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「ロスチャイルド」より上がある

【ロスチャイルドを奴隷として扱う一族】


ロスチャイルドを凌駕する一族…
https://www.youtube.com/watch?v=4Yu8s0qnFDI

   ☟

ロスチャイルドの歴史
http://kabukachan.exblog.jp/25345027/



http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2177より

 警察の国際組織であり、国際的な犯罪を摘発する、国際刑事警察機構=インターポールICPOは、元々、ナチス・ドイツの国際スパイ組織を原型とし、それがロックフェラーの資金によって、第二次世界大戦後、インターポールに改造された。

 インターポールの創立時、資金提供者ロックフェラーに現場を任せず、自から陣頭指揮を取ったサー・ウィリアム・ペティは、スイスの金融業界を支配するシェルバーン伯爵一族の人間であり、世界中の富豪が資産を預けるスイスの金融界の、中核の1つである、スイスユニオン銀行の経営一族でもある。

 シェルバーン一族は、この銀行の頭取ロベルト・ホルツバッハを使い、ロックフェラーのリーマン・ブラザースと、ロスチャイルドの銀行ラザール・フレールに、資金を「貸し付けて」来た。

 ロスチャイルドと、その米国支部ロックフェラー。この「下っ端」現場要員=ロスチャイルドのボスの1人が、このシェルバーンである。

ロックフェラー、ロスチャイルドが、企業を次々に乗っ取り、大帝国を作り上げてきた、その資金が、どこから来るのか?「天から降ってくるのか?」

ロスチャイルドを神格化し、恐れおののく無知は、ロスチャイルドが世界のトップであるとカン違いする所から、来る。

 世界中の大富豪の資金が集まるスイス、そこから投資先を求め、資金がロスチャイルド、ロックフェラーへと、「天下り」して来る。

ボスのボスは、ここに居る。


シェルバーン一族


シェルバーン伯爵は、英国情報部のトップであり、スパイの首領であり、スコティッシュ・ライトのフリーメーソンリーという過激な狂信主義思想を持つ秘密結社のトップだったのだ。

【ワン・ワールド陰謀、その首謀者の素顔】

これと関連して、フリーメーソンリーが果たしている極めて重要な役割を、もう一度見てみよう。アメリカのみならず、全世界で事件を生み出し、いわゆるワン・ワールド政府という社会を目指している。身分も高く「先祖伝来の遺産を継ぐ」立派なファミリーの心と意識と哲学を支配する、この陰謀の首謀者シェルバーン男爵とは、いったい何者だったのか。ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドン、ジェノバ、ベネチアなどに住み、アヘンと奴隷で信じられないほどの富を築いたファミリー、ウィリアム・ビット、マレット一族、シュルムベルガー一族のようなファミリーも含めて、シェルバーン伯爵は、その心と頭脳を支配しているのである。

(中略)

シェルバーンは何よりもまず、スコティッシュ・ライトのフリーメーソンであり、イギリス、フランス、スイスのイエズス会と強いつながりを持っていた。イギリス首相ウィリアム・ビットを操っていた以外にも、ダントン、マラーといったテロリストや、アーロン・バーに率いられた東部エスタブリッシュメントの裏切り者たち、イギリス東インド会社のスパイから経済学者になったアダム・スミス、その嘘っぱちで西側経済を破滅させたマルセスまでもが、シェルバーンの支配下にあった。このようにフリーメーソンのリーダーであったシェルバーンは、15世紀のルネッサンス以降に人類が享受した利益をすべて破壊し、キリストから授けられたキリスト教思想、合衆国憲法に示された社会政治理念や個人の自由という概念を裏切るのに、最も力を振るった人物であった。要するにシェルバーンはルネサンスを憎悪し、忌み嫌い、一般大衆は自分達の階級に仕える為に存在しているという、特権思想を固く信じていた。産業資本主義を憎み、封建制度を熱烈に支持していた。

さらに、同盟の父ウィリアム・ぺティ伯爵が創設したロンドンの英国学士院が前身となって、王立国際問題研究所(RIIA)が生まれた。ニューヨークにあってアメリカの外交問題を操る外交問題評議会(CFR)もここから生まれた。
(中略)

フランス革命でのジャコバン党の悪行も同じようにシェルバーンが操っていた。

タクシス一族


 拙稿「魔女軍団の国モナコ」で明らかにした、世界最大、ヨーロッパ最大のスパイ組織網を作り上げた、タクシス一族の9代目当主ヨハネス・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯は、その住み家としたドイツの地で、1990年12月14日、死亡した。

 ヨハネスは、その私有地の森林はもちろん、公有林の「払い下げも次々と買収し」、ヨハネス単独でヨーロッパ最大の森林所有者=土地所有者となっているが、さらにヨハネスは、ビール会社、銀行、不動産会社等、50企業を支配し、ドイツ国内だけで3万2000haの土地、海外に7万haの土地を所有している。

 さらに欧州各地に散らばったタクシス一族全体の財産は、これとは全く別にある。

 ヨハネスが「自宅」とした、ドイツ・レーゲンスブルク近郊にあるエメラム城は、部屋数が500室、規模は英国王室のバッキンガム宮殿よりはるかに巨大である。

英国王室とタクシス一族の「どちらが地位が上か」を、この事実は明確に示している。

 ヨハネスの遺言は、郵政民営化により、ヨーロッパ各地の郵便事業が売り出された場合には、それを「片っ端から乗っ取れ」と言う内容であった。そして、郵便事業が民営化されるよう政治家を「誘導」し、郵政民営化を主張する政治家を一族が「支援」するように、という内容であった。

 全ての市民の封書を「自由に開封出来る」郵便事業を支配する事は、世界最大のスパイ業者ヨハネス・タクシスとしては、当然の「ビジネス・スタイル」である。電子メールがどれ程主流になろうと、直筆署名の要求されるビジネス契約書類は、封書による郵送を必要としている。また、郵便事業は金融とDHLのような物流をも意味している。

戦争に必要な物資の物流は、インターネットでは不可能である。

戦争屋=スパイ業者タクシスの遺言の意味は、明白である。

 政界・財界への諜報網を張り巡らせ、必要となれば事故に見せかけ政界・財界人を平然と殺害するタクシスのようなマフィアの諜報網のトップ、あるいは、平然と殺人を行うアイゼンベルグのようなマフィアの人殺し専門グループにとって、単なる、マフィアの帳簿係りであるロスチャイルドは、いつでも、容易に殺害し、「首の、すげ替え」が可能な道具に過ぎない。タクシス、アイゼンベルグの「気分が変われば」、ロスチャイルド一族は、全員、容易に殺害され地上から姿を消す。帳簿係りは、その程度のものでしかない。第二次世界大戦中、中国大陸の麻薬販売網を支配していたロスチャイルドは、戦後、アイゼンベルグによって、中国のロスチャイルド一族を皆殺しにされ、麻薬販売網を奪取されたが、ロスチャイルドは現在に至るまで、何一つ反撃出来ていない。



タクシス一族が富を形成し始めたのは1489年からで、そのきっかけは郵便でした。初めはハプスブルク家のマクシミリアン一世の郵便物を無料で届けることで、その名誉が報酬のようなものでした。

タクシス家が郵便事業を請け負った理由は、単なる名誉や金儲けのためだけではなかった。以下、「ハプスブルク帝国の情報メディア革命―近代郵便制度の誕生」(菊池良生著)の書評リンクより抜粋引用。

本書によれば、マクシミリアン一世によって整備されたヨーロッパ郵便網は、ハプスブルク家の「世界帝国志向」がもたらした情報通信メディアだという。インターネットはもちろん電話も無かった当時、郵便はほとんど唯一の遠隔情報ルートであり、帝国の統合に極めて重要な諜報対象だったからだ。私信の開封・検閲を時の権力からの重大な特務として請け負い、全ての情報を握れる位置にいたのが郵便駅長=タクシス家だった。



1096~1197年 三大騎士団 テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団(→マルタ騎士団)、ドイツ騎士団
・聖地の守護、巡礼者の保護を目的に結成された騎士団は、どんどん入団者を増やし、ヨーロッパと聖地イェルサレムをつなぐ「巡礼領域」において、一大勢力に発展して行く。中でも、地中海の制海権を独占し、独自の船舶を保有していたテンプル騎士団は、中東へ兵員を輸送するばかりか、巡礼者も金を取って輸送、その帰途には香料やシルクなどの中東の物産を積載してヨーロッパで売りさばくことで、莫大な富を得た。また、この財を元手に手形取引や銀行業務など金融にも手を出して行く。
・テンプル騎士団の勢力拡大を見たフランス王が、1307年財産と金融システムを手中に収めるべく弾圧を強行する。騎士団の一部は弾圧を予測し、船団に移しておいた富で交易を続け、海賊行為にも手を染める。そして交易ルート確保のため、港々に「ロッジ」(集会所・支部)を構築していく(→フリーメーソンへ)。ロッジでは保険業務も行われており、今日の金融・保険業の源流となる。
・キリスト教世界では中心勢力ではなかったドイツ人を保護する目的で、ドイツ騎士団は設立される。しかし、テンプル、マルタ騎士団にイェルサレムの利権をほとんど奪われ、存在意義を失う。そこに、ポーランド貴族が領土と引き換えに救援を要請してきたため、ドイツ騎士団はプロイセンに移住、1283年プロイセン(現在のポーランド)に「ドイツ騎士団」国家を設立する。このドイツ騎士団が、後のナチス親衛隊SSのモデルとなった。

1100年以降 北イタリアで都市共和国の誕生
・十字軍遠征から最大の利益を引き出していた北イタリアの諸都市が、独立の都市共和国を形成。
・12世紀には、北イタリアからスイスの商業都市が、ミラノを中心としたロンバルディア同盟を結ぶ。その後、ロンバルディア地方のイタリア金融家がロンドンのシティーに進出して行った。
・ヴェネチアはもともと利子の取得を禁止していたが、14世紀には解禁。国際金融都市として急速に発展した。

1200年前後 スイスで都市国家成立
・紀元前からヨーロッパ全域を支配していたローマ帝国が略奪及び交易により蓄積した莫大な財は、次の支配者である神聖ローマ帝国(現在のドイツを中心とした領域を支配)に受け継がれていった。
・962年に成立した神聖ローマ帝国の皇帝による絶大な権力による支配は、部下である貴族達に大きな不満をもたらす。貴族達は異民族をそそのかし、戦争を引き起こした。相次ぐ戦争により多額の借金を背負うことになった皇帝は、担保としていた領土を貴族達に奪われていく。こうして、皇帝の権限が及ばない土地が貴族達のものとなり、都市国家として独立して行く。
・1200年前後になると、スイスは精密機械工業、兵器産業を中心に発展していたが、そこにヨーロッパ中で商業ネットワークを構築した騎士団やヴェネチアで富を蓄えた金融家が金融技術と共に移住してくる。皇帝に反逆した貴族達は、兵器と産業と金融が揃っていたスイスに結集し、国家を結成していく。これが現代まで続く金融国家スイスの起源であり、ロスチャイルドすら彼ら貴族の「使い走り」に過ぎない。

1273年 ハプスブルグ家が神聖ローマ帝国皇帝に即位
・スイス出身の貴族・ハプスブルグ家が初めて神聖ローマ帝国皇帝に即位し、1438年以降、皇帝位を独占するようになる。
・この神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)支配の下で、3つの一族が勢力を拡大していた。諜報面を担当したタクシス一族、軍事面ではサヴォイ一族、(財政面ではロスチャイルド一族)である。

1360年 フリーメーソン結成(イギリス)
・イギリスの石工職人達が、自分たちの権利・技術・知識が他の職人に渡らないようにロッジで暗号を使用する秘密結社を結成する。これがフリーメーソンの原型と言われる。

1514年~1517年 大規模な免罪符販売→1517~1536年 宗教改革(ドイツ・スイス)
・ヴェネチアとの交易で富を蓄えたフッガー家が、ローマ教皇庁に食い込み、ローマ=カトリック教会に多額の金を貸し付けていく。借金で首が回らなくなったローマ教皇庁は、免罪符の販売を決断、その販売をフッガー家に依頼した。フッガー家は免罪符販売及びハプスブルグ家への貸付によって、その財産を拡大させて行く。
・その免罪符販売の中心地域だったドイツ民衆の反感が強まり、その反発を背景にルターによる宗教改革が始まる(→プロテスタント)。

1618年~1648年 30年戦争
・16世紀以降、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルグ家とそれを阻止しようとする勢力の間での戦争が続く。この際、タクシス一族は、戦争する2つの勢力に雇われ、諜報活動を商売として行う。
また、スイスとサヴォイ一族は両方に傭兵を貸し付け、
ロスチャイルド一族は両方の勢力に資金を貸し付け、金を儲けていた。
・元々、ドイツで王侯貴族お抱えの霊媒師として、予言の的中率が高いと大人気であった「占い師」がトゥルン・ウント・タクシス家であった。タクシス家は、1489年にハプスブルグ家の郵便物配送を専属で請け負い、その後、貴族や聖職諸侯、外交官、商人の通信を扱う特権も得ていた。このヨーロッパ全体に広がったネットワークを駆使し、情報を手に入れていたタクシス一族にとっては、予言を的中させることは簡単であった。17世紀には、タクシス一族はヨーロッパ中を情報面で統一しており、ヨーロッパ各国の王・貴族に、メートル、kgといった測量単位を統一させる。
・17世紀神聖ローマ帝国(ハプスブルグ帝国)は、イスラム勢力=トルコ軍から激しい攻撃を受けていた。首都ウィーンが包囲され、国家存亡の危機に立たされる。この時、ハプスブルグ帝国の総指揮官としてトルコ軍を撃破し、ヨーロッパをイスラム勢力から守り抜いた軍人がサヴォイであった。
・19世紀頃から、通信は特定の一族に委ねる事業ではないと郵便事業を国営化する動きが活発化したため、タクシス一族は郵便事業を次々と売却し、巨額の富を得る。世界最大のスパイ組織の頂点に君臨し、莫大な資産を有するタクシス一族は、現代でも当主単独でヨーロッパ最大の土地所有者であり、かつ50以上の企業を支配している。当主が「自宅」としたドイツのエメラム城は英国王室のバッキンガム宮殿よりも巨大である。タクシス一族が全産業を支配するモナコには世界中から正確な情報が集まるため、世界中の大富豪から金が集まり、一大金融国家となった。また彼らの本拠地は、ベルギーのブリュッセルにある。EU本部がブリュッセルに置かれている理由はここにある。
・この後、サヴォイ一族の名前は歴史の表舞台から姿を消すが、歴史から消え去った訳ではない。サヴォイは、麻薬・アルコールを使ったマインドコントロールにより人間を廃人と化し、何でも言うことを聞くロボット人間を使いテロ・暗殺を企てる闇集団として、現在も活躍している。英国王室に反旗を翻した元英国皇太子妃ダイアナの暗殺を実行したのも、マインドコントロールされたサヴォイの下僕であった。
・ロスチャイルド一族は、その後も戦争資金を国家に貸し付け、戦争で莫大な利益を上げ続ける。後に銀行家として世界的に有名になり、現在でも歴史の表舞台に立ち続けている。

ロックフェラー、ロスチャイルドが、企業を次々に乗っ取り、大帝国を作り上げてきた、その資金が、どこから来るのか?「天から降ってくるのか?」

ロスチャイルドを神格化し、恐れおののく無知は、ロスチャイルドが世界のトップであるとカン違いする所から、来る。

 世界中の大富豪の資金が集まるスイス、そこから投資先を求め、資金がロスチャイルド、ロックフェラーへと、「天下り」して来る。

ロシアン・マフィア=マーク・リッチが、スイスでダボス会議を主催する所以は、ここにある。ロシアのプーチン自身が、スイスの金融機関を経営し、スイスを通じ欧米石油・ガス会社と事業提携を推進している歴史背景も、ここにある。

ロシアは決してロスチャイルド、ロックフェラーへの抵抗の「牙城」とは成り得ず、スイスから生え出した同一の樹木の異なる枝葉が、ロシアとロスチャイルド・ロックフェラーである

西暦1200年という、現代から800年以上、時代を遡る

産業革命が起こる以前、農業以外の産業としては綿織物等の手工業が主流であった時代は、河の水流を使った水車が動力であった。この動力が得られる、スイスのような山間部が産業地帯となり、さらにスイスでは、現代の時計につながる鉄砲、刀等の精密機械業、金属加工業が発達し、山間部で火薬原料も採掘された。

産業と兵器が、スイスにあった。

綿花はインド製の物等がヴェネチアから荷揚げされスイスに届き、スイスとヴェネチアは姉妹都市であった。

やがて貿易で富を作ったヴェネチアの貿易業者=金融業者がスイスに移住する。

皇帝に反逆した貴族達は、兵器と富と産業を求め、スイスに結集した。これが、やがて現代の金融国家スイス、マネーロンダリング天国スイスを形成する。

貴族勢力=反カトリック=反皇帝の牙城がベネチアであった。このベネチアの金融業者が、後にスイスの金融界を形成する。そして、そのスイスがロスチャイルドに資金を融資する事になる。

世界最大の金融街、英国ロンドンのシティ。
ここが、ポルトガル貴族等によって支配されている。
シティの「番人」ポルトガル貴族
ポルトガル貴族=金融マフィアの母国ベネチア。

スイスのシェルバーン伯爵が、スイス金融界の「ドン」として君臨。

 シェルバーン一族は、この銀行の頭取ロベルト・ホルツバッハを使い、ロックフェラーのリーマン・ブラザースと、ロスチャイルドの銀行ラザール・フレールに、資金を「貸し付けて」来た。

シェルバーン伯爵は、英国情報部のトップであり、スパイの首領であり、スコティッシュ・ライトのフリーメーソンリーという過激な狂信主義思想を持つ秘密結社のトップだったのだ。

フリーメーソンリーが果たしている極めて重要な役割を、もう一度見てみよう。アメリカのみならず、全世界で事件を生み出し、いわゆるワン・ワールド政府という社会を目指している。この陰謀の首謀者=シェルバーン男爵。

シェルバーンは何よりもまず、スコティッシュ・ライトのフリーメーソンであり、イギリス、フランス、スイスのイエズス会と強いつながりを持っていた。イギリス首相ウィリアム・ビットを操っていた以外にも、ダントン、マラーといったテロリストや、アーロン・バーに率いられた東部エスタブリッシュメントの裏切り者たち、イギリス東インド会社のスパイから経済学者になったアダム・スミス、その嘘っぱちで西側経済を破滅させたマルセスまでもが、シェルバーンの支配下にあった。

フリーメーソンのリーダーであったシェルバーンは、15世紀のルネッサンス以降に人類が享受した利益をすべて破壊し、キリストから授けられたキリスト教思想、合衆国憲法に示された社会政治理念や個人の自由という概念を裏切るのに、最も力を振るった人物であった。要するにシェルバーンはルネサンスを憎悪し、忌み嫌い、一般大衆は自分達の階級に仕える為に存在しているという、特権思想を固く信じていた。産業資本主義を憎み、封建制度を熱烈に支持していた。

 ロスチャイルドと、その米国支部ロックフェラー。この「下っ端」現場要員=ロスチャイルドのボスの1人が、このシェルバーンである。

英国スコットランド沖に浮かぶマン島、そしてイタリアのベネチア。オフショアと呼ばれるこの地域は、どこの国にも属さない「公国」、あるいは独自の法律、税法が許される「自治領」という無税地帯となっている。
世界のマネーの70%はこのオフショアにある。富(マネー)が権力を生み出し、マネーが世界を支配する。
それが現実なら70%という数字は、世界を支配しているのがオフショアであるという事実を示している。そして世界を支配しているのは米国、アメリカ帝国であるという考えが幻想であるという事実を示している。

19世紀、世界の覇権が英国に移ると、イタリアの金融街ロンバルディアにある銀行群は次々と英国に支店を開いた。
英国にはロンバルディアのコピーのような金融街が出来、ロンバルディア街、ロンバート街と呼ばれるようになった。米国のウォール街は英国のロンバート街に依存し、ロンバート街の本拠地はイタリア、ロンバルディアにあった。
しかしロンバルディアの銀行に資産を預ける資産家は、イタリア政府に従順に税金を納める事はしない。資産は当然、直近にある税金の課されないベネチアに置く。そのため金融街ロンバルディアの銀行は、皆、本店を税金の課されないベネチアに置く。つまりベネチアが世界の中心、世界の支配者であるという事になる。

 ベネチアの金融界は狭いギルド社会であり、過去800年間ベネチア金融界を支配してきたのがデル・バンコ一族である。銀行=バンクの語源になっているこのデル・バンコ一族が世界の支配者ベネチアの中心に居る。
デル・バンコは課税を逃れるため、欧州では全く別名のウォーバーグ銀行を経営している。

ブッシュ一族などデル・バンコにとって雑用係なのだ。
 またウォーバーグ、デル・バンコはナチス、ヒトラーを全面的に支持、資金援助し人種差別によるユダヤ人大量虐殺を行わせた。

EUの本部はランベール銀行ブリュッセル支店の重役室の中にある。それはEU統一の実験の目的がどこにあるかを示している。EUと米国を動かしているのがイスラエル、ランベール(地下経済)とデル・バンコのオフショアであるという実像が浮かび上がって来る。



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by kabu_kachan | 2016-01-23 13:20 | 世界の支配者 | Comments(1)

イディッシュ語はドイツ語起源ではない

【イディッシュ語はドイツ語起源ではない】

東欧ユダヤ人(アシュケナジー)はドイツから流入したのではない。

https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk

何度も紹介している以下のサイトは、東欧ユダヤ人の研究としては、日本最高のものだと思う。


http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/_floorA4F_ha.html


まずは、Wikipediaより。

イディッシュ語スラブ系説[編集]


通説によれば[要出典]イディッシュ語

ライン川地方に起源をもち、

変形した
ドイツ語を基礎に、

スラブ諸語ヘブライ語アラム語ロマンス諸語

からの
借用語を交えたものとされてきた。

1993年、テルアビブ大学の教授である言語学者ポール・ウェクスラー (Paul Wexler) は
イディッシュ語がスラブ系言語に起源を持ち、
後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、
東欧のアシュケナジムはユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族にごくわずかの中東系ユダヤ人が合流したものであるとする
『The Ashkenazic 'Jews': A Slavo-Turkic People in Search of a Jewish Identity』を発表している。

ポール・ウェクスラーの説は、

12世紀以前にユダヤ人との接触やキリスト教化

への反発を背景に、ユダヤ教に改宗した
スラヴ人

がアシュケナジムの主体となったと説明しており[27]

ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある。
In 1991, Paul Wexler proposed a highly heterodox model that took Yiddish, by which he means primarily eastern Yiddish,[14] not to be genetically grounded in a Germanic language, but rather as "Judeo-Sorbian" (a proposed Western Slavic language) whose vocabulary had been largely replaced by High German in the 9th to 12th centuries, when, according to his theory, large numbers of German-speakers settled in Sorbian and Polabian lands, and some of them, after converting, developed a Judeo-Slavic tongue which was subsequently relexified with Old High German.[11] Wexler's model has met with little academic support, and strong critical challenges, especially among historical linguists.[11][14]



10世紀のカザール(ハザール)王国
https://www.youtube.com/watch?v=7Jz7xdf75tQ

★ここでハザール王国起源説を否定する動画も載せておく。
https://www.youtube.com/watch?v=ORgFRsV_O5c
https://www.youtube.com/watch?v=MHKcLAuz670
https://www.youtube.com/watch?v=0zt9EgTj3Ug

ハザール王国起源否定説
https://www.youtube.com/watch?v=Z1ruB2GB2j0
https://www.youtube.com/watch?v=Q0g00-eWJys
★上の動画 ⇧ は
 間違っている。
(クララさ~ん!)

Insight - Hollywoodism
https://www.youtube.com/watch?v=cwgLczzn5gk

An Empire of Their Own: How the Jews Invented Hollywood is a non-fiction book whose topic is the careers of several prominent Jewish film producers in the early years of Hollywood. Author Neal Gabler focuses on the psychological motivations of these film moguls, arguing that their background as Jewish immigrants from Eastern Europe shaped their careers and influenced the movies they made.

Gabler's main thesis is that these producers (whom Gabler terms "Hollywood Jews") generally came from poor, fatherless backgrounds, and felt like outsiders in America because of their Jewishness. In Hollywood, these producers were able to run their own industry, assimilate into the American mainstream, and produce movies that fulfilled their vision of the American Dream. Gabler asserts that the nature of their business and their movies can often be traced back to their feelings of alienation as immigrants.

The book also explains that the business background of the Hollywood Jews in theatre-ownership, retail distribution, and the garment industry shaped the approach these studio owners took to crafting movies for a popular audience, one similar to the marketing of films as commodities as well as works of art.

The book won the 1989 Los Angeles Times Book Prize for history[1] and the 1989 Theatre Library Association Award.[2]

Khazars full video
https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk

Forbidden Knowledge - History of the Khazar Empire - Lecture by Jack Otto
https://www.youtube.com/watch?v=5TVd8ovSPl4

The Khazarian Conspiracy: Fake Jews of the Synagogue of Satan!
https://www.youtube.com/watch?v=tE7S4uYAEAs

The Hidden History - The Khazar Empire
https://www.youtube.com/watch?v=k2oW63XkBhw

Get this! 90% of Proclaimed Jews are not Jews at all (KHAZARS Exposed)
https://www.youtube.com/watch?v=DoCNZWIgP7w

Texx Marrs Khazar Fake Jews And The Coming Destruction Of Israel
https://www.youtube.com/watch?v=qsbSVtxS83c

Khazar : Secret Ruling Empire of The World Exposed : Sheikh Imran Hosein
https://www.youtube.com/watch?v=b6rEts1BuN8


★東欧ユダヤ人(アシュケナジー)は西方(ドイツ)から来たのではない。東方(ロシアや中央アジア)から来たのである。
779


次に世界最高水準の「東欧ユダヤ人の研究」サイト,
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb100.html
から引用する。

■■■第1章:「出ドイツ仮説」の検証 <その1>


現在、世界に存在するユダヤ人の90%以上は、アシュケナジーム(アシュケナジー系ユダヤ人)と呼ばれ、オリエントやアラブ出身のスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)とは区別されている。

一般にアシュケナジームのルーツについて“定説”とされてきたのは、西欧のユダヤ人が東部へ向かって流れ出して、ドイツ・ラインラントから東部へ移住したというものであった。

いわゆる「出ドイツ仮説」と呼ばれるもので、東欧のユダヤ人の祖先は西ヨーロッパ、特にドイツからの移住民であったと信じられてきたのである。

しかしこの伝統的「出ドイツ仮説」は、ラインラントのコミュニティーの規模の小ささ、ラインの谷間から出て行くほどの積極性のなさ、逆境下でのあまりにも紋切り型な対応の仕方、そして、当時の年代記などにその移動を示唆する記述が全くないなど、様々な問題を抱えている。

 


「アシュケナジーム」というヘブライ語は、中世のラビ文献中では「ドイツ」の意味に使われており、一般に誤った印象を与える恐れのある語である。この語のイメージが、現代ユダヤ人の90%以上を占める東欧のユダヤ人の祖先は、ライン川から興ったとする伝説を生み出す原因となったのである。また、東欧のユダヤ人たちが使用していたイーディッシュ語は、ドイツ語からの借用語が多く、このことも「出ドイツ仮説」を支える結果となっていた。


●イーディッシュ語というのはユダヤ教の礼拝に用いられている言葉で、ナチスによるホロコースト以前は日常の話し言葉としても広く用いられていたが、今日ではソ連やアメリカの少数の伝統主義者の間で残っているだけである。

イーディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語で、ヘブライ文字を使って書かれる。現在は、絶滅しかかっている言語であるためにかえってアメリカやイスラエルでは学問の対象として注目を集めるようになった。しかしそれまでは、20世紀に入ってからでさえ、ヨーロッパの言語学者の間では
単なる奇妙な訛り言葉でまともな学問の対象にはならないと考えられていた。

●イーディッシュ語におけるドイツ語からの借用語の多さは注目に値するが、どこの地方のドイツ方言が含まれたかを辿ることによって、逆に「出ドイツ仮説」が正しくないことが判明する。

ユダヤ史研究家ミエセスは、イーディッシュ語の語彙、音声、統語法を中世の主なドイツ語方言の幾つかと比較研究して、次のように結論している。

「フランスと国境を接する地域のドイツからの言語要素は、イーディッシュ語には全く見られない。J・A・バラスがまとめたモーゼル-フランコニア語起源の語彙リストからは、ただの一語もイーディッシュ語に入っていないのである。もう少し西部ドイツの中心に近いフランクフルト周辺の言語も、イーディッシュ語に入らなかった。……つまり、イーディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツは除外されてよい。……では、ドイツ・ユダヤ人は昔々、フランスからライン川を渡ってドイツへ移住してきたという定説が間違っていたということなのだろうか? 然り。ドイツ・ユダヤ人──アシュケナジームの歴史は、書き直されなくてはならない。歴史の間違いは、しばしば言語学の研究によって訂正されるものである。アシュケナジームはかつてフランスから移住してきたとするこれまでの定説も、訂正を待つ歴史の誤謬の一つなのである。」


このように、ミエセスは、イーディッシュ語の中のドイツ語要素が西ヨーロッパ起源のものではないとして、これまでの定説を覆した後、イーディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは、いわゆる「東中部ドイツ方言」であると指摘している。この方言は、15世紀頃までオーストリアのアルプス地方およびバイエルン地方で使われていたものである。

つまり、イーディッシュ語に入ったドイツ語は、東ヨーロッパのスラブ・ベルト地帯に接する東部ドイツのものだったのである。



●ここで重要になってくるのが、中世の東欧・ロシアでは、ドイツの文化がもてはやされていたという点だ。例えばポーランドに住む人々は、ドイツ人の文化を喜んで受け入れ、ドイツ式のやり方を真似た。貴族階級さえもドイツ式を好むようになり、ドイツから来たものは何でも美しく素晴らしいと考えた。

当時、ポーランドにいたユダヤ人──アシュケナジームたちも、社会的成功のためにドイツ語を学ばざるをえなかったであろう。また、先住のポーランド人と商取引をする立場の人は、商業用ポーランド語も学ばねばならなかったであろう。手工業者や材木商人はドイツ人顧客にはブロークン・ドイツ語で話し、荘園内の農奴にはブロークン・ポーランド語で話し、そして家庭ではヘブライ語にドイツ語やポーランド語を適当に交ぜて、混成国際語としてのイーディッシュ語が形成されていったと推測される。


●もともとイーディッシュ語は長期にわたる複雑な過程を経て完成された言語である。書き言葉として現われるのは19世紀になってからであり、それ以前にはずっと「話し言葉」としてのみ使用されており、しかも決まった文法もなく、人が好きなように外国語を加えることができた。決まった発音も綴りもなかった。

ポーランドのユダヤ人の中で、ドイツ語の誘惑に精神的でも物質面でも抵抗をしたのはカライ派のみである。彼らはラビの学問も物質欲も拒否した。したがって、彼らはイーディッシュ語には決してなじまなかった。


●1897年の第1回全ロシア国勢調査によると、ロシア帝国(ポーランド含む)内には1万2894人のカライ派ユダヤ人がいた。彼らのうち9666人がトルコ語(ハザール方言)を母語としており、2632人がロシア語、そしてイーディッシュ語はたった383人であった。

しかし、カライ派というのはあくまで例外的存在といってよいだろう。一般論として、移住民というものは2、3世代のうちにはもとの言語を捨て、新しい土地の言語を採用するものなのである。例えば、現代アメリカの場合を考えてみても、東ヨーロッパからの移民の孫の世代はポーランド語やウクライナ語を話さない。そればかりか、祖父母のしゃべるチンプンカンプンな言葉をこっけいとさえ思うだろう。

このことから考えても、これまで多くの歴史学者たちがハザールからポーランドへの移住を裏付ける証拠を無視してきた理由というのが、ハザール人がハザール語とは異なった言語を使っている──移住後500年以上も経っているのに──という点だったとはとても理解しがたいことである。


●ついでながら付け加えると、聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、言語的適応性を示す見本と言えるほど、多くの言語になじんできている。最初、彼らが話していたのはヘブライ語である。バビロン補囚時代になるとカルデア語、イエスの時代にはアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、スペインではアラビア語──ただし後にはラディノ語となる。

ユダヤ人は宗教上のアイデンティティーは守り続けたが、言語の方は都合のよいものにどんどん変えていったのである。ハザール人はイスラエル12支族の子孫ではない。しかし、彼らはイスラエル12支族のコスモポリタン気質と、その社会的特徴とを共有しているのである。

■■■第2章:「出ドイツ仮説」の検証 <その2>


次に、当時のドイツのユダヤ人の状況を具体的に眺めて、「出ドイツ仮説」を検証してみたいが、

これまで定説とされている、西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けた──は、歴史的にみて根拠が薄いことが分かるのである。

●記録に残っている限りでは、ドイツにおける最初のユダヤ人コミュニティーは、906年のものである。この年、イタリアのルッカからマインツへ移住したカロニムスという人物の率いる一団があった。同じ頃、シュパイヤーやウォルムスにもユダヤ人が住んでいたという記録が見出される。

もう少し時代が下ると、トレブ、メス、ストラスブール、ケルンなど、ライン川沿いのアルザス地方にもユダヤ人コミュニティーができていたらしい。

この頃のユダヤ教会の記録類を見ると、ドイツでは3つの都市(ウォルムス、マインツ、シュパイヤー)だけが挙げられているにすぎない。これらのことから、11世紀初頭のラインラントでは、この3都市以外のユダヤ人コミュニティーは、まだとるにたらない程度の存在であったとみなしてよいだろう。


●1096年に第1回十字軍が起き、ラインラントのユダヤ人たちはキリスト教徒の十字軍によって大勢が虐殺された。この時の犠牲者は、ウォルムスでは約800人、マインツでは900~1300人と、ヘブライ側文献では一致している。もちろん、死よりは改宗を選んだ人々もいただろうし、文献には生き残った人の数は記されていない。

しかし、この両都市でのユダヤ人総数は、死者だけの人数とされている数よりさほど多かったとは考えられず、ウォルムスとマインツで生き残ったユダヤ人の数は、それぞれせいぜい300人程度にすぎなかったと推測されている。


以上のように、ドイツ・ラインラントにおけるユダヤ人の人口は第1回十字軍以前でさえ、ほんの少人数であったと考えられ、十字軍が通過した後はますます減少してしまったということが考えられる。

しかも、ライン川より東の中央・北部ドイツには、当時──そしてその後かなり長い間──ユダヤ人コミュニティーは全く存在すらしていなかったのである。

●以前、ユダヤ史学者の間では、1096年の十字軍がドイツ・ユダヤ人の大集団を、ポーランドへ押し出したと考えられていたようであるが、これは今や伝説と化してしまった。当時はハザールの歴史についてはほとんど何も知られていなかったため、東ヨーロッパに何処からともなく出現した大量のユダヤ人の出どころが他には考えられず、辻褄の合いそうな仮説で埋め合わせしてきたのだ。


最近の文献では、ラインラントからドイツ東部へ向かってのユダヤ人の移住について、ましてや遥か東のポーランドへの移住に関しては全く触れられていない。

この旧学派に属するユダヤ人学者シモン・デュブノブは「東へ向かった第1回十字軍は、ユダヤ人集団を更に東へ追いやった」といったん書いたすぐ後、次のように付け加えざるをえなかった。「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つこの移動の状況に関し、詳しい記録は一切残されていない」。


●ところが一方では、次々と繰り出される十字軍の時代に、ドイツ・ユダヤ人コミュニティーがとった悲惨な行動の記録は豊富に残されているのである。

例えば、自ら死を選んだ者あり、抵抗して殺された者あり、中には幸運にも生き残った者もいた。この生き残り組は、緊急時には一応法律上はユダヤ人を保護する立場にあった司教や軍事長官の城塞にかくまわれていたのだった。ただ、この種の保護は常に有効であったとは言えないが、ともかく十字軍が嵐のように通り過ぎた後、生き残った者たちは略奪された我が家へ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)へと戻って行って、そこで新たな出発をしたのであった。


●年代記には、トレブで、メスで、その他の地域で、このパターンの繰り返しが見られる。第2回以降の十字軍遠征の頃になると、ユダヤ人側の対応の仕方も手慣れたものになってくる。

「新しい十字軍が沸き起こると、マインツ、ウォルムス、シュパイヤー、ストラスブール、ウュルツブルクその他の都市のユダヤ人たちは、書物その他の財産を新しい隣人に託して、近くの城塞へと逃げこんだ。」

これらの史料の一つである『追想録』を書いたエフライム・バー・ヤコブ自身も13歳の頃、ケルンからウォルケンブルク城へ逃れた避難民の一人であった。ソロモン・バー・シモンによると、第2回十字軍の時代には、マインツのユダヤ人はシュパイヤーにかくまわれ、やがて故郷へ戻って新しいシナゴーグを再建したという。


これが年代記に一貫して現われるモチーフである。ユダヤ人が東部へ向かって流れ出していったという記述は一言もないのだ。更に指摘するならば、ドイツ東部は当時はまだ「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であった。そしてそれからも、数世紀にわたって「ユーデンライン」であり続けるのである。

●なお、13世紀に入るとドイツのユダヤ人コミュニティーは多少回復の兆しを見せる。しかし、これはほんの短い猶予期間にしかすぎなかった。14世紀になると、フランスとドイツのユダヤ人には、また新たな迫害の手が伸びてきたのであった。

その最初の悲劇は、フィリップ4世の領地からの全ユダヤ人追放であった。フィリップ4世に追い出されたユダヤ人たちは、フィリップ4世の版図外にあるプロバンス、ブルゴーニュ、アキテーヌ、その他のフランス内の封建領土へと逃れて行った。

「フランスのユダヤ人がまさに崩壊の危機に瀕していたこの時代にも、ドイツのユダヤ人人口がフランスからの流入によってその数を増したという記録は全く残されていない」とユダヤ史研究家ミエセスは述べている。


●また、ユダヤ人がフランスからドイツを通り抜けポーランドへ移動していったという記録も、この時代にはもちろん、その他の時代にも全く見当たらない。

フィリップ4世以後の時代になると、ユダヤ人は一部呼び戻された(1315年および1350年)が、もとの状態に回復することは不可能であったし、新たに湧き起こる迫害を阻止することもできなかった。

14世紀末頃まではイギリス同様、フランスも事実上「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であったと言えるであろう。
●14世紀のユダヤ史上第2の悲劇は「黒死病(ペスト)」であった。東方、クリミア半島からやってきたこの疫病は、1348~1350年の2年間だけで、ヨーロッパ全人口の3分の1(地域によっては3分の2)を消し去った。

この黒死病は、十字軍に続いて、東欧のユダヤ人の起源の謎を解く“第2の鍵”だと長らく考えられていたのであるが、黒死病の場合も、ユダヤ人の「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無である。

黒死病の時も、ユダヤ人の生き残りへのたった一つの道は、十字軍の時と同様にドイツを出ることではなく、ひたすら団結して砦のような場所か、多少は敵意の少ない地域にかくまってもらうというものだった。


●黒死病の時代にユダヤ人が移住を行なった唯一の例としてミエセスが言及しているのは、シュパイヤーのユダヤ人がハイデベルクに逃れたというものであるが、これでも、ほんの10マイル程度の移動にしかすぎない。


黒死病の通りすぎたあとのフランスとドイツでは、ユダヤ人コミュニティーは事実上消滅してしまった。その後、ほんの2、3の小集落が細々と生活していただけで、スペインを除く西ヨーロッパ全域はそれから200年間というもの「ユダヤ人に汚されていない土地」(ユーデンライン)であった。

16~17世紀になって、イギリス、フランス、オランダに、近代コミュニティーを開いたユダヤ人たちというのは、スファラディム(スペイン系ユダヤ人)と呼ばれる全く別の系統のユダヤ人である。彼らはそれまで1000年以上にもわたって住んでいたスペインから、この頃になって追い出されたのであった。


●このように、これまで定説となっていた西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けたとされていたのだが──は、歴史的にみて根拠が薄いことがわかる。「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無といってよいのだ。

●以上、アーサー・ケストラーの『第13支族』をもとにして論を展開(再構築)してみたが、誤解してほしくないのは、西側から東欧地域へのユダヤ人の流入は「ゼロ」だと言っているわけではないということである。当然、ポーランドなどの東欧地域には、西側から流れ込んだユダヤ人もいたであろう。しかし、それは通常考えられてきたような規模ではなく、ごくごく少数だったと推測されるのだ。この件(ポーランドのユダヤ人)に関しては、次章から更に具体的に触れていこうと思う。

■■■第3章:ポーランドのユダヤ人口爆発の秘密


■■ポーランドのユダヤ人


●興味深いことに、ポーランド建国にまつわる言い伝えの中に、ユダヤ人が重要な役割を担っている話がある。この言い伝えによると、スラブ系部族同盟が王として選んだのは、アブラハム・プロコウニクという名のユダヤ人であった。彼はへりくだって王位を固辞し、先住民族の中からピャストという名の百姓を王に推した。こうして、ピャストは、962年頃から1370年までポーランドを治めたピャスト王朝の創始者となったのである。

ピャスト王朝下のポーランド人とその隣人リトアニア人は、急速にその領土を拡張したため、移住者を呼び入れることによってその土地を植民地化し、そこに都市文化を築き上げる必要に迫られていた。彼らはキプチャク汗国によって占領された地域のアルメニア人、南部スラブ人、ハザール(ユダヤ)人などの移住者を積極的に受けいれた。移住者の中には、クリミア・タタール人のような捕虜も多数含まれていた。

●この頃のポーランドは農業国で、貴族たちの所有する荘園に分割され、その土地は農奴によって耕されており、商業もまだドイツほど発展してはいなかった。そこで王侯や貴族たちは、国の建設を助けてくれるユダヤ人たちを一種の「代用市民階級」として扱い、1334年以来特権を与え、独自の自治組織を作らせた。

とりわけボレスワフ5世と、ポーランド史上ただ1人の大王カシミール(カジミェシュ3世)は、ユダヤ人を好遇したことで知られている。ユダヤ人たちは期待にこたえ、手工業の知識や豊かな商売体験を生かしてポーランドの発展に尽力した。

●1569年、ポーランドにリトアニアが統合され、ポーランド王国は北はバルト海から南は黒海にまで拡がった。そしてその住民はポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、リトアニア人、ハザール(ユダヤ)人など様々な民族から成り立っていた。

ユダヤ人は、はじめはクラカウ、ルボフ、ルブリンなど大都市に住んでいたのだが、やがてポーランド王国の全域の町や村に住みつき、そこにユダヤ人集落「シュテトゥル」を作って生活した。彼らのうちの少数は、そこで農奴が耕す貴族の土地を管理したり、衣服やぜいたく品を商ったり、材木や毛皮を扱ったりして生計をたてたが、大部分の者は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜作りなどによって暮らしていた。これは後の時代のロシアのシュテトゥルにおいても同じようなものであった。

●ポーランドの「ユダヤ人議会」は1581年にルブリンで初めて開会された。この議会は少なくとも1年に1度開かれ、その議員のなかから「ユダヤ人総帥団」という1つの評議会、すなわち総帥団長、ラビ総長、総書記、総財務管理官を選出することになった。

こうしたことによって、ユダヤ人はかつてない制度を意のままにすることができた。たしかに他の国々でも「ユダヤ人地方議会」やそれに類する組織は認められてはいたが、しかしそれらはポーランド=リトアニア連合王国におけるほどの重要性を持つには至らなかった。

■■東方から流れ込んできた25万ものユダヤ人集団


ポーランドのユダヤ人の数は、16世紀のはじめ頃は5万ぐらいであった。しかし、その後1世紀半のうちに7倍も増えた。17世紀半ばには35万人以上、人口の10%に及およんだ。ユダヤ人は広く各種の職業に従事するようになり、また君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化もこの地で栄えた。18世紀の半ばには彼らの数は75万人以上になった。

いったいなぜこの時期突然、爆発的にポーランドのユダヤ人の数は増えたのであろうか?

これは、東欧ユダヤ人のルーツを探る上で、非常に注目すべき現象である。

●実はこの時期、ポーランド国内には東方、ロシアからリトアニアを経て、ユダヤ人の移住者が多く流れ込むようになったのだ。たいてい彼らは社会的、経済的な困窮から移住したり、居住地区以外の地方から追放されたユダヤ人で、決して自らをロシア人だとはみなさず、ユダヤ人(リトアニア系ユダヤ人)だとみなしていた。

後の時代に数多くの西欧ユダヤ人が、移住してくる東欧ユダヤ人に対して当惑し、拒絶反応を示したのと同じように、ポーランドのユダヤ人の、とくに同化の意志のある者のかなりの部分は、東方からやってくるリトアニア系ユダヤ人移住者を不信の目で、それどころか反感と侮蔑の目で見ていた。

●こうした東方から移住してくるユダヤ人(総計で約25万人にのぼった)は、イーディッシュ語の別の方言を話し、ユダヤ人社会の外ではポーランド語ではなくロシア語を使い、まわりの世界からずっと遠く離れて自分たちだけで閉じこもり、外面的にも振舞いの点でも、非常に貧しく汚い格好をしていた。

そのため、貴族、キリスト教僧侶、市民たちの間に、彼らへの反感が高まり、反ユダヤ的気運が強まっていった。ポーランドのユダヤ人も非ユダヤ人も、ポーランド人とユダヤ人との共生の失敗と、勢いを強めるユダヤ人敵視との責任を、このリトアニア系ユダヤ人にいつでも即座に負わせる用意ができていた。彼らは身代わりとして、ロシア人嫌悪のはけ口にされたのである。

●17世紀に入るまでポーランドのユダヤ人は、政府から自由を与えられ優遇されて、生活はうまくいっていた。ポーランド社会に溶け込んで経済の分野で比較的重要な役割を受け持っていたユダヤ人も多くいた。

しかし、東方から20万人以上もの大規模な「ユダヤ人集団」(リトアニア系ユダヤ人)が流入してくるようになると、雲行きは怪しいものに変わっていったのである。


17世紀の半ば、ついにポーランドで悲劇が起きた。ボグダン・フメリニツキーを首領に頂くウクライナ・コサックによって、ポーランドのユダヤ人は大虐殺の犠牲になったのである。このウクライナ人たちは、ウクライナをポーランドの支配から解放する名目で立ち上がったのであるが、ユダヤ人が「身代わりの羊」にされたのだ。

更にその後、ポーランドは東からロシアのツァー、西からはスウェーデンのカール10世の侵入をうけ、数十万のユダヤ人が殺されたのである……。

このガリチア地方がハプスブルク帝国領となったのは1772年である。翌1773年6月、ヨーゼフ2世は初めてガリチア地方の視察旅行を行なったが、おびただしいユダヤ人の貧困に衝撃を受けた皇帝は、当地の役人に向かって、「これらの者たちはいったい何を食べて生きているのか?」と質問したというエピソードが残っている。

●ガリチア地方では毎年、大勢のユダヤ人が飢えで死んだ。貧困のため、身売りするユダヤ人女性もあとをたたなかった。

精神分析学者フロイトの患者アンナ・O(本名ベルタ・パッペンハイム)は、ユダヤ女性解放運動の草分けとして知られる。その彼女の最も知られた著作は、ガリチア地方の売春と女性売買に関する実態報告書である。調査のために当地を訪れた彼女は、ユダヤ人の窮乏に驚き、その改善なくして女性売買の根絶はありえぬと説いたのである。

●ガリチア地方を支配するようになったハプスブルク家の政策は、ユダヤ人にとくに好意的というわけではなかった。絶対主義的「寛容」の時代に、その他の国々においてと同じように、特にユダヤ人の兵役義務と職業の自由に関して争いが起きた。

1773年以降、結婚はオーストリアの総督の認可が必要になった。男子の総領のみが結婚を許され、結婚によって「家長」となったが、これはボヘミアやモラヴィアと同様であった。1785年には、さらに結婚の認可は一定のドイツ人の教養水準と結びつけられた。

すでに1776年には、酒場の経営と貴族の領地の賃借が、ユダヤ人に対して禁じられていた。1789年にヨーゼフ2世は「特別寛容令」を発布したが、これは、ユダヤ人の自治制の範囲を狭め、経済上の禁止事項をいっそう強化し、居住制限を行なうもので、名字をつけることを義務づけ、厳しい結婚政策を承認するものであった。

この時期、ロシアとハプスブルク帝国との交易は拡大を続け、ユダヤ人はここから利益を得るようになった。とくに国境の町ブロディは、商品の重要な積み替え基地となり、ガリチア地方の押しも押されぬ“ユダヤ人の首都”となった。

ブコヴィナでも原則として、同じような事情が支配していた。ブコヴィナは1775年、トルコからオーストリアへ割譲され、それ以来、ガリチア地方に属していた。


ハプスブルク帝国の全領域でのユダヤ人住民の数は、40万人弱(1785年)から約100万人(1803年)に上昇した。

ちなみに、この当時の西欧のユダヤ人の数は、17世紀半ば頃のフランクフルトには2千人、ウィーンには3千人、ベルリンには1770年に、4千人弱のユダヤ人しか住んでいなかった。このことからも、いかに東欧に住むユダヤ人の数が西欧よりも圧倒的に多かったかが分かるだろう。

★結論
18世紀には、東欧ユダヤ人(アシュケナジー)たちは黒い太線で囲まれた区域に住んでいた。


ロシアと中央アジアから流入した、ポーランドを中心とした地域に住んでいた東欧ユダヤ人(アシュケナジー)たちは、西と東の両方からの迫害を逃れるために、集団でアメリカに渡った。その数300万人である。その大半がニューヨークに移住した。アメリカにロシア系ユダヤ人(白人)が多い理由がこれで分かるというものだ。

言っておくが、以上で述べていることは全て、ヒトラーが出現する以前の出来事である。

   ☟
「アメリカのユダヤ人」の研究
http://kabukachan.exblog.jp/25292635/


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by kabu_kachan | 2016-01-15 11:05 | 言語 | Comments(0)

世界の百科事典のカザール(ハザール)人

★Khazars full video
https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk


「ユダヤ年鑑1980年度版3P」は次のように記している。

“そのことに関して厳密に言うならば、古代イスラエル人をユダヤ人と呼ぶこと、もしくは現代のユダヤ人をイスラエル人または、ヘブル人と呼ぶのは、正しくない”

Encyclopedia Americana (1985):

“カザール人・・・7世紀から11世紀半ばにかけて、コーカサス山脈の北方のステップ地帯に、巨大かつ強大な国家を統治したいわゆる古代トルコ語を話す人々なのだが・・・8世紀に、その政治的、宗教的指導者は、カザールの貴族社会の大多数を率いて、異教を捨て、ユダヤ教に改宗した・・・(カザール人は、ロシアや東欧のほとんどのユダヤ人の先祖であると信じられている)”

Encyclopedia Britannica(15th edition)

“カザール人・・・6世紀後半、現代のヨーロッパ=ロシアの南東部一帯に、巨大な商業帝国を築き上げたトルコとイラン系部族の連合で、8世紀半ば、その支配階級は、彼らの宗教としてユダヤ教を受け入れた。”

Academic American Encyclopedia (1985)

“アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、ユダヤ人を大きく分けると二つになるのだが、そのうちの一つ。もう片方をスファラディーという。”

Encyclopedia Americana (1985)

“アシュケナジー・・・アシュケナジーとは、先祖がドイツに住んでいたユダヤ人である。政治的シオニズムの考えを取り入れ、結局のところ、現在のイスラエルに国を樹立したアシュケナジー=ユダヤと呼ばれる人たちである。1960年代の終わりごろ、アシュケナジー=ユダヤは1,100万人に達し、世界のユダヤ人口の約84パーセントを占める。”

The Jewish Encyclopedia

“カザール、セム系ではない、アジア系でもない、約1世紀に東欧に移住したモンゴル系部族国家で、拡大しつつあったロシアが、カザールの人口を吸収しようかというとき、7世紀に国家をあげてユダヤ教に改宗し、よってそのことが、現在ロシア、ポーランド、リトアニア、ガラティア、ベッサラビア、ルーマニアなど東欧において、イディッシュを話すユダヤ人が多く存在する理由である。”

The Encyclopedia Judaica (1972)

“カザール・・・7世紀から10世紀にかけて、東欧において独立し、主権を有したトルコ系に属する国家的集団で、この間、おもだったカザール人は、ユダヤ教に改宗した。考古学的には取るに足りないものにもかかわらず、東欧におけるユダヤ人集団の存在と、ユダヤ的思考のインパクトは、中世において無視する事はできない。東から中央ヨーロッパに移住したと言われている集団は、しばしばカザールとして捉えられ、よって彼らが元カザール帝国出身である可能性を無視する事はできない。”

The Universal Jewish Encyclopedia:

ヘブル人の中でアシュケナジーの最も重要なポイントは、ドイツとドイツ人である。この事は、ドイツ人のもともとの先祖の出身は古代メディア王国にあるという事実であって、メディアは聖書のアシュケナジーであり、クラウスは中世初期において、カザールは時々アシュケナジーとして語られており、すべてのユダヤ人の約92パーセントもしくは、おおよそ1450万人はアシュケナジーであるという学説がある。

 

New Grolier Encyclopedia

トルコ系民族であるカザール人は、7世紀から10世紀にかけてロシア南部の相当部分を支配し、一大商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王はユダヤ教に改宗した。カザールは、ボルガ川デルタ地帯のItilに首都を置き、その後4世紀ほど、このユダヤ帝国はキリスト教国である東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とイスラム帝国との間において、勢力のバランスを保ったのである。ドン川下流域のSarkilの防備したカザールの都市は、ビザンチン帝国の援助のもと造られており、中央アジアへの交差点として役割を果たした。カザール帝国はオリエントへ通じる多くの貿易行路を支配した_例えば、何人かのRadhanitesGaulからのユダヤ商人)は中国やインドへの道中カザール帝国を通過するのに慣れていたのだ。10世紀後半から11世紀はじめにかけて、ビザンチン帝国と帝政ロシアの連合はクリミア半島におけるカザールの勢力を駆逐した。965年キエフ候SVYATOSLAV一世は、カザールの軍隊に対し、圧倒的勝利を得た。更なる東には、トルコ系の侵略者ともいうべき新規の勢力がカザールの存続を脅かすかのように、台頭していたのだ。

聖書:

カザール(アシュケナジー)ユダヤはヤペテの子孫でありセムではないとしている。

“ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次の通りである。洪水の後、彼らに子が生まれた。ヤペテの子孫はゴメル・・・ゴメルの子孫はアシュケナズ・・・”創世記101_3

それゆえ、聖書はアシュケナジー=ユダヤ(カザール)はセムの子孫ではないし、セム族でありえないという事を証明している。

Kimyarite King Adopts Judaism and Converts His Army and People

Kimyarite (Himyarite) see Sabeans (Jewish Encyclopedia,p.403) : 

Sabeans;聖書、古典作家、土着の碑文によると、アラビア南東部に位置した古代シェバ王国の住人。創世記の系統学者は、Sabeanの起源となった先祖であるシェバに対し、3つの系図を示している。彼らはさまざまな呼称を持つ。

1)クシ、ラアマの子孫(創世記107、歴代誌上19、エゼキエル書27223813

2)セム、ヨクタンの子孫(創世記1028、歴代誌上122 3)ケトラに生ませたアブラハム、その子ヨクシャンの子孫(創世記253、歴代誌上132)、それゆえSabeanには、3つの血統があるように思える。・・・一つはアフリカ(comp. the Ethiopian city of Saga mentioned by Starabo,Geography,p.77)そして残りの二つはアラビアである。

The Outline of History: H.G.Wells

“ユダヤ人の先祖の大部分はパレスチナに住んでいなかったという歴史的主張は、事実として、かなりの確率で可能性が高い。”

次に挙げるのは、ロシアに住んでいたある民族が、ユダヤ教に改宗し、東欧に住むユダヤ人の95%以上の起源となりうるというストーリーである。

Facts Are Facts, By Benjamin Freedman

東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関して、完全で正しい知識なしに、(クリスチャンが)10世紀にも及んで、ユダヤ人が振り撒いてきた有害なる影響を、理知的に理解するのは全くもって不可能であるといわざるを得ない。私の東欧におけるユダヤ人の起源と歴史に関する多くの歳月をかけた調査研究によって、暴かれた事実を初めて発表し、国家規模の衝撃を与えたとき、多くのクリスチャンがそうであったように、おそらくあなた方も驚くであろう。私の何年にも及ぶ調査研究は、あらゆる疑い、クリスチャンが一般的に受け入れている信仰に反する質問に対し答えている。歴史上、東欧においては、いつの時代も、東欧在住のユダヤ人は、聖書の伝説的“失われた10部族”では決してありえない。その歴史的事実は明白である。

間断なき調査によって、東欧のユダヤ人は歴史上一度たりとも、聖書の伝説的“失われた10部族”の直系の子孫として正しく認識される事はないという真実を証明した。現代史における東欧のユダヤ人が、血統的に見て、聖書時代に、パレスチナの地に足を踏み入れた唯一なる古の先祖に正統性を持って行き着くとは考えにくい。

その調査によると、東欧のユダヤ人はセム族ではなくて、今でもセム族ではなく、これからもどんなに想像を広げたところで、未来永劫セム族とみなされる事はないであろうと暴露されている。徹底的な調査により、クリスチャンが一般的に受け入れている“東欧のユダヤ人は、伝説の“選びの民”であると説教壇からクリスチャンの牧師に声高に宣伝された信仰は、最終的に幻想的な作り話として排斥されるのだ。

The American Peoples Encyclopedia for1954 at 15 /292 records the following in reference to the Khazars:

紀元740年、カザール人は、公式にユダヤ教に改宗した。一世紀経って、カザールは、スラブ系の言語を話す人々の侵入により崩壊し、ヨーロッパ中部に移動し、ユダヤ人(Jew)として知られるようになったのだ。

上記の事から、我々には明らかにユダヤ人は、Jewish Encyclopedia for 1925 recordsの第三版としてのカザールの遺産を十分理解していることがわかる。

:“カザール[Khazars]とは_その生活と歴史がロシアにおけるユダヤ人のまさにその歴史の始まりから織り込み済みのトルコ系に起源をもつ人々。カザール王国は、Varangians(855)によるロシア君主国の土台ができるはるか以前より、南部ロシア一帯に、堅固に立てられていた。ユダヤ人は紀元1世紀初頭より黒海、カスピ海沿岸に住み着いていた。歴史はカザールのふるさととしてウラル地方を証拠として示している。中世における古典的著者の中には、彼らはChozars,Khazirs,Akatzirs,Akatirsとして知られ、ロシア年代記の中には、KhwalissesUgry Byelyyeとして知られ・・・・”

The Encyclopedia Judaica:,Vol.10,(1971)によると、カザールについては、次のごとく説明している。

;“カザール_一般的にはトルコ系の民族集団で、7世紀から10世紀にかけて東欧において、独立し、主権を有していた。この期間に、カザールの指導層はユダヤ教に改宗した。(Encyclopedia Judicia,Vol 10(1971)

The Universal Jewish Encyclopedia

“カザール、多分Volga Bulgarsに関係している中世の人々で、その支配層は、8世紀にユダヤ教を受け入れた。カザール人は6世紀に、東欧のステップ地域とボルガ川流域から中国国境へと拡大していった、巨大な遊牧民であるフン族の帝国から現れたようだ。カザール人の起源は、紀元200年ごろではないかとの主張も、しばしば見受けられるが、実際には、彼らに関して627年にならないと記録がない。多くのユダヤ人の歴史家は、カザールの王がユダヤ教に改宗した日時を、7世紀前半としている。

Academic American Encyclopedia; Deluxe Library Edition, Volume 12.page 66 states

トルコ系の人種であるカザール人は、7世紀から10世紀の大部分において、ロシア南部を広範囲にわたり支配し、商業政治帝国を築き上げた。8世紀に、カザールの支配階級とその王は、ユダヤ教に改宗したのだ。

The New Encyclopedia Britannica, Volume6, page 836 relates:

“カザール・・・6世紀後半に、現代のヨーロッパ=ロシア南東地域を席巻し巨大な商業帝国を築き上げたトルコ系の言語を話す部族の連合体である・・・しかしもっとも際立ったカザールの特徴は、740年ごろ、その王と支配階級の上層部がユダヤ教を明白な形で取り入れたことである。しかしながら、事実そのものは、ユーラシア中部の歴史において、疑うすべもなく、並ぶものもない。何人かの学者はユダヤ化されたカザール人が、東欧やロシアの多くのユダヤ人の、遠い先祖であると主張する。”

Colliers Encyclopedia: Volume 14, page 65 states:

“カザール・・・トルコもしくはタタールに起源をもつ半遊牧民で、3世紀の前半にコーカサス地方北部にまず現れた・・・8世紀にブラン王は、ユダヤ人の支持を得るため、自分自身ユダヤ教を受け入れ、彼の民にも・・・”

New Catholic Encyclopedia , Volume _ , page173 relates :

“カザール人はトルコ系に属する民族集団であり、紀元2世紀の終わりごろ、コーカサス地方とボルガ川やドン川下流域にかけて定住していた・・・8世紀の始め、王朝同士のつながりを求め、カザール帝国はコンスタンチノープルに更に近づき、そのことによって、ある程度キリスト教が広まった。彼らはまた、クリミア半島、ボスフォラス海峡近辺に住んでいた、多くのユダヤ人からユダヤ教を知らされるようにもなった。ビザンチン帝国の皇帝、レオ3世が723年に、ユダヤ人を迫害したとき、多くのユダヤ人はカザール王国に避難し、その影響力は甚大であったため、8世紀の中ごろ、カザールの王と多くのカザール貴族はユダヤ教信仰を受け入れた。”

The Cadillac Modern Encyclopedia, 822page

“カザール、トルコ系に起源をもつ南部ロシアの人々は、その最盛期(8世紀_10世紀)にクリミア地方や、ボルガ川下流域、遠くはカスピ海に広がる帝国を築いた。カザールの王族や貴族階級は、ブラン王の治世(768_809年)の時、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ教はその後、国教となった。”

 
★full documentary Khazars
https://www.youtube.com/watch?v=eBTKX4YhXuI

今の「ユダヤ人」が偽者であることを示す資料

以下のように、いくつもの資料がこのことを裏書きします。


ユダヤ年鑑

1980年度版における“ユダヤ人(Jew)という言葉の簡潔なる歴史”という項目は次のとおりである:

“そのことに関して厳密に言うならば、古代イスラエル人をユダヤ人と呼ぶこと、もしくは現代のユダヤ人をイスラエル人または、ヘブル人と呼ぶのは正しくない”(1980ユダヤ年鑑、3ページ)

すなわち、ユダヤ人の年鑑であるユダヤ年鑑が、「現代のユダヤ人をイスラエル人・・・と呼ぶのは、正しくない」ことを認めているのです。

もっとはっきり言えば、聖書で言うイスラエル人、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの血統の民族と現在のユダヤ人とは、民族的にも血縁的にも無関係であることを、このユダヤ年鑑は語っているのです。




Encyclopedia Americana(アメリカ百科事典1985)

“カザール人・・・7世紀から11世紀半ばにかけて、コーカサス山脈の北方のステップ地帯に巨大かつ強大な国家を統治した、いわゆる古代トルコ語を話す人々なのだが・・・8世紀にその政治的、宗教的指導者は、カザールの貴族社会の大多数を率いて異教を捨て、ユダヤ教に改宗した・・・(カザール人は、ロシアや東欧のほとんどのユダヤ人の先祖であると信じられている)”

すなわち、現在のロシアや東欧のほとんどのユダヤ人の先祖は、アブラハムでもイサクでもなく、逆にユダヤ教に改宗した白人系のカザール人種であることを権威あるEncyclopedia Americanaは、認めているのです。

(アメリカ百科事典)



Encyclopedia Britannica(ブリタニカ百科事典15th edition)

“カザール人・・・6世紀後半、現代のヨーロッパ=ロシアの南東部一帯に巨大な商業帝国を築き上げたトルコとイラン系部族の連合で、8世紀半ば、その支配階級は、彼らの宗教としてユダヤ教を受け入れた。”

権威あるブリタニカ百科辞典も、カザール人がユダヤ教を受け入れたことを語ります。アブラハムとは無縁の彼ら白人カザール人こそが、今のユダヤ人の先祖なのです。

(ブリタニカ百科事典)



The Jewish Encyclopedia(ユダヤ百科事典)

“カザール、セム系ではない、アジア系でもない、約1世紀に東欧に移住したモンゴル系部族国家で、拡大しつつあったロシアが、カザールの人口を吸収しようかというとき、7世紀に国家を挙げてユダヤ教に改宗し、よってそのことが、現在ロシア、ポーランド、リトアニア、ガラティア、ベッサラビア、ルーマニアなど東欧において、イディッシュを話すユダヤ人が多く存在する理由である。”

今の「ユダヤ人」の先祖であるカザール人がセム系でもなく、アジア系でもない、すなわちセム系であるアブラハムとは何の関係もない人種であることをユダヤ人の百科事典であるThe Jewish Encyclopediaが、認めているのです。

(ユダヤ百科事典)




さて、今度はユダヤ人自身の百科事典が、ユダヤ人はアブラハムとは無縁のアシュケナジー人種であることを認めている記事を見てみましょう。それは以下の通りです。


The Universal Jewish Encyclopedia(ユニバーサルユダヤ百科事典)

“ヘブル人の中でアシュケナジーのもっとも重要なポイントは、ドイツとドイツ人である。このことは、ドイツ人の元々の先祖の出身は古代メディヤ王国にあるという事実であって、メディヤは聖書のアシュケナジーであり、クラウスは、中世初期においてカザールは、時々アシュケナジーとして語られており、すべてのユダヤ人の約92パーセント、もしくはおおよそ1千450万人はアシュケナジーであるという学説がある。”

(ユニバーサルユダヤ百科事典)

上記のように、ユダヤ人の百科辞典でさえ、わざわざ、ほぼ、すべてのユダヤ人が(アブラハムとは無縁の)アシュケナジー人種に属することを書いています。

わざわざ百科事典に書くということは、それが無視できない、もしくは歴史上の変更することのできない事実であることを、彼ら自身が認めているからなのでしょう。さて、上記アシュケナジーとは、どのような民族かということは聖書に記載されています。

それは以下の通りです。

. ノアの子セム、ハム、ヤペテの系図は次の通りである。洪水の後、彼らに子が生まれた。

. ヤペテの子孫はゴメル・・・

. ゴメルの子孫はアシュケナズ・・・

(創世記10:1-3)

今のユダヤ人の先祖であるアシュケナズ、すなわちアシュケナジーは、ヤペテ、すなわち白人系の人種であることを、上記節は明確に語ります。すなわち聖書は、アシュケナジー=ユダヤ(カザール)はアブラハムが属したセムの子孫ではないし、セム族でありえないということをはっきりと証明しているのです。

かくのごとく、多くの文書が彼らユダヤ人であると称する白人系の人々が、じつはアブラハムとは無縁のヤペテ系の人々であり、彼らの主張は嘘であることを証明しているのです。

ここでのとりあえずの結論は何かと言うと、この点、すなわち「偽ユダヤ人」が、まさに現代において存在する、という点において聖書の主張、黙示録の主張は正しかったということが確認できたということです。



Wikipediaより。

イディッシュ語スラブ系説[編集]

通説によれば[要出典]イディッシュ語ライン川地方に起源をもち、変形したドイツ語を基礎に、スラブ諸語ヘブライ語アラム語ロマンス諸語からの借用語を交えたものとされてきた。

1993年、テルアビブ大学の教授である言語学者ポール・ウェクスラー (Paul Wexler) は
イディッシュ語がスラブ系言語に起源を持ち、後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、
東欧のアシュケナジムはユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族にごくわずかの中東系ユダヤ人が合流したものであるとする
『The Ashkenazic 'Jews': A Slavo-Turkic People in Search of a Jewish Identity』を発表している。

ポール・ウェクスラーの説は、12世紀以前にユダヤ人との接触やキリスト教化への反発を背景に、ユダヤ教に改宗したスラヴ人がアシュケナジムの主体となったと説明しており[27]
ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある。

★イディッシュ語スラブ系説が正しいとするなら、カザール王国がユダヤ教に改宗した時に、その周辺にいたスラブ人も影響を受けてユダヤ教に改宗したのではないだろうか。
その後、カザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、トルコ系のカザール人たちはユダヤ教徒のスラブ人とともにポーランドに逃げ込んで、そこでスラブ人たちが中心となってドイツ語の語彙を取り入れながらイディッシュ文化を開花させたことになる。

★この説は合理的かつ画期的ではないだろうか。

なぜロシア人(スラブ人)の中に

ユダヤ教徒が多いのかを説明できる。





★私見

上に挙げた記述の中で私がいちばん注目するのは H・G・ウェルズである。


もう一度載せる。

The Outline of History: H.G.Wells

“ユダヤ人の先祖の大部分はパレスチナに住んでいなかったという歴史的主張は、事実として、かなりの確率で可能性が高い。”

次に挙げるのは、ロシアに住んでいたある民族が、ユダヤ教に改宗し、
東欧に住むユダヤ人の
95
%以上の起源となりうるというストーリーである。

彼はSF小説家だが、おそらく

西洋社会が生んだ最高の知識人の一人だと思う。

彼は『A Short History of the World 』の中で、

日露戦争が世界の歴史を変えたことを記述している。


彼がどれだけ世界中の知識人に影響を与えたのか Wikipedia から拾ってみよう。

政治家との交流としては、ウッドロウ・ウィルソンへの直談判、ウラジーミル・レーニンフランクリン・ルーズベルトヨシフ・スターリンとの会見などを行なった。

第二次世界大戦の勃発に触発され、1939年にウェルズは『新世界秩序』で概略を述べていた「人権宣言」についての書簡を『タイムズ』とルーズベルトに送る。この人権宣言と、それを基に1940年に作成されたサンキー権利章典は、1941年1月6日のルーズベルトの一般教書の中の「四つの自由」を包含しており、さらにのちの世界人権宣言などに影響を与えたとされる。

小説『解放された世界』は、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と、戦後の世界政府誕生を描いた。核反応による爆弾は、原子爆弾を予見したとされる。ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、この小説に触発されて核連鎖反応の可能性を予期し、実際にマンハッタン計画につながるアメリカの原子爆弾開発に影響を与えた。

オーソン・ウェルズ - 『宇宙戦争』から着想を得たラジオ番組『宇宙戦争 (ラジオ)』を制作。
アーノルド・J・トインビー - 『世界史大系』から着想を得た『歴史の研究』を執筆。


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by kabu_kachan | 2016-01-10 21:44 | ユダヤ | Comments(0)

アメリカに住んでいる「ロシア系ユダヤ人」

【 ロシア系ユダヤ人(金髪白人)が一番多い国はどこか? 】

Famous Jews who changed their names
https://www.youtube.com/watch?v=7zS7aMGByxY


一番目がロシア、次に多い国がアメリカ合衆国である。
ロシア系ユダヤ人(金髪白人)がロシアとアメリカという二つの大国に分かれて住んでいるのである。

★ここに世界史上の近現代史と現在の世界情勢を解く鍵がある。

★アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人
https://www.youtube.com/watch?v=fKY7YAYynUU

★Insight - Hollywoodism: The Ideology that has Devoured Western Culture
https://www.youtube.com/watch?v=cwgLczzn5gk


この謎を詳しく歴史的に説明したサイトがある。
以下は、
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb200.html#01からの抜粋である。

世界史の教科書に、このことを書かないから、いつまで経っても日本人は世界の歴史と世界情勢が分からないのである。



6世紀頃、ドン川、ボルガ川下流地域を中心に「ハザール王国」(ハザール汗国)が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。のちにこのハザール王国は、世界史上例を見ない「改宗ユダヤ教国家」となる。


9世紀頃には、都市キエフを中心に、現在のロシアのルーツとされる「キエフ・ロシア国」(キエフ・ルーシ)が成立。その担い手は東スラブ人であり、彼らは自分たちをルーシ(ルス人)と呼んでいた。現在にまで至る「ロシア」の名はこれに由来している。




   10世紀のハザール王国
 

●このキエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇った。

なお、『原初年代記』によれば、ハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジミール公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになる。ハザール・ユダヤ人は以後、キリスト教会側からロシア人に改宗を挑んだ者として敵意をもって見られるようになり、11世紀に入ると、ハザール王国は、キエフ・ロシア国とビザンチン帝国の連合軍に攻撃され、大きなダメージを受けてしまう。


★ここでハザール王国起源説を否定する動画も載せておく。
https://www.youtube.com/watch?v=ORgFRsV_O5c
https://www.youtube.com/watch?v=MHKcLAuz670
https://www.youtube.com/watch?v=0zt9EgTj3Ug
https://www.youtube.com/watch?v=Z1ruB2GB2j0
https://www.youtube.com/watch?v=Q0g00-eWJys

この動画も説得力があるとは思えない。

★イディッシュ語はドイツ語(ゲルマン系)の一方言ではない。スラブ系(ロシア系)である。

Wikipediaより。

イディッシュ語スラブ系説[編集]

通説によれば[要出典]イディッシュ語ライン川地方に起源をもち、変形したドイツ語を基礎に、スラブ諸語ヘブライ語アラム語ロマンス諸語からの借用語を交えたものとされてきた。

1993年、テルアビブ大学の教授である言語学者ポール・ウェクスラー (Paul Wexler) は
イディッシュ語がスラブ系言語に起源を持ち、後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、
東欧のアシュケナジムはユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族にごくわずかの中東系ユダヤ人が合流したものであるとする
『The Ashkenazic 'Jews': A Slavo-Turkic People in Search of a Jewish Identity』を発表している。

ポール・ウェクスラーの説は、12世紀以前にユダヤ人との接触やキリスト教化への反発を背景に、ユダヤ教に改宗したスラヴ人がアシュケナジムの主体となったと説明しており[27]
ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある。

★イディッシュ語スラブ系説が正しいとするなら、カザール王国がユダヤ教に改宗した時に、その周辺にいたスラブ人(ロシア人)も影響を受けてユダヤ教に改宗したのではないだろうか。
その後、カザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、トルコ系のカザール人たちはユダヤ教徒のスラブ人とともにポーランドに逃げ込んで、そこでスラブ人たちが中心となってドイツ語の語彙を取り入れながらイディッシュ文化を開花させたことになる。

★この説は合理的かつ画期的ではないだろうか。

なぜロシア人(スラブ人)の中に

ユダヤ教徒が多いのかを説明できる。


★私見

ハザールがトルコ系かどうかは確かな証拠はない。ただし白色系トルコ人もいる。
現在の世界状況をよく観察せよ。ロシアに住んでいるユダヤ人とアメリカに住んでいるユダヤ人は顔つきが良く似ていると思わないですか。しかも共に金髪白人(例:ヒラリー・クリントン、ただし彼女はオランダ系ユダヤ人)である。ロシアに住んでいた金髪白人たちが迫害を逃れるためにアメリカに渡ったのである。
そもそも、なぜロシアやポーランドに金髪白人のユダヤ人が多いのか?
中東のユダヤ人がわざわざロシアまで行って白人たちに布教して回ったんですか?クララさ~ん!

私は肯定派だが、そもそも肯定派であろうが否定派であろうがどちらでもいいのである。
以下で述べているように、ユダヤ人たちが何度も迫害を受けてきたということは、ユダヤ教そのものに問題があるのである。
下で述べているユダヤ人迫害は全て、ヒトラーが出現するずっと前の迫害なのである。

宇野氏が言うように、民族の問題ではなく宗教の問題なのである。


「偽ユダヤ人と本物のユダヤ人」というのは、
「偽ユダヤ人=悪 で 本物のユダヤ人=善」
という意味ではない。
本物であろうと偽者であろうと、外から見ればわからない。しかしその行いからユダヤ教徒であることはわかる。ユダヤ教徒だから迫害されてきたのである。これはユダヤ教そのものに問題があるからである。

偽ユダヤ人の存在というのは、イスラエル国の存在を否定することになるので、アメリカメディアは一切黙殺するのである。
アメリカの白人たちはなぜユダヤ教徒であることを隠すのか?
白人のユダヤ教徒は目立つからである。明らかに中東のユダヤ人とは違う。


 

■■ロシア帝国の台頭


●12~13世紀頃に、キエフ・ロシア国は内紛とステップ地域の遊牧民との争いによって力を弱め、13世紀になると、バトゥ・ハン率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、「キプチャク汗国」が成立。(「タタールのくびき」の始まり)。

これ以降、この地域の北東部ではモンゴル支配を受けつつも、モスクワ公国が中心になって統一へ進む一方、キエフを含む南西部は、バルト海沿岸から拡張しつつあった新興国リトアニアの支配下に入り、16世紀にはポーランドの支配下に入った。


●そして、この頃から、ウクライナ南部に逃亡農奴を中心にした「ウクライナ・コサック集団」(自治国家)が形成され、勢力を誇るようになる。これが直接的なウクライナ国家の起源とされる。

しかし、コサックたちの自治国家は、当時、東欧の大国であったポーランド=リトアニア連合王国や、さらにロシア帝国、オスマン・トルコ帝国に挟まれ、長くは続かなかった。彼らの領土は、ロシア帝国とポーランドによって東西分割され、ポーランドが滅亡すると、ガリチア地方はハプスブルク帝国の支配下に、その他の大部分はロシア帝国の領土となってしまうのであった。

※ ガリチア地方とは、ウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域で、カルパチア山脈一帯のことを指し、ハザール王国領に隣接していた地域である。


●19世紀の民族運動の発展において、ウクライナ地域では、ウクライナの過去の栄光を象徴する存在としてコサックが理想化された。そして、ウクライナ独立という目標を掲げたウクライナ民族運動が起きるようになるが、ロシア帝国下では、ウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化が図られた。

しかし、ウクライナ人への弾圧は、かえってウクライナ人としての民族意識を根強いものとした。また一方で、ウクライナ人は、ハザール王国時代以来の同居人であるユダヤ人を迫害することによっても、自らをウクライナ人として意識したのであった。

※ このウクライナ人によるユダヤ人迫害については、後で詳しく触れていきます。


■■■第2章:ロシア帝国における反ユダヤ政策の実態


■■ロシア皇帝が相次いで実施した反ユダヤ政策


●ロシア国内における反ユダヤ主義は、1470年代に発生した「ユダヤ教的異端」をきっかけに現れた。この異端は、モスクワ宮廷内に広がり、高級聖職者、貴族、さらにはイワン3世の義娘によっても信奉された。この異端の広がりにより、1487年にはノヴゴロド大司教がユダヤ教徒追放令を、1504年には、イワン3世が、この異端信奉者を火刑にする命令を出した。


●イワン4世もまたユダヤ人に対する敵意を示している。彼はユダヤ人を“毒薬商人”とみなし、1545年にはモスクワにおいて、ユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。また1555年には、リトアニアのユダヤ商人がロシアに入国することを要求したが、ポーランド王ジイグムントが拒否している。さらには、プスコフ併合後、1563年に、ポオツク市において、キリスト教への改宗を拒むユダヤ人を川に投げこむように命じた。

 

●ユダヤ人追放令は、以後何度も出された。1610年にはシュイスキー、1727年にはピョートル2世が、さらに1744年には女帝エリザベータが約3万5000人のユダヤ人をリヴォニアから9年以内に追放するように命じた。この追放令に対しては、ユダヤ人の商業活動による利益を考慮した元老院からの反対があったが、エリザベータは、「私はキリストの敵から利益を得たくない」としてこれを拒否した。

 

■■ロシアは当時、世界で一番ユダヤ人の多い国となった


●1762年に就任した女帝エカチェリーナ2世は、それまでの皇帝によるユダヤ人政策を受け継ぎ、1762年に、ユダヤ人以外の外国商人に対しては、入国許可令を出した。しかしこのようなユダヤ人の入国を許可しない政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。

なぜなら、1772年の第1回ポーランド分割によって約20万人のユダヤ人が、さらに1793年と1795年の分割によって約70万人のユダヤ人がロシア支配下となり、短期間で合わせて約100万人ものユダヤ人がロシア支配下になったためだ。その結果、ロシアは、当時、世界で最大のユダヤ人口を有する国となったのであった。同時に、それまでのユダヤ人追放令は機能しなくなり、廃止せざるをえなくなってしまった。

●こうして、エカチェリーナ2世は反ユダヤ政策を改め、その植民地化政策の過程で、特別な制限を加えることなく、ユダヤ人がロシアへ入ってくるままにまかせるようになったのである。

彼女の政治的、経済的実用主義は「啓蒙主義」の思想の影響によって本質的に強化された。啓蒙主義者たちはユダヤ人に対して、宗教的な偏見を抱いていなかった。彼らはユダヤ人を、すべての人々と同じ権利と義務とを具えた良き国民につくり上げようとした。

この、第1次ポーランド分割後のロシアの政策は、短期間にユダヤ人を同権をもって遇するということにおいて、他のすべてのヨーロッパの国家に大きく先んじたのであった。


●とはいえ、同権の待遇は、結果として種々の規制も招来した。時間が経つにつれて、とくに第2次および第3次のポーランド分割の後、ユダヤ人がますます大量にロシア帝国の支配下に帰するようになると、かなり大きな反動が現われてくるようになった。

このままユダヤ人を自由にさせていては、ロシア帝国内にユダヤ人が流れ込んでしまう。そのことを内心恐れ始めていたエカチェリーナ2世は、ロシア帝国の支配下に入った地域のユダヤ人全員の移住を禁じ、その土地に縛り付ける政策を実施するようになる。いわゆる「定住区域」という名の巨大なゲットーのスタートである。

 

■■エカチェリーナ2世によって作られた巨大なゲットー=「定住区域」


彼女は1772年8月16日に、ユダヤ人と非ユダヤ人とを区別し、ユダヤ人はポーランド分割以前の定住地から移動することを禁じる勅令を出した。そして1791年には、ユダヤ商人、職人の身分登録地をベロルシアに限定した(「定住区域」の成立)。その後1793年にはミンスク、ウクライナ、小ロシア、1795年にはリトアニアなども登録地となり、ユダヤ人は、これらの区域以外には定住することができなくなった。

このようにしてエカチェリーナ2世は、「定住区域」の基礎を作った。ユダヤ人は少数の例外を除いて、1917年のロシア革命直前に至るまで、この区域を離れることが許されなかった。こうした区域は形式的には、長期にわたる準備の後に1804年に発せられたロシアにおける「ユダヤ人に対する条例」によって確定した。ただし、区域内のユダヤ人をロシアに同化させるかどうかについては、明確な政策を取らなかった。




上の図の太い黒線で囲まれた部分がロシアの巨大なゲットーと呼ばれる
「定住区域」(ユダヤ人制限居住地域)である。

★私見
13世紀にハザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、ハザール系ユダヤ人(金髪白人)はユダヤ教に改宗しているロシア人とともに、上の黒線で囲まれた区域に逃げ込んで定住したのである。シュロモー・サンド氏の言うように、この考え方がいちばん自然なのである。ポーランドや中央アジアに大量の金髪白人のユダヤ人が住んでいたことを説明する根拠は、他にはないし、他の根拠を示した学者はいない。

1791年から1917年まで、ユダヤ人が移動することが禁じられた

 

エカチェリーナ2世がこの「定住区域」を設定したのは、皇帝による伝統的なユダヤ人追放令の延長ともいえるが、直接には、ユダヤ商人によるロシア国内での商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。

この「定住区域」の広さは約100万平方キロメートルにも及び、ロシアにおけるいわば巨大な「ゲットー」のような存在であった。1897年までに500万人以上のユダヤ人が住んでいた。(※ この「定住区域」は、英語では「ロシア・ペール」と呼ばれている)。


●このように啓蒙君主であるピョートル大帝を除くと、ほとんどのロシア皇帝は、18世紀後半のポーランド分割に至るまでは、ユダヤ人追放という一貫した政策を取ったことがわかる。そのため、女帝エカチェリーナ2世によって「定住区域」が設置される以前の東欧ユダヤ人は、度重なる追放令によってロシア国内には法的には存在せず、もともとハザール王国の領域だった地域──黒海北部・ウクライナの地域で多く生活していたのである。この時期のウクライナはポーランド領である。

■■スラブ主義者とウクライナ民族主義者の台頭


●1801年に就任したロシア皇帝アレクサンドル1世は、「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、それはユダヤ人の反対にあい失敗に終わった。そこで、次に就任したロシア皇帝ニコライ1世は、「兵営学校制度」などを施行し、ユダヤ人の強制同化策を取った。しかしこの制度によって改宗したユダヤ人はごく少数であった。また改宗を拒んだユダヤ人の中には、自殺した者も少なくなかった。

ニコライ1世は、1841年には、ユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、1844年にはユダヤ人自治組織を廃止する法令を出した。また、1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはユダヤ人の反対にあって実施されず、全体的には失敗に終わった。

●ニコライ1世の次に就任したロシア皇帝アレクサンドル2世は、最初は自由主義的な政策を実施し、ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、1861年のポーランド反乱後、急変。ユダヤ人に対する政策は厳しくなり、1870年には都市条例を出し、ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることと、市長職に就くことを禁止した。また1873年には、ユダヤ人の公立学校とラビ神学校を閉鎖した。

●一方、ロシア国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。その最たるものがヤコブ・ブラフマンによって1869年に出版された『カハルの書』であった。この序文は、ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、その目的は一般市民を服従させ、搾取することである、という反ユダヤ宣伝になっている。この書は主として政府高官に好評を得た。

また、1880年には、新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が、自由主義から反動的立場に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ユダヤ人のロシア文化への進出に対する危険性が述べられた。

■■■第3章:ウクライナ人によるユダヤ人迫害 (ポグロムの始まり)


■■ウクライナで生活していた富めるユダヤ人と貧しいユダヤ人


●ウクライナに住んでいたユダヤ人は、活発な商業活動を展開していた。例えば当時、ウクライナの周辺都市に点在していた居酒屋の80%近くはユダヤ人が経営していた。また、ユダヤ人たちは借地小作雇主としても活動し、目立つ存在であった。

こんなユダヤ人たちに対し、ウクライナの農民とコサックたちは、「搾取者」とみなして敵意を募らせていた。


●S・エティンゲルの調査によれば、東欧におけるユダヤ人の都市の数は、ハザール王国滅亡後の14世紀には41、15世紀には62、16世紀には、実に198に増加している。ユダヤ共同体も、1503年から1648年に至る期間、ウクライナだけにおいても115も形成されていた。

さらに、C・M・ドゥブノーフによれば、1501年から1648年に至る期間、ポーランドに居住するユダヤ人は、5万人から実に50万人に増加したことになる。ポーランドはロシアに分割される前は、当時、最大のユダヤ人口を有していたのである。


●1817年、ウクライナにおいて工場の30%はユダヤ人が所有していた。とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56.6%、タバコ工場の48.8%、製糖工場の32.5%がユダヤ人経営であった。これらは中小企業にすぎないが、このような産業から何人かのユダヤ人資本家が登場していた。

例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキー、鉄道建設業ではC・ポリャコフが1850年から1870年にかけて第一人者であった。また黒海北部に1883年開始されたドニエプル運河搬業、1876年のヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。


●なお注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいた一般のユダヤ市民のほとんどは、都市下層民に属していたという点である。この地域のユダヤ人は、北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、貧しさは共通していた。当時のユダヤ人の状況に関する調査報告には、ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。キエフのある地主の報告によれば、ほとんどのユダヤ人はウクライナ農民よりも貧しかったとさえ述べられている。

 

■■ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生


●1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボグダン・フメリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺された。

●ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ共同体を破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺は、ガリチア地方(西ウクライナ)を中心として、ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及んだ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。


●さらに、1734年から1736年にかけてもウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団が、ユダヤ人虐殺を行なった。このハイダマク運動においては、フメリニツキー以上にユダヤ人虐殺に目標が置かれ、しかもロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なったのである。

■■「ポグロム」はウクライナ南部(黒海北岸)で始まった


●ロシアにおけるユダヤ迫害は、一般に「ポグロム」と呼ばれているが、一番最初のポグロム(本格的なタイプ)がどこで起きたのか知る人は少ない。一番最初のポグロムは、1871年にウクライナ南部──黒海北岸の都市オデッサで発生した。

オデッサは1794年に創設された多民族都市であり、ギリシア人、ユダヤ人などが多数存在し、ロシア・ユダヤ文化の中心地であった。市の3分の1がユダヤ人だった。後にオデッサからはロシア革命の指導者の1人トロツキーや、シオニズム運動の理論的指導者となるジャボチンスキー、散文作家バーベリなど著名なユダヤ人が輩出した。

●1881年の春、アレクサンドル2世が暗殺されると、この犯行グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ!」という煽動がなされた。そのため、この皇帝暗殺事件を機にポグロムは爆発的に波及したのだが、興味深いことに、ほぼ全てのポグロムがウクライナ南部の定住区域──かつてのハザール王国領と重なる地域(黒海北岸)に集中していたのである。当時のユダヤ人作家は、この時のポグロムを「ウクライナ南部(黒海北岸)の暴風」と呼んでいた。

ポグロム加害者は、ウクライナ農民と町人、それも下層労働者が多く、被害者はユダヤ町人、商人であり、こちらも下層民が多かった。

●このように、かつてハザール王国があった領域に住んでいたユダヤ人たちは、その地に住むウクライナ人によって、とんでもない迫害に遭遇したのである。

■■反ユダヤ政策の「5月法」成立


●1881年のポグロム後、内相イグナチエフは、皇帝アレクサンドル3世に、ポグロムの原因をユダヤ人の商業、工業への進出に対する一般民衆の抵抗の表明であるとし、ユダヤ人の“有害な”活動を阻止する必要があることを報告した。これを受けて、アレクサンドル3世は特別委員会を開設し、この問題について討議させた。この結果として翌1882年5月3日に、種々の反ユダヤ法が成立した。

●「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法の内容は以下の通りである。


◎ 町以外におけるユダヤ人の居住を禁止する

◎ 町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の中止

◎ ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止



●これらはいずれもロシア人地方商人階級の要求を満たすものであり、特に定住区域の15県において実施された。1887年には、1882年以前から村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止された。


●帝政ロシアにおけるユダヤ人政策は、この「5月法」にその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には、差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。



●なお、ロシアの支配機構の内部には、人道的ないしは経済戦略的な理由から、反ユダヤ政策の段階的撤廃を望む人物もいた。とくにロシアの大蔵大臣らは種々の規定の緩和を支持した。彼らは、ユダヤ人がロシア帝国において重要な経済的要素たり得ることを理解していた。そして、ユダヤ人敵視の政策がこの先ずっと継続した場合、国際的な枠組みにおいて──外国のユダヤ人銀行家からの影響に基づいて、不利益が生じることを恐れていた。

重責を負っていた大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテが、ロシア皇帝アレクサンドル3世と行なった対話は、この関連で示唆に富んでいる。

アレクサンドル3世は大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテに、ユダヤ人に好感をもっているかどうか訊ねた。これに対してセルゲイ・ヴィッテは、「ユダヤ人を全員黒海で溺死させることが可能でしょうか?」と問い返し、言葉を続けて、「もしそれができないとすれば、ユダヤ人は『生きていて』もよいとせざるをえません。それはとりもなおさず、ユダヤ人に結局、ほかの全臣民と同様の権利を承認することを意味するものです」と答えた。

しかし、本質的な改善は実施され得なかった。


■■■第4章:ロシア・ユダヤ人社会に“3つの動き”が生じる


■■3つの動き


1881年にウクライナ南部(黒海北岸)において発生した一連のポグロムは、ロシアにいるユダヤ人たちに大きな衝撃を与え、ロシア・ユダヤ人社会に大きく分けて“3つの動き”を生み出すことになった。


1つめの動きは、ユダヤ人の大移住である。1881年から1910年まで、300万人近くのユダヤ人が、ロシアを離れて他国へと移住した。その7割は、アメリカ合衆国を目ざしている。ユダヤ人は、エルサレム陥落以後、全世界に「離散の民」として移り住んだが、これほど短期間における大規模な移住は、かつて例を見ない。しかも彼らは組織もなく自発的にロシアを去ったのである。


1881年から1910年まで、
300万人近くのユダヤ人が、
ロシアを離れて他国(主にアメリカ)へと移住した。

写真は省略
大型の蒸気船に乗って大西洋を越えるユダヤ移民たちの群れ

 


★Insight - Hollywoodism: The Ideology that has Devoured Western Culture
https://www.youtube.com/watch?v=cwgLczzn5gk



•2つめの動きは、革命への積極的参加である。ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の唯一の解決だとして、革命運動に参加したのであった。

★ソ連とは何か(4)

http://kabukachan.exblog.jp/18440013/

★ソ連とは何か(5)

http://kabukachan.exblog.jp/18440055/

★ソ連とは何か(6)

http://kabukachan.exblog.jp/18440100/

★ソ連とは何か(7)

http://kabukachan.exblog.jp/18440146/


ロシアの革命直後における共産党員の民族別構成比の統計に目を通すと、次のような現象が見い出される。それは、総人口中の比に対して、ユダヤ人の場合、他と比較して党員中の割合が、かなり高いということである。ロシア革命期に目を転じると、この時期にもユダヤ知識人の革命家が、実に多く存在していたことがわかる。トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフなど、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人であったといえる。革命指導者だけでなく、革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存在していた。

 ロシアに残ったユダヤ人、とりわけ青年の一部は、
革命によって自由と権利を得ることこそユダヤ人問題の
唯一の解決だとして、革命運動に参加した。

 

3つめの動きは、シオニズム運動の開始である。一部のユダヤ人は、当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ人の国家を樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開した。

 イスラエル
一部のユダヤ人は、パレスチナにユダヤ人の国家を
樹立することこそ、迫害の唯一の解決と考え、
シオニズム運動を展開した

 

まず1881年に、黒海北岸都市オデッサのユダヤ人医師レオン・ピンスケルが、オデッサ・ポグロムに遭遇したショックをもとに『自力解放』という本をドイツ語で出版し、ユダヤ人は自分たちの国を作って隷属状態から解放されるべきだと主張した。そして彼は、パレスチナにユダヤ人の植民化を推し進めるインテリや学生たちの「ヒバト・ツィオン」(1884年)に加わり指導的役割を演じたのであった。

 

1882年にはユダヤの学生組織ビールー派によって「ビールー運動」が開始された。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせである。ビールー運動は、またたく間にロシアのユダヤ人青年の間に広まった。1884年には秘密警察を避けて、国境を越えたドイツ領内の町カトヴィッツで第1回の全国大会を開いた。その後、十数年間に約1万人のユダヤ青年がパレスチナへ渡り、約40ヶ所の地点に定着した。これがいわゆるシオニストの“第一波移民”である。

このパレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、1904年から1914年までの10年間に、約4万人の東欧ユダヤ人がパレスチナに流入したのであった。



•このように、一般には、ハンガリー生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルが“近代シオニズムの父”とされているが、帝政ロシアにおいてすでにシオニズム運動は生まれていたのである。


★偽ユダヤ人の証明

http://kabukachan.exblog.jp/23262672/

★アシュケナージユダヤ人考

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_palesutina_yudayaginmondai_asukenajico.htm


★要するに、「金髪白人のユダヤ人がロシアとアメリカの両方の国に大量に住んでいることをどのように説明するのか」
ということである。




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by kabu_kachan | 2016-01-08 07:04 | ユダヤ | Comments(0)

ユダヤ人という民族は存在しない


ユダヤ人という民族は存在しない


http://globe.asahi.com/author/100614/01_01.html


「ユダヤ人」はシオニズムによる発明。
歴史の見方では妥協しません
『ユダヤ人の起源』 The Invention of the Jewish People
シュロモー・サンド Shlomo Sand 歴史家

イスラエルはユダヤ人の国であると規定されている。ユダヤ人とは預言者モーセ(モーゼ)に率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンに戻ったユダヤの民の子孫であり、ローマ帝国に反乱して追放され、世界に離散した民だと信じられている。しかし、イスラエルの歴史家シュロモー・サンドさんは「ユダヤ人という民族は存在しない」という。

――過激な本ですね。

サンド いえ、政治的には過激ではありません。私は歴史分析によって「(現在の)ユダヤ人に聖書のユダヤの民とつながる起源はない」とユダヤ人というアイデンティティーを否定しました。その点では過激です。


ダビデの時代、王国は存在せず エルサレムは当時、小さな村

――聖書の記述は事実ではないと書かれていますね。

シュロモー・サンド氏=川上泰徳撮影

サンド イスラエルでは普通の学校で聖書の物語を宗教としてではなく、歴史として教えます。モーセの「出エジプト」は紀元前13世紀とされます。しかし、考古学の発掘の結果、そのころのカナンはエジプトの支配下にあったことが分かっています。「出エジプト」はなかったのです。私がそれを知ったのは12年前です。衝撃でした。

 考古学的発掘によってダビデやソロモンの時代とされる紀元前10世紀に、強大な王国が存在したという証拠は何ひとつ出ていない。エルサレムは小さな村に過ぎなかったことが分かっています。

――ユダヤ人の追放も否定しています。

サンド ユダヤ人はユダヤ人追放を誰もが事実として信じています。しかし、それを記した歴史書は一冊もないのです。ユダヤ考古学の研究者に質問しました。彼は「追放ではなく破壊に伴う移民だ」というのです。しかし、大量な難民が出たことを示す記述はないのです。本のなかで「追放の発明」として書きました。

――パレスチナ人はかつてユダヤの地にいた人々の子孫だと書かれていますね。

『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか』
シュロモー・サンド著、高橋 武智監訳
佐々木 康之・木村 高子訳
(武田ランダムハウスジャパン、2010年)
「The Invention of the Jewish People」
Shlomo Sand
=小杉豊和撮影



連続ビデオになっていますのでYouTubeをクリックしてください。内容が難しいのでノートにとっておくといいでしょう。

サンド シオニズム(19世紀以来のユダヤ人国家建設運動)の歴史家は7世紀のイスラムの征服でユダヤ人は追放されたと唱えます。しかし、アラブ人がエルサレムのユダヤの民を追放した証拠はありません。ユダヤの地にいた人々の多くは農民でした。農民は簡単には土地から離れません。アラブ人がエルサレムを占領し、彼らの宗教を受け入れれば税を免除しました。多くの農民が受け入れたでしょう。追放がなかったとすれば、ヨルダン川西岸にいるハマスの活動家のほうが、私よりも古代のユダヤの民の子孫である可能性はずっと高いのです。

――イスラエルのユダヤ人には受け入れられない主張でしょうね。

サンド パレスチナにいるアラブ人はかつてのユダヤの民の子孫ではないかと考えたのは、私が初めてではありません。初期のシオニズム運動の指導者たちも同じように考えていたのです。1948年のイスラエル独立で初代首相のベングリオンが若いころ、パレスチナのアラブ人はユダヤ人の血をつぐものたちだから、ともに国をつくることができる、と書いています。ところが彼は独立宣言ではイスラエルは追放されたユダヤ人の国と規定しました。アラブ人とともに国をつくるという考えは排除されたのです。



ロシアや東欧のユダヤ人は 改宗ユダヤ教徒ハザールの子孫

――世界にいるユダヤ人についてはどうですか。

サンド かつてユダヤ教は積極的に布教する宗教でした。追放ではなく、改宗によって世界にユダヤ教徒が増えたのです。例えば、黒海とカスピ海の間にできたハザール王国は8世紀から9世紀にかけてユダヤ教を国の宗教としました。13世紀にモンゴルによって滅ぼされますが、ロシアや東欧に大勢のユダヤ教徒がいることは、改宗ユダヤ教徒ハザールの子孫と考えることが自然です。

――歴史学だけでなく、聖書学、考古学まで幅広い領域を含んでいますね。執筆には、どれほど時間がかかりましたか。

サンド 1年半ほどです。毎日大学で教えて、毎日、図書館から30冊ほどの本を抱えて帰って、書き続けたのです。調べるほどに背中を押されるようにテーマは広がり、深まっていきました。

 私が何か新しいことを発見したわけではありません。すでにある材料を集めて、秩序立てて考えたのです。

――イスラエルで19週連続でベストセラーになったそうですね。

サンド 予想していませんでした。テレビやラジオ番組に次々と招かれ、新聞や雑誌でも好意的に取り上げられました。もちろん反発も強く、死を宣告するような手紙もあります。「ナチ」とか「反ユダヤ主義者」「国の敵」など様々に攻撃する電話もかかってきます。

――自身のアイデンティティーは?

サンド 若いころは左派で、反シオニズムの立場でした。しかし、いまは左派ではなく穏健派です。つまり、イスラエルの存在を認めるポスト・シオニズムの立場です。左派はパレスチナ難民のイスラエルへの帰還を認めて、ユダヤ人もパレスチナ人もひとつの国で共存するべきだと考えます。その考え方は道徳的には間違っているとは思いませんが、政治的にはイスラエルの存在を否定することになり、決して実現しないでしょう。私は歴史の見方では妥協しませんが、政治的には妥協したのです。

――イスラエルの将来を、どのように見ていますか。

サンド シオニズムはユダヤ人国家を正当化するために聖書につながる民族の起源として「ユダヤ人」を作り出しました。私はイスラエルの存在を、シオニズムのように過去によって正当化するのではなく、この国が民主国家に生まれ変わるという将来によって正当化するべきだという立場です。イスラエルはユダヤ人国家として存続することはできません。国民として生きるアラブ人にも平等の権利を与えねばなりません。

――パレスチナとの和平についてはどう思いますか。

サンド イスラエルはすべての入植地から撤退し、エルサレムをパレスチナと共通の首都にするべきです。オバマ大統領は、和平のアイデアを出しただけのクリントンではなく、イスラエルにシナイ半島からの撤退を求めたカーターのような大統領であってほしいと思っています。

(聞き手 中東駐在編集委員 川上泰徳)

シュロモー・サンド

テルアビブ大学歴史学教授。
1946年、オーストリアの難民キャンプで生まれる。
48年、2歳で両親とともにイスラエルに移住し、テルアビブ大学で歴史を専攻。
84年からテルアビブ大学で現代ヨーロッパ史を教える。
著書に「スクリーンに見る20世紀」「言葉と土地――イスラエルの知識人」。






「ヒラリー・クリントンがISをオバマと一緒に作ったんだ」

RKブログでは誰でも知っている「常識」ですが、それを米大統領候補が公言するとは!

ヒラリー戦争屋一味への包囲網が一段と狭まった感がします。

もっとも、米国1%に支配された米メディアは、必死にトランプ発言を無視するでしょうが。

米国市民諸君、この際、全米暴動を!

米国1%の支配から脱却を!

米国軍人諸君、ユダヤ金融悪魔の支配に反旗を!

2016/1/3 21:36

スレチ失礼致します。 スプートニクさんの記事なので被るかも知れませんが。 トランプ氏、とうとうここまで言っちゃいました。日本のメディアがどう報道するか、見ものです。

◆米大統領選挙に共和党から立候補しているドナルド・トランプ氏は、国際テロ組織「ダーイシュ(IS、イスラム国)」を作った張本人はヒラリー・クリントン氏とバラク・オバマ氏だと暴露した。

http://sptnkne.ws/aww5

AP通信はトランプ氏がミシシッピーで支持者を前に演説しているビデオをYoutube上の自社チャンネルにアップした。そこではトランプ氏はシーア派の指導者のニムル師の処刑に激怒したイラン市民がテヘランのサウジアラビア大使館を襲撃した事件についてエネルギッシュに語り、「ヒラリー・クリントンがIS(ロシアで活動が禁止されているテロ組織「ダーイシュ」)をオバマと一緒に作ったんだ」と豪語している。

ランスロット





ヒラリー・ローゼンベルグ・ロックフェラー・クリントン女史の選挙資金がイスラエルから?


ものの分かった人には、当たり前の話です。

オランダのユダヤ人の家系のヒラリー。

ニューヨーク州選出の上院議員は、ユダヤ社会の支持がなければ当選できません。

だが、ヒラリーがユダヤマフィアの所属とは、米国民の多くは知らない。

困ったものです。ヒラリーの周囲の米国要人も、ほとんどすべて隠れユダヤ人なのですが。


2015/11/6 22:51

党首の言ってる事が証明される。 ヒラリー クリントンの化けの皮が剥がれる!

選挙資金イスラエルシオニストから出ている事の証明。

ベテランズトゥデーより

"Hillary Clinton Promotes Jewish Religious Violence"

http://www.veteranstoday.com/2015/11/05/hillary-clinton-promotes-jewish-religious-violence/

日本国






ヒラリーのミドルネーム、ロッダムは、ローゼンバーグのこと。もちろんユダヤ人の姓



「ヒラリー・ローゼンベルグ・ロックフェラー・クリントンの大逆転勝利については」について


次期米民主党大統領有力候補五人は、全員、ユダヤ人と(テックス・マーズ)
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/
投稿 平成15年11月13日00時40分 太田龍の時事寸評
平成十五年(二〇〇三年)十一月十二日(水) (第七百五十九回)
○テックス・マーズの「パワー・オブ・プロフェシー(預言の力)」、 二〇〇三年十一月号によれば、--------
○米民主党は、ユダヤの支配下に在り、次期大統領候補に挙げられて居る人々の多くは、公然、又は隠れたユダヤ人であると。
○まず、ヒラリー・ロッダム・クリントン。
○彼女のミドルネーム、ロッダムは、ローゼンバーグのこと。これは もちろんユダヤ人の姓である。
○次に、ジョン・ケリー。彼は、スカル・アンド・ボーンズの会員。 そして、カトリック教徒と自称して居るがそれは違う。ケリーは、ユダヤ人であり、彼の妻テレサ・ハインツはユダヤ人であり、 何十億ドルもの財産の相続者である。
○W・クラーク陸軍大将は、ユダヤ人であり、彼の本当の最後の名前は、ユダヤ人の名のKanneである。
○ハワード・ディーンはCloset Jew(押入れの中に隠れたユダヤ、の意味) であり、ジュディス・スタインバーグと言うユダヤ人女性と結婚して居る。
○ジョセフ・リーバーマンは、ユダヤ人であることを公言して居る。
○(1)ヒラリー・クリントン、(2)ジョン・ケリー、(3)W・クラーク、 (4)ハワード・ディーン、(5)ジョセフ・リーバーマン。
以上五人の有力な民主党米大統領候補は、全員、ユダヤ人。
○ユダヤ人は、全米人口のうち、二~三パーセントを占めるに過ぎないが米国二大政党の一角、米民主党の次期有力大統領候補は、 全員、ユダヤ人。
○ブッシュ(息子)が、二〇〇四年十一月、米大統領に再選されない場合でも、民主党の次期大統領はユダヤ人、と成る。




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by kabu_kachan | 2016-01-04 09:56 | Comments(0)

日本人よ、申(猿)年にこそ覚醒せよ!

新年、申年にいきなり最初の一句。

日本人 頭の中は 得と欲

次にもう一句。

バカ猿の 頭の中も 得と欲

日本人 ポケモンGOで 猿になる

スマホとは 猿が喜ぶ おもちゃなり


★日本人諸君、電車の中での立スマホはやめてくれ。みんな猿に見えてしまう。これを「立猿スマホ」と言う。私の作った新語です。
すでに、「歩きスマホ」が登場している。
試しに、猿にスマホを渡してみなよ。同じ格好で喜ぶから。

流行語 歩きスマホと 立スマホ

あと少し 立猿スマホ 流行語

ポケモンGO 日本が作った 猿文化

★二人で踊る【立猿ダンス】を広めよう。
かわいい猿の無料 フリー イラスト年賀状や干支~ダンス

立スマホ そんなに急いで 何を見る?
♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪

立スマホ 猿も喜ぶ 猿写真 ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪

ポケモンGO 猿も夢中の 猿ゲーム ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪
Is this a Japanese macaque taking a selfie or texting a friend to say come on in the water's great?

新語だぜ 立猿スマホ 流行語 ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪

スマホ見る あなたも私も 猿仲間 ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪
つまり・・・・・・これ!☟
monkey_04

猿同士 話題の的は 猿マップ ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪

日本猿 車とスマホが おもちゃなり

みんな行く 立猿スマホで 遊園地♪~♬ルン~ルン~♪ルン~ルン~♪

立スマホ 猿も真似する 猿遊び♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪


日本人 カネがすべてと 猿自慢

日本人 行動パターンは 猿のまま


今になり 猿の惑星 理解する ♪~♬ チャン~チャン~♪チャン~チャン~♪

https://www.youtube.com/watch?v=3Xp0HxvEiBo



★テレビのモットー「国民をバカのままにしておけ!」
テレビにはバカ芸人が出てきて、「笑いは最高の幸福」と叫ぶ。
これを見て、国民は笑い転げる。
これをバカ猿と言わずして何というのか。

賢いバカ猿か?


バカテレビ 世界に誇る 恥さらし

バカ芸人 自分が猿だと 気づかない

バカ芸人 猿になって 金儲け

煩悩が 真実の目を 曇らせる
★「煩悩」ってわかりますか。目先の利益と欲望に捕らわれている状態のこと。

だから「日本人は猿である」と言っているんですよ。

★日本人は猿である

http://kabukachan.exblog.jp/24109195/

日本人諸君、「俺は猿じゃないぜ」と自信を持って言えるかね?
君たちの頭の中で考えていることは猿と大差はないだろう。

違いますか?

ただし私は、白人は人間だとは言わない。

白人は狡賢い白猿。日本人は黄色いバカ猿。

★白人は「人」ではなかった
https://www.youtube.com/watch?v=a6R1so_HmFQ


既に太平洋戦争中にアメリカ人(白人)は、日本人(Japs)を猿(Yellow Monkey)と言っているけどね。当時のアメリカの全ての新聞と雑誌には、Japs と Yellow Monkey の文字とサルの挿絵が載っている。

https://www.youtube.com/watch?v=4kkugdYQiMU

The cover for the sheet music of 'There'll be No Adolph Hitler nor Yellow Japs to Fear', music by George D. Barnard and lyrics by William C. Freeland, circa 1943. American troops catch Hitler and Emperor Hirohito by surprise.


当時のアメリカ人は日本人を猿と考えていたんですよ。だから原爆が落とせたんですよ。猿の頭の上に落としても良心の呵責は感じないんですね。












★大津波を起こした3.11 人工地震の実験は繰り返されていた 。
(猿がかわいそうと言っている人←猿とは日本人のことですよ)

https://www.youtube.com/watch?v=z-L4VhqTJ-s

★ユダヤ米国 の <三大日本人虐殺>

http://kabukachan.exblog.jp/18798239/

★WW II : RARE COLOR FILM : ATOMIC BOMBS
https://www.youtube.com/watch?v=LX-zX9SWYZk

黒人奴隷貿易の時と同じですね。

世界史上の近代に燦然と輝く

 『白人たちの悪行』

★白人による黒人奴隷貿易とアメリカの奴隷制度
http://kabukachan.exblog.jp/20941342/


★目覚めよ! 人類を支配する "情報帝国主義"!
https://www.youtube.com/watch?v=3Swq63sbPLo

★白人の世界侵略史
https://www.youtube.com/watch?v=XPqV4Q1f4t8

★slave-Trailer history video
https://www.youtube.com/watch?v=TbVPbjj3pn8

★ROOTS
https://www.youtube.com/watch?v=zRtPRhG5gxE

★アメリカ史 黒人奴隷(日本語)
https://www.youtube.com/watch?v=zgzFxvPKT18






↑甲板に連れ出された黒人奴隷たち

ending the Atlantic slave trade





■奴隷貿易船

1人分のスペースが、80センチ×18センチ。こんな棺桶(かんおけ)みたいな空間に閉じこめられ、3ヶ月から9ヶ月も航海するのである。しかも、航海中の死亡率は8~34パーセント。つまり、3人に1人は死ぬ。これが、アフリカとアメリカを結ぶ奴隷貿易の実態であった。

この時代、大西洋を横断するのは命がけで、コストも高くついた。儲けを増やすには、1回の航海で、できるだけ多くの奴隷を運ぶしかない。奴隷たちは、身動きできないほど詰め込まれ、一寸のムダもなく、整然と並べられた。まるで食器棚の食器のように。こうして、奴隷貿易船は生き地獄と化した。しかも、その先に待っているのは、さらなる地獄 ・・・ 奴隷市場。

たった100トンの船に414人の奴隷を載せたという記録もある。当時、奴隷貿易に使われたのはガレオン船で、100トンクラスなら、全長30mほど。運動場で長さ30mの直線を引き、そこに400人を詰め込んだ様子を想像してほしい。しかも、航海中、黒人奴隷はロープにつながれたままだった。こんな劣悪な環境で、ろくな食事も水も与えられず、9ヶ月間も過ごす ・・・ 身も心もおかしくなって当然だ。実際、多くの黒人奴隷が、熱病やチフスで死んでいった。

たとえ、この過酷な航海を生き残っても、行き先が奴隷市場では救われない。悲嘆にくれ、船から飛び降り自殺する者もいた。1回の航海で、150人中100人が死亡した記録もある。生き残るのは3人に1人。

★The Atlantic Slave Trade
https://www.youtube.com/watch?v=znwRJ5K85XI



黒人奴隷が首を数珠(じゅず)状につながれ、裸で歩かされている絵がある。絵の中央には女奴隷もいる。母親と思われる女奴隷は哀しそうに下を向き、それを子供が不安そうに見上げている。小さな子供には、この行進が何を意味するか理解できないだろうが、その先に待っているのは地獄の奴隷船である。行軍を指揮するのは、奴隷商人の手先で、得意げにムチをふるっている。その表情は、優越感、さげすみ、そして怒り ・・・ 粗末な絵だが、これだけの情報が伝わってくる。


★人類の起源(古代宇宙人説よりアフリカ起源説)

http://kabukachan.exblog.jp/24881639/

ATLANTIC SLAVE TRADE


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by kabu_kachan | 2016-01-02 22:16 | 日本人覚醒 | Comments(4)