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911テロ事件とロックフェラー

ここに極めて興味深い文献がある。アメリカの歴史修正学者であるF・スプリングマイヤー著『蛇の如く狡猾に』(1991年)である。

スプリングマイヤーは、色々の団体(特に最近はニューエイジ宗教)に入り込むモルモン教とよく似ている団体として統一協会を挙げ、「如何に洗脳(マインドコントロール)してカネ集めをさせるエセ宗教をつくる事が出来るかの良い例である」と見ている。

が、次の事実は日本では知られていたかどうか。


韓国政府はロックフェラーの銀行であるチェース・マンハッタン銀行を取引先に指定した。1962年10月、米国政府は同銀行の助言に従って、韓国諜報機関であるKCIA(韓国中央情報局)の局長に金鍾泌を就任させた。1962年10月、いわばCIAの出先機関であるKCIA(韓国中央情報局)の金局長が訪米した。その際に同行したのが文鮮明だった。金と文はCIAのジョン・マッコーン並びにキャロル陸軍中将と会談するのが目的だったが、この訪米でネルソン&ディヴィッド・ロックフェラーと会った。文鮮明とネルソン・ロックフェラーは、ぜひ自分たちの目で世界統一政府実現を見届けたいと、たちまち意気投合した。


スプリングマイヤーによると、第2次世界大戦直後にロックフェラーは日本で密かにかなりの株式(又は資金)を保有していたが、その日本セクターが隠密裡に文鮮明に資金援助することを決定したという。彼の反共十字軍は、「ロックフェラーの新世界秩序に反対する日本の愛国的保守勢力を骨抜きにする」ことを使命にして動き出した。これが勝共連合だった。


スプリングマイヤーは、ロックフェラーと仕事をしている弁護士が自信をもって語ったことを次のように紹介している。

「ディヴィッド&ネルソン・ロックフェラーは、熱狂的なグローバリストだ。文鮮明だって、そうだ。統一協会の目的は、ロックフェラーが世界各国をがんじがらめにしようとしている国際的なタガを、キリスト教にはめ込んでしまおうというのだから。このゴールに到達するためには、チェース・マンハッタンの連中は、いわゆる共和党右翼と呼ばれる愛国者達を骨抜きにしなくちゃならんのだ。よく見てご覧なさい。文鮮明がやっていることは、それなんだよ」

なんと!ここにロックフェラーの名が出てきました。
なるほど世界皇帝がバックアップしてくれるなら「怖いものなし」です。

ロックフェラー家の実力は、米国政権の主要な顔触れをみるだけでもわかります。
★父ブッシュは、テキサスでロックフェラー財団に利権を売っていた石油採掘業者。
そして、その息子が現在の(911テロ事件当時の)大統領。
★ブッシュの右腕コンドリーザ・ライス国務長官は、ロックフェラーの石油メジャー「シェヴロン・コーポレーション」の社外重役。
★チェイニー副大統領はロックフェラーの石油メジャーと繋がる石油会社、ハリバートン元会長。
チェイニーの夫人はロックフェラー系の兵器産業、ロッキードマーチンの重役。
★ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、そのロッキード・マーチンと関係の深いシンクタンクであるランド研究所の理事。
つまり、今の(ブッシュの)米国政権は、ロックフェラー家の使用人で構成されているのです。



http://www.youtube.com/watch?v=Usbb5t5YqB4

ちなみに、このラムズフェルドが、北朝鮮がミサイル発射実験をしたことで日本に導入が決まったMD計画の主導者です。
先日、北朝鮮は核実験を強行し、またまた日本を騒がせましたが、興味深いことに、ラムズフェルドは北朝鮮の核施設開発に技術提供したスイスの核施設開発企業ABB.ltd.の役員でもありました。
統一協会が講演料名目で多額の報酬をブッシュ家に提供していることも有名であり、1995年9月14日に東京ドームでおこなわれた世界平和女性連合(統一教会の女性組織)の集会でも、父ブッシュ夫妻が出席し講演しています。
また、統一教会は、1982年にアメリカで保守系新聞『ワシントン・タイムズ』*2を創刊していますが、シオニズム活動を熱烈に支持し、特に右派リクードを支援しています。イスラエルのシャロンが、リクード党の党首選挙でネタニヤフに勝った時の資金も、統一教会から流れていたそうです。
さらに統一協会は、サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)とも友好関係を結んでいます。
SWCは、「戦後世界史最大のタブー、ナチ『ガス室』はなかった」という記事を載せた文藝春秋社の雑誌『マルコポーロ』を廃刊に追い込んだアメリカのユダヤ人組織(圧力団体)です。
ちなみに、創価学会も1993年からSWCと連携しています。公明党が推進した「人権擁護法案」という名と実のかけ離れた人権侵害法案は、おそらくこの連携から生み出されたものでしょう。
文鮮明は、次のような話もしています。
「2012年までには神の摂理のすべてを完成させなければなりません。イエス様が2000年前に受け入れられずに失敗したすべてを蕩減しなければならない。キリスト教徒はユダヤ人と共にそれを成し遂げなければならない。私は私の100%の力を投入し、イスラエルを救うために歩む覚悟でいます。すべてのアメリカ人が目覚め、そのことのために働かなくてはなりません。皆さんもそのようにお願いします。皆さん、キリスト教の指導者はキリスト教の統一のために働いて、それを成し遂げてください。」
「キリスト教の指導者はキリスト教の統一のために働いて、それを成し遂げてください」とは、まるでオプス・デイの代理人のようなセリフです。そして一番気になるのは「2012年までには神の摂理のすべてを完成させなければなりません」という言葉。聖書は、終末論を唱えています。「最終戦争のあとにキリストが再臨する」のを待ち望む"福音派"と同じ、危険な解釈をしているようです。
これは、言い換えれば「2012年までにキリスト教徒はユダヤ人と共に最終戦争を起こしましょう」という意味なのではないでしょうか?

おまけ
http://www.youtube.com/watch?v=ePaDTf6in7U


藤原肇著『小泉純一郎と日本の病理』には興味深い記述があります。

彼(小泉)に課せられた使命は、自民党を潰すことではなく、森政権を支えた張本人だったので、日本を潰すことだとアメリカでは見ています。日本人は誰も知らないが、アメリカでは彼は"隠れ統一教会"と見られています。5、6年前のデータですが、統一教会がアメリカの大学を出た優秀な連中を400人ほど、自民党の議員秘書に送り込んでいます。つまり、ここ数年、表面的には自民党政治が行われていたのですが、裏では統一教会が動いています。そこへ公明党が連立を組んでいる。これは私だけの見方ではなく、日本にいる外国人特派員たちの見方でもあります。

統一教会をただのカルト宗教と見るのは間違いのようです。
どうもここ最近の日本の"奇妙な"右傾化は、統一教会の影響が強まっている顕れなのではないでしょうか?


http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-785.htmlより。


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by kabu_kachan | 2014-05-30 21:11 | Comments(0)

坂本龍馬と幕末、そしてペリー提督とアメリカ

【秘密結社スカル&ボーンズ】

1832年に、米国の名門イェール大学に秘密結社スカル&ボーンズが設立されます。

The New World Order, World War 3, ISIS, The Secret Agenda Of Elite 2016 END OF DAYS COMING
https://www.youtube.com/watch?v=5My0TIXgs3Q


★創設者はアルフォンゾ・タフトとウィリアム・ラッセル。

アルフォンゾ・タフトは、ユリシーズ・グラント政権で司法長官と陸軍長官を務めました。息子は第27代米国大統領のウィリアム・タフトです。
ウィリアム・ラッセルは、ロスチャイルドとベアリングが支配する阿片貿易の利権を分けてもらった麻薬貿易会社ラッセル社の一族です。ラッセル社は、英国が独占するインド産阿片より質が悪いけど安価なトルコ産阿片を中国に持ち込み、そこで得た資金で「マサチューセッツ銀行」を設立(のちのボストン・ファースト・ナショナル銀行)しています。
スカル&ボーンズは、1856年には「ラッセル信託基金」の名の下に正規の法人格を取得しています。

ウィリアム・ラッセルがドイツに留学した際、どうやらイルミナティと接触したようで、帰国後にその秘密の儀式を真似て設立されたのがスカル&ボーンズです。

イルミナティとの違いは、スカル&ボーンズはホワイト・アングロサクソン・プロテスタントのみで構成されるという点ですね。ですから、WASPのみで構成された米国版イルミナティと言っても良いと思います。

初期の段階のスカル&ボーンズは、阿片貿易で巨万の富を得たニューイングランドの有力商家が中心でした。
17世紀に最初にアメリカにやってきたピューリタンの末裔たちが第1グループとされ、ホイットニー家、ロード家、ワッズワース家、アレン家、バンディ家、アダムス家、スティムソン家、タフト家、ギルマン家、パーキンス家などがあります。
第2グループは、18世紀から19世紀に巨万の富を得た名家で、ハリマン家、ロックフェラー家、ペイン家、ダヴィソン家、ピルスベリー家、ウェイヤハウザー家、そしてブッシュ家などですね。

★スカル&ボーンズの基本戦略

ウィリアム・ラッセルがドイツ留学から持ち帰ってきたもう一つのものが、ヘーゲルの弁証法です。スカル&ボーンズは、このヘーゲルの弁証法を戦略として採用しています。
どんなものかというと、簡単に言えば、まずテーゼ(定立)を立てて、それに対してアンチテーゼ(反定立)をぶつけて、ジンテーゼ(総合)を導き出すというもので、正+反=合という図式で表わせます。
自らの優位を導くために、世界の中に意図的に対立を引き起こし、緊張が極まったところで自分たちを有利に導く解決を提供するという方法論です。
●これもイルミナティと同じで、キーワードは「分裂と混沌」ですね。


★教育界とスカル&ボーンズ

スカル&ボーンズは教育界に大きな影響を与えてきました。
ティモシー・ドワイトがイェール大学長。
アンドリュー・ホワイトがコーネル大学の初代学長。
ジョン・ロックフェラーはロックフェラー大学とシカゴ大学を創立。
ダニエル・ギルマンは、カルフォルニア大とジョン・ホプキンス大の初代学長になっています。
このギルマンがロックフェラーたちと一般教育委員会を設立し、米国の学問を方向づけました。
また、ギルマンの愛弟子にジョン・デューイがおり、デューイはアメリカ「進歩主義教育運動」の思想的な柱となっています。 このジョン・デューイの教育思想と理論は、戦後日本の教育にも多大な影響を与えています。


★米政界とスカル&ボーンズ

スカル&ボーンズの中でも特に重要な人物がヘンリー・L・スティムソンです。
スティムソンは、セオドア・ルーズベルト、ウィリアム・タフト、ウッドロー・ウィルソン、カルビン・クーリッジ、ハーバート・フーバー、フランクリン・ルーズベルト、ハリー・トルーマンと7人の大統領の側近を務めました。


★彼は原爆を製造したマンハッタン計画の最高責任者でもあります。


陸軍長官であったスティムソンは、陸軍省内でスカル&ボーンズのグループを結成しています。
ジョン・マックロイ、ロバート・ロヴェット、マクジョージ・バンディ、ウィリアム・バンディ、ディーン・エイクソン、ジョージ・マーシャル、アヴェレル・ハリマン、プレスコット・ブッシュなど世界大戦時の重要な閣僚たちが名を連ねています。
このグループが、第二次世界大戦前から戦後にかけての重要な戦略政策を練り上げ、日独両国の占領政策の立案にあたりました。

また、このグループは戦略事務局(OSS)を創設し、以降、その後身である中央情報局(CIA)はスカル&ボーンズ人脈を中心に構成されています。
その他、スカル&ボーンズは、大学、財団、銀行、石油会社なども傘下に擁し、政府機関にも幅広く人材を送り込んできました。
もちろん、元大統領のブッシュもスカル&ボーンズ出身です。


★ロスチャイルドの代理人たち

1837年、米国のジョージ・ピーボディがブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入。ネイサン・ロスチャイルドの代理人となります。
ブラウン・ブラザーズのブラウン家はベアリング家の親戚ですね。ジョージ・ピーボディはギター・ピーボディ証券の一族でピーボディ基金の設立者として知られています。 このジョージ・ピーボディには子供がいなかったので、後継者としてジュニアス・モルガンを指名しました。これによりモルガン商会がロスチャイルドの秘密の米国代理人となります。
なぜ"秘密"なのかと言えば、当時、ユダヤ人は嫌われ者だったので「ユダヤ人なんかから金を借りたくない」という人たちがいっぱいいたんですね。そういう人たちはモルガン商会からお金を借りるわけです。
モルガン商会は「トラストのトラスト」と呼ばれ、十数社の鉄道事業を買収し再編成。1892年にはGEを設立し電気事業を再編。1901年には鉄鋼王カーネギーを買収してUSスチールを設立し鉄鋼業を再編。1907年には全米の電話を独占するAT&Tを買収します。
第一次世界大戦時には、英仏両国政府から公式代理人として選ばれ、戦時国債を米国で販売。米国における英国の公式貿易代理業者でもあり、あらゆる戦時物資を自らの所有する企業から購入して英国に送りました。
1920年には死の商人デュポンと組んでGMを支配。その他、テキサコ、IBM、シティバンク等にも投資を行い巨大化していきます。この頃には「モルガン商会は銀行ではない。アメリカの国家であり、アメリカの法律であり、アメリカの制度である」とまで言われたほどの影響力を持っていました。


1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントが米国へ派遣されます。
ベルモント商会は企業買収を繰り返し、ディロン・リードなど全米の金融機関を支配下に収めていきます。
オーガストは1849年にペリー提督の娘キャロラインと結婚。


★ユダヤ人ジャーナリストが書いた『ユダヤの告白』という本では、ペリー提督を日本に送り込んだのは、このオーガスト・ベルモントだと書かれています。その目的は、彼らは中国に阿片を売りつけていましたから、ついでに日本にも阿片を売りつけようとしたらしいです。本当かどうかわかりませんが、当時の状況を考えれば十分あり得る話だと思います。
ベルモント商会は、このペリー家やモルガン家と結びつきボストン財閥を形成していきます。

オーガストは、1856年には民主党の党首になり、約20年間、政治と実業界に影響を与えました。


1848年、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を発表しました。
執筆を依頼したバルーフ・レヴィという人物が、マルクス宛の手紙の中で、その目的を打ち明けています。
「この新しい人類の社会組織の中で、我々ユダヤ人はいかなる国家に属することもなく、また他の民族から何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、やがてその影響は全世界に及ぶことになるでしょう。そして、もし彼らの中の何人かの賢者が、これら労働大衆のうちに確固たる指導権を打ちたてることに成功するなら、プロレタリアの勝利によって次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これらプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることができます。要するに、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入るのです。かくして我々ユダヤ人のメシアが到来する時、ユダヤ人は全世界の民の財産をことごとくダビデの星の下につかさどるであろうと言い伝えられてきたタルムードの予言が実現されることでしょう。」


1848年、ロスチャイルドにつながる"二百家族"によってフランス銀行が独占的に支配されます。 この銀行支配を通じて産業界も"二百家族"によって支配されることになります。


1853年、米国よりペリー提督が艦隊を率いて来航し、砲艦外交によって開国を迫まります。 砲艦外交って言うのは、要するに大砲で脅して言う事を聞かせる"押し売り"みたいなものです。


1859年、トーマス・ブレーク・グラバーが来日。武器商人として明治維新の裏で暗躍します。
長崎では今もこのグラバーの屋敷が観光名所になっていますね。
グラバーは中国に阿片を売りまくって阿片戦争を引き起こした麻薬貿易商社ジャーディン・マセソン商会の代理人で、ロスチャイルド傘下のロイズ保険や香港上海銀行等の代理店も務めていました。
ちなみに、今や世界一の金融グループとなった香港上海銀行ですが、ロスチャイド、ベアリング、サッスーン、ジャーディン・マセソンという錚々たる麻薬貿易商人が設立時の役員として名を連ねています。つまり、中国へ売りつけた阿片の代金をイギリスに送金するためにつくられたのが香港上海銀行です。

★ジャーディン・マセソンが資金を出して、グラバーが手引きをし、1863年には伊藤博文や井上馨など五人の長州藩士が英国に密航しています。
また、1865年には五代友厚ら17人の薩摩藩士も英国に密航させています。のちに彼らが明治政府の要人となるわけですね。
武器商人であるグラバーは、坂本龍馬の亀山社中を通じて薩長に武器弾薬を提供しました。
グラバーは英語教師もやっていて、教え子であった岩崎弥太郎と共に三菱財閥の基礎もつくっています。


http://rothschild.ehoh.net/lecture/rothschild_03/index.htmlより。


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by kabu_kachan | 2014-05-24 13:07 | 歴史 | Comments(3)

坂本龍馬の正体

明治維新は、スコットランド系フリーメーソンの武器商人トーマス・グラバーの存在なしには、成しえる事はありませんでした。 

織田信長の戦国時代に、既に銃が勝敗を決める武器として認知されていたにも関わらず、徳川時代になると刀に逆戻りしますが、世界の軍事史でも武器が逆行するのは極めて珍しい事であります。  これは、徳川が銃の怖さを知っていた為で、徹底的に取り締まっていたのです。  徳川時代の鎖国とは、諸大名が欧米から銃や火薬を輸入しないように、徳川が管理していたもので、実際は徳川の独占貿易と呼ぶべきであります。  実際、長崎は開かれていたのですから。


1865年4月に、アメリカの南北戦争が終わり、売れ残った小銃などが大量に上海市場に出回っていました。  

これを仕切っていたのが、ロスチャイルド系の総合商社であるジャーディン・マセソン商会で、上海に事務所を構えていました。 悪名高き阿片を、中国人たちに売りつけていたのもこの会社です。

グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店も兼ねることにもなりました。  これらの商社は全て、中国への阿片貿易で巨万の富を築き上げた会社です。

当時、日英通商条約の第三条に、 「軍用の諸物は、日本の役所の外に売るべからず」 とあり、表向きにはジャーディン・マセソン商会は、武器を薩長に売ることは出来ませんでした。

そこで、ジャーディン・マセソン商会は、代理人のグラバーを巧妙に使い、グラバーは物々交換という形で、この条約の網の目をかいくぐりました。

グラバー商会は、長州から米・麦・塩などでの支払いを認め、それをジャーディン・マセソン商会に持ってゆき、それを薩摩藩が買い上げるというもので、薩摩藩とイギリスは既に武器取引を行っていた実績があり、気心が知れていたために、この三角貿易は成立したのです。

グラバーは、この取引に坂本龍馬を代理人として使い、この貿易に絡んで仲の悪かった薩摩藩と長州藩を結んだのが、坂本龍馬がつくった貿易商社「亀山社中」であるのです。

坂本龍馬は、徳川幕府側の勝海舟と親密な関係にあり、幕府側への工作、また幕府を欺く目的には適していたことと、グラバーも日本でビジネスをするなら、表向き徳川幕府を敵に回すのは得策で無いからです。

亀山社中は、1865年5月に結成され、7月になると長州藩の井上馨と伊藤博文が長崎でグラバーと会って、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでおり、龍馬が最初に買い付けた7800挺は会社が設立されて、わずか3ケ月後の事でした。

この時、亀山社中の実務、及び資金提供を行ったのが小曾根英四朗で、1864年2月に長崎に来た勝海舟から龍馬を紹介されています。

商売に関して、ど素人の坂本龍馬が、会社設立後わずか3ケ月で大きなビジネスができたのは、ジャーディン・マセソンとグラバー商会、そして薩摩藩、長州藩の間で段取りが全て出来上がっていたからであります。

明治維新の英雄である坂本龍馬は、ロスチャイルドがバックに控えるジャーディン・マセソン商会、そしてその代理人であるグラバーの操り人形であったと言う事ができると思います。

巨大資本を持ち武器商人でもあったロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が裏にいるからこそ、薩摩藩・長州藩、そして徳川幕府も、しがない脱藩浪人の坂本龍馬に一目置かざるを得なかったのです。

そして、黒幕の思い通りに動かなくなった龍馬は、彼らにとっては用無しで、残された運命は抹殺。  

私の推測に過ぎませんが、彼らはフリーメーソンつながりで、イギリス・オランダ・フランス・アメリカは組んで(実際1865年5月 「四国共同覚書」を作成しています)、欧米のワンパターンである植民地の統治法である、「自分たちは双方につき、仲間割れを起こさせる」という作戦で、日本国内の国力を弱めた後で、植民地化する予定、また戦争の長期化による武器ビジネス拡大予定だったのに対し、坂本龍馬の公武合体思想、及び秘密を知りすぎたところが問題視され、刺客を向けられたのではないかと考えております。

もちろん、明治新政府のメンバーたちは、彼らの手下となって地位を得た人達ばかりですから、龍馬暗殺の実行犯を知っていても、闇に葬り去る事は簡単であったと思います。



http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/620.htmlより。


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by kabu_kachan | 2014-05-23 10:05 | Comments(0)

「サッスーン財閥」の歴史

「サッスーン財閥」の歴史


●「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)には、「サッスーン財閥」の歴史について詳しい説明が載っている。


■エトランゼの上海


◆上海は清朝がイギリスとの「アヘン戦争」に敗れた結果結ばれた「南京条約」により、1843年11月開港した。

上海はイギリスによって、イギリスのために開港され、イギリスの中国市場支配の拠点となった。これは動かしがたい事実である。


◆自由貿易による世界市場を展開するにあたって、19世紀半ばのイギリスは、シンガポール以東の西太平洋地域においては、各地域の政治経済の中心地に近く、かつほとんど無人の地に良港を獲得し貿易拠点とする戦略を取っていた。シンガポールに加え、香港・上海・横浜などはみなこの戦略に合致する港である。

旧イギリス租界の正面に位置する外灘の建築列のファサードには、現在でも上海がイギリスを始めとする列強の中国市場支配の拠点となってきた歴史が色濃く刻み付けられている。しかし人々がそれを「偽りの正面」と呼ぶように、上海を単に国際貿易の要という意味で外から眺めた場合においてさえもその奥にひしめくものに気付かされる。 〈中略〉


◆イギリス勢力が東アジア海域に進出した18世紀末にその貿易の中心となっていたのは、「イギリス東インド会社」というより会社によってライセンスを付与された地方貿易商人であり、彼らが従事したのは、イギリスとアジアとの貿易というより「アジア間貿易」であった。

さらにこの時期にはイギリスによるアヘン三角貿易によって「アジア間貿易」が拡大せしめられていた。

 
■アジアの都市・上海


◆この「アジア間貿易」自体は、ヨーロッパの大航海者が参入する以前から、「海のシルクロード」として、また中国を中心とする朝貢貿易のネットワークとして存在しており、そこは日本と琉球・中国・東南アジアやインド・イスラム圏の商人たちが活躍する舞台であった。

最近「海のシルクロード」と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏には、航海・造船技術の点でも中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の構造船が航海の主役となっていた。

そこにはイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も含まれていた。

たとえばインド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来ユダヤ人貿易商が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占した。

現在もコーチンで胡椒の取引を行なう市場は「ジュー・タウン」(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。


◆「サッスーン財閥」は、上海開港後にいわば二番手として登場したイギリス商社で、イギリスの支配する開港場上海の代表とも目されるが、その実、サッスーンは二代のうちにアラブ圏のユダヤ人からイギリス紳士へと変身を遂げたユダヤ商人であって、アヘン三角貿易の申し子ともいうべき存在である。

イギリス紳士とはいいながら、その存立の基盤の一方はユダヤ人のネットワークに置いており、いわば「海のシルクロード」を舞台とするアジア人の商人という性格を持ち続けていた。

イギリスのアジア市場展開の一面はサッスーンの活動を通じてより明らかとなろう。

 
■「海のシルクロード」とユダヤ人サッスーン


◆上海外灘のウォーターフロントでもっとも目立つ建物といえば、旧香港上海銀行(上海本店)と並んで、現在和平飯店北楼として使われている旧サッスーン・ハウスであろう。

私は1970年代末の最初の訪中のときに和平飯店に滞在して旧名がキャセイホテルだということを聞き、その後の滞在の間にこのホテルがイギリスのユダヤ人財閥によって建てられたことを知った。そのユダヤ人財閥はサッスーンといい、ジャーディン・マセソン、バターフィールド&スワイヤー、英米タバコと並ぶ上海のイギリス系四大財閥の一つであった。

「サッスーン財閥」はイギリスでもロスチャイルドと並び称されるユダヤ人大財閥であったが、いろいろな点でロスチャイルドとは対照的であった。

何よりも、ロスチャイルド家がドイツのフランクフルト出身のヨーロッパのユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジアのユダヤ人、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であった点である。


 ◆「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続き活動の場を広げていった。

もともとイスラム世界には「ユダヤ人」という考え方はなく、「啓典の民」ユダヤ教徒として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていた。


◆サッスーン家の祖先も、代々、イスラム帝国の都であったバグダッドの名族で、オスマン帝国の支配下では、オスマン帝国によって任じられたバグダッドの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官のもとで、主席財政官の地位を与えられ、ユダヤの「族長(シェイク)」とみなされていた。

ところが18世紀後半になると、バグダッドではユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サリは一時族長の地位を追われた。1826年、サリの子デビッド・サッスーン(1792~1864年)が族長の地位を引き継いだが、彼は「ヴァリ」の迫害に抗議したため身に危険が迫ってきた。

1829年、デビッドは老父を伴い、夜陰に乗じてバグダッドを脱出し、バスラに移住した。バスラは別の「ヴァリ」が統治していたが、ここもサッスーンにとって安住の地ではなく、間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)の対岸、ペルシアのブシェルヘと再度移住した。ブシェルは当時ペルシアにおける「イギリス東インド会社」の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。

 
★デビッド・サッスーン
インドのボンベイで「サッスーン商会」を設立し、アヘン密売で莫大な富を築く。「アヘン王」と呼ばれた。

 

◆1832年、デビッドは商用でインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れ、イギリスの勢力を目のあたりにした。熟慮の末、同年デビッドはサッスーン家を挙げてボンベイに移住を果たした。

当時のボンベイは人口20万、ユダヤ人も2200人を数えた。この頃ボンベイは発展の時期を迎えていた。産業革命後、イギリスのランカシャ綿製品がインドに流入し、「東インド会社」の貿易独占も廃止され、ビジネスチャンスが広がっていた。

ボンベイに来たデビッドは、1832年に「サッスーン商会」を設立し、ボンベイで本格的に活動を開始した。

★これが「サッスーン財閥」の始まりである。


◆この頃、イギリス綿製品がインドヘ、インドのアヘンが中国へ流入するという「アジア三角貿易」が形成されてきていた。このルートに乗って「サッスーン商会」はイギリスにも支店を開設し、ランカシャ綿の輸入などにあたるほか、後述のように「アヘン貿易」に従事した。

また、1861年アメリカで南北戦争が起こってアメリカ綿花の取引が途絶すると、「インド綿花」を輸出して巨利を上げた。


◆デビッドは1864年に死去したが、「サッスーン商会」は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンのもとで発展を続けた。

 

■「アヘン王」デビッド・サッスーン


◆デビッド・サッスーンは1854年にイギリス国籍を取得したが、アラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。彼はアラビア語・ヘブライ語・ペルシア語・トルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。


◆デビッド・サッスーンはイギリスの世界市場展開に伴ってアジア市場に参入したかに見えるが、事実は逆であることは、彼自身の生活態度に現れている。

すでに大航海の初発、すなわち15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路発見」のとき、インドでガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。

デビッドがバグダッドを脱出してボンベイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークを通じたからであった。そしてイギリスがアジア市場に進出してきたのも、大航海以前に既にアジアに存在していた、中国からインドを経てアラビア世界にいたる交易圏を前提にしていたのであった。

 
◆デビッドはビジネスで成功すると、同胞のユダヤ人への恩を忘れなかった。彼は私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。特に、1861年、バグダッドにユダヤ教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、後継の養成に資したことの意義は大きい。

「サッスーン商会」の幹部職員はこのユダヤ学校からリクルートされることになったのであり、「サッスーン財閥」が「イギリス帝国主義の尖兵」という姿の奥に「海のシルクロードのユダヤ商人」という原籍を持っていたことは、その活動の最後に至るまで見出すことができる。


 ◆ボンベイの「サッスーン商会」は2代目アルバート・サッスーンのもとで工業投資に力を入れるようになった。

1885年以後、「サッスーン商会」は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド工業化に大きな役割を果たした企業の1つと評価されるようになった。

インドでサッスーンが産業資本の性格を持つという事実は、上海におけるサッスーンの活動とは好対照をなすといえよう。またアルバートは親子二代にわたる多大な慈善事業が評価されて、1872年、ナイトに叙せられた。この地位は上海のサッスーン家にも引き継がれていくことになる。

 

■上海と「新サッスーン商会」


◆デビッドがアジア三角貿易展開のため東アジアを重視したのは当然である。彼が華南の商業圏に参入したことは、「サッスーン商会」のターニング・ポイントとなった。

「南京条約」(アヘン戦争に敗北した清朝が南京でイギリスと結んだ条約)締結後の1844年、デビッドは次男のイリアス・サッスーンを広東に派遣した。次いでイリアスは香港に移動し、1845年には上海支店を開き、後には日本の横浜・長崎そのほかの都市にも支店網を広げた。

そして上海が「サッスーン商会」第2の拠点となった。

ところで、中国におけるユダヤ人の足跡も、イギリスの世界市場展開を遥かにさかのぼる。イリアスも、1844年に中国に来たとき、10世紀から存在した開封のユダヤ人について聞いたはずである。彼らは完全に中国人に同化しながら清代にまで生き延び、1652年にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を再建していた。


 ◆イリアスの弟アーサー・サッスーンは1865年、「香港上海銀行(HSBC)」の設立にも参加し、中国での活動の地歩を固めた。

しかしデビッドの死後、「サッスーン商会」の管理権はユダヤの慣習に従って長子アルバートが継承したので、イリアスは1872年、別会社として「新サッスーン商会」を設立した。上海の「サッスーン商会」の活動は、この新会社が中心となった。

 

◆「新サッスーン商会」の活動は次の三期に分けられるとされる。

第一期は1872~1880年、「アヘン貿易」を中心とする時期。

第二期は1880~1920年、イリアスの子ヤコブと
 エドワードの時代で、不動産投資に精力が注がれた。

第三期は1920年以後、エドワードの子ビクターが不動産だけでなく、
 各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期である。


 ◆19世紀の新旧「サッスーン商会」の営業は、何といっても「アヘン輸入」が中心である。この点は、ほかの外国商社と比較しても際立っている。

開港間もない1851年、上海に入港した外国商社の船のうち、ジャーディン・マセソン、デント、ラッセルの3大商社のうち、イギリス系の前3社はいずれもアヘン輸入を大宗としたが、サッスーンの船2隻に至ってはアヘンのみを搬入し、空船でインドに帰っている。

1870~1880年代にはインドアヘン輸入の70%はサッスーンが独占した。サッスーンの強さは、他社とは違い、アヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。

 
◆デビッドの孫ヤコブ・サッスーンの代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス国内でもアヘン禁止の声が高まり、1908年には「中英禁煙協約」が締結された。それでもサッスーンがアヘン取引にこだわったことは、1920年代の「新サッスーン商会」の文書からも明らかである。アヘン禁止による価格の上昇が巨利をもたらしたからである。

 

■「アヘン王」から「不動産王」へ


◆「サッスーン財閥」はアヘンで儲けた金を土地の買い占めに回したと非難されるが、20世紀にはアヘンなどの商業に加えて不動産も主要業務となる。

サッスーンが1877年、最初に手に入れた土地は、あの和平飯店の土地、サッスーンの活動拠点となる「サッスーン・ハウス」の土地であった。「新サッスーン商会」が不動産事業に乗りだしたのは、上海共同租界当局の工部局が財政需要の増大から土地捐をしばしば引き上げたため、地価が不断に上昇し、土地投資が有利となったためである。

「サッスーン財閥」はユダヤ人の不動産王サイラス・ハードンから上海の繁華街南京路の不動産を入手したのを始め、さまざまな手段を用いて不動産を取得し、また建物の賃貸業務などで利潤を上げた。1941年までに上海に建てられた26棟の10階以上の高層建築のうち、6棟が「サッスーン財閥」の所有であった。

「サッスーン財閥」は1926年に「キャセイ不動産」を設立したのを始め、たくさんの子会社や関連企業を設立して業務を拡大し、上海の「不動産王」となった。

 
◆上海を代表するユダヤ人不動産王にあって、サッスーンとハードンは対照的である。

ハードンはサッスーンと同じくバグダッド(現イラク)に生まれたユダヤ人だが、サッスーンのようなユダヤ名族ではなく、5歳でボンベイに移住し、1873年にサッスーンで働いていた父の友人を頼って香港から上海に来たときは無一物であった。彼は上海の「サッスーン商会」に雇われ、1886年には「新サッスーン商会」に移った。そして1901年に独立し、不動産業に乗りだした。

サッスーンがイギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルドとも姻戚関係を結んだのに対し、ハードンは租界の範囲において1887年にフランス租界公董局董事となり、1898年には共同租界工部局董事になるほか、さらに中国そのものに同化していった。この点では、彼の中国人の妻・羅迦陵(らかりょう)の影響が大きい。彼女の影響でハードンは篤く仏教に帰依し、1904年には「ハードン花園」を建造して中国の人士と交際するサロンとした。その中には清朝の皇族から革命派の人物までが含まれる。

しかしサッスーンは武器売却先の軍閥など取引相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行なった慈善事業の対象も、中国ではなく、世界のユダヤ同胞が中心であった。

 

■「上海キング」ビクター・サッスーン


◆ビクター・サッスーンは1924年、父エドワードの死により爵位と「新サッスーン商会」の経営を引き継いだ。彼はケンブリッジのトリニティ・カレッジ出身の完全なイギリス紳士であり、若くから航空マニアで、第一次世界大戦中にはイギリスの航空隊に加わって負傷した。

 
◆彼が上海に君臨したことを象徴する建物がかの「サッスーン・ハウス」である。このビルはパーマー&ターナーの設計で、1929年に完成した。ヨーロッパ式に数えて10階建(日米式では中2階を含めて12階)で、4階から上はホテル、10階は彼自身の住居にあてられた。

彼はまた上海西郊の虹橋路に買弁の名義で別荘を営んだ(現在の龍柏賓館)。

さらに、租界の治外法権を利用して中国側の建築計画にも干渉した。1934年、「サッスーン・ハウス」の並びに中国銀行のビルが建ったが、当初の計画ではマンハッタン風の34階建の摩天楼になるはずであった。ところがサッスーンはロンドンで訴訟を起こし、自己のビルより30cm低い中国風の屋根を持つ現在の建物に計画変更させてしまったのである。

 
◆「サッスーン財閥」は、産業資本・金融資本としての地歩をも固めた。

インドの「サッスーン商会」と比べると、上海に中心を置く「新サッスーン商会」は後までも「アヘン貿易」にこだわり、工業投資はあまり活発ではなかったが、この状況を変えたのが、1923年の安利洋行買収であった。安利洋行の前身はドイツ系の瑞記洋行で、第一次世界大戦後は共同経営者であったイギリス籍ユダヤ人のアーノルド兄弟が安利洋行として復業した。アーノルドは上海共同租界の工部局董事や総董を歴任する一方、紡績・造船などさまざまな企業を興していた。ところが1923年の不況時には経営不振に陥り、サッスーンの買収に帰した。業績不振の企業やその不動産を乗っ取るのはサッスーンの常套手段であった。間もなくサッスーンは経営陣からアーノルド兄弟を駆逐し、すべてを自己の支配下に置いた。

この結果「サッスーン財閥」は、紡績・機械・造船・木材のほかバス会社(中国公共汽車公司)をも傘下に置いた。

「サッスーン財閥」はまた1930年、香港に「新サッスーン銀行」を設立し、上海・ロンドンなどに支店を開設するほか、いくつも投資会社を設立して金融力により上海の産業を支配した。 〈中略〉


◆第二次世界大戦後、租界が回収され、中国の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小した。そして1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。残った不動産も1958年に至り最終的に中国に接収され、「サッスーン財閥」は中国から姿を消した。

時は移って現在、かつて上海最大のイギリス財閥であった「ジャーディン・マセソン商会」は香港からバミューダに本社を移す一方、再び中国との関係を深めている。この動きと比べると、興味深い。

★ジャーディン・マセソン商会
この会社の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で、「アヘン戦争」に深く関わった。(1841年に本社を香港に移転した)。

 
◆史上イギリス資本の世界市場展開、イギリス帝国主義のアジア支配と呼ばれている事態も、事実に即していえば、まずアジア市場を開拓したのはもともとこの海域でアヘン密売をしていた地方貿易商人のジャーディンやマセソンであった。さらにさかのぼると、イスラム圏からインド圏を経て東アジアに至る海域にはイスラム商人やユダヤ人・アルメニア人などが活躍していた。

サッスーンもこのルートに乗って中国に至ったのである。

さらに開封のユダヤ人やサイラス・ハードンのように終着点の中国に安住の地を見出す人々(ユダヤ人)もいた。これからの世界に占めるアジアの力量を考えると、アジアの海から世界を見る視角も意味を持ってくるといえよう。


以上、日本上海史研究会[編] 『上海人物誌』(東方書店)より。

 

 
 

 


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by kabu_kachan | 2014-05-16 17:38 | Comments(0)

サッスーン財閥とジャーディン・マセソン商会

★サッスーン財閥は、18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤの富豪家族で、オスマントルコ治世には財務大臣を務めるほどの政商となっていました。 この一族に生まれたデヴィッド・サッスーンは、バグダッドに生まれ、インドに進出、1832年に阿片の利権を求めて、ボンベイに移住しました。 

Sassoon & Rothschild Family Tree600
 
彼は、上海を中心に中国北部を支配したフリーメーソン組織「イングランド系北支地区大結社」の首脳の一人でありました。  


当時は、イギリスが1773年からインドでのアヘン専売権を武力で獲得し、東インド会社の貿易を通じて、中国にアヘンを売りつけ、アジアから銀を巻き上げる麻薬貿易により、ロンドンのシティに莫大な富をもたらしていた時代でした。


そして、1842年のアヘン戦争に敗北した中国は、香港をイギリスの植民地とする敗戦条約に署名をしなければならなくなり、同時に上海などいくつかの港を開き、イギリス領事館を置くことに同意させられました。

イギリス最大の銀行である HSBC(香港上海銀行)は、こうしてアヘン貿易で得たお金で、1868年に創られたものであります。


「阿片王」 デヴィッド・サッスーンは、1864年にこの世を去っており、HSBCはデヴィッドの5男のアーサー・サッスーンが最大の株主となり、香港上海銀行は設立されました。  その出資者は、サッスーン一族がリーダーとなり、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイドに関係する役員で構成されていました。

デヴィッドの長男は、アルバート・アブダラ・サッスーンといいますが、彼はインド西岸にはじめてドッグを建設し、その名も「サッスーン・ドッグ」を足場に海運事業を興しており、

当時イギリスの風刺画に彼は、「インドのロスチャイルド」と称されていました。


しかし偶然と言うものは恐ろしいもので、アブダラの息子エドワード・サッスーンの妻の名はアリーン・ロスチャイルド、何と本当のロスチャイルド家の娘と結婚したのです。 その後も、この両家は複雑に婚姻関係を結び、中国とインドで悪いことばかりしていたのです。


サッスーン一族は、アヘンで莫大な富を築く一方で、わが国の片岡物産が代理店となっているイギリス紅茶の総元締めとしても知られました。 

紅茶と麻薬は、同じ場所の畑で栽培されていたのです。 我々が呑気に飲んでいるイギリス紅茶の裏側では、人権を無視され家畜の如くムチ打たれるインドの人々と、アヘンで廃人同然にされた多くの中国の人々がいた事を忘れてはなりません。


日本でなじみのあるサッスーンといえば、神戸市北野町にある異人館、サッスーン邸がありますが、これは実際に居住していたユダヤ系シリア人のデヴィッド・サッスーンの名をとったもので、現在は結婚式場になっています。  名前は同じですが、最初にお見せした写真のデヴィッドではありません。  

女性の方なら、サッスーンと聞けば、安室奈美恵が宣伝する、ファッション界でヘアースタイリストとして有名なヴィダル・サッスーンを思い起こすと思いますが、ヴィダルの息子が神戸のサッスーン邸に住んでいたデヴィッド・サッスーンで、先祖は「阿片王」のデヴィッド・サッスーンです。


★ジャーディン・マセソン商会は、元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身のユダヤ人で、カルカッタで貿易商として独立し、マニアック商会の共同出資者であったジェームズ・マセソンにより、1832年に中国のマカオに設立された貿易商社で、主なビジネスはアヘンと紅茶で、東インド会社後期の利権をめぐって、サッスーン財閥と激しく争っていました。  その後、アヘン戦争が終わると、1941年に本社を香港に移しています。

明治維新の功労者で、フリーメーソンでもあるトーマス・グラバーが長崎に設立した 
「グラバー商会」 は、このジャーディン・マセソン商会の代理店でありました。


サッスーン財閥と激しく争ったジャーディン・マセソン商会ですが、1877年に、ジャーディン一族と結婚したファミリーとしてとケズウィックという人物が現れ、サッスーン=ロスチャイルド連合との和解を申し出て、このアヘンにまみれ、悪いことばかりしている2つの会社は手を組むことになりました。

そうして、このジャーディン一族のウィリアム・ケズウィックはサッスーン一族(ロスチャイルドと親戚)が最大株主であるHSBC(香港上海銀行)の取締役として迎えられ、

そうして、ジャーディン家・マセソン家・ケズウィック家・ロスチャイルド家・サッスーン家は複雑に婚姻関係で結ばれていきました。

大英帝国のヴィクトリア女王の時代に、アヘン戦争は起こりましたが、その莫大な利益により、その富を取り扱う銀行が必要になりました。

1864年、太平天国が滅亡し、メーソン・ロッジが上海に林立した年、ロンドンで植民地協会が設立され、その4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によって、王立直轄植民地協会と名を改め、この王立直轄植民地協会によって創立された金融機関が、
HSBC(香港上海銀行)であります。

出資者は、デビッド・E・サッスーン商会、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンのジャーディン・マセソン商会、そしてロスチャイルド人脈の役員によって構成されているバークレイズ銀行であり、全員が高位フリーメーソンのメンバーであったのです。

東インド会社の蛮行が世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅しますが、名を変えてその利権は、HSBC(香港上海銀行)、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥、ジャーディン・マセソン商会などが引き継いでいったのであります。

少し、話は飛びますが、アメリカ大統領は以前はハーバード大学出身者で占められていましたが、最近ではブッシュ大統領はじめエール大学のスカル&ボーンズ出身者が幅を利かせています。  

このスカル&ボーンズを創設したのが、エール大卒業生のウィリアム・ラッセルとアルフォンゾ・タフトですが、このウィリアム・ラッセルのいとこが、中国のアヘン戦争の引きがねとなる世界最大のアヘン密輸企業のジャーディン・マセソン社と手を組んでいた、ラッセル・アンド・カンパニーの経営者であります。 あの名門エール大学も、その資金は中国のアヘンの利益から得ていたのです。

ジャーディン・マセソン商会は、超高級コニャック「ヘネシー」を販売し、日本では「ホワイトホース」の輸入業者として知られていますが、あのマンダリン・ホテルGrもジャーディン・マセソン商会が運営しているものです。

1963年に、香港に拠点を置くイギリス系の大手総合商社・ジャーディン・マセソン商会のヘンリー・ケズウィック会長の指導の元、当時イギリスの植民地であった香港のセントラルにオープンした「マンダリン香港(現在のマンダリン・オリエンタル香港)」が始まり、その後社名をマンダリン・インターナショナル・ホテルズと改名し、1974年には、タイのバンコクにある有名ホテル、「ザ・オリエンタル・バンコク」を買収し、1985年に現在のマンダリン・オリエンタルホテルグループの社名に改名しました。

現在、13カ国に21(約8,000室)のホテルを展開し、シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツや香港&上海ホテルズと並び、アジアを代表する高級ホテルチェーンとして欧米でもその名が知られており、2005年12月2日には日本初進出となるマンダリン・オリエンタル東京が日本橋にオープンしています。


ロスチャイルドグループであるLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシ-)の洋酒販売部門は、元ジャーディン・マセソンとダルモア蒸留所の合弁洋酒会社(ジャーディン・ワインズ&スピリッツ)からジャーディンが合弁から離脱し、LVMH傘下となり、MHDディアジオ・モエ・ヘネシーという会社になったものです。


また、明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑(Choshu Five)が、グラバーの仲介で、イギリスに密航しロンドン大学に留学に行きましたが、そのときの船はジャーディン・マセソンのもので、彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソンでした。

このように、明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥と深く関わっているのです。

明治維新では、ジャーディン・マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍は「グラバー商会」を通じて、銃や軍艦なども輸入しています。

その取引のダミー商社が坂本龍馬が長崎に設立した「亀山社中」であります。  
この「亀山社中」は、後に「海援隊」と改称されました。


http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.htmlより。
     ↑ここに聞いたらどうですか?

もう一つ追加。

サッスーンの話からするか。
 
ロスチャイルド系アジア担当とも言えるユダヤ財閥サッスーン家は、もともとはイスラエル亡国後に、スペインのグラナダを経てギリシャのサロニカに流れ、十六世紀にはイラクのバグダッドでシルクロード貿易で巨万の富を得ていた。
 
1831年、バグダッドで生まれたディビッドがインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立する。
これが英国東インド会社による阿片の専売権を受け持つ事になる。
 
で、英、印、中国(清)の三角貿易で阿片戦争が起きる。
英国の勝利、上海、香港を本格的拠点として、阿片にとる欧米のアジア進出の図式は決定的なものになる。
その代理店が、当時の上海で支店「E・D・サッスーン・カンパニー」を開いていたサッスーンなのである。
で、アヘン貿易の利益をプールする役割を持ったのが、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などと共に作った香港上海銀行、今のHSBCである。サー・フィリップ・サッスーン。
 
簡単に、平たくして言うとこんな感じ。
 
 
しかし、サッスーン=アジア進出のロスチャイルド組織は、イオリア・シュヘンベルグ・・・・じゃなかった、ショーン・アイゼンベルグによって乗っ取られる事になる。

イスラエルの諜報組織、モサドを作った一族であるアイゼンベルグは、ロスチャイルド子飼いの部下、戦前から中国アヘンを仕切って来た中国在住のサスーン一族を皆殺しにしているわけです。
 
この時、阿片ネットワークの乗っ取りも行われ、これは当時の関東軍及び、日本人も関係している。中国阿片王である里見甫である。
そして旧三井と三菱の軍事産業のところが、この乗っ取りに協力したわけである。
ここらへんの一部は、ハリマンと満鉄の関係に繋がります。
アイゼンベルグ社の大株主が、アメリカの副大統領をつとめていたディック・チェイニーであることでも、アメリカ軍事産業=ロックフェラー=アイゼンベルグの図式になっている証明でもありますね。
 
ここらへんが上海=サッスーンだったのが、上海閥=ロックフェラー陣営(アジアではJもかなり混じっている)となった経緯です。

ちなみに、シャンプーの「ヴィダル・サッスーン」は、60年代ロンドンでモッズを流行らせたユダヤ系カリスマ美容師のヴィダル・サスーンからきていて、このサッスーンと同族である。日本ではP&G。
そういえば、冬ソナペンション=統一教会も報道した時にP&Gがスポンサーだったな。
で、そのシャンプーのCMをやってる安室奈美恵などが所属していた「沖縄アフターズスクール」は、サッスーンから麻薬利権を奪い取った日本陸軍、それと関係が深い昭和通商の牧野雅広の息子が作った芸能プロダクションという不思議な話であるそうな。
 
 
この乗っ取りがあったために、ロックフェラー陣営がJとD混ざっている状況にもアジア、上海やら香港はなっているわけです。
江沢民(上海幇)の息子、江綿恒がゴールドマン・サックス勤務とかね。
サッスーンからアイゼンベルグに乗っ取る際は、赤幇や青幇もサッスーンを裏切ってるわけです。
 
 
この白人支配の間接統治が華僑であり、その中核をしめるのが客家である。

この乗っ取られはしたが、サッスーン財閥やオットー・ウルフ財閥(仏)などによって出来た金融システムは、華僑人脈(客家)のアジア中央銀行グループなどのコミニティに継承されている。
 
サッスーンからのアイゼンベルグの乗っ取りが成功したのは、「日本の協力」とともに、サッスーンが中国共産党ではなく、中国国民党よりであったからとも言われている。
フグ計画の際には、サッスーンは蒋介石を支援し、日本との対立は激化したわけです。
サッスーンからアイゼンベルグ、日本陸軍が乗っ取った時期は、1940年頃であり、その当時、新日鉄の会長であった永野重雄の娘とアイゼンベルグは結婚していたりします。
 
この満州族(日本支援)に対して、サッスーン系が力を失ったのにも理由があります。
この根底にも漢民族にとっては、清朝という満州族支配(ツングース)=日本支援の図式は、自身の国ではなく、あくまでも対立図式であるということです。
この民族対立の図式は、「正統な漢民族」を自称するマイノリティ、客家も同じで反清復明を掲げている。
 
つまり、清も満州支援の日本が嫌いだったわけです。

清の官僚、袁世凱を中心とする北洋軍閥と中国国民党が対立した際、満州国を中国国民党が黙認する形になり、それが結果として漢民族勢力や客家の支持を失いました。

サッスーンは、阿片戦争で、この清(北洋軍閥も)と繋がっており、そして中国国民党よりの立場でしたので(双頭)、その両方が「漢民族として好ましくない態度をとった」ということで、サッスーンと客家勢力の対立図式になってしまったわけで。

そこで結果的に中国共産党が、のし上がる形になるわけです。
で、アイゼンベルグと日本の「中国麻薬利権の」乗っ取りがうまくいったと。
 
だから、その部分では客家は「清やサッスーンに対して、日本と協力して麻薬利権乗っ取りをしている」わけです。
しかし、この中国共産党がのし上がった経緯なども「反日である事が必須条件」みたいになってしまったわけです。
漢民族、そして客家の支持を得る為にね。
そそ、中国共産党と中国国民党、「どっちが反日か競争!」みたいになっていたのは。そこは漢民族のお話ということです。
反清復明という都合から。
 
どっちも、日本留学や日本亡命だらけなのにね。
 
http://www.mkmogura.com/blog/2009/10/16/470#comment-42298  

サッスーン財閥の歴史
http://kabukachan.exblog.jp/22126720/




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by kabu_kachan | 2014-05-16 11:07 | 歴史 | Comments(1)

グラバーについて

グラバーは、スコットランドの寒村フレイザーバラで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5番目として生まれ、11歳の時さほど遠くない港町アバディーンに移り住みました。


一家が移り住んだアバディーンは、フリーメーソン密度の濃い街として知られ、6万人に満たない街に、ロッジが13もありました。  サンフランシスコのような大都市でも、ロッジの数が12しかない事を考えると、いかにフリーメーソンの多い街かが分かります。

 公文書に残っている、最古のフリーメーソンの記録が発見されたのもこの街で、日本の室町時代の1541年に、フリーメーソンがアバディーン氏を訴えている記録が残されています。

 何故、スコットランドにフリーメーソンが多いのかといえば、1307年10月13日にフランスのフィリップ王の計略により、テンプル騎士団はいっせいに逮捕され、そのテンプル騎士団の一部がスコットランドに逃亡し、フリーメーソン組織に溶け込んでいったからであります。

また、公文書ではありませんが、1396年のウェストミンスター寺院に、「フリーメーソンと呼ばれる石工職人」という言葉が使われており、この頃には既にフリーメーソンという言葉は存在したようです。

それまでのロッジは、ロッジ単位で活動していましたが、1717年にロンドンにある数ケ所のロッジが集まって、「グランドロッジ」ができて、今日フリーメーソンの正式なはじまりは、このグランドロッジからとされています。

しかしながら、フリーメーソン的思想は、古代エジプト時代から、古代イスラエルのソロモン、ギリシアのピタゴラスへと、脈々と西欧社会に流れている、宗教的ではなく、「科学技術」や「合理的な考え」を重要視し、「理性」に基づいた「自由・平等・博愛」を求める思想なのであります。 

すなわち、西欧社会においては、

カトリック vs プロテスタント・フリーメーソン・科学者連合

という構造であるのです。  イギリス、スコットランド、ドイツ、アメリカが科学技術立国で、フリーメーソン思想が盛んである事を考えてみていただけると、理解しやすいと思います。


グラバーは、19歳の時にビジネスチャンスを求めて上海に行き、ジャーディン・マセソン商会に入社、そして幕末の動乱の日本に興味を持ち、1859年(安政6年)9月19日に長崎に到着、21歳の時でした。


グラバーは、長崎に到着すると、約1ケ月後の10月22日に長崎のイギリス領事館におもむき、在留名簿に登録。  

 居留先は、当時ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人でもあったケネス・マッケンジー(Kenneth Ross Mackenzie)のところで、職業欄には「商会事務員」と記載されており、これはマッケンジーの下で働いていたことを示します。

マッケンジーは、スコットランドの貿易商で、開港に先立ち1859年9月1日に既に長崎に到着し、2月にはジャーディン・マセソン商会の傭船トロアス号が砂糖など、日本向けの商品を積んで長崎に到着するのを出迎えています。 この時、マッケンジーは54歳で、長崎居留の貿易商の中でも最年長者で、1859年10月からはフランス代理領事も兼任。


 開港後、居留地造成の為に、大浦海岸一帯の地域が埋め立てられ、1860年5月には「長崎港湾規則」が定められ、9月には「長崎地所規則」が公布されました。  10月には第一期の埋め立て工事も完成し、居留地区画申請者の選択優先順位に関する規約が作成され、居留地区画の割り当てと登記が行われました。

 大浦地区の一番はポルトガル代理領事でもあるデント商会のジョセス・エヴァンス、二番はフランス代理領事でもあるジャーディン・マセソン商会のマッケンジー、三番はアメリカ代理領事でもあるウォルシュ商会のウォルシュ、四番はサッスーン商会のエツェキールがそれぞれ入手。

グラバーは、来日時期は早かったにも関わらず、マッケンジー商会に勤務していたため、「二人以上の共同事業の場合には、ことなる利害関係を代表する居留民すべてが考慮されるまで、そのうちの唯一人の申請にもが考慮されるに過ぎない」 という選択優先権現約の第三項に該当し、海岸通り区域の第一次選択に参加することができませんでした。

こうして、グラバーは、海岸通を一歩はいった大浦二十一番(613.7坪)の地を選択し、翌1861年1月に借地料保証金を払い込み、

そうして、グラバー邸は、フリーメーソンと明治維新の志士たちの秘密の密会所となり、明治維新は成し遂げられました。  

フリーメーソンのロッジは、外国人居留地47番街にあり、現在グラバー園内のフリーメーソンマークの入った石柱横の解説がそれを伝えていますが、それによると1865年にはロッジの存在が確認されていたようです。  ちなみに、47番街というのは、グラバー邸を下った目と鼻の先です。

Wikipediaによると、 「グラバーはスコットランド系のフリーメーソンで、邸内にはフリーメイソンリー特有のマークをみることができる」 とあります。


グラバーが来日した1859年とは、どんな時期だったのでしょうか? 

1853年に黒船で来襲し、徳川幕府の開港拒絶を弱腰と見抜いたペリー提督が、強圧的な態度にでた8ケ月後に幕府はあっさりと開国し、1854年に日米和親条約が締結され、1858年には日米修好通商条約を締結。

これを突破口にイギリス、オランダ、フランス、ロシアは次々と通商条約を幕府に突きつけ、それらが受諾されたのが1858年。

 外国の言いなりになる幕府の弱腰に、尊皇攘夷が誕生し、日本のあちこちで攘夷テロが起こり、外国人が狙われていた時期でありました。

 幕府の大老井伊直弼・老中間部詮勝らが、その施策「日米修好通商条約への調印および徳川家茂の将軍職継承」への反対派を大弾圧した事件を 「安政の大獄」 といいますが、1858-1859年に起こった事件で、ちょうど グラバーが長崎に到着 した時期と重なっており、

 「安政の大獄」は、井伊直弼が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により収束しています。  

グラバーが長崎に来たときは、まさに幕末の動乱期であったのです。


http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/625.htmlより。





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by kabu_kachan | 2014-05-13 08:02 | Comments(0)

ロスチャイルドのステルス性

今を生き抜き、未来に繋ぐべき日本人が、どうしても肝に銘じておくべくことがある。それは、ロスチャイルド家の本質的性格の一つは、ステルス(Stealth)性である、ということである。

米軍は、レーダーに探知されない軍用機を開発しているが、それは「ステルス機」と呼ばれる。スチール(Steal)は盗むことを意味する英語であるが、日本人は明治以後米国野球を輸入し、走者が塁を盗んで走ること(スチール)を盗塁、とした。これは、こっそり敵に見破られないように走塁することである。

このようなものとしてのステルス性が、ロスチャイルド家の本質の一つであることを、日本人は全く教えられていない。このように、幕末開国と、通称日本の「近代化」、「近代日本史」の当初から、ロスチャイルドがこっそりと、しかも事実上の主役として日本に登場したという歴史的事実を日本人は何も知らない。

幕末、日本は米英、オランダ、フランス、ロシアと、欧米五帝国主義列強によって包囲され、事実上の西洋の植民地と化した。開国後少し遅れてドイツ、そしてオーストリアも日本に入ってきた。この七カ国が日本抹殺の主役である。当時の日本人の目には、これらの七カ国はバラバラの個々の国としてしか見えなかったし。現在でもそのままである。

しかし、それは、皮相表層的現象であるに過ぎない。
これらの欧米列強の背後に、ロスチャイルドを中核とするユダヤ国際金融資本権力が不気味に潜んでいた。まず、ペリー提督米艦隊を指揮したのである。この米海軍最古参のペリーは、筋金入りのフリーメイソンであった(加治将一『あやつられた龍馬』祥伝社)。のみならず、ペリーは米国におけるロスチャイルドの代理人とごく近しい関係で結ばれている。

グラバーが幕末フリーメイソン革命(明治維新)の裏の主役であったことはもはや自明だが、このグラバーを動かしたのは上海のサスーン財閥であり、そしてこのサスーンはロスチャイルドの「極東」代理人である。フランス、オランダの事実上の支配者はロスチャイルドであり、ロシア、ドイツ、オーストリアもロスチャイルドによって操作されている。

ナポレオン没落のあと、ヨーロッパの皇帝は何と言ってもロスチャイルドなのである。このことは、当時のヨーロッパ人の常識であった。にもかかわらず、日本人にはそれが見えず、聞こえない。ロスチャイルド家のかたち、すがた、その本姓、その儀式が、あまりにも異質で日本人の「常識」とはかけ離れているので、その先入観念が邪魔をするのである。
明治維新当時のみではない。そのあとも、そして現在もこの事情は不変である。

『ロスチャイルドの密謀』(ジョン・コールマン×太田龍)より引用。


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by kabu_kachan | 2014-05-08 22:46 | Comments(1)

地震の発生日時の奇妙な一致

「阪神淡路"人工"大震災の犯人は"666"と"46"に拘る悪魔カバラ主義者(=ユダヤ・フリーメイソン・イルミナティ)である」

1月17日は阪神淡路大震災が起こった日である。

https://www.youtube.com/watch?v=aa5FASmGrlw

これまた、例外なく「彼ら」が仕組んだ人工地震であることは疑いようがないだろう。
1月17日(1+17=18=6+6+6)ということで、「彼ら」はこの日(1月17日)に人工地震を仕込むことが多い。

サンフランシスコ地震 1989・10・17
ロスアンジェルス地震 1994・ 1・17 
阪神淡路大震災    1995・ 1・17 
ちなみに湾岸戦争   1991・ 1・17

東日本大震災は、2011年3月11日(2+1+1+3+11=18=6+6+6)
である。
「666」については、あまりにも有名だが、「ヨハネの黙示録」に記されている「獣の数字」である。


そして、「彼ら」が拘る数字は他に、「46」がある。

阪神淡路大震災    1995年1月17日 5時46分
世界同時多発テロ   2001年9月11日 8時46分
東日本大震災     2011年3月11日14時46分
チリ地震       2014年4月 1日20時46分


https://www.youtube.com/watch?v=wcYxw8CyrRg&list=PLPg7hSdi4rU7kTpNTcQns7GTuCm_hBZ_0より。



「46」という数字は、フリーメイソンの魔法陣によるコンパスを表しているという"噂"もある。
ちなみに、もう一つの「彼ら」が好む数字である「11」は、フリーメイソンの定規を表しているらしい。
どちらにしても、「彼ら」はユダヤ・カバラ教の熱烈な信者のようなので、数字に対する思い入れは半端じゃないようです。


http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-241.htmlより。


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by kabu_kachan | 2014-05-02 20:59 | Comments(0)