貢献し、「日本のビール王」と呼ばれた実業家である。
  また、総理大臣経験者でメイソンだといわれている人物には、東久邇宮稔彦、幣原喜重郎、吉田茂、鳩山一郎らがいる。
  東久邇宮は、日本の歴史上、皇族で唯一の総理入臣となった人物である。幣原は、戦後に首相に就任し、憲法第9条の誕生に大きな役割をはたした。吉田は、戦後日本の基盤づくりに務め、1951年にはサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結した。
  鳩山は、第93代首相である鳩山由紀夫の祖父としても知られる政治家である。戦後、彼はGHQによる公職追放で一度は表舞台から姿を消したが、1954年に復活して首相に就任し、鳩山内閣をスタートさせた。
  彼がフリーメイソンに加入したのは。1955年のこと。当時の日本のメイソンの多くは、マッカーサーの手引きで加入していることから、鳩山も同様に彼の紹介を受けたのではないかという説が有力である。
  ちなみに、鳩山が住んでいた洋風の邸宅は「鳩山会館」といわれているが、この建物は太平洋戦争時の空襲をほぼ無傷で乗り切った。これに関しても、鳩山は、フリーメイソンに加入する以前の戦時中からアメリカのフリーメイソンとつながりがあって、爆弾の直撃を避けるように働きかけたからだ、という噂まである。
  鳩山が1956年にソ連との国交を回復させて日ソ共同宣言を結んだのも、フリーメイソン流「友愛」の精神の表れだったのかもしれない。

★ひとくちコメント ―― すでに一般的に出回っているフリーメイソンに関する情報を整理した本です。複数の著者が分担して共同執筆という形をとっていますので、編集者の考えは示されず、たんたんと情報をつなぎ合わせているだけです。しかしながら、戦後日本の政治の流れを作ってきた吉田茂や鳩山一郎の孫たちが、今なお世襲によって政界の有力な地位を占めていることの持つ意味については、真剣に考えてみる必要があるでしょう。
  その結論は一つ──日本は今もなお、フリーメイソンという名の秘密組織に操られているということです。最近では、日本を裏から動かしてきたのはアメリカだと思われていますが、そのアメリカを裏から操作している勢力があり、それがフリーメイソンだということです。そして、そのフリーメイソンもまた、ある陰のグループが寄生して操っているといわれています。その陰のグループが実質的な「世界地下政府」ということになるわけですが、それは俗に言われている「イルミナティ」ではありません(それとて隠れ蓑なのです)。
  そのグループが必死になって「偽書だ」と誹謗中傷している『シオン長老の議定書』(四王天延孝・原訳/太田龍・補訳/成甲書房)という本の中で、真の世界支配層の正体が明らかにされていますので、関心のある方はこの書を手に入れて読んでいただきたいと思います。あまり気持ちのいい本ではありませんが…。(なわ・ふみひと)

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/browse1304-26.html
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by kabu_kachan | 2013-05-03 17:11 | フリーメイソン | Comments(0)

カール・マルクスはユダヤ人である

★The Illuminati, Freemasonry and the New World Order jewish bankers behind all wars and revolutions of 20th centuryEvan Sadler
https://www.youtube.com/watch?v=zdw5_J17V9o



中国共産主義指令塔(C・C・C現在は、ソ連が存在していなくて、中国が其の働きの役割をしている)とユダヤ共産主義指令塔の働きを理解するには、やや面倒でもここで歴史的な沿革に遡らなくてはならない。其処で登場するのが、どなたも良く御存知のカール・マルクス(1818~83)である。彼は、云う迄も無くプロセインのライン州トリールで豊かなユダヤ人弁護士の子として生まれたが、其の父方も母方もユダヤ教のラビ(律法師)と云う家柄だったのである。
 ポーランド系ユダヤ人アイザック・ドイッチャーの可笑しな題名の著者『非ユダヤ的ユダヤ人』の中では、マルクスを、独逸革命で名高い女流革命家ローザ・ルクセンブルクや、ユダヤ名ブロンシュテインと云ったトロツキー等と共に、「余りに狭量で古くさく、圧倒的な」ユダヤ人社会の限界を越え、脱出を図ったと記されながら、彼等の中にはユダヤ人の生活とユダヤ人的知性の本質的な物が宿っている」とされている。詰まり、マルクスこそ”非ユダヤ的ユダヤ人”の典型なのである。何故然う為って、どうしても然うなのかは暫く措くが、ユダヤ人と《革命的急進主義》とは並々ならぬ強い絆で結ばれている。
 ジョルジュ・バトウはその著『ユダヤ人問題』の中で、「ユダヤ人気風」(Le Judaisme)を「反逆心」(I’esorit de revolte)と同一だと述べている。又ヤコブ・ワッセルマンも『独逸人でありユダヤ人である私の生涯』と云う自叙伝で、「ユダヤ人こそ現代のジャコバン党員だ(フランス革命当時の首謀者!忍)」と言い、ユダヤの急進主義は、其の伝統的救世主義(メシアニズム)に由来し、社会の全領域に拡がった物だと指摘している。 『旧約』の社会律法や預言書にまで論を進める暇はないが、フリツ・カーンの『人種及び文化的民族としてのユダヤ人』では、マルクスは「モーセや基督と共に熱烈な愛他主義であり、社会主義の観念や地上に於ける神の王国の観念の重要な擁護者だ」とされており、彼こそ「ユダヤ精神の顕現者」と賛美されている(此の評価が、2億人の虐殺を生まれた。マルクスの反道徳的な悪魔の教えを「神の教え」として評価したフリツ・カーンは、何物であるのか。自分はモーセ様の「旧約」精神を壊した悪魔の法典である「タルムード」に呪われた悪魔主義者しか感じない!忍)。
 それは其れは其れとして、此処ではマルクスの隠された一面を何としても明らかにしておかなければならないだろう。其れは、マルクスがアダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ(啓明結社)と云うフリーメーソンの会員だった事である。更に云えば、彼が其の厖大な著作を物しながら唯一の心の奥深く秘めて書かなかった事に触れなければならない。何故なら其れこそユダヤ共産主義指令塔存立の根幹とも云えるからなのである。それはやがて此の世に来るベキ至福千年の王国(階級対立無き共産社会)(絶対的な平等と云う物は存在しない。其れにマルクスは反道徳的社会を造ろうと考えていた張本人ですよ!忍)に有っては、神の選民たるユダヤ人[此れは全くの嘘。神の選民に当たる人は、神の律法(愛を中心にした10戒)を守る人であって、日本の場合は特に「法華経」を中心にした教育勅語に沿って生きている人達であって、今のイスラエル国家は、ユダヤの神エホバエル・ランティ様を否定し悪魔ダビデを崇拝していて、ユダヤ人として名乗る事が出来ないのです!忍]が、其の頂点に立つべきだと云う事に他ならない。
 其れを示唆する「バールフ・レヴィの書翰」と云う興味有る資料もあるが、此処では割愛しよう。代わりに第一インター・ナショナルでマルクスと決裂したバクーニンの『マルクスとの個人的関係』(1871年12月、バクーニン著作集第6巻・白水社刊)を引用して見よう。
 此の文章の中でバクーニンは、マルクスがエンゲルスと共に第一インター・ナショナルに最大の貢献をした事実を賞め、彼が聡明で学識深い経済学者であり、イタリアの共和主義者マッツツィーニ(イルミナティの会員!忍)等其の生徒と呼んでいい程だと述べつつも、「光には影がある」として厳しい批判を浴びせている。先ず第一に彼の教条主義的側面を取り上げ(俎上に上せ)「理論の高みから人々を睥睨し、軽蔑している。…マルクスは社会主義や共産主義の法王だと自ら考えている」と、鋭く其の胸奥の秘密を暴いている。更に「マルクスは、権力を追求し、支配を愛好し、権威を渇望する。…何時の日にか自分自身の国を支配しようと望むだけでは満足せず、全世界的な権力、世界国家を夢見ている」とまで解析している。
 其れだけでは無い。もっと機密な事がバクーニンに依って明らかにされている。其れは、まるで「バールフ・レヴィの書翰」を見事に裏付ける様な内容と云えるだろう。
 「ユダヤ人マルクスは、ロンドンにもフランスにも、取り分け独逸にちょっと頭の切れる陰謀家で、活動家で、山師的な沢山のユダヤ人グループを持っている。実業家、銀行家、作家、政治家、色々な記者、文学仲買人だ。詰まり、一方で銀行に足を突っ込み財界の仲立ちをし、同時にもう一方の足で社会主義運動に突っ込み、御尻は独逸の日刊新聞ーー彼等は、全ての新聞を独占しているーーといった連中だ …しかし暴利を貪る宗派、蛭の様な連中、欲張りで比類無い寄生虫により固く、親密に組織されているユダヤ人世界は、単に国境を越えているだけでは無く、あらゆる政治的意見をも超越して結ばれている。今日では其の大部分が一方ではマルクスに依って、他方ではロスチャイルド家に依って思いの儘に動かされている。私はロスチャイルド家の人々がマルクスの優れた点を認める一方、マルクスの方もロスチャイルド家に本能的に惹かれ、大いなる尊敬を払っていると確信している」

「共産党宣言」の起草をマルクスに依頼したバルーフ・レヴィは、彼らの目的をマルクスに宛てた手紙の中で
「救世主とは、我々ユダヤ民族のことです。ユダヤの世界支配は、まず第一に、世界各地の多民族の統合を進めることにより、次いで、独立した主権に基づき民族分断の壁をなしている国家と君主制(天皇制、南ユダ王国イザヤの子孫を建てた国)を廃止することにより、そして最後に、未だ全面的には認められていないユダヤ人の権利を至るところで認める「世界共和国」の建設を進めることによって達成されます。・・・ この新しい人類の社会組織(コミューン)の中で、我々ユダヤ人はいかなる国家に属することもなくまた他の民族から何ら抵抗を受けることなくして指導的勢力となり、やがてその影響は全世界に及ぶことでしょう。そして、若し彼らの中の何人かの賢者が、これら労働大衆のうちに確固たる指導権をうちたてることに成功するなら、プロレタリア(無産者)の勝利によって次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これらプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることが出来ます。
 要するに、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入るのです。かくしてわれわれユダヤ人のメシアが到来する時、ユダヤ人は全世界の民の財産をことごとくダビデ(神エホバの弟、悪魔ルシファを使ってあらゆる人を墜落する計画建てた悪魔)の星の下につかさどるであろうと言い伝えられてきたタルムード(ユダヤ教の悪魔の法典)の予言が実現されることでしょう」


マルクスの超素顔―封印されていた闇の超権力(サタニスト)との関係 (5次元文庫)
在田 実 著 より引用。
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by kabu_kachan | 2013-04-28 00:25 | フリーメイソン | Comments(0)

マッカーサーはフリーメイソンである

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。(Wikipediaより)

★明治維新以来日本はフリーメイソンに乗っ取られた

太平洋戦争は、フリーメイソンによる日本占領を目的としていたことはマッカーサーの言動からわかる。
マッカーサーが日本に来てまず最初にやったことは、フリーメイソンの支部の設立であった。
終戦直後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーは、. 厚木基地に降り立つと、すぐに旧海軍の水交社にフリーメーソン東京ロッジを設立した。
http://blogs.yahoo.co.jp/t_kikou2007/33006770.html

マッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立つとすぐ、フリーメーソン東京支部用の建物の確保を指令し、東京・麻布の旧海軍水交社の建物を接収し、屋上に、定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルが掲げられました。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/762.html

第一生命ビルにGHQ本部を作るよりも前にフリーメイソンの支部を作ったのである。
また、マッカーサーは進駐後、興味深い行動を取っている。
マッカーサーは水交社にメーソン・ロッジを設立するのと相前後して、石川県の宝達山に向かったというのだ。そんなとこに何があるのか。時期的にも、これから占領政策を押し進めていく上で、とても観光などをしている暇はなかったはずである。
じつは、宝達山にはモーセが晩年に日本にやってきて死去し、この地に葬られたという伝承があり、「墓」まで存在する。
http://blogs.yahoo.co.jp/t_kikou2007/33006770.html

また、GHQは真っ先に仁徳天皇陵の発掘を行った。
太平洋戦争終戦後の昭和20年11月にアメリカの進駐軍が大阪に向かいました。その時、特殊部隊(考古学者も何人か入っていたそうです)が堺に入り、仁徳天皇陵を2日間に-渡って発掘し、埋蔵品を箱に詰めてアメリカ本国に持ち帰ったそうです。 http://blog.goo.ne.jp/hirorikumama/e/c8c8cd9f718e64ef49110adbca1c57a0

仁徳天皇陵と言えば、壺の形をしている。
おそらくマナの壺を探すロスチャイルドの命令があったのだろう。
1944年に米国陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンの任命により、1941年の真珠湾攻撃に関する調査を担当したヘンリー・C・クラウゼンは、後に米国南地区のスコティシュ・ライト最高評議会の最高総司令官になった。
彼は、著書Pearl Harbor: Final Judgement(1992年)において次のように述べた。
. . . マッカーサーが私にいくつか個人的な質問をしたので、「戦争が始まった頃、私はカリフォルニアのメイソニック・グランド・ロッジのグランド・オラターでした」と答えた。そして、後にトルーマン大統領にもそうしたように、33階級のスコティッシュ・ライト・メイソンになったことに祝辞を述べた。
・・・
彼は、それから1時間ほど私を執務室に引き止め、極東においてフリーメイソンの道徳的原理をどのように広めるべきか語った。

歴史上すべての独裁者は、メイソンを公職から追放しようとした。なぜならば、メイソンは自由を信じるからだと。
彼によれば、ヒトラーが日本人の心に害毒を植え付け、メイソンに敵対するように仕向けたのは、まさにこの理由からだ。日本の憲法がメイソンに加入することを禁じたのもこれが原因だと。

マッカーサーは、「日本に着いたら、将来の憲法からこの規定を取り除くつもりだ」と述べ、実行した。
日本占領の一つの目的は、フリーメイソンの道徳を広めることにあった。
それが実現したことが、鳩山一郎元首相が1956年6月5日に日本フリーメーソン本部において行った演説からわかる。
「戦後日本における幾多の社会的変化がありました。そのなかで世界的友愛結社であるフリーメーソの門戸が開かれたことは、最も大きな出来事の一つとしてあげねばなりません。
而して私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるこの友愛結社の一員として、日本がグランドロッジの年会に出席して友愛精神をたたえ、ご挨拶を申し上げる機会を与えられたことは、まことに光栄に存じます。
フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなその会員でありました。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神をたたえないわけにはゆきません。
マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍中の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。
私が病気中、何人よりも先にお見舞いをいただいたのはメーソンでありました。また会員のみなさまから再三にわたって激励していただきました。兄弟愛、すなわち友愛精神を身をもって私に示してくれましたことは、私にとって大きな感激でありました。
さらにメーソンは、盲目の人に光明を与え、歩行不能であった子供たちに歩行の自由を与えました。この美しい慈善と兄弟愛の精神が、私を感動せしめたことは当然であり、私は会員としての誇りを感ずるものであります。
 (中略)
アメリカ建国の父であるジョージ・ワシントンは日本の子供で知らないものはありませんが、彼が偉大なるメーソンであったことを知るものは少ないのであります。ベンジャミン・フランクリンもメーソンでありました。占領初期から今日にいたるまでのマッカーサー、リッジウエイ、クラーグ、ハル、レムニッツァならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。 」
http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/vs-1545.html

「友愛」はフリーメイソンの理念の一つである。

「自由、平等、友愛」はフランス革命のスローガンだが、フランス革命の精神的土台はヴォルテールやディドロなどフリーメイソンの思想家である。

鳩山が作った民主党の建物の上に「ピラミッドと目」があるのは、民主党がフリーメイソン党であることを象徴している。
坂本竜馬にしろ、伊藤博文にしろ、フリーメイソンであったT・グラバーの傀儡であった。
http://p.tl/VjAw

それゆえ、明治維新とはフリーメイソンの革命であったと言える。
日本は、明治維新から国際悪魔崇拝陰謀組織によって乗っ取られたのである。
マッカーサーは、それをさらに推進したに過ぎない。



 

 
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by kabu_kachan | 2013-03-12 12:05 | フリーメイソン | Comments(0)

ペリー(提督)はフリーメイソンである

1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令を与えられ、同年11月フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。1854年2月13日に、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り条約締結を求めたペリー提督ですが、彼の背後にロスチャイルドがいた事を知る人は多くいないでしょう。ペリー提督はフリーメーソンの大物で、彼の所属ロッジは、ニューヨークの「ホーランドNo.8」。 

ロスチャイルド家のイタリア・ナポリ支店のカール・マイヤー・ロスチャイルドの非嫡出子(正式に結婚していない相手との間に出来た子供)に、オーガスト・ベルモントという人物がおりました。  
彼はフランクフルトのロスチャイルド本家の丁稚上がりで、アメリカへ派遣されたロスチャイルド関係者ですが、彼はロスチャイルドのアメリカでの代理人となり、アメリカにやってきただけで「ナゾの大富豪」になります。
彼こそが、ペリー提督の娘、キャロライン・ペリーと、1849年11月7日に結婚した男であります。  

19世紀当時は、海軍は私掠船(海賊船)まがいのもので、捕獲した相手の商船は自分達の物。大英帝国女王の海賊の気分であり、ペリー提督も日本にやってきたのは請負で、航海費用も一部は提督自身のもので、その巨額の費用をサポートしたのが、フリーメーソン、またその奥の院であるロスチャイルド一族です。

そして、土佐の貧しい漁師の子として生まれ、漂流していたところをアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカでエリート教育を受けさせてもらい、ペリーが黒船でやってくる2年前に、タイミングよく日本に戻され、日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸にのり、後に旗本にまで上りつめたのが、ジョン万次郎(銅像で左手にフリーメーソンのシンボルマークである直角定規とコンパスを持っている)であります。

★「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい」
…アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジ 

ペリー家とロスチャイルド家が結ばれた後、ペリー家は、ユダヤの戦争男爵ロスチャイルドに操られ、ペリー提督の末裔であるウィリアム・ペリーも、ロスチャイルドが支援するアメリカ民主党のクリントン政権下で国防長官となっています。
ウィリアム・ペリーは、ディロン・リード銀行の社長・会長を10数年歴任してきましたが、ディロンが経営しているのが、世界最大の核ミサイル原料メーカーのベクテルです。

日本に開国を迫ったのは、幕末の1853年と1854年に来航したペリー提督率いるアメリカ合衆国インド洋艦隊である。
浦賀まで来たどころか、実際には江戸湾深く入り込んで、たびたび威嚇砲撃(ペリーとしては礼砲のつもり)を行なっている。「開国と通商交渉に応じないならば、実際に江戸城を砲撃し、陸戦隊を上陸させる。上海からあと10隻軍艦が来るぞ」と幕府の交渉役人を脅したのである。ペリー艦隊の軍事力で、江戸城は本当に崩れると誰にも分かった。当時は江戸城の裏まで海だった。
ペリーが、日本側を交渉の場に引きずり出して、上手に「友好条約」と「通商条約」を結ぶ過程は、『ペリー提督日本遠征日記』(木原悦子訳/1996年/小学館)の中にあますところなく描かれている。

★ペリーの航海日誌のきわめつけは、やはり次の記述であろう。これが全てを如実に語っている。

しかしそれでも、日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならないことは確かである。それに、なんらかの成果をあげるには、まず諜報員に日本語を学ばせなければならない。
(『ペリー提督日本遠征日記』木原悦子訳/小学館)

この「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」という一文が、米日関係の現在をも、明確に規定している。現在の日本研究学者たちの存在理由もここにある。ペリーは何度も「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」と書いている。これはおそらく現在にも通じる我々の特徴であろう。
そして、この狡猾であるという日本観は、当時の外国人たちの共通認識であり、現在のアメリカの政治家や官僚たちの基本認識である。

日本に遠征艦隊を派遣して日本をねじ伏せて開国を約束させたのはアメリカだが、この直後、アメリカは南北戦争という大きな内乱内戦を抱えてしまって、1870年まで外交問題に手が回らなくなる。そこで、アメリカ主導からイギリス主導に移った。
イギリス全権公使のラザフォード・オールコック卿及びその後任のハリー・パークス卿と、その側近の外交官アーネスト・サトウの3人が、日本をどのような方向に持って行くかの青写真を1862年に作ったのである。
その30年前に、ヨーロッパは日本を学問的に真っ裸にするために、ドイツ人のシーボルトをオランダ商館勤務医として派遣した。シーボルトは医学を教えるのと引き換えに、弟子になった者たちを使って日本の事情の一切を調べ上げた。
1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。
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by kabu_kachan | 2013-03-05 17:03 | フリーメイソン | Comments(0)

山本五十六はフリーメイソンである(1)

山本五十六は海外に多くいた。大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。

大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。

五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいない。


山本五十六が連合艦隊司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は、山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪くいっても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられてきた。しかもその理由のなかに一項目、山本はフリーメイソンの結社員だから、という条項が入っていた。


「ユダヤは日本に何をしたか」より。
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by kabu_kachan | 2013-01-07 00:10 | フリーメイソン | Comments(0)

フリーメーソンが日本を敗北させた

最後の強敵日本を撃て
ヤコブ・モルガン  忍野昭太郎・訳  第一企画出版

●日本の最高機密がアメリカにつつぬけ


  明治における西欧主義の後盾であり推進役はトーマス・グラバーであろう。グラバーは明治政府から勲二等をさずけられているが、明治44年(1911年)、74歳で没するまで日本のワク組みを作る上で重要な役割を果たしたといえる。

  その後日本は幣原喜重郎(後の首相)や吉田茂(駐英大使、外相そして後の首相)を軸に大きく回転をはじめる。1921年11月から始まったワシントン会議での海軍軍縮条約ではアメリカ主導のもとに会議は進められ、米・英・日の主力軍艦比率を5・5・3と定めたが、この時、駐米大使であった幣原喜重郎のもとに外務省から送られた暗号文(軍艦比率は最少でもアメリカの7割との指令)はことごとくアメリカ側につつ抜けであり、交渉は結局不利な形で結着した。幣原がフリーメーソンであり、アメリカ側と通じていた可能性は非常に高いと言わざるを得ない。

  また、1932年より日米開戦直後まで10年にわたって駐日大使を務めたアメリカのジョセフ・C・グルーは、そのバックに巨大財閥、J・P・モルガンがおり、吉田茂や牧野伸顕、樺山愛輔、幣原喜重郎、松平恒雄、近衛文麿、広田弘毅、新渡戸稲造、出淵勝次、重光葵など戦前、戦後の日本を指導した人物(いずれもフリーメーソンか)をことごとく背後からコントロールしていたと考えられる。

  実際当時の日本の外務省が使用していた「紫暗号」(コンピュータのない当時としては最高度に難解な暗号であった)は解読機がアメリカ側にわたり、ことごとくつつ抜けとなった。これにより重要な外交的、軍事的機密は駐日アメリカ大使館または駐米日本大使館を通じ、これら人物の連携プレーのもとあからさまに出ていったものと思われる。海軍筋でも米内光政や山本五十六、井上成美らは米英(ユダヤ・フリーメーソン国家)の代理人であった可能性が高い。

  特に米内は第一次近衛内閣の海相時、石原莞爾が提唱した近衛・蒋介石(フリーメーソン)会談をつぶし、日中戦争の拡大をはかるなど、日本がわざわざ不利になるように仕向けていった。この時の会議では外相の広田弘毅も意図的に沈黙を保っていたという。


●謎の多い山本五十六の言動

  山本五十六の行動にも謎が多い。ハワイ真珠湾の攻撃では、南雲長官の第三次攻撃中止をなぜか黙認、このため、アメリカの損害は比較的軽徴にとどまった。この後も手ごころを加えたとしか思えない海戦が続く。珊瑚海海戦では腹心の部下であった井上成美中将が、損傷を受けた敵空母ヨークタウンにとどめを刺すこともせず「攻撃を止めて北上せよ」の一言で戦線を離脱している。この時逃がしたヨークタウンに1カ月後のミッドウェー海戦では日本の機動部隊の主要空母四隻が撃沈され、戦局は大きく転換するのである。

  ミッドウェー作戦では日本海軍の総力とも言える軍事力が投入された。空母7隻、戦艦11隻、重・軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、輸送船団等合わせて総トン敬150万トン、航空機700機、総兵力10万人とスプルーアンス提督ひきいるアメリカ機動部隊の3倍に達し、まさに無敵の戦力であった。しかし、この作戦はまたしてもアメリカにつつ抜けであったようだ。日本艦隊の動きは豊後水道を出た途端にアメリカによって捕捉、その行動の一部始終が真珠湾のアメリカ海軍司令部に伝達されていった。この作戦が日本側の何ものかによって漏洩されたことは疑うべくもない。

  ミッドウェーでも南雲長官は「誤り」を犯し、絶対に勝つはずの海戦に日本は完敗するのである。ミッドウェー海戦が太平洋戦争勝敗のターニングポイントであったことはよく知られているが、連合艦隊司令長官山本五十六がフリーメーソンで(時のアメリカ大統領ルーズペルトがやはり33位階のフリーメーソンである)あればすべての謎は解ける。

  日本を終戦に導いていった山本五十六は突然前線基地視察を主張、事前にスケジュールをアメリカ側に漏洩させた上で、昭和19年4月18日ガダルカナルを飛びたちブーゲンビル上空に待ち伏せした米軍機P38によって撃墜、「姿を消す」。山本五十六の死は今でも謎の一つである。

  ともかく、日本海軍はあらゆる海戦でそうなることを意図したとしか思えない敗北を繰り返し、敗戦へとつき進むのである。
  当時の日本のリーダーたちのある部分がフリーメーソンであり、日本を敗北させ、天皇制を崩壊し、日本に「フリーメーソン革命」をもたらすために一致協力したのだとすればすべての謎は氷解するのである。

  つまり、明治維新も太平洋戦争もユダヤ・フリーメーソンに支配された欧米とその代理人(エージェント)であった日本のリーダーたちによる合作であり、日本の歴史は人工的に意図的に造られていったということである。戦後、これらの功労者のうち、幣原喜重郎、吉田茂は首相として占領軍のマッカーサー(フリーメーソン33位階)に全面的協力をしていくことになる。

  このように歴史を透視してみると、近世日本の歴史とは一体何であったかという感慨に陥る。日本には、果たして自主的な独立国家としてのワク組みや、大方針があったのであろうか。日本は欧米(ユダヤ・フリーメーソソ)の描いたシナリオ通りただ忠実に演技しただけではないのか。この状況は今なお平成の現在も全く同じである。
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by kabu_kachan | 2012-06-26 20:31 | フリーメイソン | Comments(0)

アルバート・パイクの“予言”

アルバート・パイクの“予言”

アルバート・パイク(1809~1891年)

「黒い教皇」と呼ばれていた。

弁護士、詩人、多作な作家として活躍していた南部連邦の将軍、アルバート・パイクは、

1857年に秘密結社イルミナティの最高幹部(最高位33階級)にまで登り詰め、「黒い教皇」と呼ばれるようになった。(彼は「KKK」の創始者でもある)。

彼が1871年に、イタリア建国の父であるジュゼッペ・マッチーニに送った書簡(手紙)には、予言ともいえる恐るべき「未来計画」が書かれていた。

それによると、まず、「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ」と書いてあり、

「1回目はロシアを倒すために、2回目はドイツを倒すために。3回目はシオニストとイスラム教徒がお互いに滅し合い、いずれ世界の国々もこの戦争に巻き込まれ、それが最終戦争に結びつくだろう」

と書かれていた。

アルバート・パイクの“予言”(未来計画)

この手紙の内容をもっと詳細に紹介すると、

次のような恐るべき“未来計画”が書かれていたのである。


「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」


「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」


「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」

「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」

「予言は当たるものではなく、当てるものだ!」

この手紙が書かれたのは1871年8月15日。

この時、まだ第一次世界大戦(1914年勃発)も、第二次世界大戦(1939年勃発)も起こっていなかった。

この手紙の中に書かれている「ドイツの国家主義者」を「ナチス」に、「政治的シオニスト」を「ユダヤ人」に置き換えると、第二次世界大戦の構図をはっきりと捉えていることが分かる。

一番不気味なのは、中東での戦争を引き金にして「第三次世界大戦」の勃発を予想している点であろう。

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by kabu_kachan | 2012-05-22 18:54 | フリーメイソン | Comments(0)