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イルミナティについて(1)

「秘密結社 イルミナティ」 アダム・ヴァイスハウプト著(芳賀和敏訳・副島隆彦解説)より引用。

この本は、ヨーロッパ随一の秘密結社であるイルミナティの創始者アダム・ヴァイスハウプト(1748~1830)の著作である。ドイツ語原書から翻訳された日本初上陸の第一作である。本書の出版の意義は、何よりもこの一点にある。
イルミナティは、今から約240年前の1776年に、現在の南ドイツで創立された。今もなおその存在が驚愕をもって囁かれているヨーロッパ最大の謎の秘密結社である。本書はそのイルミナティそのものの内部組織を書いてある本である。
アダム・ヴァイスハウプトは、教会法の教授(神学者の一種)として、インゴルシュタットの町で28歳のときイルミナティを創立した。インゴルシュタットは、今のババリア(バイエルン)州の州都ミュンヘンから北に100キロメートルくらい行ったところにある都市である。
イルミナティは当時すでに存在したフリーメイソンリーFreemasonryという、当時の技術者・職人や商工業者や裕福な市民、芸術家たちの自主的な団体に、さらに緻密な組織理論と厳格な会則を与える運動として始まった。フリーメイソンリー(あるいはマツォニック)は、ヨーロッパ全土で12、13世紀頃から始まった。キリスト教会の教えに反発した商工業者たちが自律的に自然発生的に集会(ロッジ)を始めた。反教会の会衆の動きである。アダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ運動は、フランス大革命の大嵐が始まる13年前、なんと、アメリカ独立戦争(独立宣言1776年)とまったく同じ年に起きている。このことは非常に重要な史実である。アメリカ独立革命も、ベンジャミン・フランクリンとトマス・ジェファーソンという、天才級のフリーメイソン会員の思想家たちによって達成されたものだ。
ということは、当時のヨーロッパと北米の諸都市に世俗主義(セキュラリズム・キリスト教会に支配されたくないという気持ち)の大きな運動が、裕(ゆた)かな市民階級を中心に激しく勃興していたことを示している。イルミナティ=フリーメイソンリーの運動は燎原の火のようにヨーロッパの全ての主要な都市と、北米の諸都市にまたたくまに広がり、この時期に多くの支部を作った。私(副島)は、自分の歴史の見地として「熱狂史観」を唱えている。人間(人類)はある時、急に強烈な集団的な熱病にかかって、大きな宗教的・政治的な運動を巻き起こす。もはや誰も止められない運動となって、燃えさかる火として一気に広がっていく。日本にも御蔭参りの熱狂や尊王攘夷などがある。

この本の第一章からイルミナティに入会するための「初級者のための秘密結社入会講座」が書かれている。ここで「秘密結社の目的」として次のように書かれている。

あらゆる秘密結社は、複数の人間を、その秘密を授けられた者のみが知る一つの目的へと結合させるものである。この目的こそあらゆる人間の結合体(結社)の端緒であり、最も本質的なものである。目的なくしていかなる人間の結合体も不可能であり、考えられない。

このように秘密結社に入会したい人々への入会の心構えと儀式(イニシエーション)について、この本は詳しく書かれている。
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by kabu_kachan | 2013-03-31 00:03 | Comments(0)

マッカーサーはフリーメイソンである

マッカーサーはフィリピンの軍事顧問として在任している間、現地の最高級ホテルで、ケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームを住居として要求し、高等弁務官を兼任して高額の報酬を得ると共に、フィリピン財界の主要メンバーとなった。また、アメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。また1936年1月17日にマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。(Wikipediaより)

★明治維新以来日本はフリーメイソンに乗っ取られた

太平洋戦争は、フリーメイソンによる日本占領を目的としていたことはマッカーサーの言動からわかる。
マッカーサーが日本に来てまず最初にやったことは、フリーメイソンの支部の設立であった。
終戦直後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーは、. 厚木基地に降り立つと、すぐに旧海軍の水交社にフリーメーソン東京ロッジを設立した。
http://blogs.yahoo.co.jp/t_kikou2007/33006770.html

マッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立つとすぐ、フリーメーソン東京支部用の建物の確保を指令し、東京・麻布の旧海軍水交社の建物を接収し、屋上に、定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルが掲げられました。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/762.html

第一生命ビルにGHQ本部を作るよりも前にフリーメイソンの支部を作ったのである。
また、マッカーサーは進駐後、興味深い行動を取っている。
マッカーサーは水交社にメーソン・ロッジを設立するのと相前後して、石川県の宝達山に向かったというのだ。そんなとこに何があるのか。時期的にも、これから占領政策を押し進めていく上で、とても観光などをしている暇はなかったはずである。
じつは、宝達山にはモーセが晩年に日本にやってきて死去し、この地に葬られたという伝承があり、「墓」まで存在する。
http://blogs.yahoo.co.jp/t_kikou2007/33006770.html

また、GHQは真っ先に仁徳天皇陵の発掘を行った。
太平洋戦争終戦後の昭和20年11月にアメリカの進駐軍が大阪に向かいました。その時、特殊部隊(考古学者も何人か入っていたそうです)が堺に入り、仁徳天皇陵を2日間に-渡って発掘し、埋蔵品を箱に詰めてアメリカ本国に持ち帰ったそうです。 http://blog.goo.ne.jp/hirorikumama/e/c8c8cd9f718e64ef49110adbca1c57a0

仁徳天皇陵と言えば、壺の形をしている。
おそらくマナの壺を探すロスチャイルドの命令があったのだろう。
1944年に米国陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンの任命により、1941年の真珠湾攻撃に関する調査を担当したヘンリー・C・クラウゼンは、後に米国南地区のスコティシュ・ライト最高評議会の最高総司令官になった。
彼は、著書Pearl Harbor: Final Judgement(1992年)において次のように述べた。
. . . マッカーサーが私にいくつか個人的な質問をしたので、「戦争が始まった頃、私はカリフォルニアのメイソニック・グランド・ロッジのグランド・オラターでした」と答えた。そして、後にトルーマン大統領にもそうしたように、33階級のスコティッシュ・ライト・メイソンになったことに祝辞を述べた。
・・・
彼は、それから1時間ほど私を執務室に引き止め、極東においてフリーメイソンの道徳的原理をどのように広めるべきか語った。

歴史上すべての独裁者は、メイソンを公職から追放しようとした。なぜならば、メイソンは自由を信じるからだと。
彼によれば、ヒトラーが日本人の心に害毒を植え付け、メイソンに敵対するように仕向けたのは、まさにこの理由からだ。日本の憲法がメイソンに加入することを禁じたのもこれが原因だと。

マッカーサーは、「日本に着いたら、将来の憲法からこの規定を取り除くつもりだ」と述べ、実行した。
日本占領の一つの目的は、フリーメイソンの道徳を広めることにあった。
それが実現したことが、鳩山一郎元首相が1956年6月5日に日本フリーメーソン本部において行った演説からわかる。
「戦後日本における幾多の社会的変化がありました。そのなかで世界的友愛結社であるフリーメーソの門戸が開かれたことは、最も大きな出来事の一つとしてあげねばなりません。
而して私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるこの友愛結社の一員として、日本がグランドロッジの年会に出席して友愛精神をたたえ、ご挨拶を申し上げる機会を与えられたことは、まことに光栄に存じます。
フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなその会員でありました。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神をたたえないわけにはゆきません。
マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍中の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。
私が病気中、何人よりも先にお見舞いをいただいたのはメーソンでありました。また会員のみなさまから再三にわたって激励していただきました。兄弟愛、すなわち友愛精神を身をもって私に示してくれましたことは、私にとって大きな感激でありました。
さらにメーソンは、盲目の人に光明を与え、歩行不能であった子供たちに歩行の自由を与えました。この美しい慈善と兄弟愛の精神が、私を感動せしめたことは当然であり、私は会員としての誇りを感ずるものであります。
 (中略)
アメリカ建国の父であるジョージ・ワシントンは日本の子供で知らないものはありませんが、彼が偉大なるメーソンであったことを知るものは少ないのであります。ベンジャミン・フランクリンもメーソンでありました。占領初期から今日にいたるまでのマッカーサー、リッジウエイ、クラーグ、ハル、レムニッツァならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。 」
http://tanjyun-tenuki.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/vs-1545.html

「友愛」はフリーメイソンの理念の一つである。

「自由、平等、友愛」はフランス革命のスローガンだが、フランス革命の精神的土台はヴォルテールやディドロなどフリーメイソンの思想家である。

鳩山が作った民主党の建物の上に「ピラミッドと目」があるのは、民主党がフリーメイソン党であることを象徴している。
坂本竜馬にしろ、伊藤博文にしろ、フリーメイソンであったT・グラバーの傀儡であった。
http://p.tl/VjAw

それゆえ、明治維新とはフリーメイソンの革命であったと言える。
日本は、明治維新から国際悪魔崇拝陰謀組織によって乗っ取られたのである。
マッカーサーは、それをさらに推進したに過ぎない。



 

 
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by kabu_kachan | 2013-03-12 12:05 | フリーメイソン | Comments(0)

東京大空襲(日時1945年3月10日)・世界史上最大の日本人大虐殺

1945年3月10日 
(昭和20年3月10日)
【東京大空襲 
 死者約10万人】


カーチス・ルメイの指揮する米軍のB29爆撃機325機が東京を空襲。午前0時7分、東京湾上すれすれの低空から江東地域の爆撃が開始され、午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始された。まず人口密集地帯の周囲を火の壁で包囲し、逃げ道を失った人々の頭上に、連続波状攻撃をかけた。

投下された爆弾は、高性能焼夷弾など約38万発、総計約1700トンであった。5、6時間で26万戸の家屋が焼失し、死者約10万人、重軽傷者約11万人、罹災者の数は89万人にのぼり、その多くが非戦闘員だった。

世界戦史上、わずか数時間で10万人が戦死したという記録は他にない。
1945.03.10tokyo01.jpg

130回にも及んだ東京への空襲の中でも、1945年3月10日に行なわれたものは、その被害の甚大さから言って、人類史上にも残るホロコースト(大量虐殺)でした。米軍は325機のB29爆撃機を動員して約38万発の焼夷弾を東京・下町の密集地帯に投下し、荒れ狂う炎はあっという間に町中を覆い尽くし、老若男女を問わず、わずか2時間半で10万人以上が犠牲になったのです。米軍はまず、街を囲む円を描くように焼夷弾を投下し、炎の壁を作って逃げられないようにした上で、中にいた人々を焼き尽くしたと言われています。

https://www.youtube.com/watch?v=MKIeqsdWC1U&ebc=ANyPxKp2oUIPQ5KhGOza-1ItWJBJJdbwLMfN6GWhJ_9J55dV0xkvskJIi2iAniHAe4frzuhtnfo50aNHIirrSo0LUPyYzFV8Ug


この日、3月10日は1999年に空襲犠牲者を追悼し、平和を願うことを目的として「東京都平和の日」に定められ、永遠に記憶に留める日となった。
筆舌に尽くし難い、一般市民を狙い撃ちにした、許す事のできないアメリカによる戦争犯罪の日である。死者のほとんどが女性、子供、老人で非戦闘員だった。アメリカが言う、産業基盤を破壊し、戦意を喪失させるための作戦であれ、許す事の出来ない無差別の民間人殺戮である。

この後、東京は6回の攻撃を受け、名古屋、大阪、神戸という大都市への攻撃へと移り、その後、北海道から沖縄の離島までの地方がこの焼夷弾による絨毯爆撃を受け、殺戮された一般市民は30万人以上に及んだ。そのとどめとして広島、長崎への原子爆弾投下へとつながっていく。なんと言う無謀、許す事の出来ない、明らかな戦争犯罪だ。

この市民殺戮を指揮したのはカーチス・E・ルメイで、後にアメリカの検証で、彼は決してモラルの高い人間ではなかった、と言われている。つまり、殺人が趣味のような人間なのだ。彼自身も、もしアメリカが戦争に負けていたなら、私は戦争犯罪者になったであろうと言っている。



https://www.youtube.com/watch?v=tXzyusfuFTo

https://www.youtube.com/watch?v=MKIeqsdWC1U&ebc=ANyPxKp2oUIPQ5KhGOza-1ItWJBJJdbwLMfN6GWhJ_9J55dV0xkvskJIi2iAniHAe4frzuhtnfo50aNHIirrSo0LUPyYzFV8Ug

https://www.youtube.com/watch?v=v4MIxvFU654

https://www.youtube.com/watch?v=M-vresuzSgU

https://www.youtube.com/watch?v=WQGfKlciL0o

https://www.youtube.com/watch?v=fY29PFmb_Dk

https://www.youtube.com/watch?v=lKnnVF3h6sE


その殺人確信犯に対して、佐藤栄作首相は1964年、勲一等旭日大綬章を贈っている。



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by kabu_kachan | 2013-03-09 05:32 | Comments(0)

ペリー(提督)はフリーメイソンである

1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令を与えられ、同年11月フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。1854年2月13日に、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り条約締結を求めたペリー提督ですが、彼の背後にロスチャイルドがいた事を知る人は多くいないでしょう。ペリー提督はフリーメーソンの大物で、彼の所属ロッジは、ニューヨークの「ホーランドNo.8」。 

ロスチャイルド家のイタリア・ナポリ支店のカール・マイヤー・ロスチャイルドの非嫡出子(正式に結婚していない相手との間に出来た子供)に、オーガスト・ベルモントという人物がおりました。  
彼はフランクフルトのロスチャイルド本家の丁稚上がりで、アメリカへ派遣されたロスチャイルド関係者ですが、彼はロスチャイルドのアメリカでの代理人となり、アメリカにやってきただけで「ナゾの大富豪」になります。
彼こそが、ペリー提督の娘、キャロライン・ペリーと、1849年11月7日に結婚した男であります。  

19世紀当時は、海軍は私掠船(海賊船)まがいのもので、捕獲した相手の商船は自分達の物。大英帝国女王の海賊の気分であり、ペリー提督も日本にやってきたのは請負で、航海費用も一部は提督自身のもので、その巨額の費用をサポートしたのが、フリーメーソン、またその奥の院であるロスチャイルド一族です。

そして、土佐の貧しい漁師の子として生まれ、漂流していたところをアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカでエリート教育を受けさせてもらい、ペリーが黒船でやってくる2年前に、タイミングよく日本に戻され、日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸にのり、後に旗本にまで上りつめたのが、ジョン万次郎(銅像で左手にフリーメーソンのシンボルマークである直角定規とコンパスを持っている)であります。

★「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい」
…アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジ 

ペリー家とロスチャイルド家が結ばれた後、ペリー家は、ユダヤの戦争男爵ロスチャイルドに操られ、ペリー提督の末裔であるウィリアム・ペリーも、ロスチャイルドが支援するアメリカ民主党のクリントン政権下で国防長官となっています。
ウィリアム・ペリーは、ディロン・リード銀行の社長・会長を10数年歴任してきましたが、ディロンが経営しているのが、世界最大の核ミサイル原料メーカーのベクテルです。

日本に開国を迫ったのは、幕末の1853年と1854年に来航したペリー提督率いるアメリカ合衆国インド洋艦隊である。
浦賀まで来たどころか、実際には江戸湾深く入り込んで、たびたび威嚇砲撃(ペリーとしては礼砲のつもり)を行なっている。「開国と通商交渉に応じないならば、実際に江戸城を砲撃し、陸戦隊を上陸させる。上海からあと10隻軍艦が来るぞ」と幕府の交渉役人を脅したのである。ペリー艦隊の軍事力で、江戸城は本当に崩れると誰にも分かった。当時は江戸城の裏まで海だった。
ペリーが、日本側を交渉の場に引きずり出して、上手に「友好条約」と「通商条約」を結ぶ過程は、『ペリー提督日本遠征日記』(木原悦子訳/1996年/小学館)の中にあますところなく描かれている。

★ペリーの航海日誌のきわめつけは、やはり次の記述であろう。これが全てを如実に語っている。

しかしそれでも、日本国内の法律や規則について、信頼できる十分な資料を集めるには長い時間がかかるだろうし、領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならないことは確かである。それに、なんらかの成果をあげるには、まず諜報員に日本語を学ばせなければならない。
(『ペリー提督日本遠征日記』木原悦子訳/小学館)

この「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」という一文が、米日関係の現在をも、明確に規定している。現在の日本研究学者たちの存在理由もここにある。ペリーは何度も「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」と書いている。これはおそらく現在にも通じる我々の特徴であろう。
そして、この狡猾であるという日本観は、当時の外国人たちの共通認識であり、現在のアメリカの政治家や官僚たちの基本認識である。

日本に遠征艦隊を派遣して日本をねじ伏せて開国を約束させたのはアメリカだが、この直後、アメリカは南北戦争という大きな内乱内戦を抱えてしまって、1870年まで外交問題に手が回らなくなる。そこで、アメリカ主導からイギリス主導に移った。
イギリス全権公使のラザフォード・オールコック卿及びその後任のハリー・パークス卿と、その側近の外交官アーネスト・サトウの3人が、日本をどのような方向に持って行くかの青写真を1862年に作ったのである。
その30年前に、ヨーロッパは日本を学問的に真っ裸にするために、ドイツ人のシーボルトをオランダ商館勤務医として派遣した。シーボルトは医学を教えるのと引き換えに、弟子になった者たちを使って日本の事情の一切を調べ上げた。
1829年に帰国する際に、当時の最高の国家機密であった日本地図(伊能忠敬が実測して完成させたもの)を持ち出そうとして国外追放処分になっている。結局シーボルトが持ち出した日本地図の写しを、なんとアメリカ海軍のペリー提督がちゃんと持っていたのである。
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by kabu_kachan | 2013-03-05 17:03 | フリーメイソン | Comments(0)

ザビエルのキリスト教布教の目的は日本占領である

日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは"大名"と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。
家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。
そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。
その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。 将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの"その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム"を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、

プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、"キリスト教"を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。

1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。

1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」

そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。
そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。

イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本-文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだ」と答えた。

1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?

小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。

「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震えおののいた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」

小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。

ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。

「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。

もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。

堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)

それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。

「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」

堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。

ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。

80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。
<中略>

「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。

「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」

こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。

そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる"硝石"でした。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)

「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」

<中略>

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。

鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。

ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)

キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。

また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。

イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。

大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。

信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。
宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。
宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。

さて、次に鹿島曻の『昭和天皇の謎』の中の一文を紹介する。

「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。
しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。

家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」

鹿島曻は、明智光秀が織田信長を殺したとしていますが、八切止夫はイエズス会が火薬で信長を吹っ飛ばしたとしています。

☆八切止夫作品集は下記で読むことができます。

http://rekishi.info/library/yagiri/

何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう?
その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。
大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。法王の答えは一定していた。
「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」
実に恐ろしきは"一神教"の偏狭さ也、ですね。


https://www.youtube.com/watch?v=4mG5aHtw5b4

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by kabu_kachan | 2013-03-05 13:37 | 歴史 | Comments(0)

フランシスコ・ザビエルはユダヤ人である

渡部悌治・著「ユダヤは日本に何をしたか」(新版)より引用。

以上(後日掲載予定)によって、キリシタン・バテレンたちの日本渡来の目的がわかったと思う。キリシタンの子供らに墓を暴かせ、神社・仏閣を倒壊し、神具・仏像を炊飯の薪にさせたりして暴虐の限りを尽くし、わが国の公序良俗の美風を踏みにじることをした。まさに累卵の危うさであった。それゆえに秀吉、家康はキリシタンの禁令を発したのである。
それに対して日本人自ら「キリシタン迫害」とはなにごとか。日本においてキリシタン迫害などあろうはずがない。それは日本に対する敵性への刑罰なのである。儒教も仏教も日本に献じられた。日本に受容され、日本のものとなりえた。ひとりキリスト教のみは、日本に挑戦して日本を解体しようとしている。それがキリスト教の真の姿なのである。しかも初めて来日した宣教師が、フランシスコ・デ・ザビエルであることは特別な意義をもつ。彼はユダヤ人だったのである。ロヨラとともにイエズス会の創設者であり、いずれもスペインのバスク地方のユダヤ人である。彼ら二人がユダヤ人であることを知ったのは昭和15(1940)年、国学院大学で卒業を前にして纏(まと)めていた論文の参考にしたコルリッジの著のなかで、ザビエルがロヨラに送った書簡の下の一文を見たからである。

「この国民には食べ物に禁忌はない。そして割礼を行なわない。そのため、この国土に福音が説かれたとしても、その罪のため、信仰の光明は暗くされ、それによってイスラム教のごとき異教に根こそぎ取りさられてしまうのであろうと思われる」

これはユダヤ人同士だからできる遣り取りである。ザビエルとロヨラとが、信仰の光明が消されてしまうのは、日本人が割礼をうけていないからだと言い合えるからである。割礼はアブラハムとの契約であった。「汝と汝の後の世々の子孫、わが契約を守るべし。これ我と汝らの間の契約の徴(しるし)なり」とある。これは二人がユダヤ人である証拠といえる。
割礼のことでも60年前、東北学院神学部で、神学博士の言語学者でユダヤ人の講義の時間に、割礼についての説明があった。驚いたのはキリスト教典にも、「男子は皆割礼を受くべし」とあるように、男子だけの儀礼とばかり思っていたのに、女子の割礼の説明もあったことである。男性のは包皮を、女子のは陰核の先端を削ぐのだという。そしてもっとも畏れいったことは、「割礼は衛生のためといっているが、それは性感を早めるため」という説明であった。サイプル博士の講義である。

(注)割礼・陰茎の包皮を輪状に切り取る風習。現在でもユダヤ教では生後8日目の男児に施す。





 しかしなんだなぁ、「チンチンの皮がついている異教徒は、俺たちよりも劣っている」なんて考えるユダヤ人はけしからん。何様のつもりなんだ? 日本人を含めて外人はユダヤ人に隷属する動物なんだって。ユダヤ人は仲間内で異教徒を「ゴイム」と呼び、ニヤニヤしながら蔑む。それに、ユダヤ教徒からすれば、異教徒は穢らわしい獣(ケダモノ)だから、彼が触れた物は不浄である。割礼をして身を清めていない奴隷が作った料理は食えないし、コップに注いでもらったワインだって汚いのだ。ユダヤ教徒はナチスよりも差別心が強かったのである。これを知ればハリウッドのユダヤ人が、なぜ西欧系女優を白い肉として性的に弄ぶのか、が理解できよう。彼らにとって異教徒の女(つまり雌の奴隷)は、どんなに凌辱しても構わない動物なのだ。あのユダヤ人プロデューサーのハーヴェイ・ワインシュタインに触られた女性は、背中に戦慄が走るんじゃないか。気持ち悪いというか、鳥肌が立って寒気がする。女性は生理的嫌悪感を持つだろう。


 ここでちょっと、ユダヤ教の戒律を紹介したい。天主(神様)は穢らわしい食べ物を預言者モーセに告げたという。たとえば、禿鷲、鳶(とび)、カラス、みみずく、コウモリなどを挙げている。(レビ記11章13-19節) こんなの禁止されなくても日本人なら食べない。でも、支那人なら肉団子にして、廃棄油で揚げれば一丁出来上がり。(髪の毛で作った醤油をかけて日本で販売したりして。) 他にも、もぐらネズミ、ヤモリ、大トカゲ、カメレオンは汚(けが)れた爬虫類とされている。(11章29-30節) これらの生物をまさか食べないと思うが、見るからに気持ち悪いから汚れていると分かる。また、神様はモーセに漏出(ろうしゅつ)による穢れを告げたそうだ。尿道の炎症による漏出がある人は汚れている。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合は汚れているそうだ。(レビ記述15章2-3節) そして、漏出した人が乗った鞍や衣服、または彼に触れた人は汚れているという。(15章6-10節) 現在の日本なら差別となり大問題になってしまうが、ユダヤ教の社会だと今でも当り前の戒律なのだ。でも、どうやって見分けるのか不思議。まさか、「お前怪しいから、パンツ脱げ」とは言えないだろう。やはり医者に診せた時、周囲の者に暴露されてしまうのかな?


生活の隅々にまで宗教的戒律が徹底しているユダヤ人は、奴隷に関してもちゃんと規則があった。トセフタ(Tosefta/口伝解釈集の附録法典)によれば、ユダヤ教徒の家庭で異教徒の奴隷を使用する場合、その奴隷に割礼を施し、水で清めなければならない。(Catherine Hezser, Jewish Slavery in Antiquity, Oxford University Press, 2005, p.35に引用されている。) 「割礼(circumcision)」とはペニスの包皮を切除することである。えっ ! 痛そう、と思ってしまうが、奴隷だからしょうがない。いくらなんでも麻酔をかけずにペニスの皮むきは酷いだろう。魚肉ソーセージじゃないんだぞ。古代には麻酔が無かったから、大麻かコカインを吸飲して皮削ぎを行ったのか、詳しく知りたいところだ。とにかく、中東アジアの宗教は異様なのだ。(ユダヤ人とペニスの皮むきに関しては、他にも色々なエピソードがあるけど、また別の機会に。ユダヤ人のおぞましい話は多いのだ。女性の皆様、破廉恥な話でゴメンなさい。) ユダヤ教というのは強烈な一神教で、男の信者は小便する度に、「俺はユダヤ教徒なんだ」ということを自覚する。



http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68402119.htmlより





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by kabu_kachan | 2013-03-03 23:23 | ユダヤ | Comments(0)