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ユダヤ人のアメリカ移住史(3)

アメリカヘのユダヤ移民の第4波は、1933年、ナチス・ドイツの成立とともに始まった。

ドイツとオーストリアから25万のユダヤ人がアメリカに来た。当時、アメリカは移民の受け入れを制限していたので、数はそれほど多くはない。しかし、この時やってきた人々には科学者、作家などが多く、アルバート・アインシュタインなど、20世紀を代表する知識人が混じっていたのが大きな特徴であった。

 

知的職業に進出するユダヤ人は、ただでさえ多いというのに、このユダヤ移民の第4波によって、アメリカのアカデミズムはユダヤ人の聖域と化した。

自然科学においても、人文・社会科学においても。例えば、アラブ諸国の留学生が自国の歴史や文化を研究しようと思って、ハーバード大学、プリンストン大学、コロンビア大学などの中近東研究所に入ったとしても、そこの研究スタッフはがっちりとユダヤ人で占められているというわけだ。


多くのドイツ系ユダヤ知識人がヨーロッパを去ることによってできた空白は、はっきり感じられた。例えば、1901年から1939年までの38年間に、物理学、化学、医学の分野でノーベル賞を受けたアメリカ人の数はわずか14人だった。ところが、1943年から1955年までの13年間、つまりドイツ系ユダヤ人たちがアメリカへ逃げてからは、この分野でノーベル賞を受けたアメリカ人は29人にものぼった。

ドイツではちょうど逆の現象が起きた。最初の38年間にはドイツは35人の受賞者を出したが、次の13年間には、ただの5人である。

★ノーベル賞の本当の意味

http://kabukachan.exblog.jp/22773236


ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒトラー注釈』の中で、次のように述べている。

「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。アインシュタインを初めとしてユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。

ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。それが1933年にアメリカに移った。ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である。」

 

 
ところで、アメリカのユダヤ人口は1925年で380万人、第二次世界大戦中の1940年時点で480万人となり、世界一のユダヤ人社会となった。

現在、世界のユダヤ人総人口は約1400万人、そのうち大ざっぱに言うと約600万がアメリカ、約500万がイスラエル、約100万が旧ソ連に居住し、フランス、イギリス、カナダ、アルゼンチンに数十万単位、残りは数十から数万の単位で世界の国々に分散している。つまり約43%のユダヤ人が、アメリカ市民になっているのだ。

ただし、アメリカ・ユダヤ人の対全国人口比率は、1937年の3.7%をピークとして以後低下傾向を見せ、現在は2.7%に後退している。現在の人口規模は約600万人であるが、このうちの95%は都市に居住し、ニューヨーク(172万)、ロサンゼルス(50万)、フィラデルフィアとマイアミ(各25万)、ボストン(17万)、ワシントン(16万)のほか10万台の都市が7つある。


★ニューヨークはユダヤ人のエルサレム
https://www.youtube.com/watch?v=rtxxk2d_0C8


https://www.youtube.com/watch?v=4JCde1fPkLI

 

また、ユダヤ人社会は多様であり、決して一枚岩的な生活をしているわけではない。ユダヤ教内でも幾つかの宗派に分かれ、それらのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を中心としたコミュニティの数は、保守派830、改革派750、正統派2500(規模は小さい)となっている。けれども今日、アメリカのユダヤ人の半分ほどはシナゴーグに行かず、コミュニティ活動に関心を払わないと言われている。

教育面ではエシバ大学、ヘブルー・ユニオンカレッジがユダヤ教の神学大学として著名であり、ブランダイス大学もユダヤ系の学校として創設されたが、現在は他民族の学生も在学し、ユダヤ的というわけではない。その反面、アメリカの諸大学が1960年代初めからユダヤ関連の学問を導入するところが増え、いま300校がユダヤ学科をもっている。


全体として、ユダヤ人差別が完全に払拭されたわけではないが、ユダヤ人社会は社会的に認知され、少数派集団の中では最もたくましく躍動的であるといえよう。ただし一方では、一般社会への「同化」という別の悩みもある。ユダヤ教徒外との結婚が、1960年代の12%から現在は50%を超えるまでになっているという。また、他のエスニック集団と比べ全般的に出生率が低く、65歳以上の年齢層が多くて老齢化の傾向を示しているともされる。

このため、21世紀の半ばにはユダヤ人は1万人くらいになるだろうという大胆な予測まで出ている。


★結局のところ、ユダヤ人とは民族のことではなくユダヤ教を信奉する宗教集団のことである。そしてユダヤ教の根本にタルムードがある。

https://www.youtube.com/watch?v=7Jz7xdf75tQ

https://www.youtube.com/watch?v=DNP0ZWMGjsI

https://www.youtube.com/watch?v=c_3cEMt6-C4&index=11&list=RDDNP0ZWMGjsI

http://kabukachan.exblog.jp/21829084/

http://kabukachan.exblog.jp/21829258/
 


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by kabu_kachan | 2015-03-28 02:07 | ユダヤ | Comments(0)

ユダヤ人のアメリカ移住史(2)

ユダヤ人のアメリカ移住は5波(5つの波)にわたっており、それぞれ出身地と性格を異にしている。

最初にやってきたのは、第1章で紹介したように、カトリック教国のスペインとポルトガルから追放されたユダヤ人(スファラディム)だった。1654年、ブラジルを経由してニューヨークに到着した。

ユダヤ人たちは、インディアンに対する防塞建設のために献金したり、警備隊に参加したりするなど、市民として認めてもらうためにさまざまな努力をつづけた。独立戦争の際には、多くのユダヤ人がワシントンの下で銃をとって参戦している。

 

アメリカ独立後も、州によってユダヤ人に対する扱いは異なっていた。宗教的にこりかたまったマサチューセッツ州はユダヤ人を排除し、逆にメリーランド州は完全な信仰の自由を認めるといった具合だったが、やがてスペイン系ユダヤ人の多くは、企業家としてのたゆまぬ努力によって、しだいに経済的実力を蓄積してゆく。

ロード・アイランドのユダヤ人アーロン・ロペスはタバコと砂糖の輸出業者として成功した。ニューヨークでは「バルーク家」「ラザラス家」「ネイサン家」「コルドーサ家」などが傑出し、「ニューヨーク証券取引所」や「コロンビア大学」の創立者になる。彼らのなかにはキリスト教に改宗して、上流階級と婚姻関係を結んだり、キリスト教徒の排他的な「ユニオン・クラブ」に入会を許された者もいる。


ユダヤ移民の第2波は、1820年から1870年頃まで続く。これは主にドイツからやって来た。特に1848年の革命の敗北によってアメリカに避難したものが多かったので、彼らは「フォーティエイター」と呼ばれている。


第1波のスペイン系ユダヤ人が貴族だとすれば、第2波のドイツ系ユダヤ人はたたき上げのブルジョアになった。ニュルンベルク出身のヨセフ・セリグマン、ヴュルツブルクの貧しい鞍作りの息子だったヨセフ・ザックス、ドイツ系スイス人のグッゲンハイムなど。例外はフランクフルトのロスチャイルド家の代理人だったアウグスト・シェーンベルク(のちオーギュスト・ベルモントと名乗る)で、ヨーロッパ風の洗練された貴族的マナーでアメリカ人を魅了した。

 

ドイツ系ユダヤ人は、母国ドイツとヨーロッパ各地のユダヤ系資本とのコネクションを武器として、国際的な資本移動の仲介役として活躍した。鉄道業を中心にした当時のアメリカ国内の主要な企業活動に対する国際的資金調達こそ、彼らの活躍の場となった。ドイツ系ユダヤ人が所有・利権支配した投資銀行は、その後長らく、アメリカ国内の投資銀行業界を二分する勢力のひとつとして栄えた。

★ユダヤ国際金融資本家の誕生

http://kabukachan.exblog.jp/19077084/


行商人から身を立てためざましい例としては、のちにウォール街で有名になった「ゴールドマン・サックス社」の創業者である、マーカス・ゴールドマンがいる。彼は1848年にフィラデルフィアに上陸して、2年間その地で行商をし、それから衣服店を開いて資金を増やしていったのである。

 

また、投資銀行業界に次いで、百貨店・通信販売業もドイツ系ユダヤ人が最も威勢をふるった業種である。「R・H・メイシー社」「ブルーミングデール社」「ファイリーン社」「ラザラス社」「リッチ社」「ニーマン・マーカス社」など、今日、アメリカを代表する一流百貨店の相当多くが、ドイツ系ユダヤ移民が設立した小売商店に、その起源を発している。


フィラデルフィアに腰をすえた「グッゲンハイム家」や、スプリングフィールドとシカゴに本拠を置く「ローゼンウォルド家」(世界一の通信販売会社「シアーズ・ローバック」)などを除くと、たいていのドイツ系ユダヤ人の成功者はニューヨークに集中している。

 

1865年に、虎の子の500ドルを手にニューヨークに到着したユダヤ人ヤコブ・シフは、ブローカーとして成功した。1875年にソロモン・ローブの娘と結婚し、「クーン・ローブ商会」の主となる。このユダヤ人金融業者ヤコブ・シフが日露戦争当時、財政難に苦しむ日本政府の発行した国債を一手に引き受けて、日本の窮状を救った話は有名である。

 

なお、この時期のドイツ系ユダヤ人の成功例として、ジーンズの発明者であるリーヴァイ・ストロースの名前を忘れることはできない。リーヴァイ・ストロース(本名はロブ・シュトラウス)が、故国バイエルンを後にして、サンフランシスコへやってきたのは1853年のことであった。この時、彼は24歳の若者であった。

彼は日用雑貨品を売る仕事についたが、売れ残ったテント用の厚手の布地から作業ズボンを作るという画期的なアイデアを思いつき、すぐ実行した。すると、またたくまに評判になった。こうして、後年、「ジーンズ」と呼ばれる「リーヴァイスのズボン」が生まれたのである。

彼の「リーヴァイス社」は、世界で最初の最も有名なジーンズ製造会社となり、今でもジーンズはアメリカを象徴する衣服として若者の間で大人気である。

 

さて、ここで、アメリカ・ユダヤ人口の変動を見てみたい。

アメリカ独立当時のアメリカ・ユダヤ人口は、取るに足りない少数であった。独立前夜のアメリカ全人口300万人中、ユダヤ人口は約2500人であったと言われている。たったの2500人である。

その後も、アメリカ・ユダヤ人口の増加ぶりはまことに緩慢で、1840年当時でも総数1万5000人にすぎなかった。


しかし、スペイン系ユダヤ人(スファラディム)を中心としてきたそれまでのアメリカ・ユダヤ人社会に、ドイツ系ユダヤ人が合流した結果、以後ようやくユダヤ人口も増加が目立ち始めた。1848年には総数5万人、1860年代半ばには20万人に達していた。


しかし、ドイツ系ユダヤ移民の渡米は長くは続かなかった。1870年以後は急速に衰え、1880年当時でもユダヤ総人口は合計23万にすぎず、アメリカ全人口中の0.5%弱にしかならなかった。

しかも、彼らドイツ系ユダヤ人は、民族・宗教集団として行動することを嫌い、ユダヤ人政治クラブを組織したり、ユダヤ人としての政治見解を表明することなどを特に嫌悪していたのである。彼らは典型的な「同化主義ユダヤ人」であった。彼らが所有する百貨店の経営上の特色は、決してユダヤ色をみせず、あくまで地域社会の文化的・宗教的規範の中に溶け込もうという姿勢を貫くことであった。

 

 
1880年代初頭、アメリカ・ユダヤ人社会史上に、決定的な転換期が訪れた。

当時、ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行したが、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が最も大量に殺された国であった。(当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった)。「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカに渡ってきたのである。

 

19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行した。このロシアにおけるユダヤ迫害は 「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。


1880年に23万にすぎなかったアメリカ・ユダヤ人口は、1900年にはついに100万を突破した。この間の20年間、アメリカ総人口が1.5倍増であったのに対し、ユダヤ人口は4.4倍に達したのであった。そして、その後も東欧ユダヤ人のアメリカ流入は続いて、20世紀初頭までに総数280万人に達する莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに流れ込んだのだった。

これにより、世界で一番ユダヤ人が多い国は、徐々にロシアからアメリカにバトンタッチされていくことになる。(東欧ユダヤ人はアメリカ・ユダヤ人口の85%を占めるようになった)。

 

ニューヨーク市の中心部に近い移民集住地区「ロワー・イーストサイド地区」は、おびただしい数の移民集団が住み始めて超過密状態になった。1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時そこは、インドのボンベイを除けば地球上で最も人口密度の高い都市空間であったといわれている。

 

アメリカのビジネス・エリート社会において、先着のドイツ系ユダヤ人(西欧ユダヤ人)は、そのたぐいまれな国際的金融コネクションを駆使して投資銀行業界で威勢をふるい、更に同化主義的でユダヤ教色が希薄であったことから、準ワスプ(WASP)的な"好ましいユダヤ人"としての待遇を獲得していた。

一方、後からやって来たユダヤ教色の強い東欧ユダヤ人(主にロシア系ユダヤ人)は、ワスプから蔑視された。初期の貴族的なスペイン系ユダヤ人や、第2波のドイツ系ユダヤ人と違い、ロシアの寒村やゲットーからやってきて、ニューヨークに住み着いたユダヤ人たちは、いかにも異様だった。

20世紀初頭のアメリカでは、平均的なワスプ系の人々は、当時、移民の大半を占めていた東欧ユダヤ人を、文化的・生物学的に劣等な輩と見下し、アメリカ社会に同化困難な異質な存在とみなしていた。心の奥でそう思うだけでなく、それを態度であらわし、露骨な差別行為を行なうことさえ、当時としては珍しくなかった。

 
アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。

「東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人とは著しく異なっていた。中産階級化し、宗教的には改革派ユダヤ教を奉じ、英語を取得して急速なアメリカ化を遂げていたドイツ系ユダヤ人はアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドの優雅なアパートメントに住んだ。これに対して、東欧系はイーディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極めて貧しかった。

両者は風俗習慣も異なり、この時期には別々のコミュニティーを形成した。2つの種類のユダヤ人はそれぞれ『アップタウン・ジュー』、『ダウンタウン・ジュー』と呼ばれるようになった。」

「東欧系ユダヤ人の移住が増えるにつれ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は急増した。1917年ニューヨーク市全体では、784の恒久的なシナゴーグと343の一時的シナゴーグがあった。かなり堂々としたシナゴーグもあったが、大部分の会衆は、故郷のシュテトゥル出身者からなる小さな団体であった。そのような会衆は普通のテネメントハウスを礼拝の場所としてしつらえていた。シナゴーグは同時にクラブハウスであり、信仰熱心なメンバーが聖書を読んだり、故郷の情報を得たり、アメリカについての情報を得たりする溜り場でもあった。」

https://www.youtube.com/watch?v=7Jz7xdf75tQ

http://kabukachan.exblog.jp/23262760/

http://kabukachan.exblog.jp/23262672/

ユダヤ人のアメリカ移住史(1)
http://kabukachan.exblog.jp/23711881/

 


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by kabu_kachan | 2015-03-19 21:20 | Comments(0)

ユダヤ人のアメリカ移住史(1)

12世紀に、スペインの国土をイスラム教徒から奪回しようとするキリスト教徒による運動が開始された。いわゆる「レコンキスタ」(スペイン再征服)の開始である。

14世紀に入ると黒死病の影響で、スペイン各地でキリスト教徒によるユダヤ人虐殺が起きた。また、ユダヤ人を強制的にキリスト教に改宗させる政策がとられ、ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者「コンベルソ」が現れた。彼らは上層階級に進出し、ユダヤ人ではないという自らの立場を証明するためにユダヤ人迫害に積極的に参加した。このため、「コンベルソ」はユダヤ人たちから「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。


1480年には「異端審問所」が設置され、プロテスタント教徒やイスラム教徒が処刑された。また、市民から「隠れユダヤ教徒」だと告発された「コンベルソ」は、「異端審問所」に連行され、拷問にかけられた。そこでユダヤ教信仰を表明してキリスト教への改宗に応じなかった者は火刑に処せられた。

1483年に悪名高きトマス・トルケマダが初代大審問官(宗教裁判長)に就いてから12年間で1万3000人の「コンベルソ」が処刑された。

 

こうした狂気が渦巻く中、スペインにコロンブスが現れる。

★アメリカとユダヤ人の関わりは、このコロンブスから始まるといってよい。
(コロンブスはジェノバ出身の商人)。

http://kabukachan.exblog.jp/18225761/

 

コロンブスはユダヤ人だったとの根強い説があるが、真偽のほどは定かではない。

しかし、彼の計画を強力に推進した、アラゴン王国の豪商で租税を管理していたルイス・デ・サンタンヘルと、その親戚でアラゴン王国の大蔵大臣だったガブリエル・サンチェス、そしてこの2人の友人で侍従職を勤めるジュアン・カプレロという人物が、3人とも揃いも揃って「キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)」だったことは事実である。

この3人のユダヤ人が、スペインのイザベラ女王に口をきわめて王室財政の窮迫を訴え、「もしコロンブスが"黄金の国"を首尾よく発見したら、巨億の富が転がり込んでくるだろう」と、言葉巧みに説得したのだった。

更に、コロンブスの航海には少なくとも5人のユダヤ人が同行していたと指摘されている。通訳としてのルイス・デ・トレース、外科医マルコ、内科医ベルナル、そしてアロンゾ・デ・ラカーリエ、ガブリエル・サンチェスといった面々で、このうちトレースは後にキューバに定着し、その後のユダヤ人によるタバコ産業の利権支配の元祖となったといわれている。


1492年初頭、キリスト教勢力の軍隊はイスラム教徒を破り、グラナダを征服。「レコンキスタ」(スペイン再征服)を完成させた。そしてキリスト教勢力は、1492年8月2日、スペインに居住していた約30万人のユダヤ人(スファラディム)を一斉に国外へ追放した。

かつて栄えたスペインのユダヤ社会は突如として崩壊したのである。

イベリア半島から追放されたユダヤ人たちは地中海沿岸各地からアフリカ北岸、トルコ、バルカン地方、イタリア、大西洋岸方面ではハンブルグ、アムステルダム、ロンドンなど、政治・経済の中心地へと分散していった。

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奇しくも、このユダヤ人大量追放の翌日8月3日に、コロンブスは、3隻の船でアンダルシアの港町パロスを西に向かって出航し、70日目に現在のバハマ諸島のグアナハニー島を発見した。コロンブスは、彼のスポンサーであるスペイン両王(イサベル女王と夫のフェルナンド王)にちなんで、この島を「サン・サルバドル島」と命名した。

 

このコロンブスの功績は、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人たちに、彼らの新天地が南米にあることを示し、これをきっかけに続々とユダヤ人たちが南米に渡った。そして、原住民インディオによる原始生活の続いていた南米において、彼らは第一次産品である銅・スズ・鉄などの開発に大きな成果を上げ、巨万の富を築いたのである。


しかし、このユダヤ人たちの南米における経済的成功の知らせは、ヨーロッパに大きなショックを与え、ユダヤ人をヨーロッパの地から追放したスペインやポルトガルは、直ちに南米のユダヤ人の業績を奪取すべく行動を開始。

このため、南米を追われたユダヤ人たちは、中米を経て、今日のアメリカ大陸の東海岸にたどり着くことになる。よって、「アメリカ(北米)へのユダヤ人の渡来」は、一般に1654年にブラジルでの迫害を逃れたマラネン23名が、マンハッタン地区(現ニューヨーク)に定着したのを始まりとしているようだ。


スペイン・ポルトガルの覇権時代がピークを過ぎると、オランダのユダヤ商人たちはアムステルダムを「新エルサレム」と呼び慣わすまでの一大商業地に発展させ、後にはアメリカ大陸のマンハッタン地区を買い取って、「ニューアムステルダム」と名付けるまでに成長した。

ちなみに、買い取ったのはユダヤ資本が25%以上の株を占めていた「東インド会社」で、買い取られた地区「ニューアムステルダム」は後に「ニューヨーク」と名前が変わったが、現在ではユダヤ人(ジュー)が多いことから、「ジューヨーク」と皮肉られていることは有名である。


http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc100.htmlより

 


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by kabu_kachan | 2015-03-18 21:22 | Comments(0)

311人工地震による津波<見ざる・言わざる・聞かざる>

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★海底核爆発による人工津波の発生で、福島原発と東日本沿岸の街がやられたのです。人工地震による津波であることを大手メディアとマスコミはいっさい報道しません。このメディアとマスコミの態度を三猿<見ざる・言わざる・聞かざる>と言います。私がよく言う<バカ猿>と同じ意味です。

★人工地震兵器はすでに完成している。
https://www.youtube.com/watch?v=LIhZwGX7wfE



「これほどの健康被害が発生するということは、福島原発以外の何らかの原因がなければつじつまが合わない。」

https://www.youtube.com/watch?v=XiK9DeIMt14


はい、海底核爆発です。

だから、311震源域の海底が南北500キロにわたって核汚染していました。

だから、陸前高田で津波を被った薪の束が核汚染していました。

だから、福島原発周辺で被爆した日本人が一人もいませんでした。

福島原発の汚染水を海中に投棄したのは米国政府の強い要請があったからです。海中の汚染を福島原発が原因だと思わせるためです。

311は核兵器を使った人工地震です。

2015/3/8 22:53

ひょう吉の疑問氏のブログより抜粋:

http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/53e72dd75b1d2f941676429d1687ec12

2011.3月、アメリカの「トモダチ作戦」に参加した米兵の数は、24000人。 そのうち、空母「ロナルド・レーガン」からの参加者は、5500人。 もし「ロナルド・レーガン」からの参加者が上陸後の福島で被爆したとするならば、なぜ「ロナルド・レーガン」の乗組員だけに被害がでて、 他の24000-5500=18500人の米兵に健康被害がでていないのか、説明がつかない。 それよりも「ロナルド・レーガン」からの参加者が上陸後の福島で被爆したとするならば、福島原発で作業していた日本人は被爆して死んでいたはず。

ということは、この「ロナルド・レーガン」の乗組員の被爆は、福島ではなく、どこか別のところで被爆していたということ。

原発事故当時、「ロナルド・レーガン」は海岸から185キロ離れた場所を航海していたにもかかわらず、これほどの健康被害が発生するということは、福島原発以外の何らかの原因がなければつじつまが合わない。

それが何なのか。

この疑問は、福島原発事故発生当時から、水面下ではいろいろなことが噂されている。

じわじわ拡散中


「福一から100海里離れており、それほど濃度は高くなかったと考えられるが。。。」

その通り。福島では被爆死ゼロ。

三陸沖にいた空母レーガンでは、続々と癌で死者。

馬鹿でもわかる。

福一は、レーガン乗組員の被爆の原因ではない。

311は米軍による核を使った人工地震。

4年かかりましたね、ここまで来るのに。

311直後、人工地震と主張してずいぶん笑われました。


2015/3/8 01:29

スレチ失礼します。 大将が指摘している空母ロナルドレーガンの被爆の話がTBSで報道されました。

検証①:トモダチ作戦で米兵被曝

https://www.youtube.com/watch?v=wxBg8Z4vniA

コメントでも「福一から100海里(185Km以上)離れており、それほど濃度は高くなかった(それほどの甚大な被害は起こりえない)と考えられるが。。。」とのこと。TBSの報道は事実を実は知っているのと、匂わせる態度でした。 いずれにしろ、大量被爆の実態が語られ始めたことは進歩ではないかと思います。

masa

2015/3/8 15:27

タイトル:3.11事件の真相解明の突破口となる米空母の被曝乗組員の集団訴訟事件をTBSがようやく報道した:権力に屈したNHKよ見習え! 2015/3/8(日) 午後 1:16(新ベンチャー革命2015年3月8日 No.1077)

http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/34717963.html

報道特集:「トモダチ作戦」の米兵ら 東京電力などを提訴

https://www.youtube.com/watch?v=LfAAE_PEK1k

ハラ

2015/3/8 14:22

スレ違い失礼します。 3/7の報道特集で「トモダチ作戦」による米兵の被曝問題が取り上げられました。 皆さん既にご存知の話題ですが、地上波のそれも日曜日の報道番組で取り上げられたところに大きな意味があると思います。

東日本大震災発生から4年 福島の厳しい現状と福島第一原発の廃炉作業の最前線を取材 ※29分50秒付近より「トモダチ作戦の米兵ら 東京電力などを提訴」

http://newskeimatomedouga.blog.fc2.com/blog-entry-20276.html

アニマル

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201503/article_52.htmlより


http://kabukachan.exblog.jp/23456801/


最近2年で地震頻度100倍以上
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「2000年くらいから急に大地震の頻度が世界的に上昇している」事実を学者さんはなぜ論じないのですかね?「人工地震」という観点で。

ユダ金さん、焦りまくってあちこち揺らしていますが、海洋汚染も進んでいるでしょうね。まさに、悪魔です。この地球上から淘汰されるべき、ユダヤ金融悪魔。

2015/3/10 12:45

最近2年で地震頻度100倍以上

http://www.daily.co.jp/society/main/2015/03/10/0007806381.shtml

2015年3月10日

東日本大震災前と比べて最近の2年間、岩手県や福島県の沿岸域などで、地震の発生頻度が100倍以上になっているとの分析結果を、東北大の遠田晋次教授(地震地質学)が10日までにまとめた。
余震活動が広域で依然活発であることを示す結果。遠田教授は「頻度が高くなっている地域では中規模や大規模な地震が起きやすくなっている可能性があり、注意が必要だ」と指摘している。
遠田教授は気象庁のデータから、東日本の地下20キロまでで起きたマグニチュード1以上の地震記録を取得。震災前の10年間と、2013年3月11日~15年2月18日の発生頻度を比較した。

あちこちで人工地震をかましすぎです。地震の専門家のくせに、地震波形の解析もできないのかね。いや、裏社会から本当の事を言うなと脅されているのでしょう。 しかし100倍以上と言われても理解できましぇ~ん。

とくお


311直後に三陸沖に展開した米空母レーガンの乗組員が強度の被爆をして110人以上が癌を発症し一部が既に死亡している事実を、メディアはほとんど取り上げません。同じ条件であるはずの日本人の中に誰ひとり被爆者が出ていない事実と矛盾が出てくるからです。本来ならば「福島原発」の放射能漏洩が被爆の原因だと世界的なニュースになるはずですが、なりません。ユダヤ人がメディアを操作しているからです。空母レーガン乗組員の被爆原因は、福島原発ではなく、米海軍が東北沖に仕掛けた海底核爆発です。(米軍は1944年にすでにこの人工核地震技術を完成しており、東南海地震を引き起こして実証しています。米公文書、プロジェクト・シール報告書を参照ください。)つまり311地震自体が米権力による人工地震・津波であったことを隠蔽するために「マスメディアを操縦」しています。

同じく、911でもWTCで核兵器が使われて1000人以上の警察官、消防士、作業者が癌で死亡している事実も、マスメディアが操縦されているため報道されません。911がビンラディンらイスラムゲリラの犯行なのではなく、金融ユダヤ人に支配された米政府の内部犯行であったからです。

http://kabukachan.exblog.jp/23188210/


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by kabu_kachan | 2015-03-09 23:54 | Comments(0)

「吉田松陰」を知れ!

【 吉田松陰 】
よしだ しょういん
(プロフィール)
長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。
私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、維新の指導者となる人材を教え育てる。
ペリー再来の時には、密航を企て投獄される。
安政の大獄で再び投獄され、斬首刑に処される享年30(29歳没)。
しかし、その考えや格言は多くの人に影響を与えた。

https://www.youtube.com/watch?v=3Xp0HxvEiBo


幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

生涯

文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた。

しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗(一説ではプチャーチンの暗殺を計画していたともいわれる)。


嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、吉田松陰は幕府に自首した(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。 また、吉田のみならずこの密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命され長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。


★吉田松陰の名言

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)


至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり


志を立ててもって万事の源となす


志士は溝壑に在るを忘れず


己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず


凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし


体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す


人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん


死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし


生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし




宜しく先ず一事より一日より始むべし。


志をたてたなら、まず一つのことから、思いついた日から始めるべきである。

心ある立派な人の務めは、自分の身を修め、
まごころを尽くすことにある。


利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心をみださないといふことである。


学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。
したり止めたりであっては、ついに成就することはない。


今日の読書こそ、真の学問である。


人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。


君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。


君子の言葉を引用した名言です。
「道理に合った行動をすれば、後から利益がついてくる」という意味だそうです。

あまり怒りよると、とうとう腹もなんにも立たぬようになる。


入江杉蔵宛の書簡より。

死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。


高杉晋作に送った言葉。吉田松陰は牢獄の中だったそうです。


人を観察するのは、その人の目によってするのである。
胸のなかが正しいか、正しくないかは、ひとみがはっきりしているか、暗いかによってわかるものである。


一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、
一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。


人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。


汝は汝たり、我は我たり。


人を信ずることは、もちろん、はるかに人を疑うことに勝っている。


(続き)「わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。」吉田松陰『講孟箚記』より。

親思う心にまさる親心。

「辞世の句」より。

志定まれば、気盛んなり。

人は目標が決まれば、意気が高まり、その実現に向けて全力を尽くすことができます。
どのような障害にも立ち向かって、志を実現できるでしょう。


末の世において、道義を実践したならば、必ず、その時の人々から、極端と言われる。
逆に言えば、世人から極端と言われないなら、それは、決して道義ではなく、迎合に過ぎない。


思想を維持する精神は、狂気でなければならない。


小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。


過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ


凡(およ)そ学をなすの要は己(おの)が為にするあり。
己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。


学問をする上で大切なことは、自分を磨き自分を高めることにある。自分のためにする学問は、しっかりした人間を志(こころざ)す人の学である。人にほめられるためにする学問は、とるに足らない人の学である。

教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、
絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない


賢者は議論よりも行動を重んじる。


夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。


「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。



★死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、

 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。


死んでも後世に残るだろうと考えるなら死んでもいい。
生き延びて大きな仕事ができそうだと思うならどんな状況でも生き続けろ。

★至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。


誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。
まごころを十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である。

★士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。


才能がなくても、徳がある人間になり、そして、学識がなくても行動力がある人間になればよい


悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。

★かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂


★吉田松陰の辞世の句

弟子宛
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」


家族宛
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」


★吉田松陰の思想

【一君万民論】

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。但し、天皇のために万民が死にもの狂いで尽くす事が必要である。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。但し、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。


【飛耳長目】

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。


【草莽崛起】

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。"在野の人よ、立ち上がれ"の意。

安政の大獄で収監される直前(安政8年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。


【対外思想】

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり?略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・?都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲・台湾・フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。
(以上、Wikipediaより)

https://www.youtube.com/watch?v=DzRbED6qy70

★吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作(三人とも20代の若者である)

https://www.youtube.com/watch?v=LEl7QpRAqIM

https://www.youtube.com/watch?v=O-dtmo3rjXY

https://www.youtube.com/watch?v=mO9ibVg7l00

https://www.youtube.com/watch?v=ctFh3U8TU24

★吉田松陰・草莽崛起の思想
https://www.youtube.com/watch?v=NzsWmYLXxsc
https://www.youtube.com/watch?v=dQoF9Ff0rHo
https://www.youtube.com/watch?v=HS0cGYJDfkI
https://www.youtube.com/watch?v=WdqsnYapcD0

★高杉晋作
https://www.youtube.com/watch?v=81ojH0n4Jlo

https://www.youtube.com/watch?v=OkYDPInRxlc

★久坂玄瑞
https://www.youtube.com/watch?v=LIz9DxziZDQ



NHKは国民のお金で番組を作っているにも関わらず、番組をユーチューブに公開しない卑劣な放送局である。




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by kabu_kachan | 2015-03-07 13:37 | 歴史 | Comments(0)