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ヒトラーはユダヤ人である

1940年 ナチの高級将校であったハンスユルゲン・ケーラーは、著書『ゲシュタポの内幕(Inside the Gestapo)』の中で、アドルフ・ヒトラーの祖母マリア・アンナ・シックルグルーバーについて、次のように述べている。
「ある下働きの少女がウィーンにやって来て、ロスチャイルド家の使用人となった。(中略)ヒトラーの祖父が誰かは知られていないが、おそらくこの大邸宅の中で見つけられるに違いない」

これについてはウォルター・ランガーも、その著書『ヒトラーの心』〔ガース陽子訳/平凡社〕で同じことを言っている。
「アドルフの父、アロイス・ヒトラーは、マリア・アンナ・シックルグルーバーの庶子であった。(中略)マリア・アンナ・シックルグルーバーは懐妊当時にウィーンにいたことが証明された。当時、彼女はロスチャイルド男爵家で召使として雇われていた。家族は彼女の妊娠を知るとすぐに、彼女をシュピタルの実家に送りかえし、そこでアロイスが生まれた」


SYNAGOGUE OF SATAN Full documentary [Jew World Order EXPOSED]
https://www.youtube.com/watch?v=ViHN3wPGRtc

http://www.youtube.com/watch?v=Va2nw5iWERM

ヒトラーがロスチャイルド家の庶子とは馬鹿馬鹿しい話とも思えるが、ヒトラーの主な功績の一つがユダヤ人をパレスチナに移住させたことだというのは否定できない。それはロスチャイルド家にとっても最も重要な目的の一つだった。ロスチャイルド家は住民のいない国など意味がないということを知っていた。それだけでなく、第二次世界大戦でユダヤ人が聞いたプロパガンダは、ユダヤ人至上主義というロスチャイルド家の計画を、歴史上のどの出来事よりも一層大きく前進させた。



『イルミナティ 世界を強奪したカルト』 ヘンリー・メイコウ著(太田龍訳)より引用。

【ロスチャイルド血縁者・ヒトラーとは何者だったのか】
何よりも不自然なのは、オーストリアの浮浪者であり、清掃作業員であり、男娼であった男がドイツの首相になれたということだ。ヒトラーは卑しい身分でありながら、目に見えない力を借りて一躍世界に名を馳せた者たちの一人で、恐喝されてもおかしくない人物だ。
ハレットはヒトラーの祖父がネイサン・マイヤー・ロスチャイルドであると記している。ヒトラーの祖母マリア・シルクグルーバーは、ロスチャイルド家のウィーンの屋敷で女中をしていたとき、悪魔崇拝の儀礼強姦によって「恐怖のうちに」、彼の父アロイスを身ごもった。ロスチャイルド家は一族の間でしか結婚できないため、匿名の工作員として働く非嫡出子をつくった(これはイルミナティの定法(パターン)のようだ。あくまで噂の域を出ないが、ビル・クリントンもロックフェラー家の人間だという巷説がある)。
ヒトラーの祖母は、おそらく彼の祖父の仲介者だったユダヤ人実業家から養育費をもらっていた。ブリジット・ヒトラーは彼の妹パウラのこんな言葉を引用している・・・「[アドルフが]人種政策を始めてから、アドルフと私には祖父がいないの。望めば誰だってそこからうまい取引ができるはずよ」(『ブリジット・ヒトラーの回想録』)
ロスチャイルドの?息子”、アロイス・ヒトラーは姪のクララと三度目の結婚をし、彼女がヒトラーの母親となった。父親は虐待的で、母親は過干渉だった。18歳で母を亡くし、極貧となったヒトラーは、同性愛者のたまり場だったウィーンの男性用宿舎で暮らした。
ドイツの歴史家で教授のロータル・マハタンによれば、ヒトラーはミュンヘンとウィーンの両方で男に嫌がらせをしたという長い前科を持つ同性愛者だった。こうした調書はロシアと英国にも届いたが、それが宣伝に使われることは一度もなかった。これはその戦争が茶番だった可能性を示すさらなる証拠である(マハタン『ヒトラーの秘密の生活』)。


http://www.youtube.com/watch?v=6aFAw0i-lJQ


★ちなみに、自己紹介(私の出自)

平瀬城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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平瀬城
長野県
平瀬城主郭部
平瀬城主郭部
城郭構造山城、居館
築城主平瀬氏
主な城主平瀬氏原虎胤
廃城年1553年
遺構曲輪、土塁
指定文化財なし

平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城

http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Hirase/index.htm

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。



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by kabu_kachan | 2013-11-30 17:43 | ユダヤ | Comments(0)

坂本龍馬暗殺<幕末の政情>

慶応三年(1867年)11月15日、京都河原町三条入ル 「近江屋」 で、盟友の中岡慎太郎とともに、龍馬は幕末の露と消えてゆきました。  坂本龍馬 享年33歳。
龍馬が何故に暗殺されなければならなかったのか、先ずは当時の時代背景をよく知っておく必要があります。

フランスは徳川幕府に洋式軍隊建設を働きかけ、武器販売をしようとしていたのに対し、グラバー、ジャーディン・マセソンなどイギリス勢は、薩長のはじめとする維新軍をけしかけ、武器を売りつけようとしていたのが、幕末の日本の状況です。

この頃、映画 「風とともに去りぬ」 の舞台ともなった、 アメリカの南北戦争(1861-1865)が終結し、大量の銃や弾薬などの兵器が在庫となり、兵器を製造していた会社は極度の経営難に陥り、余った兵器は上海の市場に持ち込まれていました。

特に幕末に日本に持ち込まれたミニエー銃、エンフィールド銃、スペンサー銃、などの小銃は、アメリカの南北戦争で広範囲に使用された小銃で、戦争終結と共に大量に上海市場に出回り、それが日本にも持ち込まれるようになったのです。

また、強力なアームストロング砲で有名な、イギリスのアームストロング社は、クリミア戦争の終結とともに経営難に陥り、
1863年にイギリス政府のバックアップの下で、事業の建て直しを図り、アジア地域、特に日本市場向けの兵器製造に転換したばかりの状況でした。



ジャーディン・マセソン商会でロンドンに駐在していたスチュアート・レンドル(Stuart Rendel)の関係資料の中に、
グラバー商会からの注文に関するものが残されていますが、当時のアームストロング社の売り上げの中で最も大きいものでありました。



ちなみに1865年4月にグラバー商会から入った注文は、70ポンド先込砲15門、12ポンド後装砲10門、8ポンド後装砲5門、6ポンド後装砲5門、合計35門の大砲および砲弾700トン、金額にして総額18万3847ドルに及ぶものでありました。 

この時の注文は、幕府の長崎奉行からのもので、まだグラバー商会としては、幕府向け・維新軍向けともに注文に応じていた時期のことです。 ちなみに、アームストロング社はロスチャイルド系の会社です。


この頃、世界で群を抜いていた2社の兵器メーカーは、イギリスのアームストロング社と、フランスのシュネーデル社で、いづれも戦争男爵のロスチャイルド系の企業で、アームストロング社が敵国フランスに武器を売り、シュネーデル社が敵国イギリスに武器を売るという事が平然となされている時代でありました。 

後にドイツのクルップ社、イギリスのヴィッカース社が加わり、この兵器製造4強と、火薬を支配するダイナマイト・ノーベル社とデュポン社の2強が、世界中に火の粉をふりまき、後の世界大戦を引き起こす事となります。

ビジネスのためには、国家をも売る 「死の商人」 といわれる企業・人々です。


江戸時代には、イギリスで蒸気機関による産業革命が起こり、1830年に蒸気機関車を走らせ、大きくて重いものを大量輸送できるようになりました。 これを見た当時のロスチャイルド財閥は金貸し業だけでなく、産業界にも進出することを決めました。 


既にヨーロッパ中の王家に取り入り金庫番となっていたロスチャイルドは、豊富な資金にものを言わせ、
ロスチャイルド・ウィーン家のサロモンが1835年に、ヨーロッパ大陸で初めて、ウィーンとボヘミア間で鉄道を走らせ、その名は 「フェルナンド皇帝鉄道」。




さらに、ロスチャイルド・パリ家のジェームズが、パリ・ヴェルサイユ間に鉄道を走らせ、フランス北部の都市とパリを結ぶ北部鉄道を建設し、その後ヨーロッパ中に鉄道網を張り巡らせました。今日のフランス国有鉄道SNCFは、フランス政府がロスチャイルドから払い下げを受けたものであります。


こうして鉄の需要が高まり、鉄鉱石を溶かし還元するにも石炭が必要となり、その大量の石炭を輸送するにも鉄道が必要となり、戦艦や銃をつくるためにも鉄が必要であった事から、ロスチャイルドは地下資源を求めて、国家のバックアップとともに、アフリカやアジアに進出してくるようになるのです。 


女性が好きなLVMH(ルイヴィトン・モエ・ヘネシー)もロスチャイルド系の会社で、その前身であるルイヴィトンは、この頃できた会社です。

南アフリカの金やダイヤモンド利権はロスチャイルドの手に落ち、次にインドの財宝が狙われ、最後はアジア最大の中国が狙われ、アヘンで国家が支配されるようになってしまいました。

中国の阿片で財をなしたのが、ロスチャイルドと縁戚関係にある、サッスーン財閥(紅茶や安室奈美恵が宣伝しているシャンプーでも有名)、ジャーディン・マセソン商会(マンダリンホテルグループはこの会社の傘下)であります。

最近、鉄鉱石の値上げで、「 リオ・チント・ヂング 」 という会社の名前をよく聞くと思いますが、これはロスチャイルドの会社で、この江戸時代から地下資源を求めて世界中に進出してきた資源会社で、パリでキューリー夫人が放射能の研究をするためのラジウム、ポロニウム、ウランなどの鉱石はこの会社が提供したものです。

ロスチャイルドが、キューリー夫人のパリでの放射能の研究を支援した関係から、フランスは原子力産業に強く、電気の約80%は原子力でまかなっており、現在でもヨーロッパ中に原子力でつくられた電気を売っています。

未来のエネルギーの核融合炉(ITER)の実験設備の建設で、日本と最後まで誘致争いをしていたのがフランスであったのも、記憶に新しいと思います。

また、ダイナマイトで有名なノーベルは、ロシアのバグー油田で掘削していましたが、資金繰りに困り、ロスチャイルドに融資を仰ぎ、その後火薬で大成功を収めました。


これもロスチャイルドの資金力、地下資源開発のための山の爆破、戦争産業での火薬需要があったから成功を収められたものであり、何をするにも常にロスチャイルドの影がつきまとい、ダイナマイト・ノーベル社はロスチャイルドの傘下におさめられてゆきました。
このような事実を考えると、ノーベル賞のことを、ロスチャイルド・ノーベル賞と言っても過言ではありません。

話を明治維新に戻しますと、インド、中国とアジアの大国を支配したロスチャイルドグループ、イギリス政府の次の狙いは幕末の日本です。国を2~3の勢力に分断し、自分達が操れるエージェントをつくり、その国を乗っ取るというのは常套手段です。

インドを支配するためのイギリスのエージェントが現在のタタ財閥で、ペルシャから来たゾロアスター教を信仰するタタール人です。
中国の阿片も、政府関係者は全て買収され、末端の中国人に阿片を運んでいたイギリス人は一人も無く、全て同胞の中国人だったのです。

日本も、フランスとイギリスにより幕府軍と維新軍に分断され、内戦によりアメリカ南北戦争の終結で経営難に陥った軍需産業の企業が、政府のバックアップで日本市場を狙い、大量の在庫の兵器は上海市場に流れ、大小さまざまな欧米の商社が、日本でのビジネスチャンスに狂乱していたのが幕末の日本です。

戊辰戦争が始まり、ビジネスチャンスを逃すまいと、大量の兵器をジャーディン・マセソン社に発注し、上海に在庫を持つグラバー、
焦げ付きを恐れてイギリス政府にも働きかけるジャーディン・マセソン商会、
維新戦争を絶対のものにすべく、「English policy」 で打倒徳川を明確にし、堂々と公の文書にも維新の志士たちをエージェントと書くイギリス政府。



もう、この戦争は誰にも止めることが出来なくなっていたのです。 
しかしながら全て裏を知り尽くしている坂本龍馬は、「船中八策」 で公武合体を説き、徳川に恩義を感じる公武合体派の土佐藩の山内容堂は、これまた全てが分かっている徳川慶喜とも話し合い、 「大政奉還」 により、欧米勢が期待するような大きな内戦を防ぎ、多くの日本人の命を救おうとしました。



これに慌て、怒ったのが、イギリス、フランス政府とその武器商人たち、そして打倒徳川の薩摩・長州藩であり、ここにグラバー、ジャーディン・マセソン、ロスチャイルドの操り人形となり、薩長の武器取引の仲介をしていた坂本龍馬は、孤立し、彼らにとてはもはや邪魔な存在でしかなくなったのであります。

しかしながら、イギリス、フランス、薩長は、この内戦を止めさせてくれません。 薩長の倒幕の機先を制するため、山内容堂が慶喜に大政奉還の建白書を提出したのが、1867年10月29日、
慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を提出したのが1867年11月9日ですが、それを事前にキャッチしていた岩倉具視の画策により、その前日に薩長両藩に倒幕の密勅が手渡されていました。



そして、邪魔になった坂本龍馬が暗殺されたのが、1867年11月15日。


http://kabukachan.exblog.jp/17765601/

薩摩、長州、芸州(広島)の三藩は京都。大阪に出兵し、1868年1月3日に薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の兵に守られる中、王政復古の大号令がだされ、幕府の廃止と天皇を中心とする新政府の樹立が宣言されました。


折角、徳川慶喜が大政奉還により、内戦を防ごうとしたのに、挑発してくる薩長に対し、旧幕臣と会津、桑名両藩兵は激昂し、京都から大阪城へ移っていた慶喜も薩長征討を決意。


慶応四年(1868年)1月26日、旧幕府軍は京都にむけて進撃を開始し、27日の夕方、京都南郊外の鳥羽と伏見で薩長連合軍と衝突し、この鳥羽・伏見の戦いを機に、幕府軍vs維新軍の戊辰戦争(1868-1689)が勃発する事になります。




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by kabu_kachan | 2013-11-24 22:43 | 歴史 | Comments(0)

明治維新とフリーメイソン

明治維新とフリーメイソン

フランスの全権大使として江戸に赴任したレオン・ロッシュはグラントリアン(大東社)のメンバーで徳川幕府を支援し、横須賀製鉄所を開かせ幕府の軍制改革に助力し、

一方、倒幕側にはイギリス系のメーソンであった、トーマス・ブレイク・グラバーがつき、倒幕諸藩に武器弾薬、艦船などを売り、軍事援助を行いました。

フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、1865年、ブリュッセルで五代友厚と商社を設立しているほど仲が良く、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりもしています。

プロシアのメーソン、エドワルド・スネルは、徳川につき、長岡藩の河井継之助と長岡城(1868年、官軍との戦い)でともに戦い、

フランスのメーソン、ブリュネは、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗しましたが敗北し、戊辰戦争は終結を迎え、イギリス系のフリーメーソンが勝利を手にする事になります。 

このように、幕末の日本は、ヨーロッパのフリーメーソンに溢れ、彼らに大きな影響を受けていたのです。


注)グラントリアン(大東社)

ロンドンにあった4つのロッジが合併してグランドロッジが出来たのが1717年6月24日ですが、この団体はまたたく間にヨーロッパ中に広がり、フランスでは1725年にパリで初めてのロッジが設立されました。 

1756年にド・クレルモン伯爵をグランドマスターとし、グランドロッジが創設され、1771年にド・クレルモン伯爵が亡くなると、ド・シャルトル公爵(後のド・オルレアン公爵、自称フィリップ・エガリテ=「平等のフィリップ」フランス革命を歓迎してつけた名前)がグランドマスターになると、フランスのフリーメーソンの改革・再編を目指す運動が起き、パリで新憲章を作成するための集会が行われ、1773年にはグランドロッジの廃止とグラントリアン(大東社)の創設が決定されました。

グラントリアン(大東社)の創設は、イギリスのフリーメーソンからの独立を目指したもので、オリアン(東)は太陽の昇方向としての「光」を意味し、「フランスを導く偉大な光」という期待をこめて名づけられたものです。 (Grand Orient de France)

ド・シャルトル公爵がグランドマスターになった時、フランスには104のロッジがありました。  その内訳は、パリ23、地方71、軍隊ロッジ10です。1789年になると、パリ65、地方442、植民地に39など合せて600。フランス革命の直前には、ロッジ数600、会員が2万~3万人と一大勢力となり、宮廷・議会・軍隊・教会など、フランスのいたるところにフリーメーソンはいたと言われています。

このド・オルレアン公爵は、一見品性があり優しそうな顔立ちをしていますが、トンデモない悪党で、フランス革命を扇動した一人でもありました。彼は、ルイ16世の妻、マリー・アントワネットの天敵としてよく知られていますが、首飾り事件をはじめ、イルミナティのヴァイスハウプトと組んで、ことごとくマリー・アントワネットを罠にかけてきた男です。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/647.htmlより引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-23 19:09 | フリーメイソン | Comments(0)

明治維新と長州ファイブ

長州ファイブとは、幕末に長州藩から上海経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士の事で、ロンドン大学に長州ファイブ(Choshu Five)として、彼ら5人の顕彰碑が建てられています。

彼らの留学は、ジャーディン・マセソン商会、横浜支店の支配人、サミュエル・ガワー(Samuel J.] Gower)が斡旋したもので、ジャーディン・マセソン社所有のチェルスウィック号で1863年5月12日に横浜を出航し、上海に向かいました。

5月18日頃、上海に到着した後、井上と伊藤は約300トンのペガサス号で、他の3名は10日ほど後に5,600トンのホワイト・アッダー号でロンドンに向かって出港し、到着したのは11月4日であります。

英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンですが、このヒュー・マセソンの紹介で、長州ファイブはロンドン大学ユニバーシティー・カレッジに留学することができました。

ヒュー・マセソンは、1873年3月に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務めましたが、設立に関わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチャイルド家の名前もありました。さらにロスチャイルド家は1887年から1889年にかけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな発言力を持つようになっています。

長州ファイブがロンドンに留学していた頃、長州では攘夷が真っ盛りであり、長州ファイブも日本国内では「攘夷!」と叫んでいましたが、現実はイギリスのジャーディン・マセソン商会やグラバーに買収され、イギリスのエージェントであったのです。

これは適当に言っているのではありません。 英国政府のクラレンド外相がパークスに送った文書に、薩長の維新の志士たちの事を 「エージェント」 と呼んでいる記録があるのです。そこには、 「エージェントの存在を秘密にしろ」 とあり、別の文書で、1866年4月26日付けでハモンド外務次官からパークスに宛てた文書には、

「日本において、体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」 と書かれた記録も残っています。

すなわち、明治維新の工作は、日本人に気づかれないよう、あくまでも秘密裏に行えと、指示しているのです。

維新の志士達は、どこが尊皇攘夷なのでしょうか、尊皇攘夷どころか、大英帝国やロスチャイルド、ジャーディン・マセソン、サッスーンの使い走りで、操り人形であったのが現実の姿であったと、私は思います。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/646.htmlより引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-23 17:54 | Comments(0)

言論統制・閲覧制限が始まっている?

言論統制・閲覧制限が始まっている。

私が何度も訪れたことのあるホームページ「911の真実を今 - PF-X.NET」が閲覧できなくなっています。このホームページは、911テロの報道の嘘と虚構性を徹底的に暴いた、たいへん良くできた説得力のあるものです。私のブログの右上の写真は、WTCツインタワービルの崩壊しているところで、このホームページから借用したものです。

https://www.youtube.com/watch?v=WHI28jM1mKg

https://www.youtube.com/watch?v=gKYKAFZmGmY

このホームページ
http://www5.pf-x.net/~gotama/index.html
が閲覧できなくなっています!

もし、ここの管理人さん(k-t だったかな?)が私のブログを訪れたときは、コメント欄に見れなくなった理由を書き込んでくだされば感謝します。(たぶん知っていると思います。写真を無断借用していますから。)

私がつい最近紹介したブログ「たんぽぽ日記 戦争はなぜ起きるのか」も閲覧できなくなっています。

もし、私のような、この分野の新参者のブログが閲覧制限されるようになれば、この日本はおしまいです。以前に書きましたが、私はすでに、Yahoo!の掲示板で投稿制限されています。


★下の動画の中ほどに、阪神大震災と東日本大震災が<人工地震>であることの証拠となる<地震波形>が出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=XOmqFQhVdBI#t=11


★この画像 ↓ が『阪神淡路大震災の地震波形』である。


地震波形が突然、削除されました!

↑画像の②が核爆弾による人工地震の波形。③が自然地震の波形です。 自然の地震は必ずP波とS波がある。

https://www.youtube.com/watch?v=5GrztPIGTW4&list=PLA749FE80F7A79133

★もう一度、よ~く見ていただきたい。

これが自然地震の地震波形であろうか?


やはり、阪神淡路大震災にも核爆弾が使われたのだろうか?

阪神淡路大震災の震源地は、明石海峡大橋の真下である。
明石海峡大橋は「謎の企業ベクテル社」が建設している。

この会社は世界中いたるところで「ベクテルあるところに地震あり」と呼ばれているほどであり、工事の際に核爆弾などを日本中のあちこちに埋めているといわれています。

04
※自然現象でありえない、同時2箇所の震源

「阪神・淡路大震災」の地震の波形データを詳しく分析すると、わずか1秒間のずれで2つ大きな地震が発生していたようであり、これは自然地震ではありえない現象のようです。

そのため、2つの震源地が同特に活動を開始したのは「地中の爆破が2発連続して行なわれたからであり、ベクテル社が明石海峡大橋工事のときに起爆物をあらかじめ埋めておいたからではないか?」という疑惑が出ています。

03
※海ほたるパーキングエリア

そして、ベクテル社が関わっている日本の大型建設工事としては、東京湾に浮かぶ「海ほたるパーキングエリア」も有名であり、これから先に起こる可能性の高い首都直下型地震は、ここがターゲット(震源地=爆破)になるのではないかと噂されています。

01

というより、噂ではなく実際にすでに狙われていたようであり、311の後に連続して海ほたるを震源地とした同じ地震が発生しており、その主犯であるロックフェラーは、311の勢いのまま東京も沈めようと企んでいたが失敗したとも云われています。



下図の上は、気象庁が観測した北朝鮮の核実験の人工地震波形。
下は2002年(平成14年)に北朝鮮で発生した自然地震の波形です。(気象庁提供)


気象庁によると、12日午前11時57分ごろ、北朝鮮でマグニチュード(M)5・2の地震を観測した。地震津波監視課は「地震の波形からして自然の地震ではない可能性がある」として、データの分析を進めているという。  
同課によると、北緯41・2度、東経129・3度の北朝鮮北東部が震源で、震源の深さは0キロとみられ、震源は海上ではないとみられる。


自然地震の場合、観測する地震の波形は小刻みな揺れから大きな揺れに推移するが、地下核実験による震動は最初から振れ幅が大きいという。今回の波形は最初から大きな揺れを示したとみられる。


平成21年5月に実施された前回の北朝鮮による核実験では、同様に北朝鮮北東部が震源で、推定Mは5・3と同程度だった。


★ちなみに、以下は3.11東日本大震災のときの地震の波形です。



北朝鮮の人工地震波形と同様、余震などの前兆がなく突然地震が起きています。

★人工地震を発生させるのに、一個の核爆弾だけを爆発させて引き起こしても、その地震波形を見れば、人工地震だとすぐにばれてしまうので、奴らは、2個なり3個の核爆弾を数秒間の間隔で、連続して爆発するようにあらかじめ仕組んでおくのである。

阪神淡路大震災は、2個の核爆弾を連続して爆発させて引き起こしたものであり、東日本大震災は、3個の核爆弾を連続して爆発させて引き起こしたのである。


https://www.youtube.com/watch?v=w_QjcemlzNU&index=1&list=PL26BDDD60FE326572


おまけ

http://quasimoto.exblog.jp/21751556/





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by kabu_kachan | 2013-11-22 21:40 | Comments(1)

坂本龍馬の暗殺

明治維新は、スコットランド系フリーメーソンの武器商人トーマス・グラバーの存在なしには、成しえる事はありませんでした。 

織田信長の戦国時代に、既に銃が勝敗を決める武器として認知されていたにも関わらず、徳川時代になると刀に逆戻りしますが、世界の軍事史でも武器が逆行するのは極めて珍しい事であります。これは、徳川が銃の怖さを知っていた為で、徹底的に取り締まっていたのです。徳川時代の鎖国とは、諸大名が欧米から銃や火薬を輸入しないように、徳川が管理していたもので、実際は徳川の独占貿易と呼ぶべきであります。実際、長崎は開かれていたのですから。

1865年4月に、アメリカの南北戦争が終わり、売れ残った小銃などが大量に上海市場に出回っていました。  
これを仕切っていたのが、ロスチャイルド系の総合商社であるジャーディン・マセソン商会で、上海に事務所を構えていました。悪名高き阿片を、中国人たちに売りつけていたのもこの会社です。

グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店も兼ねることにもなりました。これらの商社は全て、中国への阿片貿易で巨万の富を築き上げた会社です。

当時、日英通商条約の第三条に、「軍用の諸物は、日本の役所の外に売るべからず」とあり、表向きにはジャーディン・マセソン商会は、武器を薩長に売ることは出来ませんでした。

そこで、ジャーディン・マセソン商会は、代理人のグラバーを巧妙に使い、グラバーは物々交換という形で、この条約の網の目をかいくぐりました。

グラバー商会は、長州から米・麦・塩などでの支払いを認め、それをジャーディン・マセソン商会に持ってゆき、それを薩摩藩が買い上げるというもので、薩摩藩とイギリスは既に武器取引を行っていた実績があり、気心が知れていたために、この三角貿易は成立したのです。

グラバーは、この取引に坂本龍馬を代理人として使い、この貿易に絡んで仲の悪かった薩摩藩と長州藩を結んだのが、坂本龍馬がつくった貿易商社「亀山社中」であるのです。

坂本龍馬は、徳川幕府側の勝海舟と親密な関係にあり、幕府側への工作、また幕府を欺く目的には適していたことと、グラバーも日本でビジネスをするなら、表向き徳川幕府を敵に回すのは得策で無いからです。

亀山社中は、1865年5月に結成され、7月になると長州藩の井上馨と伊藤博文が長崎でグラバーと会って、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでおり、龍馬が最初に買い付けた7800挺は会社が設立されて、わずか3ケ月後の事でした。

この時、亀山社中の実務、及び資金提供を行ったのが小曾根英四朗で、1864年2月に長崎に来た勝海舟から龍馬を紹介されています。

商売に関して、ど素人の坂本龍馬が、会社設立後わずか3ケ月で大きなビジネスができたのは、ジャーディン・マセソンとグラバー商会、そして薩摩藩、長州藩の間で段取りが全て出来上がっていたからであります。

明治維新の英雄である坂本龍馬は、ロスチャイルドがバックに控えるジャーディン・マセソン商会、そしてその代理人であるグラバーの操り人形であったと言う事ができると思います。

巨大資本を持ち武器商人でもあったロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が裏にいるからこそ、薩摩藩・長州藩、そして徳川幕府も、しがない脱藩浪人の坂本龍馬に一目置かざるを得なかったのです。

そして、黒幕の思い通りに動かなくなった龍馬は、彼らにとっては用無しで、残された運命は抹殺。  

私の推測に過ぎませんが、彼らはフリーメーソンつながりで、イギリス・オランダ・フランス・アメリカは組んで(実際1865年5月 「四国共同覚書」を作成しています)、欧米のワンパターンである植民地の統治法である、「自分たちは双方につき、仲間割れを起こさせる」という作戦で、日本国内の国力を弱めた後で、植民地化する予定、また戦争の長期化による武器ビジネス拡大予定だったのに対し、坂本龍馬の公武合体思想、及び秘密を知りすぎたところが問題視され、刺客を向けられたのではないかと考えております。

もちろん、明治新政府のメンバーたちは、彼らの手下となって地位を得た人達ばかりですから、龍馬暗殺の実行犯を知っていても、闇に葬り去る事は簡単であったと思います。

http://kabukachan.exblog.jp/17765601/

http://kabukachan.exblog.jp/21000845/


http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/620.html#readmoreより引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-18 22:19 | 歴史 | Comments(0)

坂本龍馬とグラバー

ジャーディン・マセソン商会は、元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身のユダヤ人で、カルカッタで貿易商として独立し、マニアック商会の共同出資者であったジェームズ・マセソンにより、1832年に中国のマカオに設立された貿易商社で、主なビジネスはアヘンと紅茶で、東インド会社後期の利権をめぐって、サッスーン財閥と激しく争っていました。 その後、アヘン戦争が終わると、1941年に本社を香港に移しています。

明治維新の功労者で、フリーメーソンでもあるトーマス・グラバーが長崎に設立した「グラバー商会」は、このジャーディン・マセソン商会の代理店でありました。

サッスーン財閥と激しく争ったジャーディン・マセソン商会ですが、1877年に、ジャーディン一族と結婚したファミリーとしてケズウィックという人物が現れ、サッスーン=ロスチャイルド連合との和解を申し出て、このアヘンにまみれ、悪いことばかりしている2つの会社は手を組むことになりました。

そうして、このジャーディン一族のウィリアム・ケズウィックはサッスーン一族(ロスチャイルドと親戚)が最大株主であるHSBC(香港上海銀行)の取締役として迎えられ、

そうして、ジャーディン家・マセソン家・ケズウィック家・ロスチャイルド家・サッスーン家は複雑に婚姻関係で結ばれていきました。

大英帝国のヴィクトリア女王の時代に、アヘン戦争は起こりましたが、その莫大な利益により、その富を取り扱う銀行が必要になりました。

1864年、太平天国が滅亡し、メーソン・ロッジが上海に林立した年、ロンドンで植民地協会が設立され、その4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によって、王立直轄植民地協会と名を改め、この王立直轄植民地協会によって創立された金融機関が、HSBC(香港上海銀行)であります。

出資者は、デビッド・E・サッスーン商会、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンのジャーディンマセソン商会、そしてロスチャイルド人脈の役員によって構成されているバークレイズ銀行であり、全員が高位フリーメーソンのメンバーであったのです。

東インド会社の蛮行が世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅しますが、名を変えてその利権は、HSBC(香港上海銀行)、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥、ジャーディン・マセソン商会などが引き継いでいったのであります。

また、明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑(Choshu Five)が、グラバーの仲介で、イギリスに密航しロンドン大学に留学に行きましたが、そのときの船はジャーディン・マセソンのもので、彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソンでした。

このように、明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥と深く関わっているのです。

明治維新では、ジャーディン・マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍は「グラバー商会」を通じて、銃や軍艦なども輸入しています。

その取引のダミー商社が坂本龍馬が長崎に設立した「亀山社中」であります。  
この「亀山社中」は、後に「海援隊」と改称されました。


http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/622.htmlより引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-18 00:05 | Comments(0)

白人による黒人奴隷貿易とアメリカの奴隷制度

【白人による黒人奴隷貿易とアメリカの奴隷制度】


ヨーロッパ人は16世紀から19世紀までの400年間にわたって奴隷貿易を、国家的事業として組織的に何の罪悪感もなしに繰り広げた。


 大西洋の奴隷貿易は、16世紀にスペインによって始められた。西ヨーロッパの安物の綿製品、真鍮の腕輪などの金属製品・アクセサリ、ジンなどの酒類、鉄砲そして現地では通貨だった子安貝などを積んだ船がアフリカ西海岸でそれらを奴隷と交換する。代わりに奴隷を積んだ船は西インド諸島やアメリカ大陸へ渡り、そこで、積んできた奴隷との交易によって砂糖や綿花やタバコを手に入れ、それらの商品を積んで、西ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため三角貿易と呼ばれた。17世紀にはスペイン・ポルトガルに代わって、イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、18世紀からは、産業革命をいち早く迎えたイギリスが、海上覇権をオランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えた。アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人たちは、300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って巨利をむさぼった。この奴隷貿易は19世紀まで続いた。イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年であった。
 奴隷貿易には、ヨーロッパ文明諸国のほとんどが手を染めていた。そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。

 アフリカの歴史に恥辱と屈従と衰退の烙印を焼きつけ、19世紀に始まるヨーロッパ帝国主義のあのむきだしのアフリカ侵略=近代植民地主義にみちびいた、数世紀にわたる黒人奴隷貿易は、こうして今から550年程前の15世紀半ばに、まずポルトガルの手によって開始された。この黒人奴隷貿易は、世界近代史の最も血なまぐさい一局面をなすとともに、いわゆる資本の本源的蓄積過程においてきわめて重要な役割を果たしたが、そこでは人間が人間の尊厳はおろか、そもそも人間が人間であることさえ完全に否定されてしまった。リスボンの宮廷の熱心な支持のもとに、奴隷狩りは奴隷貿易という商取引のかたちを整えていった。
 16世紀から17世紀初頭にかけては、殆どポルトガルとスペインの独占の時代がつづいた。だが、他のヨーロッパ諸国がいつまでも黙ってこれを見ているわけがなかった。まもなくオランダ、ついでフランスが、さらにイギリスが、そのうちにはイギリス領アメリカ植民地までがこの「人肉市場」にくびを突っ込み、獅子のわけまえを主張し始めた。

本田創造 『アメリカ黒人の歴史』岩波新書

【三角貿易以前の西アフリカの奴隷制】
 サムエル・モリソンというアメリカ史家は、『オックスフォード・アメリカ国民史』[1965年](日本語訳の題は『アメリカの歴史〈3〉ヴァン・ビューレンの時代‐南北戦争 1837‐1865年』集英社文庫)のなかで、奴隷制度について「忘れてはならないことであるが、アフリカの奴隷貿易はアフリカの黒人たち自身のあいだで始まっている。暗黒大陸では、奴隷とされることはごく当たり前のことであって、奴隷制度の犠牲者となってアメリカに船で運ばれた者は、その航海を生き延びさえすれば、アフリカで奴隷のくびきにつながれたままの奴隷たちよりもましな暮らしができた」と述べている。アフリカを「暗黒大陸」として描く、このような文章が権威ある歴史書として通用していた本に載っている。現代でも欧米諸国による奴隷貿易を正当化して、アフリカ人を奴隷としてハンティング(奴隷狩り)をして売ったのはアフリカ人であり、アメリカに連れてこられたアフリカ人は、奴隷ではあっても、アフリカで奴隷になっているよりも、はるかに文明的な生活をすることができたのだと述べる研究者たちがいる。たしかに、たとえば西アフリカのサハラ砂漠の南に12~15世紀頃栄えたマリ帝国には奴隷制度があった。しかし、それらの奴隷の多くは土地や牛などをめぐる戦いの捕虜であり、家族内の下僕のような存在で、主人の信任を得れば主人との義理の親子関係を結んで、自由民となれたのである。
 三角貿易の純然たる「商品」としての奴隷は、それ以前のアフリカ社会における奴隷とはまったく異なっていた。「商品」の調達のための奴隷狩りが始まったのは、ヨーロッパ人による三角貿易による奴隷の需要があったためである。ヨーロッパ人は はじめ、人さらいのような方法で奴隷を集めていた。しかし、黒人同士で奴隷狩りをしていることに目をつけ、これを利用した。ヨーロッパ人は黒人王国から奴隷を買い取り、西アフリカのダホメー王国、ベニン王国などいくつかの王国は、商品としての奴隷を調達するための戦いをするようになった。それが可能となったのは、それらの王国が奴隷貿易で鉄砲を多く手に入れたからである。
 奴隷の値段は一体いくらぐらいであったのか。1300ポンドで奴隷240人、一人平均5.4ポンドである。

「奴隷貿易はアフリカ人が始めたことではない。しかし、アフリカ人もその一翼を担ったことを私たちは忘れてはならない」
これは、旧ダホメー王国の奴隷貿易関係資料を展示している博物館に掲げられた言葉である。

 16世紀~19世紀初頭までの大西洋奴隷貿易の期間中にどれくらいの数のアフリカ人が奴隷として船で連行されたのかについては、奴隷貿易船の航海日誌や貿易会社の書類といった残された資料などから推計するしかない。いろいろな試算があるが、多くの推計が少なくとも1000万人から2000万人程度と見積もっており、多い推計では、18世紀末までに約5000万人、少なく見積もられた推計でも、1000万人近くの10歳代から30歳代前半までのアフリカ人がアメリカに連行されたということになる。新大陸に売られていったアフリカ人奴隷の数は、デュ・ボイスの『アフリカ百科事典』によれば、16世紀90万人、17世紀275万人、18世紀700万人、19世紀400万人と概算されている。しかし、これは新大陸にたどり着いた奴隷の数であり、アフリカからの海上輸送の途中で死亡した数はその数倍にのぼるといわれる。航海は3ヶ月近くかかり、フランスの奴隷貿易港ナントにある奴隷貿易会社の18世紀の記録では航海中の奴隷の死亡率は8~32%と推定されている。しかし、船中で疫病が発生した例では、アフリカで積み込んだ189人の奴隷のうち、アメリカで荷揚げされた奴隷がわずか29人という記録もある。
 川田順造の著『曠野から』によれば、奴隷貯蔵庫なるものがアフリカ西海岸の各所に存在した。それはさながら家畜を輸出するために港に造られた一時保管場所であり、最も悲惨な煉獄である。奴隷は初めから人権を剥奪されており、家畜なみに烙印をおして売買しても、なんら良心の呵責を覚える必要はなかった。輸送の途中に奴隷が死んだら、また別な奴隷を調達すればすむのである。
 これほど膨大な数の奴隷を商った奴隷商人たちは、誰一人として良心の呵責を覚えなかったのだろうか。

奴隷商人はみな、良心をもっていた。18世紀のなかばまでは、奴隷制度を国際的な大貿易にとって不可欠なものとして認める人が多かった。奴隷商人は、以下のように考えて奴隷制度を正当化した。奴隷制度はアフリカですでに存在し、奴隷は、黒人自身やアラブ商人によって売られている。それならば、ヨーロッパ人に買われるほうが得である。ヨーロッパ人のおかげで、文明に接する機会が与えられ、アフリカ内部で頻発している戦争にもはや巻き込まれなくてすむ。とくに、キリスト教に改宗することができるし、そのなかでもっとも賢い者は、自ら解放されるであろう!
  ジャン・メイエール 『奴隷と奴隷商人』

 当時のヨーロッパ社会に、奴隷貿易を人類の罪と見なす神は存在しなかった。啓蒙主義者モンテスキューは、『法の精神』で、「黒人が人間だと考えることは不可能である。彼らを人間であると考えれば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるをえなくなる。」としている。

[アメリカの奴隷制度]

 1776年に公布されたアメリカ独立宣言には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信じる。」と謳われている。ここで言う「すべての人間」には、決して黒人やインディアンは含まれていない。これが、「自明の真理」である。
 リンカーンによる奴隷解放宣言の6年前の1857年、アメリカの最高裁判所は、ドレッド・スコットという黒人奴隷の自由を求める裁判の判決において、次のように宣告した。
「黒人奴隷ならびにその子孫は所有者の財産であって合衆国の市民ではない。劣等人種であるかれらは白人と同等の権利をもつことはできない」

 白人たちは、奴隷を「従順」で「子どもっぽく」、自分の愚かさを自覚しており、自分より優れた主人たちに忠実であり、保護されていることで幸せを感じていると信じたがった。そのような従順な黒人奴隷を「サンボ」という。白人たちは、奴隷の大多数は「サンボ」で、反乱を起こしたり逃亡したりする反抗的な奴隷(「ナット・ターナー」)は少数だというわけである。
 1966年版の歴史教科書「ライズ・オブ・ジ・アメリカン・ネーション」は、南北戦争当時、南部で広く論じられた奴隷制賛成論を2ページにわたって詳述していた。
「奴隷たちには満足な衣食住が与えられ、病人になっても年老いても面倒をみてもらえた。何よりも文明化という点で大きな利点があった。逆に北部の工場労働者たちは解雇の不安に常に悩まされ、工場主に搾取され、年老いたり病気になると捨てられた。この見方は大農園主に特に支持され、小農園主や奴隷を持たない小作農たちにも広く浸透していた」
 アメリカの黒人奴隷輸入は1619年にはじめて奴隷船でアフリカから連れてこられた20人に始まる。1776年の独立時には75万人、1865年の奴隷解放令の時点では400万人に増えた。アメリカ南部の白人たちは、初期のころは黒人奴隷たちが子供を増やすことを奨励した。労働力が不足していたため、奴隷人口を増やすことが奴隷所有者の利益になったからである。農園主が女奴隷に手を付けて奴隷を増やすことも行われた。“アメリカ独立宣言”の起草者ジェファーソンは、大奴隷主であり、奴隷増殖のために自ら奴隷との間に子供をつくり、その子供たちを自分の奴隷にしていった。現在のアメリカにいる黒人でアフリカの血だけを引いている黒人はほとんどいないという。黒人奴隷は合衆国国内でも巡回商人によってコッフルという一繋ぎの鎖の列で町々を歩かされ、競売に付された。しかし、のちには奴隷人口が増え過ぎて南部の農場主にとって奴隷所有を続けることは経済的に引き合わない状況になっていった。リンカーンは、1863年奴隷解放を宣言し、南北戦争(1861年-1865年)終結後の1865年にアメリカの奴隷は解放された。しかし、アメリカの黒人は多くの点で差別されたままその後100年以上を経過したのである。


つまり、われわれ皆は黒人である。いわゆるニグロであり、第二級市民であり、元奴隷なのである。元奴隷以外の何ものでもない。こんなふうにいわれるのは気に入らないと思う。だが、それ以外のなにものだというのか。あなた方は元奴隷である。皆はメイフラワー号なんかでこの国にやってきたのではない。奴隷船できたのだ。鎖につながれ、牛馬同然の姿で。しかも皆はメイフラワー号でやってきた連中につれてこられた。いわゆる清教徒や開拓使徒に引っ張られてきたのだ。こういった連中が、私たちをこの国に運んできたのである。


マルコムX 
『下層黒人大衆へのメッセージ』





黒人が、白人とは別個の、人間以下の存在である間は、つまり、白人の優位性に何の疑いもない間は、白人は、黒人をわざわざ見下す必要さえなかったし、黒人は「汚い」存在でもなかった。しかし、いったん、黒人が、白人と対等の人間だということになると、南部の人間の中には、これを軽蔑し、見下し、押し下げ、遠ざけ、それによって、自己の優位性を確認しようとする衝動が動いた。
  我妻洋・米山俊直 『偏見の構造―日本人の人種観』NHKブックス

 1967年4月、マーティン・ルーサー・キング牧師は、「白人と黒人とが同じ学校で勉強することを許さない祖国のために、黒人と白人の若者が手を組んで倒れてゆくというテレビ画面を見ることは、むごいまでの皮肉でなくて何であるか。彼らは手を組んで荒々しく貧しい村の小屋を焼き払うが、しかし彼らはデトロイトではけっして同じ区画に住むことはできないのだ。私は、貧乏人をこのように残酷に扱うやり方にたいして黙っていることはできなかったのである」と訴えて、アメリカ政府を全世界における「暴力の最大の下手人」と弾劾し、黒人解放運動とベトナム反戦運動を拡大していった。そのちょうど1年後、キング牧師の理想は凶弾に斃れた。わずか39歳だった。

私には夢がある。いつの日か、この国は立ちあがり、「われわれは、自明の真理として、すべての人間が平等につくられ…」という独立宣言の中に示されたこの国の信条の真意に生き抜くときがくるであろう。私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷主の子どもたちとが、一緒に腰を下ろし、兄弟として同じテーブルにつくときがくるであろう。
  マーティン・ルーサー・キング 『1963年8月28日の演説の抜粋』

 白人と黒人の間で人種差別に対する意識の違いは大きい。出井康博氏によると、人種差別はアメリカで解決されるかどうかという質問に対し、黒人の55%は「ノー」と答えているが、過半数の白人はアメリカでは差別は存在しないと考えているというのである。

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-16-3.htmlより引用。




ユダヤ人による黒人奴隷貿易

 日本では片手落ちの西歐史が教えられている。教養が低い大学教授から習った日本人は、中世のユダヤ人を迫害されて可哀想な民族と思っているだろう。しかし、実際はかなり違うのだ。ツラの皮が厚いユダヤ人には、ヨーロッパ人の嫌がらせだって、何とか切り抜けて生活できるだけの図々しさがあった。本当に辛ければヨーロッパから逃亡しているだろう。第6世紀のイタリアでは、蕃族の侵入で捕虜になった者が奴隷にされたから、奴隷商売が盛んであった。キリスト教世界のヨーロッパでは奴隷の保持だと厳しかったが、奴隷の商いについては緩かったらしい。この抜け穴を利用してユダヤ人は儲けたのだ。第8世紀、フランク王国のカール大帝は奴隷売買の仲介業をユダヤ人に許していたという。第10世紀のスペインだと、ユダヤ人はスロヴェニア人の奴隷を販売してボロ儲けしたらしい。スペインのアンダルシアにいるイスラム教徒のカリフが、ボディーガードを編成するためその奴隷を購入したからだ。(Israel Abrahams, Jewish Life in the Middle Ages, The Jewish Publication Society of America, Philadelphia, 1896, p.98) これはあまり公表されないことだが、アラブ世界のイスラム支配者は、東欧の白人を自らの近衛兵にしたがる。おそらく東欧の白人は外見が良く、命令に忠実な者が多かったからだろう。ユダヤ人はヘンチクリンな容姿だから見た目が悪い。学者や役人に向いているが、壮麗な兵隊には不向きである。北アフリカ人やアラブ人は油断がならず、いつ主君の寝首を掻くか分からない。裏切りなど当り前の民族だから信用していなかったのだろう。これは支那人にも当てはまる。支那人の大富豪は、家族にボディーガードをつける際、人民解放軍の元軍人を絶対雇わない。合衆国海兵隊か英国の特殊部隊(SAS)を除隊した白人を雇うことが多い。つまり、支那人は支那人を信用しないのだ。自分の家族は大切だから、正直な行動を取るのは当然。「支那人に偏見を持ってはいけませ~ん」、と説教するNHKやTBSの社員は、本当の支那人を直視しろ ! ヤクザだって他の暴力団員を信じないだろう。それと同じだ。



 黒人奴隷を酷使した者といえば、何はさておきヨーロッパ白人。最近では、ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンが奴隷所有者だ、と非難する黒人も増えた。さらには、ジェファーソンは黒人女との間に子供をもうけた、という嘘まで流布している。高山正之まで信じていた。詳しく述べないが、当時のジェファーソン家を調べれば分かることなのだが、日本人は宣伝戦に弱いから直ぐ信じてしまう。話を戻すと、奴隷所有者にはユダヤ人が混じっていたのである。ゼニの臭いを察知すれば、すぐに行動を起こすのがユダヤ人だ。セイモア・リーブマンによると、砂糖きび農園を経営していたユダヤ人は奴隷を使っていた。「ユダヤ人は率先して奴隷所有者であり、奴隷貿易業者であった。」(Seymour B. Liebman, New World Jewry, 1493-1825 : Requiem for the Forgotton, KTAV Publishing House, Inc., New York, 1982, p.145) ユダヤ人って、ヨーロッパのキリスト教徒にイジメられて可哀想な民族のはずなのに、南米でアフリカ黒人をこき使っていたとは ! でも、黒人を侮蔑するユダヤ人ならあり得る話だ。選民のユダヤ人にしてみたら、ヨーロッパ人だって格下の異教徒なんだから、黒人なんか「便利な家畜」程度にしか思えない。実際、ユダヤ教に改宗した黒人でも、同胞とは見なさないのがユダヤ人。サミー・デイヴィス・ジュニア(Sammy Davis, Jr.)の悲劇を思い出せば分かるだろう。(ユダヤ教に改宗した有名人については別の機会に述べる。) 「黒ん坊」は昔から、ユダヤ社会で嫌われている。子供好きなユダヤ人家庭でも、黒人の養子は取らない。息子や娘が結婚するとなれば、狂ったように大反対。また、アーノルド・ウィツニザー(Arnold Wiznitzer)によるれば、「ユダヤ人はプランテーション経営者のみならず、金融業、仲介業、砂糖輸出業、奴隷供給においても重要な役割を果たしていた」そうだ。



 白人による黒人虐待をテーマにして一儲け企んだスピルバーグは、アフリカ人奴隷を描いた『アミスタッド(Amistad)』という作品を手掛けた。この映画は、シエラレオネで捕まったアフリカ人が奴隷船で叛乱を起こした事件を題材にしている。彼らはキューバに向かう途中の船で叛乱を企てて船を乗っ取るが、乗組員の機転で船はアメリカに向けて舵を取ってしまう。アフリカに戻るつもりだった黒人たちは、アメリカ人の船に発見され、奴隷たちは暴動の罪で裁判にかけられる。物語は、黒人奴隷を救おうとする若き弁護士が、法廷で活躍する様子を描いているのだが、その映画は残酷な仕打ちをした白人全体を裁いているのだ。黒人を扱った映画だから映像が暗くならないように、キャストには有名俳優を起用していた。黒人俳優の代表格、モーガン・フリーマンは新聞記者を演じ、マシュー・マコノヒーは弁護士、そして大御所のアンソニー・ホプキンスは元大統領のジョン・クインシー・アダムズを熱演していた。スピルバーグはこのような豪華な役者を揃えて、白人による黒人の奴隷化が如何に残酷なものだったかを伝えようとした。それなら、次回は黒人奴隷を虐待したユダヤ人を描いたらどうなんだ? アフリカ人に対して容赦なく鞭を揮う役に、どのユダヤ人俳優が似合っているのかを考えるのは楽しい。極左俳優のショーン・ペンとか短気な異常者が似合うベン・スティーラーなんか適役じゃないか? 狡猾で計算高い奴隷商人なら、ロン・リフキンとか、サイモン・ヘルバーグ、ホアキン・フェニックスがはまり役かも知れない。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68402119.htmlより


http://www.youtube.com/watch?v=2MALXstNvXE

http://www.youtube.com/watch?v=w8p83kVxH8Q





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by kabu_kachan | 2013-11-15 15:22 | 歴史 | Comments(0)

ジョン万次郎について

高知県土佐清水市の中浜に、貧しい漁師の子として生まれた中濱万次郎(ジョン万次郎)は、14歳の時に漁で遭難し、アメリカの捕鯨船に助けられて、そのまま船長にアメリカに連れて行かれ、育てられました。そしてペリー来航の2年前に帰国し、幕府の旗本となり、アメリカとの交渉の通訳として活躍することになりました。
当時は、フリーメーソンの新世界秩序で、世界をワンワールド化しようとする動きがあり、アメリカでは西部開拓を進めていた時代で、さらにその先の日本に、イギリスに先んじて、進出しようとするアメリカの戦略があり、日本語のできる諜報部員を育成する必要があると、フリーメーソンであるペリー提督も日記に書いていた時期でありました。

ジョン万次郎は、アメリカ、またフリーメーソンの諜報部員として教育され、日本に送り返されたと推測されます。論より証拠、高知県足摺岬にあるジョン万次郎の銅像の写真を見て御覧なさい。左手には、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスをもっています。 

中濱万次郎は、文政10年(1827年)、土佐清水の中浜に貧しい漁師の子として生まれました。 9歳のとき、父を亡くした彼は、家計を助けるために中浜浦の今津嘉平宅に家っ子として雇われ、仕事は子守、米つき、台所係などでありました。
しかし天保12年(1841年)一月の初め、主人に叱られ、浜まで一目散に駆けだすと、そのまま冬の海に飛び込んでしまい、真冬の海を隣村の大浜まで泳いでいくと、たまたまそこで荷揚げをしていた岡郡宇佐浦(現在の土佐市)の漁船に助けられ、事情を話してその船の台所係として雇ってもらいました。万次郎14歳のことであります。
こうして運よく父親と同じ漁師になりますが、一ケ月もしないうちに遭難してしまい、黒潮に流され、伊豆諸島の最南端の鳥島に漂着しました。漂着して約4ケ月後の1841年6月27日に、アメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長に救出されました。 
万次郎と4人の日本人漁師を乗せたジョン・ホーランド号は、それから半年かけて、12月にオアフ島のホノルルに到着。まだ若い万次郎だけが捕鯨船にそのまま同乗し、ほかの4人はホノルルに残ることになりました。
船は、太平洋から南米のホーン岬を回って太平洋を北上し、ホィツトフィールド船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンに着きましたが、アメリカで万次郎は「ジョン・マン」と呼ばれ、いつしか日本でもジョン万次朗といわれるようになりました。
フェアヘブンでは、船長の家に世話になり、アメリカの学校まで入れてもらい、それまで無学だった彼は、そこで初めて読み書きを習い、小学校を終えました。 さらに、パートレット・アカデミーという学校に入り、高等数学、航海術、測量術を学び、優秀な成績で卒業したとされています。
しかしながら、日本での教育を受けなかった万次郎は、会話は出来ても、英語の文章を翻訳することが出来ず、明治維新後に活躍することはなかったようです。
漂流してから、たちまち5年の歳月が流れ、再び捕鯨船に乗り、捕鯨の仕事に就き、一等航海士となり3年後には、乗っていたフランクリン号の副船長にも選ばれました。 
その後、万次郎は故郷が恋しくなり、ゴールドラッシュのカリフォルニアに行き、一儲けして旅費を稼いで、日本に帰ったとされていますが、多くの疑問があります。先ず、お世話になった船長に十分な恩返しもせずに、いきなり日本に帰国するとは、当時の日本人の道徳観では理解できない行動です。また、当時の海外渡航費は今と違ってかなり高額と思われますが、そんなに簡単に金を採取することが本当にできたのだろうかという事です。

また、アメリカに滞在しているわずかな期間に、ペリー家、ルーズベルト大統領の祖父にあたるワレン・デラノの名門デラノ家とも人脈を築いているのです。ただの漂流した日本人漁師の少年が、この若さでこれだけの大物たちと接触できるには、アメリカの政府かフリーメーソンなどの組織が関与しない限りありえない話であると思います。

フリーメーソンであったペリー提督の孫娘が、アメリカのクルー駐在大使夫人として長く日本に滞在し、万次郎とのつながりで、ずっと中濱家と親しくしている事実、
また1933年6月8日、ルーズベルト大統領が、当時田園調布に住んでいた万次郎の息子、中浜東一郎氏に手紙を宛てており、その文面を以下のようなものでした。

「石井菊次郎子爵(駐米大使)がワシントンに来たとき、あなたが東京に住んでいることを知り、あなたの有名なお父上について話し合いました。 私はフェアヘブンのワレン・デラノの孫です。 祖父はお父上をフェアヘブンにお連れしたホイットフィールド船長の船の所有者のひとりなのです。 私の記憶によると、あなたのお父上は、私の祖父の家の筋向かいのトリップさんの家に住んでおられたということです。 フェアヘプンの学校に通い、ときどきデラノ家の者と教会に一緒に行った小さな日本の少年についてのいろいろなことを、私が少年のころ、祖父がよく話してくれたのを覚えています。 私もフェアヘブンにはよく行きました。 私の母方の家族は、いまだに古い家を持っています。 中浜という名前は、私の家族の記憶にいつまでも残るでしょう。 あなたか家族のどなたかが合衆国においでになったら、ぜひお立ち寄りください」

ルーズベルト大統領の祖父のワレン・デラノは中国のアヘン貿易で財を成し、長男のフレデリック・デラノは中国で生まれています。
さらに彼は、ロスチャイルドの米代理人のJ・P・モルガンの経営する金融機関「クーン・ロ-ブ商会」と組んで、多くの鉄道を乗っ取り、アメリカの大鉄道経営者になり、デラノ家は代々メーソンで、ここから必ず300人委員会のメンバーが選出されるほどの名門であります。

アメリカ第30代大統領カルピン・クーリッジも、 「ジョン・マンの帰国は、アメリカ最初の大使を日本に送ったに等しい」 とまで言い切っています。

実際、ジョン万次郎が沖縄に着いたとき、薩摩藩はジョン万次郎をスパイ容疑で捕らえ、尋問・投獄しています。 
貧しい漁師の子供が、当時の士農工商の身分制度を飛び越えて、いきなり幕府の旗本になれるものなのでしょうか。 

ともあれ、ジョン万次郎は日米修好通商条約の批准書を交わすために、通訳として咸臨丸に乗ってサンフランシスコに行き、多くの維新の志士たちに影響を与え、土佐藩の教授館で坂本龍馬、河田小龍、後藤象二郎たちに教えた西洋事情は、龍馬と後藤象二郎が長崎から土佐に向かう船の中で作った「船中八策」に生かされ、それがのちに明治新政府の綱領「五箇条の御誓文」の基礎案となっており、開国、日米修好通商条約、明治維新に大きな貢献を果たすことになりました。 

ジョン万次郎がフリーメーソンであったという事実は、正式な記録として文書に残されていませんが、銅像の左手に持つ、フリーメーソンのシンボルである直角定規とコンパスは何を言わんとしているのでしょうか。
少なくとも、フリーメーソン、アメリカに諜報部員として教育され、日本に送り返された、彼らのエージェントであった事は事実でしょう。

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/623.htmlより引用。
 
 
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by kabu_kachan | 2013-11-09 11:10 | フリーメイソン | Comments(0)

ルーズベルト一族について

ルーズベルト一族は、確かにアメリカ「王族」の中枢を担っている。だが、ルーズベルト王朝の歴史をすべて記すには、あまりにも長すぎる。それよりもわたしが関心を持っているのは、一族とアヘン貿易との関係や、あとに続く、セオドアおよびフランクリン・ディラーノ・ルーズベルトの手による、【きちんと立証された】国家への数々の叛逆行為である。
ルーズベルト一族は、アメリカ貴族階級の5パーセントを占めていて、最多の大統領と224名の高官を輩出している(これには、14人のタイラー、13人のルーズベルト、16人のクーリッジが含まれている)。これらのファミリーの多くは、アメリカと、その基盤となる共和主義に多大な損害を与えた。いや、今も与え続けている。
ジョージ・ブッシュ元大統領を例にとってみよう。彼の母親はディラーノ家の出身である。ブッシュ一族には、アーノルド・ベネディクトという家族の「恥」が存在する。これは、イギリスのために国を裏切った男で、ジョージ・ブッシュ本人からはほとんど無縁と言ってもいい、七親等離れた親戚にあたる。ブッシュ家は7人家族で、フランクリン・D・ルーズベルトとは、六親等から九親等離れた親戚筋になる。1988年の共和党大会に出席した代議員の失望はいかばかりのものだったか。代議員たちは騙され、自分たちの票がジョージ・ブッシュをホワイトハウスに送り込むものだと思い込まされていたのだ。思うに、ジョージ・ブッシュは、全大統領のなかでもっとも災いをもたらした人物だろう。
アメリカの大統領のだというのは、興味深いとともに、非常に不吉なことである。多分、他の誰よりも血縁関係が濃いのはフランクリン・D・ルーズベルト(FDR)だろう。FDRが行なった「ニューディール政策」と「第二次世界大戦」という二つの事件から、アメリカはいまだに回復していないし、今後も回復することはないだろう。FDRの家系からは12名のアメリカ大統領が出ている。そのうち、8名は秘密主義の権力者ディラーノ一族の出である。ディラーノ一族の「先祖代々の」財産は、イギリス東インド会社とその銀行家であるベアリング・ブラザーズが管理していた、中国とのアヘン貿易によって築かれたものであった。
ルーズベルトはジョージ・ワシントンと直接の縁続きだと公言していたが、ワシントン側はディラーノ、ルーズベルト両一族とは距離を置いており、アイザック・ルーズベルト上院議員夫人の葬儀への参列を断ったほどであった。ジョージ・ワシントンの持つ、やけに上品ぶった資質がルーズベルト一族に欠けていたのは、彼らがまったく異なった背景から生まれたからである。かたやワシントンは紳士であり、ルーズベルト一族のほうは、もともとの起源である、アムステルダムのユダヤ人特有の礼儀作法や習慣を守っていた。
すでに述べたように、ウォーレン・ディラーノは、アヘン貿易盛んなりし頃の中国駐在アメリカ領事であった。彼の孫が、フランクリン・ディラーノ・ルーズベルトである。もう一人のルーズベルトであるコーネリアス・ファン・シャーク・ルーズベルトは、アヘン貿易で手にした汚らわしい利益を元に、1824年にケミカル・バンクを設立した。その孫にあたるのが、セオドア・ルーズベルトである。中国アヘン貿易とルーズベルト一族を結び付けるには、ウォーレン・ディラーノが、ニューイングランドにおけるアヘン・シンジケートであるラッセル・アンド・カンパニーの首席共同経営者であった点に注目すべきである。
セオドア・ルーズベルトについては、最初の「自然保護論者」であったと、曖昧ながら認められている。ルーズベルトは、政府の(つまりは公共の)土地を保護区にして、それを自分と親しい友人のものにするということを思いついた。そうすれば、そこにある豊かな鉱物資源を自分たちだけで開発できるからだ。この政策は現在にいたるまで継続中で、下院は毎年、わたしたち国民のものである数十万エーカーの土地を収用、囲い込んでいる。これはもちろん、完全に違法である。
セオドア・ルーズベルトの叔父ジェームズ・バロックは、リーとヒギンソンが所有する銀行に共同出資していたと言われている。この二人の銀行家は、反南部のテロリスト(今では「奴隷制度廃止論者」と呼ばれている)の側についていた。ジェームズ・バロックの父親がアーチボルド・グレイシー2世で、アヘンに支配されたベアリング銀行のニューヨーク支店長であった。アメリカの「王族」が、つねにアメリカの国益にもっとも反する立場をとろうとする点、しかもそれが今日にいたるまで連綿として続き、その伝統をジョージ・ブッシュが一貫して全力をあげて守ってきているという点は、非常に興味深い。

『秘密結社全論考㊦』(ジョン・コールマン著 太田龍訳)より引用。
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by kabu_kachan | 2013-11-08 13:30 | Comments(0)