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満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動


★学校で使っている日本史の教科書が間違っているのである。


さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U




【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M


★沖縄戦カラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=lwWsnyO0sGQ

★Battle of Okinawa/沖縄戦
https://www.youtube.com/watch?v=ztzuwCX5lWk

★虐殺されたはずの南京市民
https://www.youtube.com/watch?v=W-Erp_T3kjI&nohtml5=False


「南京問題に完全決着をつける英文・中文新作計画他」
https://www.youtube.com/watch?v=d7_wlbSYk08

★「本物の写真」と「ニセモノの写真」の見分け方

「本物の写真」とは、「いつ・どこで・だれが」撮った写真か

という条件が満たされていないといけない。

この条件が満たされていない写真はすべて「ニセモノの写真」

と言うことになる。

報道写真として価値のない「ニセモノ写真」

と付き合ってはいけない。



「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【前編】
https://www.youtube.com/watch?v=wAsbl2Et7lU


「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」を、著者水間政憲が徹底解説【後編】
https://www.youtube.com/watch?v=TxcgsrZbniI


「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=ZIEeUCF5_LU


「ひと目でわかる『日中戦争』時代の武士道精神」
https://www.youtube.com/watch?v=bUOVBisWXDE


「ひと目でわかる『アジア解放』時代の日本精神」
https://www.youtube.com/watch?v=f9ApqXzMj5k


「ひと目でわかる『大正・昭和初期』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=RyPk_oblRiM


「ひと目でわかる『戦前日本』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=SgfManWnGFE



  • 満州はシナの一部では無い、万里の長城がその証拠※7
  • もともと満州は満州族の土地であり、皇帝である溥儀が満州国の皇帝になるのは極めて自然※3
  • 満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であったのです


1842年 南京条約で香港島を清朝からイギリスに永久割譲
1845年 マカオがポルトガルの植民地に
1898年 香港領域拡大協約で99年間の租借が決定

1900年6月 北清事変(義和団の乱)
これ以降、ロシアが満州に居座り、日露間の緊張が高まる。

1903年11月 パナマ地域がコロンビアから独立
パナマ運河建設をコロンビア共和国上院に拒否された米国は、パナマを保護国としてコロンビアから独立させ、その憲法に、パナマ運河地帯の幅16kmの主権を【永遠に米国に認める】との規定を置いた。以降、反米運動などを経てパナマ運河の主権は1999年12月31日に返還。

1904年2月 日露戦争

1905年(明治38年)9月 ポーツマス条約(日露戦争の講和条約)調印
日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得した。しかしロシアからの賠償金は得られなかったため戦費調達による債務が残された。満州の権益は日本人10万人の血と多額の戦費によって得たものだった。

1911年 辛亥革命
これ以降、シナ大陸は一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。

1912年2月 溥儀の皇帝退位
清朝政府と中華民国政府との間で「清帝退位優待条件」締結。内容は、退位と引き替えに溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること、中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払うこと、清朝の陵墓を永久に保護することなど。(1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の清東陵を略奪するという東陵事件が発生、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。)

1914年6月 サラエボ事件、第一次世界大戦へ

1915年 米国が債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領
数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命。米軍は1934年まで軍政を続け、憲法の導入などを行った。

1915年1月 二十一箇条要求 ※1※9
日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。多大な犠牲をはらって得た日本の正当な権益が脅かされていた。
最終的には十六ヶ条が5月25日、2条約および13交換公文として結ばれた。

1915年6月 「懲弁国賊条例」を発布
二十一箇条要求の結果結ばれた条約では「日本人の居住を認め」、国内法では「日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処す」もの。土地商租権は調印と同時に早くも空文と化し、中国は条約に違反した。

1917年3月 ロシア革命(2月革命)
1918年3月 ロシアが第一次世界大戦で単独講和

1919年5月 コミンテルン結成の直後に北京で五・四運動
それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動。四年たってから二十一箇条要求がやり玉に挙げられた。※4

1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印

1922年 九カ国条約締結
日本だけが違反したのではない。蒋介石は1927年の北伐の最中に米英など各国を相手に虐殺を行い報復を受けているし、張学良は1929年ソ連に対して挑発を繰り返し紛争に至っている。要するにそもそも中国側が違反していた。

1924年10月23日 北京政変
直隷派軍閥の馮玉祥によって起こされたクーデター。政変後、馮玉祥は溥儀を紫禁城から追い出した。溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった。

1924年11月24日 社会主義一党独裁国のモンゴル人民共和国が誕生
中華民国はソ連の傀儡国家として独立を認めなかったが、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。

1928年6月4日 張作霖爆殺事件
従来の関東軍首謀説に対して、ソ連特務機関犯行説、張学良犯行説もある。

1928年8月 六三カ国で不戦条約締結(ケロッグ=ブリアン条約
趣旨は侵略戦争の禁止であったが、米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。

1929年10月 ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落、世界恐慌

1929年12月1日 米・英・仏3カ国共同声明でソ連を不戦条約違反と非難
中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を中国が実力で回収しようとしたことが発端
ソ連は自衛戦争と回答

1931年6月27日 中村大尉事件
視察中の中村震太郎大尉らが中国兵に惨殺される。その直後には朝鮮人(当時は日本人)農民と中国人農民の衝突で「万宝山事件」が起きている。満州事変の引き金となる。

1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端)※8
中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。

1932年3月1日 満洲国の建国を宣言

1933年3月 リットン報告書が国際連盟で承認され、日本が脱退
しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペイン国などのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。※5

1933年5月 塘沽停戦協定
その後、蒋介石政府と満州国との間に関税、郵便、電信、鉄道の協定が結ばれた。また1935年、36年には蒋介石は日本との間の敦睦令を発令。

1939年5月~9月 ノモンハン事件
満州国とモンゴル人民共和国との国境線をめぐっておこった紛争。
両国の後ろ盾だった大日本帝国とソ連赤軍も戦闘に加わった。

1939年12月 前月のフィンランド侵攻(冬戦争)について、ソ連が国際連盟から追放される。
フィンランドはソ連と不可侵条約を締結していた。

1974年 ポルトガルでカーネーション革命、新政権は海外植民地の放棄を宣言
マカオに興味を持たなくなったポルトガル政府は即時返還を望んだが、香港との兼ね合いで中華人民共和国は断った。

1979年 香港総督が中国側に香港の帰属をめぐる協議を提案
中国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年9月にはサッチャー首相が訪中して英中交渉開始。

1984年12月19日 英中共同声明
香港の主権を1997年に中国に返還し、香港は中国の特別行政区となることが決定
香港住民は返還を不安視し、カナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。

1997年7月1日 香港返還
1999年12月20日 マカオ返還

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。

当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動※4を起こさせ、商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。
今の中国の反日デモ【写真2】と比べても、当時はこんなもんじゃなかったと思います。当時も今も、権力が民衆を誘導して反日デモが起こされました。

満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。

日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を、日本人が長年かけて開拓した土地を「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。※2
こういう自分勝手なところは当時からシナ人は全くかわりませんね。尖閣で同じことを繰り返しています。

それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。※7

もともと満州に合法的に駐留していた関東軍は日本の特殊権益を守ろうとしただけです。中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。中華民国時代の匪賊は推定二千万人、正規軍の約10倍でした。※6

社会が安定しない限り、近代経済社会の確立は不可能です。

中央政府の中華民国※5がやらないから関東軍は権益を自衛するために満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出したのです。民衆に対するいわれなき抑圧を解放したのです。これは侵略に当たりません。

外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。これは国際法的には「無主の地」です。責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法です。こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。※6

ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった”という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していたのです。※3

満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。

満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であったのです。

戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。

満州国は日本の支援によって政治的に安定した地域となり、航空機まで製造する近代産業国家に発展したのです。豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。

毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占め、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。

参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満

※1 暗黒大陸 中国の真実/ラルフ・タウンゼントより
これは交渉に当たった日本の外交官から直に聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、中国側はこう持ち出してきた。
「内容はこれで結構だか、要求と言うことにしてはくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが。」と。これを受けて日本側は「その方が良いのならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりの金が動いたのであろう。中国との交渉ごとは金次第とみてきたからである。
ところが今回は計算違いだった。「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。ところがアメリカがこれにかみついた。「哀れな中国に過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情がわき上がった。(中略)
極東問題に詳しいジャーナリストのジョージ・ブロンソン・リー氏は親日派の雑誌で「当時、外国人の記者にはこの辺の裏事情は知られていた」と述べている。

※2 暗黒大陸 中国の真実/ラルフ・タウンゼントより
次は満州軍閥、張学良の話である。「満州の王気取りで、中国に「満州には手を出すな」と警告まで出すほどになった。こうまでされては中国政府も黙ってはいないと思うのだが、なにもできない。ただ「反逆者、無法者」としただけである。だから張は我が物顔に満州で暴れ回っていた。ところが日本軍はわずか1万4百の兵で、しかもたった数日で20万の張軍を撃退した。負けた張学良はどうなったか。広大な満州から搾り取った金に不自由は無い。選りすぐりの美女2,30人を秘書として従わせ、イタリア旅行へとしゃれ込んだのである。

※3 紫禁城の黄昏/レジナルド・ジョンストン
当時の清国や中華民国内、溥儀皇帝周辺の情勢を記した第一級史料である。東京裁判では、弁護側資料として提出されたが、却下され裁判資料とはされなかった。
岩波文庫版(入江曜子・春名徹訳)は、原書全26章中、第1章から第10章・第16章と序章の一部(全分量の約半分)が未邦訳である。岩波版の訳者あとがきでは、「主観的な色彩の強い前史的部分である第一~十章と第十六章『王政復古派の希望と夢』を省き、また序章の一部を省略した」とのみ述べている。
岩波版で省略された章には、当時の中国人が共和制を望んでおらず清朝を認めていたこと、満州が清朝の故郷であること、帝位を追われた皇帝(溥儀)が日本を頼り日本が助けたこと、皇帝が満州国皇帝になるのは自然なこと、などの内容が書かれている。

※4 櫻井よしこ監修「非難の数々に断固NOと言えるこれだけの理由」別冊正論Extra.08より
リットン報告書は、満州事変は「一国の国境が隣接国の軍隊により侵略せられたるごとき簡単な事件にあらず。なんとなれば、満州においては世界の他の部分において、正確なる類例を見ざる幾多の特殊事態が存在するをもってなり」とした。特殊事態とは、日露戦争後、四半世紀にわたって続けられてきた中国人による「排日」「侮日」の嵐を指す。
リットン報告書は、
「1925年より以来、『ボイコット』組織に確定的に変化起これり。国民党はその創設以来同運動を支援し、順次『ボイコット』にその支配を増加し、遂に今日に於いてはその実際の組織的、原動的、調整的及び監督的要素足るに至れり」
「これらの行為は、中国の法律により明らかに不法なるのみならず、生命及び財産を保護し、並びに商業居住、往来及び行動の自由を維持する条約上の義務に違反する」
と、国民党の積極関与を認定している。(中略)
満州事変の16年前に米国は「居留民を保護する」という口実で中米のハイチを武力制圧し、19年にわたって居座った。それに比べると日本の行動は極めて穏健なものだった。日本に続いて南米のエルサルバドルが承認するなど、23カ国が満州国を国と認めた。当時の独立国家は80ほどだから、かなりの数である。

※5 ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」より
リットン報告は「中華民国」の「中央政府」と言う考え方は、法的擬制に過ぎないことを認めている。また、同報告書によれば、「軍閥」政権の多くは、南京政府(蒋介石)を中央政府として認めておらず、単に「たまたま外国勢力から中央政府として認められているに過ぎない」と考えているのである。日本にとって、リットン報告の見解は「法的」にきわめて重要である。もし、ある「軍閥」政権が外国勢力に認められたと言うだけで「中央政府」になれるなら、大国である日本が自分の勢力圏内にある望ましい政権を中央政府として認めてならない理由は無いのだ。もし、中国の中央政府が報告で明確にされているように法的擬制なら、日本の満州政府も同じである、と日本は考えたのである。

※6 倉山満(歴史通2011年3月号)より
日本が戦った蒋介石の中華民国が、今日の日本人が考える「中国」とはどれほど違うのかを、次の2点で確認しよう。
第二に、万里の長城の内部のシナ本土でも統一性が無い。建国当初から南方系の孫文派と北方系の袁世凱は分裂し、各地で軍閥が跋扈していた。最大の軍閥である閻錫山などは「山西モンロー主義」を唱え、独立国のように振る舞っていたほどである。つまり、蒋介石の国民政府は大陸全土を支配していないのである。治安維持能力が存在しないし、外国との約束を守れない程度の”国”なのである。これを国際法用語で条約遵守能力の欠如と呼ぶ。国家としての資格を有していないと言うことである。当時の国際法では、このような国に対する先制武力攻撃はまったくの合法であり、むしろ速やかな軍事行動で秩序をもたらすことが文明国の義務とされた。
なぜ大日本帝国と中華民国は武力紛争に至ったのか。第一義的には、中華民国が国家としての当事者能力が無かったからである。中華民国は現在の「中国」ではないし、「シナ」ですらなかった。単なる政権の集合体である。いわば、巨大な秘密結社にすぎず、主要構成員である軍閥も巨大な野盗にすぎない。

※7 岡田英弘(歴史通2010年3月号)より
南方のいわゆる漢人の建てた明は、山海関まで延々と万里の長城を築いたわけですから、その東も北も夷狄の土地と考えていたことは明らかです。1636年、万里の長城の北の瀋陽で建国した清は、のちに北京に入って中国支配を始めました。支配層のマンジュ人も続々と万里の長城を越えて華北に入ったので、故郷の満州は人口が減りました。しかし、清は漢人が満州に移住することを禁止する封禁令を出し、満州の地を特別行政区域として軍政下におきました。日露戦争のあとの1907年まで、満州は黒龍江、吉林、奉天という満州旗人出身の三将軍が管轄する地域でした。

※8 中西輝政氏と北村稔氏の対談(歴史通2011年3月号)より
(柳条湖事件について)戦後の東京裁判では、日本側が爆破しておいて、それを中国側のせいにして一気に軍事行動に出た、という筋書きになっています。しかし、その「証拠」とされたものを一つずつ克明にたどってゆくと、案外薄弱なものばかりなのですね。まだ結論を変えるほどの新証拠はありませんが、従来の「証拠」とされてきたものは、リットン調査団の報告書も含め、間接的なものや伝聞資料ばかりなのです。それも細部ではかなり食い違いもあります。肝心の石原完爾は、戦後、何度も聴取されていますが、一貫して「そんなことはしていない」と否定しています。板垣征四郎も、否定しています。満州事変の主役、二人はともに否定しています。もっぱら東京裁判での、例の悪名高き田中隆吉の証言だけだった。(中西輝政氏)

※9 黄文雄(歴史通2011年3月号)より
「二十一箇条要求」は1915年1月、大隈重信内閣が中華民国大総統袁世凱に提出したもので、今日では日本でも中国でも、「中国の主権を著しく侵害する要求で、最後通牒を突きつけてむりやり承諾させた」というのが定説になっている。だが、当時の日本政府は、それらの要求が他の列強諸国に比して特に過酷なものとは考えていなかったし、実際その通りだった。「二十一箇条要求」は第一号から第五号まであるが、たとえば第二号にある「租借期限の99年延長」は、香港の租借に関して英中間で同様の取り決めを行っていたし、第三号の「漢冶萍公司の日中合弁」についても、漢冶萍公司(中華民国最大の製薬会社)はすでに日本と提携関係にあったのである。つまり日本は中国における政治経済活動の「西洋列強並み」を求めたにすぎない。日本の中国進出は他の列強諸国とは違い、まさに国家の死活問題だった。日清戦争以降、何かにつけ列強各国から妨害を受けて不安定な状況にあった中国での既得権益を、第一次世界大戦で各国が中国を顧みないあいだに整理・設定してしまおうとしたのが、この「二十一箇条要求」の狙いだった。主権侵害として中国側から最も非難されたのは第五号である。(中略)
これに限っては、日本の要求というより希望に過ぎなかったし、最終的に中国への配慮から大きく譲歩して同年5月に締結された「日華条約」では、この第五号の七箇条は全て削除されているのである。日本が最後通牒を行ったことにしても、それは袁世凱が英米などに日本に対する圧力をかけさせるため交渉を引き延ばしたため、そこで断固たる措置を執らなければ排日勢力が増長することを懸念したからだ。また、国内の反対派に配慮した袁世凱が、逆に「最後通牒」を求めてきたという説も有力である。(中略)
このようなものを内外に宣伝することで、内においては排日運動を巻き起こし、外においては列強に対日圧力をかけさせた。こうしたパターンの反日工作はその後も継続され、それが満州事変・シナ事変の原因となった。袁世凱にとっても「二十一箇条」は理解できない内容ではなかったはずだし、孫文は白人に対抗するため「日中の親善を図る上で妥当なものだ」と考えていた。だから、中国政府による「二十一箇条」への反発は、袁世凱の策略という側面があった。一つは反日運動を利用して国民の団結を図り、一つは「夷を持って夷を制す」という狙いがあった。つまり外国同士を対立させて、それをコントロールしようとしたのである。

田中秀夫 月刊正論2014年7月号より
 日露戦争は外債を募って始めた戦争であり、勝利したと言っても賠償金は取れず、その債務は昭和になっても残り、日本はそれを払い続けねばならなかった。日本人の血を代償に、ロシアから取り返して中国にただで返してやったその満洲で、そのお金を稼ぎだすことはおかしいことかと彼ら(河本大作ら)は考えていたのである。
 張作霖がやろうとしたのは日本の満洲利権の無慈悲なる回収だったのだ。息子の張学良もその遺志を受け継いで、さらなる排日手段を行使するようになった。これが満洲事変の最大原因である。

おもしろい質問と回答がありますのでお時間があればお読みください。
『溥儀は財産の保障と引き替えに、退位宣言書にサインしたのに、財産どころか命まで狙われ、日本の租界に逃げ込み、日本の税金によって、優雅に暮らしている。一方的に約束事を破棄されたのですから、溥儀の退位自体も無効になっている、つまり、法的には溥儀が中国全土の皇帝になっても問題はないのではないでしょうか?』




満州事変で日本は支那を侵略した・・・大方の人はこんな歴史を信じてしまっています。しかし、なぜ事変が勃発したかはしらないし、満州と支那が別の国であることも知らないでしょう。満州事変関東軍による自警行為の発動であり、満州国は満州の正当な所有者である満州族清朝の復活です。

 

 「侵略」の英語はAggressionです。プログレッシブ英和中辞典によると「 1 (…への)侵略行為, 侵犯, 攻撃;(権利などに対する)侵害*1  a war of aggression 侵略戦争」となっています。国士舘大学講師の倉山満氏によると、これは誤訳であり、本来の意味は「挑発もされていないのに先に手を出す行為」であり、重要なのは「挑発の有無」と述べています。どうも東京裁判のときに一般的な「侵略」を当ててしまったためのようです。これは重要な話でしょう。

 

 清朝崩壊後、満州も支那も軍閥が跋扈(ばっこ)し、治安維持能力が低く、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされ、「日支懸案370件」というほどでした。さらに条約違反によって満州の日本の権益が損なわれ、鉱山の爆破のほか、南満州鉄道だけみても1928年から31年の間、運行妨害171件、列車強盗189件、鉄道施設の略奪92件、電線の略奪26件も発生しています。日本の権益日露戦争後に条約によって得た正当な権益です。それに対して軍閥は挑発行為を繰り返してきたのです。慣習国際法という概念は当時にもあり、満州にいる日本人の生命と財産が脅かされれば主権者たる満州軍閥は日本人を保護しなければなりませんが、それができないなら主権国家と呼ぶべきではないし、日本の関東軍は自警行為を発動しても法的にはなんら問題はありません。

 

 1922年に中華民国に関する九カ国条約が結ばれており、中華民国の主権を尊重し、中華民国に独立と自助努力の機会を供与する条約であることを明記しています。これで満州国建国は違法だという人もいるようですが、満州は中華民国のものではありません。条約締結時にブリアン議長から「What's China?」と疑問が提示されましたが、曖昧なまま条約に至っています。歴史的経緯からすると満州は満州族のものであり、支那(China)は漢民族のもので、万里の長城に境界があり、現地の人々の意識もそのような意識でした。蒋介石の北伐は万里の長城が終点です。また中華民国は紛争に対する中立義務がありましたが、それを破って南京、漢口で各国大使館に対して殺人・略奪行為を行っています。もはや条約遵守に値しません。

 

 1928年にパリ不戦条約が結ばれますが、この内容は現在のGHQ憲法九条の内容とウリ二つで、国際紛争解決の為に戦争に訴えない」「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」「あらゆる紛争または紛議の解決は平和的手段によること」というものです。結局米国が自衛戦争は禁止されていないという解釈を打ち出し、ここで早くも空文化してしまい、先にあげた「A war of aggression 挑発もされていもいないのに先に手を出す戦争」侵略戦争として否定されるが、自衛戦争は容認するとしています。また英米は「自国の利益に関わることで軍事力を行使してもそれは侵略ではない」としています。しかも各国に自己解釈権まで与えられています。

 

 これらのことを見ると1931年に関東軍鉄道爆破によって満州事変が勃発しますが、合法的な自衛権の発動であり、その後の満州国満州族皇帝即位し、各軍閥が従い、関東軍により治安が維持できるようになったということで、侵略でも違法でも何でもありません。



★大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!
https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w&list=PLF01AwsVyw328JWxhGfxIh8OlCax9dGxz



【GHQ焚書図書開封】#118 加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判1
https://www.youtube.com/watch?v=SfDaA0FfqgI&index=51&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp



【GHQ焚書図書開封】#119 加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判2
https://www.youtube.com/watch?v=2OPZm2yzBA8







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by kabu_kachan | 2016-06-23 22:28 | 日中戦争 | Comments(0)

「山本五十六」を研究せよ!

【私の見解】


①山本五十六は日本とアメリカの両方の戦犯にならない方法を模索し続けたのである。


②真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の発案者はルーズベルトである。
(ちなみに、ベンジャミン・フルフォードも言っているけど、ルーズベルトは毒殺されたんですよ。)


口は災いの元 : ルーズベルトの最期
https://www.youtube.com/watch?v=KQOowq6HIX8


(大田龍氏の週刊日本新聞 時事寸評 平成十八年(二〇〇六年)一月十二日(木)第一千五百五十二回 転載))

F・D・ルーズベルト米大統領暗殺疑惑と、そしてその意味。


更新 平成18年01月13日00時04分

平成十八年(二〇〇六年)一月十二日(木)
(第一千五百五十二回)

○「操られたルーズベルト」
  カーチス・B・ドール著、
  馬野周二(訳・解説)、プレジデント社、一九九一年十月刊

○この本の英文原題は、
  FDR: My Exploited Father-in-Law
  By Curtis B Dall(一九六八年)

○本書の著者、カーチス・B・ドールは、
 F・D・ルーズベルト米大統領の娘と結婚して居る。

○従って、F・D・ルーズベルトは、ドールの義父であり、
 エレノア・ルーズベルトは、ドールの義母にあたる。

○そしてずっと後になって、ドールは、
 ウイリス・カートの主宰するリバティー・ロビーと言う政治団体の
 代表に就任した。

○本書は、
 シオニストユダヤ、ADLの一味に不法に乗っ取られる以前の
 IHR(歴史修正研究所)によって発行された。

○一九四一年十二月八日(七日)当時の米真珠湾海軍艦隊司令官で
 あった、キンメル海軍大将と、

○ドールは、一九六七年二月三日、対談した。

○そこでキンメル提督は、

○前任のリチャードソン提督が解任された、その後任として任命され
 た、一九四一年晩秋、

○ワシントン(米海軍省)は、
 主力艦数隻、輸送船を他の地域に派遣せよ、と命令してきた。

○更に、日本軍のパールハーバー攻撃の少し前、ワシントンの海軍省は、
 パールハーバーの航空母艦五隻を他地域に移せ、と命令して来る
 (前出、二百九十一頁)。

○つまり、そこで、パールハーバー米艦隊は、
 空母はゼロ、と成ったわけである。

○キンメル大将も、カーチス・ドールも、
 これは、ルーズベルト政権による日本を対米英戦争に引きずり込む
 大謀略の一部であることを明確に認識して居る。

○米国では、
 一九四一年十二月八日(七日)の「日本のパールハーバー奇襲」説が、
 米国政府によるペテンであることについて、無数の暴露と論評がなさ
 れて居る。

○にも拘わらず、日本では、このペテンにもとづく「東京裁判史観」が、

○ますます強国に日本人の意識を支配しつつある。

○朝日新聞社の月刊誌「論座」の平成十八年二月号に、

○ 朝日新聞論説主幹 若宮啓文
  讀賣新聞主筆   渡辺恒雄

○この二人の「対談」、

○なるものが掲載され、

○東京裁判の全面肯定にもとづく日本の軍、政府首脳の「戦争責任」なる
 ものについて、

○売国奴的発言が展開されて居る。

○カーチス・B・ドールは、一九四五年四月十二日のF・D・ルーズベルト
 の病死は、何者かによる「暗殺」(毒殺)ではないか、

○と疑って居る。

○このF・D・R暗殺疑惑は、
 米国では、かなり広範に、反陰謀陣営に流布されて居るにも拘わらず、
 日本人には、まったく、知らされて居ない。

○要するに敗戦後六十年来、

○日本人は、米国そして、世界の、

○まともな情報から、完璧に遮断されたままなのである。

○我々は、まさに、
 一から、やり直すしかないのだ。

 (了)






ルーズベルトにしてもスターリンにしても、山本五十六にしてもヒトラーにしても、
第二次世界大戦の主役たちは、毒殺されたか戦闘で殺されたか自殺と見せかけて永久逃避したのである。

第二次世界大戦の黒幕たちが戦争の原因をわからなくさせているのである。




★ユダヤに仕組まれた世界大戦@【真珠湾攻撃・ユダヤ支配・ホロコースト】
https://www.youtube.com/watch?v=6aFAw0i-lJQ


★太平洋戦争敗北の真相
http://kabukachan.exblog.jp/21608752/



山本五十六は「アメリカと戦争になれば、日本は必ず負ける」ことを確信していた。

戦争になった以上は司令長官として戦わなければ日本軍の軍法裁判で死刑であろう。

司令長官として指揮を執ってアメリカに対して勇敢に戦ったとしても、日本は負けるとわかっているのだから、日本敗戦後のアメリカ軍の軍事裁判で死刑になるであろう。

アメリカ軍との戦いで進んでも退いても死刑になるのである。

ちょうど迷っているときに、ルーズベルトから「真珠湾攻撃は手加減してミッドウェー海戦でわざと負けるように」という秘密書簡が届いたのである。
最後にはこう書いてあった。「以上のことを実行してくれたら、後のアメリカ軍の軍事裁判で山本五十六司令長官を戦犯リストから外すことを約束する。   フリーメイソン同志ルーズベルトより」
(ただし、このときはフリーメイソン・ルーちゃんというニックネームだったかもしれない。)

★山本五十六はフリーメイソンである(1)
http://kabukachan.exblog.jp/19100570/


山本五十六は戦犯リストから外してもらうのと引き換えにミッドウェー海戦でわざと負けたのである。このあとは、南の小島に不時着してアメリカ軍と落ち合ってわざと捕虜にしてもらって終戦を迎えるつもりであった。
その時は、日本は負けているから、日本軍は山本五十六を戦犯として裁けない。アメリカ軍も山本五十六を戦犯にしないから、山本五十六は両方の戦犯にならずに目出度しめでたしとなるはずであった。




日本海軍の司令官として戦わなければ日本国に対しての戦犯となる。
しかし、アメリカと戦って負ければ、アメリカの軍事裁判で戦犯として処刑される。東条英機のように。

一旦、戦争が始まった以上は戦わなければ日本国に対する戦犯となる。
陸軍の場合は初戦は勝ちまくっていたから気づかなかった。
だが、海軍の場合、なぜアメリカと積極的に戦わなければならないのかわからなかった。アメリカと積極的に戦えば戦うほど、あとで負けた時のアメリカの軍事裁判での戦犯としての刑が重くなるのである。それならアメリカ軍と協力して日本海軍の軍艦や空母を自分たちで沈めてやるほうが、あとの軍事裁判で戦犯にされないで済むというものだ。ただあからさまに行なうと日本国民に批判されるから、あくまでわからないようにやったのである。

日本海軍全体にこのような暗黙の了解があったのではないだろうか?


すなわち、日本海軍は日本国民にわからないように、すべてのアメリカ軍との海戦でわざと負けて行ったのである。勇ましく海戦で勝ったところで何になる。あとで戦犯としての刑が重くなるだけじゃないか。戦争は人殺しだからね。だから、特攻隊の発想もこの考えから生まれたのではないだろうか?

そして今でも日本人は、日本海軍がわざと負けたことに気づかないでいる。山本五十六は英雄扱いのままである。


「神風特攻隊」はなぜ生まれたのか?
http://kabukachan.exblog.jp/26084767/



山本五十六という人間を考える時に次の要点を基本におく。


①戦前、山本五十六は「アメリカと戦争になれば日本は必ず負ける」ことを確信していた。


②戦前、日本の軍人の中で、山本五十六ほどアメリカと関係の深かった軍人はいない。


③日本が敗戦した後、東条英機のように戦犯になって絞首刑になるのを恐れたか、アメリカ留学中に誰かにそう脅された。


以上の三つの要点が山本五十六の行動を決定づけた。

すなわち、「真珠湾攻撃は手加減しておいて、ミッドウェー海戦はわざと負ける」ということである。

真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も山本五十六の発案(又は、ルーズベルトの発案かもしれないが)であり、両方の作戦とも強引に主張して指揮を執った(わざと負けるために)。


私の仮説

山本五十六はアメリカ滞在中(日本にいる時かもしれないが)に真珠湾攻撃とミッドウェー海戦をしてわざと負けるよう第三者から指示を間接的に受けた。そうすれば日本が負けた後の軍事裁判で戦犯にはしないからと言う内容であった。もちろん真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の発案者はルーズベルトである。こうなると暗号解読されていたかどうかというのは大した問題ではなくなる。そもそも日本海軍の方から真珠湾とミッドウェー海域にやってくるのが、ルーズベルトにはわかっているからである。


★真珠湾攻撃と暗号解読
http://kabukachan.exblog.jp/24391093/

かくして予定通り、日本海軍は真珠湾攻撃を手加減して、ミッドウェー海戦で大負けしてやったのである。

山本五十六は「これで日本は負ける。あとは自分が生きてアメリカ軍に捕まれば両方の戦犯にならずに済む」と思ったに違いない。

ルーズベルトの思惑通りわざと負けてやったからである。
だからまず、アメリカに対する戦犯にはならない。次に、日本国に対する戦犯になるかと言うと、日本は負けることがわかっているから、負けてしまえば山本五十六を戦犯として裁くことができない。

したがって、わざと負けたことが日本国民にわからないようにすれば、あとで汚名を着せられることもない。

・・・と、山本五十六は考えていたのではないだろうか?

だから、アメリカは東京裁判で海軍関係者を戦犯にしなかったのである。日本がアメリカに負けるよう協力してくれたからである。

巣鴨プリズンにA級戦犯で入っていて、あとで釈放された連中もGHQに全面協力すると誓ったから釈放されたのである。

その連中によって、現在の日本の政治とメディアは作られたのである。

そして、日本国憲法もGHQが作ったから、日本の司法に携わる日本人もGHQ=アメリカに協力しているということになる。


山本五十六の最期

山本五十六は逃げるつもりであった。そしてアメリカ軍も了解していた。
なぜなら、戦死時に着用していた軍装は、太平洋戦争に突入してから山本が生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装(陸戦用服装)を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。

山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。


山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。
山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。
右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。

アメリカ軍は誤って山本五十六が乗っている機体を撃ち落としたのである。
なぜなら、もう一機の宇垣の乗っている機体は無事に不時着している。始めから山本五十六を狙っていたのなら、二機のどちらに山本五十六が乗っているのかわからないのだから、アメリカ軍は二機とも撃ち落としたはずである。


アメリカ軍が楽に勝つようにしてくれた大恩人の山本五十六を、
アメリカ軍は間違えて撃ち落としたのである。

または、山本五十六の乗っている機体であることを知っていて撃ち落としたなら、山本五十六はルーズベルトに騙されたことになる。

Yamamoto Shot Down (footage from both sides)
https://www.youtube.com/watch?v=39-yZ_2aao0

以上が私の結論である。


★David Icke 2015 | The Truth About 911
https://www.youtube.com/watch?v=ZlSn4djZ9u8




アメリカは日本と戦争をする前から日本が負けた後の日本の占領計画などの構想を持っていた。

まず、陸軍を徹底的に悪玉にする。


★【高橋史朗】あらためて『GHQ洗脳政策』を考える
https://www.youtube.com/watch?v=js4nFGkuwcE&nohtml5=False

天皇は陸軍と深く係わっていたが占領計画をスムーズに行なうために善玉として残しておく。

政治家は日本が負けることに協力した連中に切り替える。

メディアや学校教育は赤色で染まらせる。

★「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=ZIEeUCF5_LU

朝日新聞が良い例である。戦前、陸軍応援新聞だったが、戦後、180度向きが変わる。しかし、過去の証拠は消せなかった。新聞社だから。(NHKも同じ。)


★【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M


★「事後法により裁かれた東京裁判」「東京裁判松井石根大将判決から導き出される結論『日本軍による南京大虐殺はなかった』」
https://www.youtube.com/watch?v=OW8cq6jV7i8



すべてが陸軍悪玉論に徹底した。だから山本五十六の批判はしない。

すべてが戦争前からアメリカによって仕組まれていた。
ただ初戦において、日本の陸軍が予想以上に強くて、あっという間に東南アジアを占領してしまったことである。
これも戦後の学校教育において、陸軍悪玉論を徹底的に教えることによって成功した。


★「ひと目でわかる『アジア解放』時代の日本精神」
https://www.youtube.com/watch?v=f9ApqXzMj5k



★さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U



★台本「真相箱」真相はかうだ-NHK洗脳ラジオ放送
https://www.youtube.com/watch?v=ToUz8pxhSC8



★渡部昇一&水間政憲
http://www.dailymotion.com/video/x115f4x_%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80-%E6%B0%B4%E9%96%93%E6%94%BF%E6%86%B2-2013-06-21_news


★【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M



★祖先の目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI





山本五十六の大罪


WILL  2008年8月号  「天地無用」


推 進
  大東亜戦争が国民を悲惨な窮状に陥しいれた根本の真実が、今ようやく中川八洋(『山本五十六の大罪』)によって曝露されている。良識派として偶像化されている米内光政が、実際に採った行動は以下の如くであった。
  昭和12年、廬溝橋事件を引き起こした運命の一発が、毛沢東の軍隊による仕業であった事実は周知であろう。しかしこの悪辣な罠を警戒した日本陸軍では1カ月後もなお不拡大派が主流であった。しかるに8月10日の閣議で、海軍大臣米内光政は上海への出兵を強引に要請する。8月12日、米内は首相近衛文麿の支援を得て二個師団出動を決めさせた。
  それのみならず8月14日の閣議で米内大臣が「南京占領」を唱えている。このとき外務大臣も陸軍大臣も反対した。すなわち南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政である。興奮した米内は総理でもないのに8月15日午後7時半、「頑迷不戻(ふれい)な支那軍を膺懲(ようちょう=こらしめること)する」と、支那(チャイナ)への宣戦布告とも見倣し得るラジオ演説までした。のち無駄な戦死者を増やすのみであった「特攻」作戦を裁下した高官5名の1人が米内光政であった事は否定できない事実である。

怯 懦

  中川八洋の調査によれば、山本五十六の行動は奇怪きわまる。

彼が発案した真珠湾奇襲作戦は海軍部内の承認を得た検討の結果ではなく、及川古志郎海軍大臣に送った書簡一通によってのみ伝えられたにすぎない。事実、山本が奇襲部隊の出撃を敢行したのは、ハル・ノートが日本側に手渡されるより以前であった。この奇襲が何等の戦闘的実効をもたらさず、遂に米国の戦意を高めるのみに終わったのは申すまでもない。

そして日本の敗北を決定的にしたミッドウェー島攻略作戦の時機に山本は何処に居たか。真珠湾の時と全く同じ、聯合艦隊の司令部を瀬戸内海に置き、戦艦「長門」「大和」「武蔵」と居を移しつつ、賭博好きの本性を顕してカードに耽り、将棋をさして優雅な生活を送っていた。

ミッドウェー海戦の大敗北のあと、その責任をとるどころか、日本国内に対して敗北を隠蔽するのに腐心する。空母4隻から生還した第一級のパイロットたちをバラバラにして次々と遠方の前線に配属し、生証人が残らないように死線の境に送り込んで敗戦を帳消しにした。


欺 瞞

昭和19年、台湾沖航空戦の報道では、大本営海軍部の発表を丸呑みする各新聞によって次の如き戦果が謳いあげられた。
すなわち、撃沈は空母11隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻、撃破は空母8隻/戦艦2隻/巡洋艦4隻、記録的な大勝利である。しかし中川八洋の解明するところ実際は、米国の空母も戦艦も、1隻たりとも撃沈していない。米国側で被弾大破したのは巡洋艦2隻のみであった。これが日本海軍の戦闘機300機以上と、同数のパイロットを失った末の代償であった。大本営の嘘もすでに極限に達していたのである。海軍は昭和天皇と国民を終始欺き通した。

陸軍は海軍が公言したこの虚偽戦果に基づいてレイテ島作戦を立てた。その結果は8万人部隊の97%以上の戦死者を出した史上空前の全滅である。これらの悲劇を生んだ嘘の捏造はすべて大本営海軍部の画策であった。

戦後、旧海軍の連中が記述した内容が虚偽とねつ造に満ちている実態を中川八洋はごっそり調べた結果を要約し、それらがことごとく嘘と脆弁によって構成されている内幕が実証された。これら綿密な証明に接すれば、誰でもが寒疣(さむいぼ)の立つ思いを味わうであろう。


● ミニ解説 ●

山本五十六はフリーメーソンであり、日本を敗戦に導くために大きな役割を果たした人物です。そのため、真珠湾攻撃の発案者でありながら、東京裁判では全くその罪を問われることなく、戦後も"名将"であったかのような報道や出版がなされています。世界を支配する闇の権力に高く評価された"功労者"だからです。

山本五十六は戦地で敵戦闘機に攻撃されて死んだことになっておりますが、これが偽装死であることは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社NF文庫)を読むとよくわかります。海軍の中枢のほとんどが世界支配層によってコントロールされていたということです。

その結果、戦後東条英機を初めとする陸軍は徹底的に戦争犯罪人として断罪されていますが、海軍にはそのような批判は寄せられていません。しかしながら、アメリカとの戦争の火ぶたを切ったのは真珠湾攻撃なのです。

山本五十六は、アメリカが国内世論を第二次世界大戦への参戦に導くための口実をつくった立役者なのです。その真珠湾攻撃で、山本五十六が「自ら指揮を執るから」と言っておきながら、実際は瀬戸内海に浮かぶ戦艦の中で悠々と過ごしていたことがわかっています。

以下は、その事実を明らかにした中川八洋氏の『山本五十六の大罪』(弓立社)の中の一文です。


■怯懦に生きた"世界一の臆病提督"山本五十六


山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、"卑怯"の2文字を絵に猫いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。

1905年5月の日本海海戦で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保(長崎県)港に浮ぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できようか。あるいは、1805年のトラファルガル海戦で、「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史の if としても考え付くものはいまい。

しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、"率先垂範の指揮"という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。


■山本五十六は死刑――海軍刑法第四四条


1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、"最悪・最低の狂将"だった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。


第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているのにもかかわらず、空母四隻の前方にいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540㎞に「逃亡=職場放棄」していた事実。


第二の理由は、4隻の空母の、3隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の「職務放棄」。
 この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第四四条、もしくは第三八条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

第四四条 指揮官はその艦船軍隊を率い 故なく守所もしくは配置に就かず またその場所を離れたるときは左の区別に従いて処断す
 1、敵前なるときは死刑に処す
 (以下略)
                 ―― 『山本五十六の大罪』(中川八洋・著/弓立社)

 この内容に関心をもたれた方は、当サイトの『山本五十六は生きていた』にもぜひお目通しください。日本をアメリカとの戦争に巻き込んで多くの同胞を戦火の犠牲にする手引きをしたこの人物は、いまはおそらく無間地獄で良心の呵責に苦しめられていることと思いますが、事実は事実として語り継ぐことが本人への供養にもなると思います。
                                     (なわ・ふみひと)





山本五十六がフリーメーソンのメンバーであったかどうかは知りませんが、海軍軍人として山本の先輩である米内光政が、実はフリーメーソンのメンバーであったという話は昔からけっこう聞きますね。


たとえば昭和12年に発生した日中戦争で、日本軍が中国の首都南京を占領した後、中国駐在ドイツ大使トラウトマンの仲介による日中間の和平交渉(トラウトマン和平工作)が行われた時に、当時の陸軍が和平案の内容についてほぼ同意していたにもかかわらず、当時海軍大臣だった米内がこれに猛反対して和平案を葬り去り、そのことが結果的に日中戦争の泥沼化と太平洋戦争を招くきっかけとなりましたが、これはフリーメーソンのメンバーであった米内が、「日本を巻き込んで世界戦争を起こす」という、当時のフリーメーソンの方針にしたがって行動した結果であるという説が一部にあります。


また、終戦後に米内がアメリカのGHQ(占領軍総司令部)から異常に厚遇され、本来なら戦犯に指名されてもおかしくはなかったにもかかわらず、逆にGHQから幣原内閣の海軍大臣にぜひなってほしいとまで懇願されたのは、戦争中にメーソンの指示を忠実に実行して日本を戦争に導いた米内の功績に報い、なおかつメーソンが計画する日本の占領行政を円滑に進めるために、当時の連合軍最高司令官でメーソンの一員でもあったマッカーサー(マッカーサーがメーソン会員であったことはおおやけにされています)元帥が米内を特別扱いしたためだという説があります。


また、日本が無条件降伏したその日に敗戦の責任を取って自決した阿南惟畿(あなみこれちか)陸軍大臣が、自決する時に介錯する部下に向かって「米内を斬れ」と叫んだ話は有名ですが、これも実は、阿南が米内の正体(つまりフリーメーソンのメンバー)を知っていたからであるとする説も存在します。ただしこれについては、当時陸軍大臣として本土決戦を強硬に主張していた阿南が、早期講和を主張して阿南と激しく対立していた海軍大臣の米内に対する憤激の思いから発せられたものであったとする説が有力ですが・・・


これらの説はいずれも状況証拠からのみ唱えられているものであり、それを裏づける確たる物的証拠が存在するわけではありません。また、日本軍人のフリーメーソン会員説については、海軍だけでなく陸軍の軍人にも以前から存在(例えば澄田來四郎陸軍中将=終戦時に中国駐留日本軍司令官。長男は第25代日銀総裁の澄田智)しています。





山本五十六が日本を敗戦に導いた
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki004.html


『山本五十六は生きていた』は私にとって「目から鱗が落ちる」思いのする本でした。私の読書法は、特に参考になると思う部分があると、そのページの耳(上の角の部分)を折り曲げておくのですが、この本は約370ページもある中で2~3ページしか曲げていないのです。ということは、10年前に読んだときは、やはり感じるところが少なかったものと思われます。私の問題意識がそこまで及んでいなかったということでしょう。
  しかし、最近になって改めて目を通して見ますと、私が先の戦争(太平洋戦争)に関して疑問に思っていたことの答えがすべて書かれていました。
  その疑問とは、まず「日本はなぜ勝ち目のないアメリカとの戦争に踏み込んでいったのだろうか」ということです。もちろん、それは「陰の世界支配層」に操られたルーズベルトの陰謀により、ABCD包囲網などで嫌がらせをされ、最後通牒としてのハル・ノートを突きつけられて、戦争に踏み切るしかないところまで追い詰められたからだ、という程度の知識は持っていました。
  当時アメリカ国民は、ヨーロッパでの戦争にアメリカが参戦することには強く反対していたのです。ですから、ヨーロッパにおいてヒトラーのドイツと戦っているイギリスを支援をするには、ドイツと同盟を結んでいる日本を挑発して、先に攻撃をさせる必要があったのです。そのために仕組まれたのが、日本海軍による真珠湾への先制攻撃でした。しかも宣戦布告なしの攻撃ということで、アメリカ国民の心に怒りの炎を燃え立たせる必要があったのです。
  日本の宣戦布告が遅れたのは、駐米日本大使館員の不手際だったということになっています。大使館員がへまをしたために、アメリカ政府に届けるのが遅れてしまったというのです。そのことも、私には疑問に思えてなりませんでした。相手の国に宣戦布告をするような重要な文書が、翻訳に手間取って時間までに届けられなかったというようなことが考えられるでしょうか。まるで子供だましの世界です。その証拠に、そんな不手際をしたとされる大使館員たちは、その責任を問われることもなく、戦後は全員が栄進しているのです。

  さらに不思議だったのは、日米の戦局を大きく左右することになったミッドウェー海戦です。どう考えても意味が理解できないおかしな作戦になぜ踏み切ったのでしょうか。この作戦は山本五十六が徹底的にこだわったと言われています。反対の意見が多かったにもかかわらず、この作戦が採用されなければ自分は司令長官を辞任する、とまで言って強引に通しているのです。

  そして、もうひとつ疑問に思ったことは、日米の戦力が全くの互角だったあの海戦では日本が勝利する可能性もあったはずなのに、アメリカがあたかも勝利を確信しているかのように落ち着いて日本の艦隊を待ち受けていたのはなぜなのかという点です。もし、あの戦いで日本が勝利を収め、アメリカの主だった空母が沈められることになれば、戦争は圧倒的に日本が有利になっていたからです。
  この本によれば、その答えは、日本の艦隊を指揮していた山本五十六や南雲忠一はフリーメーソンだったから、アメリカは安心していたのだというのです。必ず日本が負けるような作戦をとってくれるとわかっていたのだとか。これで全ての謎が解けました。つまり、山本五十六は最初から負けるためにミッドウエー海戦を仕組んだのでした。もともとあの戦争は日本を負けさせるためだったのです。そのことが具体的な情報に基づいて、大変な説得力をもって書かれています。
  要するに、日本の政界や軍部の中枢にはフリーメーソンの信奉者が数多くいて、日本を敗戦国にすることを目的として戦争に突入していったということなのです。これでは、純粋に日本の国益を守るために命を捧げた多くの兵士の魂は浮かばれない気がします。
  そう言えば、戦後、東京裁判で戦争責任が問われたのは陸軍ばかりで、真珠湾攻撃を計画した山本五十六や、その指揮を執った南雲忠一らは全く罪に問われていないどころか、その後まるで英雄扱いをされているのです。この落差は異様だと思いませんか?

                       ☆ ★ ☆
  そしていま、日本の政治・経済を取り巻く情勢はあの時と同じような局面を迎えつつあるのです。「知らぬは国民ばかり」という事態が密かに進行しつつあります。2005年夏の総選挙で小泉自民党が圧勝したことによって実施されることになった「郵政民営化」も、そのひとつと見てよいでしょう。
  しかし、郵貯や簡保の350兆円が外資の餌食になるということだけが問題なのではありません。日本の国そのものが抹消されようとしているのです。世界を陰で支配する勢力に屈し、操られているわが国の政治家や官僚、マスコミ、財界人などによって、いまこの国はその方向に誘導されつつあるのです。



山本五十六は生きていた
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku01.html


骨の髄まで親米派のフリーメーソン       [TOP]

  山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。
  (中略)
  大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
  大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て大正8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
  大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
  大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
  山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。


真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
  不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。
  被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
  こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。



http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/YamamotoIsoroku04.html

こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
  この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
  ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官のひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。



太平洋戦争と戦後を作ったフリーメイソンの走狗たち


ワシントンはフリーメイソンであった。

下記のページの2枚目の写真を見てほしい。

http://www.lewrockwell.com/spl2/pyramid-and-all-seeing-eye.html

THE BROTHERHOOD OF MAN(人間の兄弟愛)と書かれてある。

辞書を見ると、BROTHERHOODとは「友愛」とも訳すことができる。

鳩山が友愛をスローガンに掲げたのはフリーメイソンに由来するのは有名な話だ。

だが、彼の実の父親であると言われている笹川良一のスローガンであった「世界は一家、人類は皆兄弟」もフリーメイソンに由来するのではないか。

笹川がフリーメイソンであるならば、笹川-児玉誉士夫ラインから、児玉もその一味であると分かる。

笹川と山本五十六はつながっていた。


(笹川は)戦前は航空機等の最新の軍需技術を研究する柔軟さを武器に「海軍」(山本五十六)に取り入り、「濡れ事」(諜報用語で汚い仕事のことです)を引き受けることで出世しました。
そして大陸で汚い仕事をやって蓄財し、戦後のドサクサに紛れて軍需物資を略奪したという疑いがあります。
http://sun.ap.teacup.com/souun/1741.html


山本は、カトリック信者であった。


山本五十六氏は、カトリック信者で、昭和15年にローマ法王に謁見しています。
http://sun.ap.teacup.com/souun/1741.html


カトリックの中枢は、イエズス会である。

イエズス会はイルミナティ。

となると、

イルミナティ=フリーメイソン=山本五十六=笹川良一=児玉誉士夫

とつながってくる。

なお、児玉は、満州において麻薬の密売をやっている。


日本が中国に侵略し建国した満州帝国で麻薬密売を担当し、日本の戦争資金を作っていたのが里見であった。…

里見の部下が児玉誉士夫である。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-category-35.html


この満州建国と運営を、国際連盟は侵略と断定するのだが、その侵略の後押しをしたのは、実は米国であった。


米国政府に武器を売り付け「金儲け」するブッシュ一族は、同時に部下のブルームを使い、日本に兵器と軍事物資(鉄鋼製品、ニッケル、チタン等の希少金属)を販売し利益を上げていた。

敵であるはずの米国が日本の軍事力の増強の中心にいた。
http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-category-35.html


児玉は、戦後CIAに協力するようになる。


「1948年末、釈放された児玉はCIAに協力するようになった」と後にアメリカでも報道された。
(Wikipedia-児玉誉士夫)


自民党の設立資金は、児玉機関が中国で略奪した物資に基づいていた。

これで筋書きが見えてくる。

つまり、

山本、笹川、児玉は、フリーメイソンの国、米国と協力して、日本の侵略を既成事実化させ、戦争に導き、負け戦をさせ、乗っ取りを図り、成功した後に、侵略の金で自民党を作り、米国の傀儡国家と化した新生日本の筋道を作った。

太平洋戦争も、戦後政治も茶番であり、最初から筋書きが決まっていたのでしょう。

世界統一政府に向かって彼らの計画は着々と進んできた。


 

連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪』 中川八洋:著

第二節 怯儒に生きた"世界一の臆病提督"山本五十六

山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、"卑怯"の二文字を絵に描いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。

一九〇五年五月の日本海海戦で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保(長崎県)港に浮ぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できようか。あるいは、一八〇五年のトラファルガル海戦で、「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史の旺としても考え付くものはいまい。。

しかも、バール.ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、"率先垂範の指揮"という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。

山本五十六は死刑 海軍刑法第四四条

一九四二年六月の、ミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、〃最悪・最低の狂将"だった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーバー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。

第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗、、しているのにもかかわらず、空母四隻の前方二㎞にいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母四隻よりはるか後方五四〇㎞に「逃亡=職場放棄」していた事実。

第二の理由は、四隻の空母の、三隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の「職務放棄」。この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第四四条、もしくは第三八条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

「第四四條指揮官その艦船軍隊を率ゐ 故なく守所もしくは配置の場所に就かずまたはその場所を離れたるときは左の区別に従て処断す
一、敵前なるときは死刑に処す
二、略
三、略」
「第三八条指揮官その尽くすべきところを尽くさずして敵に降りまたはその艦船もしくは守所を敵に委ねしたるときは死刑に処す」

空母一隻につき、海戦の場合、必ず、戦艦二隻を空母護衛のため、その前方と後方に張りつけなければならない。両脇は、巡洋艦と駆逐艦とが囲んでいなくてはならない。空母とは、最強の〃長槍の戦士"だが、鎧を着ていない。だから、鎧を着た重厚な戦士たちが、その前後左右にいて、"長槍の戦士"を護る「鎧代行」をする。また、当時の空母は、受信能力が低く、戦艦による「受信代行」も不可欠であった。

空母は、団子のように固めてはならず、原則一隻ずつで陣形を組む(図1)。バラバラが基本である。仮に複数空母をまとめるとしても、敵の航空攻撃の射程圏内に入るときは、決して二空母以上はしてならず、この場合、二空母を進行方向に縦列にする。ところが、ハワイに出撃した南雲の六空母陣形は、平時の観艦式のつもりなのか、あってはならない最も危険な陣形であった(図2)。たまたま、敵の空母部隊の攻撃がなかったのが幸運であった。

ミッドウェー海戦における南雲の四空母の機動部隊もまた、この艦観式ダイプの二列の団子形であり、戦場の現実がわからない、素人の陣形である。空母機動部隊の戦闘陣形も知らない山本五十六の、その"空母主義"など、現実から遊離した観念のレベルであった。山本にとって空母は、"豚に真珠"であった。空母を十全に働かせるには、戦艦「大和」こそ、これら空母の先頭にいて防空と通信の二大任務を果たしていなくてはならない。

実際にもミッドウェー海戦で、山本五十六が率いる直率の部隊には戦艦が三隻もあった。空母四隻のはるか後方でブラプラしていた役割不明の「警戒部隊(高須四郎中将の指揮)」には戦艦が四隻もあった。これだけでも七隻である。南雲・機動部隊(空母四隻、戦艦二隻)にこれを加えれば、戦艦はすべてで九隻も現場にいたのである。空母四隻を守る戦艦は、ちゃんと出撃していた。

閑話休題。女と博突の生涯であった山本五十六の正体は、頭が極度に劣化した無能人間で、高いIQを必要とする大海軍の指揮官の適性がなかった。それを示すエピソードを挙げておこう。う米内光政/山本五十六/井上成美/大西瀧治郎/豊田貞次郎の五人が、揃いも揃って、常軌を逸した"バカ・アホ・間抜け"であることを示した「水ガソリン事件」である。米内や山本らは、H20(水)にはC(炭素)が含まれていると信じた。彼らは、小学校四年生の水準すらなく、その頭は異常であった。

一九三八年、海軍次官の山本五十六(中将)と航空本部教育課長だった大西瀧治郎く大佐)は、「水からガソリンが採れる」と.いう、マジシャンの詐偽話を信じた。そして、山本五十六が海軍次官として命令を出し、海軍航空本部の地下室でこの詐欺師に三日問に及ぶ公式実験をさせた。このとき、これに協力した航空本部長は、一九四一年七月、外務大臣になれたうれしさで、近衛文麿首相を支持して「南進」を決定する、あの豊田貞次郎(海軍中将)であった。

かくも痴呆的な頭に奇行常習と遊び優先、これが山本五十六の真像であった。この実験中、山本五十六は、大福餅などを差し入れしていたという。海軍大臣であった米内光政も、たぶんに、この「水ガソリン」を信じたのだろう、最初、大臣室での実験を勧めたと言う。

なお、このとき、「馬鹿げている」と直言して、この実験に反対する部下に対して、井上成美が、「上司に逆らうな」と叱責している(以上は、注1)。井上成美もまた、自由な討議をいっさい禁止した、息が詰まる帝国海軍の末期症状に加担していた一人だった。

もう一つの事例は、ミッドウェー海戦にも通ずるもので、米内/山本/大西ら、当時の海軍の出世街道を走る連中は、「兵器におげる、攻撃と防御の不可分性」が理解できない、度外れの欠陥軍人だった問題である。米内光政の渡洋爆撃や大西瀧治郎の重慶爆撃の時、いずれにも、護衛(掩護)戦闘機がなく、れらの爆撃機の被害は基大であった。ミッドウェー海戦で、空母四隻のそれぞれに二隻づつ、計八隻の護衛戦艦をつけなかった山本とは、このような爆撃機に戦闘機をつけない米内らと同じ、「防御不要(鎧不要)」という、非軍人的発想をしていたからである。

ちなみに、一九三七年八月十五日の、米内が主導した渡洋爆撃も同じだった。長崎県大村から出撃した、海軍の新しい爆撃機「九六式陸上攻撃機(中攻)」二十機は、掩護戦闘機なしであった。だから、東シナ海を渡洋して南京を爆撃したが、四機が撃墜され、六機が被弾した。その戦果はゴミのレベルだった。さらに翌日、このうち九機が済州鳥から蘇州を再爆撃したが、一機が不時着して大破し、結局、二日で半減した(注2)。

.戦場の現実をまったく想定できず、「鎧なしで戦え」と、鎧を着けさせずに平気に部下を戦場に出撃させる〃狂気の提督"、それが米内/山本/大西らであった。彼らは、敵はいつも反撃能力がゼロだと考えていたのである。大西瀧治郎の〃掩護戦闘機無用論"の無謀さについては、生出寿の『特攻長官大西瀧治郎』が簡便でわかり易い(注3)。

戦後、「大艦巨砲主義」が悪玉に仕立て上げられたため、山本五十六や大西瀧治郎の「航空主兵主義」が何か時代の先駆け的な、優れた軍備への切り替えをしたように誤解されている。だが、山本五十六は、一度も操縦樟を触ったこともない、航空のズブの素人だった。山本の「航空主兵」は、正しくは〃戦闘機不要論"と一緒になった、"爆撃機万能論"のことで、歪なものだった。だから、制空権は取れず、敵への損害がほとんどない、負け戦しかなりえなかった。

B29のように、敵の戦闘機が迎撃できない高度一万メートルを飛行して爆撃するならいざ知らず、敵が死に物狂いで制空権を失うまいとしている低高度の空域においては、掩護戦闘機のない爆撃機など、無暗に撃墜されるばかりである。だが山本は、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機があれば、勝ちまくれるという、マニア程度の発想から成長することはなかった。大西もまた、山本とそっくり同じ考えだった。

戦闘機の量的不足と軽視が、味方爆撃機の極度な損耗となった。一式陸攻の生産総数は二四一六機、終戦時残存は一六二機であった事実は、掩護の欠如ぶりのひどさを物語っている。"爆撃機万能論"は、「大艦巨砲主義」より、はるかに始末に悪く、帝国海軍自減の主因の一つであった。

二 命惜しさの無線封じー世界の戦史上類を見ない"超臆病軍人。山本五十六

ミッドウェー海戦の敗因は、山本五十六を庇うために奥宮正武らが考案した、弁解用の創り話「魔の五分問」(注4)などでは、もちろんない。最大の主因は、軍人にあるまじきレベルの、"山本五十六の怯儒。(臆病)にある。第二の原因は、偵察機の情報をインテリジェンスして、敵空母の位置を正確に推算する能力に欠けていたからである。第三の原因は、空母の運用が稚拙で実戦から乖離した素人のそれでありすぎたことだろう。

"山本五十六の怯儒"とは、山本が自分の命を惜しんで、戦艦「大和」の通信傍受隊が敵空母の位置を一日以上も前にキャッチしているのに、それを南雲提督が率いる空母機動部隊に知らせなかった事件である。"無線封止"を解けば、自分が乗艦している「大和」の位置を敵に知られて攻撃される可能性があると、山本は、自分の命大事と戦々恐々として、それを避けたのである。

佐々木彰・航空参謀は、次のように、回想している。これは他の証言と合わせると、おおむね正確のようだ。山本五十六こそが、知らせなくて良いと最終決定したのである。

「四日夜〈大和〉にあった敵信(敵通信傍受)班は、ミッドウェーの北方海面に敵空母らしい呼び出し符号を傍受した報告してきた。(すぐに南雲司令官のいる空母〈赤城〉に知らせるべきかどうかについては、最終的に)この電報は(山本)長官に申し上げて(打電しなくてよいと指示されたので)打電しないこととした」(注5、カツコ内中川)。

次に、山本五十六は、味方空母を敵の艦爆隊攻撃から護衛する(自分が座乗する)戦艦「大和」などの戦艦部隊を南雲空母機動部隊の前方に展開しなかった。東郷平八郎が敵艦隊の前面にでて艦橋に自ら立ったのとはまるで異なっていた。山本は、自分の命を惜しんだ。しかも、空母機動部隊より、はるか後方、なんと約五四〇㎞も離れた、絶対安全圏に「大和」を位置させ、その司令長官室で将棋を指していた。

何のために、山本五十六は、ミッドウェー海戦に出撃したのか。その必要はまったくなかった。むしろ、山本五十六という疫病神が出かけて、指揮を混乱させたから、四隻の空母喪失という大敗北になったと、戦闘記録は無言で行間に語っている。

山本の臆病は、ガダルカナル島作戦における、米海軍の提督たちと比較するともっとはっきりする。山本は、将兵激励のため、ガ島に一度も足を運んでいない。一方、米国側は、ニミッツ提督が一九四二年十月に、ハルゼー提督が同十一月に、ノックス海軍長官すら一九四三年一月に、現地部隊の将兵の激励に訪れている。そもそも、山本の人格には、"死闘の激戦"が繰り広げられている「戦場の将兵激励」という発想がない(注6)。

臆病の問題以上に、もっとトンデモない、もっと本質的な問題が山本にはある。ガ島での、日本の陸軍部隊の損害は死者二万人を越え、この二万人のうち餓死が一万五千人以上だったが、これらの陸軍の将兵の死を聞いた山本が、手を合わせたとか、涙ぐんだとかの、そのような記録も回想も皆無である。山本は唯物論的な無神論者だったという指摘は多いし、これは事実であった。三千名を越えるミッドウェー海戦の部下の死に対しても、山本は葬儀はおろか弔意も表していない。

山本にとって、戦死であれ、餓死であれ、大量死亡こそは、嬉々として楽しむ〃快楽"であったろう。自分の手を血で汚さない〃快楽殺人鬼"、これこそが山本五十六という人間の真像であろう。

ミッドウェー海戦における山本の問題はもう一つある。四隻の空母を撃沈されたとき、戦闘はまだ終了したわけではなかった。日本側には、アリューシャン列島に展開している小型空母が二隻あり(搭載航空機二七機の「隼鷹」、三十六機の「龍蟻」)、これをミッドウェー海域に呼び戻し、まだミッドウェー海域にある改装空母二隻(計三十九機)と戦艦十一隻をこの護衛につけて再編成し、「大和」を旗艦として山本五十六が指揮すれば、米海軍に最後に残る手負いの空母二隻(エンタープライズ、ホーネット)を撃沈することなど容易だった。

なぜ山本五十六は、「退却」の名目で、慌てふためき「敵前逃亡」したのか。それは「職務放棄」ではないか。山本は、恐怖に震えていた上に、指揮する自信がなかった。空母機動部隊の発案はしたが、実戦のできない〃口舌の徒"にすぎない自分の真像がばれるのが怖かった。

山本は、その後しばらくして、戦艦「大和」をっれて、トラック島に逃げ込んだ。ミッドウェー海戦大敗北のほとぼりが冷めるのを待つことにしたのである。山本の頭と行動には、「自己保身」以外、何もなかった。



★山本五十六・敗北の謎

http://kabukachan.exblog.jp/19100570/

http://kabukachan.exblog.jp/19105622/

http://kabukachan.exblog.jp/19106978/

http://kabukachan.exblog.jp/19106989/


フリーメーソンが日本を敗北させた
http://kabukachan.exblog.jp/18152497/


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by kabu_kachan | 2016-06-17 22:12 | 歴史 | Comments(4)

朝日新聞社=国賊新聞社=売国奴

朝日新聞社とはとんでもない売国奴である。

★「本物の写真」と「ニセモノの写真」の見分け方

「本物の写真」とは、「いつ・どこで・だれが」撮った写真かという条件が満たされていないといけない。

この条件が満たされていない写真はすべて「ニセモノの写真」と言うことになる。


★【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M

★「南京問題に完全決着をつける英文・中文新作計画他」
https://www.youtube.com/watch?v=d7_wlbSYk08

ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U

「ひと目でわかる『日中戦争』時代の武士道精神」
https://www.youtube.com/watch?v=bUOVBisWXDE

「南京大虐殺」の嘘~南京入城の記録映像と証言

http://www.dailymotion.com/video/x3fnwff


本多勝一という元朝日新聞記者と朝日新聞社は、すべて「ニセモノの写真」を使って何の根拠もないホラ話で捏造して「南京大虐殺」をでっち上げた。そして朝日新聞社は捏造した南京大虐殺の本や写真集を日本中にばら撒いたのである。かくして日本中の図書館に南京大虐殺の本や写真集が並ぶこととなった。一枚も本物の写真がないにもかかわらずである。

わざわざ一枚残らず「ニセモノの写真」を使って「南京大虐殺」という大ホラ話を捏造して本にして売りまくったのである。

中国の南京市にある南京大虐殺記念館の中で、「南京大虐殺」という大嘘話を広めた功績を称えられて、本多勝一と朝日新聞社は表彰されているのである。


いいですか。すべて「ニセモノの写真」を使って「南京大虐殺」をでっち上げた功績で表彰されて、しかも本多勝一の書いた『中国の日本軍』や『中国の旅』に掲載されている「ニセモノ写真」がすべて南京大虐殺記念館の中で大きなパネル写真となって展示されているのである。

このことを黙認している朝日新聞社とはとんでもない国賊新聞社である。

ユネスコ世界記憶遺産に登録された南京大虐殺記念館の中に展示されている『すべての「ニセモノの虐殺写真」を本物です』と朝日新聞社は世界に向かって宣伝しているのである。

この朝日新聞社とはとんでもない売国奴である。すべて「ニセモノの写真」を使って「南京大虐殺」をでっち上げたのである。


もう一度、説明しますよ。

ユネスコ世界記憶遺産に登録された南京大虐殺記念館の中に、すべてニセモノの「日本軍が行なったとされる虐殺写真」のパネルが展示されている。

これらのニセモノ写真は、すべて朝日新聞社の本、『中国の日本軍』や『中国の旅』から取り出してパネル展示しているのである。

そしてこの朝日新聞社は、ユネスコ世界記憶遺産に登録された南京大虐殺記念館の中で表彰されているのである。

★20世紀最大の大嘘
< 南京大虐殺 >
http://kabukachan.exblog.jp/25572311/

これを黙認して何も言わないということは、
朝日新聞社が世界に向かって、「南京大虐殺記念館の中に展示してある、『日本軍が行なったとされる虐殺写真』はすべて本物である」と太鼓判を押しているということである。

この朝日新聞社は、
「究極の売国奴」である。

この朝日新聞社は、自分のところの記者が撮ってきた本物の写真をわざと隠して、わざわざ中国まで行ってニセモノの写真を貰って来て「南京大虐殺の本」を作って売りまくったのである。

★元朝日新聞の本多勝一、
写真捏造を認める
https://www.youtube.com/watch?v=9y4JOIYhbfk

★やまと新聞水間政憲論説委員緊急収録「元朝日新聞記者本多勝一氏が南京事件捏造写真誤用を認めた歴史的意義
https://www.youtube.com/watch?v=6gP4tUnzOtk&nohtml5=False

この朝日新聞社は、わざわざ本物の写真を隠しておいて、すべてニセモノの写真で南京大虐殺を捏造して本や写真集にして出版した。この南京大虐殺の本や写真集は全国の図書館に並んでいる。いいですか。この朝日新聞社が出版した南京大虐殺の本や写真集の中に本物の写真は一枚もない。わざと本物の写真を隠したからである。
朝日新聞社に限らず、全国の図書館に並んでいる南京大虐殺の本や写真集の中に本物の写真は一枚もない。すべてニセノモ写真である。したがってこれらの本や写真集はすべてがデタラメ本ということになる。
日本と言う国は、全国の図書館に何十年もの間ず~と、デタラメ本を並べていたのである。

売国奴そのものである。

★朝日新聞解約急増中!怒涛の抗議で廃刊まっしぐら!
https://www.youtube.com/watch?v=R5RWEBK3jpQ

いいですか。朝日新聞社は自分たちの記者が本物の写真を撮って来ているのに、それらの写真を隠しておいて、わざわざニセモノの写真を貰って来て「南京大虐殺」を捏造したのである。

「ひと目でわかる『日中戦争』時代の武士道精神」
https://www.youtube.com/watch?v=bUOVBisWXDE

「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」を著者水間政憲本人が「徹底解説」
https://www.youtube.com/watch?v=ZIEeUCF5_LU

「事後法により裁かれた東京裁判」「東京裁判松井石根大将判決から導き出される結論『日本軍による南京大虐殺はなかった』」
https://www.youtube.com/watch?v=OW8cq6jV7i8

台本「真相箱」真相はかうだ-NHK洗脳ラジオ放送
https://www.youtube.com/watch?v=ToUz8pxhSC8

朝日新聞は抗議の前に謝罪記者会見を
https://www.youtube.com/watch?v=odhMFlYsDwg

渡部昇一&水間政憲
http://www.dailymotion.com/video/x115f4x_%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80-%E6%B0%B4%E9%96%93%E6%94%BF%E6%86%B2-2013-06-21_news

水間政憲①【邪教朝日新聞】の日本つぶし
https://www.youtube.com/watch?v=P72omWQpypc

【日いづる国より】水間政憲、「眞相箱」の真相はかうだった!
https://www.youtube.com/watch?v=P08BE6Pru9M

本多勝一のあきれた捏造【鳴霞塾#04】
https://www.youtube.com/watch?v=7IWje6m40WE


★本物の写真とは、
以下☟の写真のことを言う。

★次に、写真資料。
南京大虐殺」は捏造だった

中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
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これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、
歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた
中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである
(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)


南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞
「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
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南京市民と楽しく会話する日本兵ら
(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)
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日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
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(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm


南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
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(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
(朝日新聞1937.12.21付)

南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵
(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)
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中国負傷兵を看護する日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。
日本兵や日本人を恐れていなかった」
(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)

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日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)

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疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)

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日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族
(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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陥落2日後の南京の風景。
大虐殺実行中の街の風景ということになる。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後の南京で古着を売る支那人たち。
無差別に虐殺しまくっていたのなら
このようにのんびり商売などできない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後に野菜を売る支那人
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後に水餃子を食べる日本兵
大虐殺実行中であれば恐ろしい
日本兵
平然と
支那人が接するわけがない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後の支那人たち。
日本兵、日本人を全く恐れていない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後の難民の住居。(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後の支那人の子供。(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後、湯沸かし器を難民区に
持ち込み商売をする
支那人
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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陥落2日後、水餃子を食べる難民
大虐殺が行われているのならのんびりと
水餃子なんか食っていられない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)

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★虐殺されたはずの南京市民
https://www.youtube.com/watch?v=W-Erp_T3kjI&nohtml5=False




【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』製作へ
https://www.youtube.com/watch?v=1UrY5_YLcSw&nohtml5=False




★本多勝一と朝日新聞社
http://kabukachan.exblog.jp/25644975/



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by kabu_kachan | 2016-06-12 23:40 | メディア | Comments(0)

日中戦争と大東亜戦争

日中戦争と大東亜戦争


『歴史通』 2015年3月号増刊 より。


渡部昇一(上智大学名誉教授)
石平(評論家)


シナ事変前夜と同じ


石 「尖閣問題」が起こったとき、当時の仙谷(由人)官房長官が中国に気をつかって、「かつて日本は中国に迷惑をかけたんだから」というようなことを言っていましたね。ああいう認識がいまも日本人のあいだにある。


渡部 あれでまず思ったのは、これは〈シナ事変〉のときと同じだということです。


 あのころも、シナは尖閣と似たような事件をしょっちゅう起こしていた。それで日本人はシナに対してカンカンに怒っていたんです。だから、「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)という言葉ができた。それは、私ら子供でも、みんなそう言っていました。いちばんひどかったのが、昭和12年(1937)の中国軍による通州の日本居留民大虐殺、いわゆる「通州事件」(注1)です。あれだけひどいことをされたら、やり返すのは当然ではないか、というのが一般的な考えでしたね。


石 いまの中国は「暴支」どころか「暴走」していますね。シナ事変、つまり日中戦争について、私は中国でこういう教育を受けました。


 日露戦争当時からすでに、日本は中国をほろぼして大陸を我が物にする計画を立て、着々と対中侵略を進めてきた。その過程に満洲事変があって、盧溝橋事件(注2)があり、そうして全面的な侵略が始まったと。


 そう教えられて、私は「日本人はすごいな」と感心した。何しろ、百年の計を立てて、そのとおり実行していたというのですから。


 しかし、日本に来て歴史の本を読むと、全然話が違うのでとても驚きました。いったいどこに侵略計画があったのか。ズルズルと戦争に巻き込まれていっただけではないのか。


渡部 日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっているんです。田中義一首相のいわゆる「田中メモ」ですが、そこに日本は満洲を征服して、まずシナを、最後には世界を征服するというシナリオが書いてある。


 しかし、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっている。ところが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。信憑性がないから、証拠として認められなかったんです。最近の研究では、このメモは、コミンテルンがモスクワで捏造して、世界中に広めたのだと言われています。


石 中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい。


渡部 「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まってしまった。A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実がそもそもないんですよ。


「対華二十一カ条」の中身


石 そういう意味では、日中戦争にはコミンテルンが大きな影を落としていますね。もう一つ、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だと、中国では必ず言うんです。


渡部 あれは14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求です。最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望でしたが、結局、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる。後半の7カ条は、希望なんか出すと誤解されると言って、日本の議会でも批判されていたんです。


石 その7カ条に中国は反発したわけですが、結局、その部分は削除された。それはどの国家間でも行われている当然の外交交渉ですね。一方が希望を出して、相手が反発すれば一歩引く。


渡部 あのとき、アメリカが「民族自決権」を持ち出して、いかにも日本が悪いかのように騒ぎたてて中国を焚きつけた。それで問題が大きくなったところがある。民族自決権そのものは非常に立派な考えだけれど、自分たちが持っている植民地のフィリピンや、あるいはイギリスが世界中に持っている植民地については問わない。しかし、中国に対してはしきりに民族自決を煽りたてた。だから中国の青年たちのあいだで排外運動が起きた。最初は日本だけでなくて、イギリス、アメリカも排除しようとしたわけですが、日本だけが武力で抑えることをしなかった。だから、なめられて排日運動だけが大きくなった。


石 それは日中関係の大きな教訓ですね。肝心なときにきちんと武力で対応しなかったから、中国はますますつけあがって「暴支」になった。


渡部 「二十一カ条要求」を出した時期が第一次世界大戦のさなかだったのもまずかった。英米がヨーロッパの戦争で忙しい隙を狙ったかのような、ずるい印象を与えてしまった。


石 日本のそういう判断ミスが、アメリカに利用された結果、中国の五四運動(注3)がはじまり、反日的な風潮が高まった。


渡部 反日運動についてだけは、ソ連とアメリカは同調していたという印象を受けますね。談合したわけではないとしても、日本を大陸から追い出すことが両国の利益だった。


日本は満洲を中国に返した


石 五四運動の後、しばらくしてコミンテルンが中国で共産党を作った。中国共産党は自分たちで作ったものではなくて、コミンテルンの中国支部に過ぎない。日中関係のすべての問題がそこから生じてきたと言ってもいいのではないでしょうか。


渡部 ロシア革命とコミンテルンがなければ、大陸はずっと穏やかなままだったと思います。中国人も誤解していると思うんですが、日露戦争前の満洲はロシア領になっていたんです。ロシアはまだ自分の領土であると主張してはいなかったけれど、清国の役人が満洲に入るときには、ロシア官僚の許可を得なければいけなかった。


 その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返したんです。そしてロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。あのままほうっておいたら、いずれ「満洲スタン」(「スタン」は国や地方を表すペルシャ語起源の言葉)なんて地名になっていた。


 北シナも朝鮮もそうです。半島はいまごろ「コリアスタン」になっていますよ(笑)。


石 朝鮮人も満洲人も何々スキーという名前をつけられていたでしょう。キムスキーとかね(笑)。


渡部 だからスターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったんです。もしもロシア革命がなければ、満洲と東半島は日本が租借し、鉄道は日本が管理して、あとは平和だったはずです。満洲事変も不要だった。


石 日中戦争も起こらなかった。万一、満洲があのころソ連と共産党に侵略されていたら日露戦争以来のすべての国防上の安全保障の成果を日本は一気に失うところだった。


渡部 しかし、アメリカが愚かだったから、日本の敗戦でそれが失われたわけです。朝鮮戦争以後、アメリカの歴史家は口をそろえてこう言った。何がシナ大陸を失わしめたか、それは日本を潰したからだと。


石 結果的に共産主義中国という化け物を生み出した。いま世界中でいちばんやっかいな国を生んだのは、あの頃の痛恨の歴史だった。


ミステリアスな事件


渡部 満洲国に清朝の王朝が続いていれば、大きな緩衝地帯が存在して、世界平和のためには非常によかった。ただ、清朝にクーデターが起こって愛新覚羅溥儀が日本公使館に逃げ込んでこなかったら、満洲国建国のアイデアは生まれなかったと思う。溥儀は満洲のヌルハチの直系ですから、その故国に正統の皇帝を立てたのは、誰からも文句を言われない良いアイデアだったと思う。


石 満洲国は、ある意味では、日本本土よりも近代国家でした。私は大学時代に満洲を旅行したことがあるんですが、ほかの中国の都市よりずっと整備されていた。まず、橋が丈夫です。日本人が作ったから(笑)。当時の鉄道がいまでも走っていますしね。結局、近代中国の産業基盤はすべて満洲にあった。満鉄の遺産です。現代の中華人民共和国の自動車産業も、旧満洲からはじまっています。


張作霖

渡部 張作霖爆死事件にしても、当時は昭和天皇まで河本大作大佐が事件の首謀者だと思っていたらしいけれど、リットン調査団は「ミステリアスな事件である」と言っているだけで、日本軍が起こした事件だとは言っていないんです。イギリスの諜報部は、爆発物の分析をし、火薬がソ連のものであると突き止めている。日本は気づかなかったけれど、リットンは知っていたんだと思います。だから、あえて日本を責めなかった。石 リットン報告書を読めば、日本を一方的に断罪していないことはすぐわかる。それなのに、東京裁判以降、歴史的事実が塗り替えられて、どういうわけか、すべてが日本を断罪するものになってしまった。それを、なぜか日本人は否定しようとせず、それどころかむしろ積極的に認めている。



「引かれ者史観」


渡部 戦前・戦中に反日運動とか左翼運動をやって帝国大学を追われた人たち、お縄になって牢屋に引かれていってもおかしくなかった人たちが戦後、大学に復帰して東大や京大の総長・学部長におさまった。そういう彼らの歴史観を、エッセイストの山本夏彦さんは「引かれ者史観」と呼びました。戦後の歴史経済学者はみんなこの人たちの弟子にならざるを得なかったから、学界は「引かれ者史観」に染まってしまった。ジャーナリズムも同様です。昔ならくさい飯を食っている人たちが、刑務所のかわりに学界とマスコミに集まっている(笑)。みんな日本の敗戦によって利益を得た「敗戦利得者」なんです。


石 コミンテルンは、戦前は日本周辺で工作を行って大日本帝国を潰しましたが、戦後はさらに日本国内に入り込んで、日本の心まで潰そうとした。


渡部 潰されなかった人たちは、史学や法学の本流にいなかった人たちですね。本来であれば、法学部の教授なら、「日本に主権がないときにできた憲法など憲法ではない」と言うべきです。国際法の学者であれば、「交戦権のないような憲法を持ってはいけない」と言うべきでしょう。しかし、東大や京大では言わない。むしろ、歴史や法律が専門ではない文学の先生とかがそういうことを言っているわけです。敗戦利得者ではないからまともなことを言える。敗戦利得者の弟子たちは、その口移しを言っているだけです。そして、弟子の秀才たちが各地の大学に散って「引かれ者史観」を学生に教え、あるいは高級官僚として、あるいは朝日新聞やNHKに入って反日的な言動をしている。


石 不思議なのは、そういう誤った歴史観が70年たったいまも、大半の日本人の頭を占めているという現実です。占領軍は指導者たちの精神まで占領し続けているようです。


中曽根内閣で一変


渡部 「引かれ者史観」は「東京裁判史観」と言ってもいいのですが、それに反対して憲法改正を党是にしていたはずの自民党が、中曽根康弘内閣(1982~87)のときに明らかに変わってしまった。昭和60年(1985)の外務委員会で、「日本は東京裁判において中国に対して有罪になった。その罪をいまも背負っている」と答弁したんです。


石 それはサンフランシスコ条約を無視していますね。


渡部 サンフランシスコ講和条約で、東京裁判については白紙になったんです。にもかかわらず、自民党も講和条約を無視した歴史観を持つに至った。田母神(俊雄)元航空幕僚長の事件でも、田母神さんをやめさせる理由がなかったので、「日本の侵略は歴史的事実である」と言った、村山元首相のいわゆる「村山談話」(1995)に背いたという理由をこじつけた。しかし、村山さんは社会党の党首じゃありませんか。社会党はサンフランシスコ講和条約に参加しなかった党ですよ。


石 中国共産党も講和条約に一切参加しなかった。


渡部 社会党は当時、国会で第二党でしたから、当時の吉田茂首相はぜひ参加させたかったのに、請われても行かなかった。スターリンの意図に従ったのです。そういう左派の意見に、中曽根さんは外交に関しては乗ってしまった。それ以来、「南京事件はなかった」とか、「朝鮮に対しては良いこともした」と発言しただけで大臣の首が飛ぶようになった。


石 第3次中曽根内閣の文部大臣だった藤尾正行さんは、歴史教科書問題で「日韓併合」は韓国にも責任があると言っただけで罷免された。「東京裁判史観」はサンフランシスコ条約後も続いているわけですね。


渡部 講和条約の11条に、東京裁判ですでに判決が下りている人は、刑期の継続を実行する、ただし、関係国が許せば免罪されるとあります。それに従って、国内でも「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が与野党一致で可決され、A級戦犯も免責されました。これで国内的にも国際的にも、戦犯はいなくなり、本人や遺族にも年金の支給が行われることになった。


 A級戦犯として有罪を宣告された重光葵は鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣になって、日本が国連に加盟したときには、国連に日本代表として出席して演説し、拍手喝采を受けて、帰国後に急死したときには国連で黙しているんです。


石 要するに講和条約を締結した時点で、日本は歴史的な名誉を回復し、国際社会に復帰して独立をきちんと果たした。そのときに、もう戦後ではなくなった。


渡部 だから、日本の内閣は、中国にも韓国にもペコペコしなかった。それが中曽根内閣から一変したんです。そのときの外務省の知恵袋が小和田恆さんでした。小和田さんが、「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と勝手に答弁してしまった。国賊と言ってもいいでしょう。小和田さんは非常な秀才ですから、敗戦利得者の東大の法学部教授の言うことを全部そのまま暗記していたらしい(笑)。



共産中国という"化け物"


石 日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至り、歴史は取り返しのつかない方向に進みました。盧溝橋事件がなければ中国共産党も蒋介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったでしょう。すべてあの瞬間、昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋での発砲事件から、日本にとっても、中国の人民にとっても不幸の歴史が始まった。


渡部 盧溝橋事件も、いまでは国民政府軍に入り込んでいた共産兵が発砲して、意図的に武力衝突を引き起こしたという説がほぼ確立していると思います。もともと戦争をする気はなかったのだから、どうもおかしいなぁと日本軍も国民政府軍も思っていたでしょう。


石 だから、本当に奇妙な戦争だったと思うんですよ。


渡部 盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったんです。ところが、そのおよそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれなかった。だから、本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。ただ、それも蒋介石が望んだことではなく、京滬警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中という共産党とみられる将軍が仕掛けたことだった。


執拗な挑発


石 蒋介石は、〈中国人にとって本当の脅威は日本ではなくて中国共産党〉であることがよくわかっていた。だから日本と戦う気はなく、中国共産党殲滅に専念しようとしていました。にもかかわらず、日中は全面戦争に突入した。


 そのA級戦犯は、国民革命軍第二十九軍を率いていた宋哲元です。盧溝橋周辺に駐屯していた中国軍は、国民党軍ではなく、二十九軍なんです。宋哲元の二十九軍は事あるごとに日本軍とトラブルを引き起こしていた。だいたい二十九軍は共産党員だらけでした。だから、どう考えても盧溝橋事件は二十九軍の共産党員が引き起こしたとしか思えない。


 蒋介石も、二十九軍に対して日本にちょっかいを出すなとしきりに言っていた。にもかかわらず、日本が盧溝橋事件の現地解決、不拡大方針を決めると、二十九軍はその翌々日の7月13日に日本軍のトラックを爆破して大紅門事件(注4)を起こし、25日に廊坊事件(注5)、26日に広安門事件(注6)というように、次々に日本軍を攻撃した。"じっと我慢"の動かない日本軍をなんとしても全面戦争に追い込もうとした。そしてついに通州の中国保安隊(冀東防共自治政府軍)による日本人虐殺事件、いわゆる通州事件が起こる。


渡部 そういう挑発は、ソ連の指示によるものでしょう。日本軍がシナ大陸で戦争をしていれば、それだけソ連軍も楽になる。それを見破ったのが石原莞爾です。彼はナポレオン戦争の専門家なんですが、当時、彼が書いたパンフレットを読むと、「シナ事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわらず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、シナ事変などに巻き込まれてはいけない」と書いてある。


石 冷静に見ていた石原さんのような人が、発言力を失ったのは日本の不幸ですね。


渡部 もし日本が計画的に戦争をするつもりでいたら、まっすぐ南京に向かったでしょう。それで一挙に南京を占領して終わりですよ。


石 日本が計画的に侵略したというようなことはまったくなくて、二十九軍のような中国側の執拗な挑発にのってしまった。


渡部 通州事件のときは、日本人は非常に憤慨したけれど、中国側が謝ったことで戦争にまで至らなかった。


石 本来であれば、謝ってすむ問題ではありませんね。なんと言っても民間人を含めた230人が虐殺されたんですから。


渡部 日本はすぐ水に流すんです(笑)。


宋美齢の反日宣伝


石 通州事件でも日本が動かなかったから、いよいよ日本が応戦せざるを得ない状況を作り出すために、8月13日の上海事変を起こしたのでしょう。


渡部 中国は民間人のいるホテルまで無差別爆撃を行ったから、日本は居留民を保護するために陸軍を派兵せざるを得なかった。司令官だった張治中が満洲の反日スパイを動かしていたことは、奉天(瀋陽)の日本軍憲兵にも知られていました。その張治中が、日本の陸戦隊約4000人が日本人居留民を守っているところに約5万の大軍で攻撃してきた。そこで翌8月14日、日本政府は急遽第三師団と第十一師団を上海に派遣したのです。


 これが本当の日中戦争のはじまりであると、元米駐日大使のライシャワー教授も言っています。


石 つまり、戦争を始めたのは中国だというのが歴史的真実だということになる。


渡部 そのとおりです。結局、日本が「断固として不拡大方針を貫く」などと言っていたからなめられたんですよ。


 第一次上海事変(昭和7年=1932)のときも、中国軍は共同租界に対して攻撃を仕掛けたので、イギリスもアメリカも反撃している。日本だけは抵抗するなという命令を出されたので反撃せず、公使館まで襲われてしまった。これで中国は「日本与しやすし」と考えたと思いますね。こういうときは、やはり断固たる態度をとらなければいけない。これも、今日の状況とよく似ています。


宋美齢

石 日中の全面戦争が始まるまでの一連の経緯は、どう考えても中国側のコミンテルンの指令を受けた人間たちが一方的に日本を挑発して、あらゆる手を使って日本を全面戦争に引きずり込もうとしたということになる。


渡部 それを、いかにも日本のほうから侵略を仕掛けたと宣伝したのは、もちろんソ連と左翼の連中ですが、実はアメリカもそうなんです。


 日本と全面戦争になった以上、蒋介石は「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出して、国際世論の同情を集めようとしたんです。そこで蒋介石は、非常に賢明にも、キリスト教に改宗しました(笑)。奥さんの宋美齢もクリスチャンで、アメリカの名門女子大の卒業生です。そして、アメリカのプロテスタントの牧師たちに金をばらまいた。アメリカからは、それぞれの教区の牧師たちが寄附を募って布教に来ていて、妻子もあるから生活費が必要なんですよ。それで蒋介石に世話になっているから、「日本が悪い、日本が悪い」と言うわけです。


石 なるほど。本当は、蒋介石はキリスト教に興味はなかったのに。


渡部 そうすると、アメリカの宣教師たちは、日中戦争をキリスト教徒対異教徒の戦争のようにとらえる。宋美齢のステンドグラスまで入れた教会もあるそうです(笑)。


石 聖母マリアのかわりに(笑)。


渡部 だから面白いことに、当時のアメリカの宣教師は口をそろえて日本軍の悪口を言っているけれど、それはプロテスタントばかり。カトリックの神父や尼さんには日本を批判した人が一人もいない。カトリックは単身赴任だし、蒋介石からお金をもらう必要がないから(笑)。


南京の「ナ」の字もなかった


石 中国が捏造した最大の"傑作"は「南京事件」ですね。


攻略からまもない昭和13年初頭の南京露店街 大にぎわいを見せている

渡部 あの話がおかしいと私が思ったのは、まずこういうことでした。シナ事変初期には兵隊さんたちが1、2年でみんな帰国していたんです。うちの近所でも2人くらい帰ってきた。だから、全国では何万人と帰ってきている。にもかかわらず、南京大虐殺など噂にもならなかった。


 昭和17年(1942)に日本の機動部隊がミッドウェーで大敗したときには、それは極秘だったにもかかわらず、私は近所の遊び仲間から、「もう加賀も赤城もなくなったんだぞ」と聞かされました。加賀も赤城も、われわれが幼いころから名前をよく知っていた日本の主力航空母艦ですよ。大変なことになったと思いました。東北の小さな町にも、そういう極秘情報はちゃんと伝わってくるんですよ。だから、南京大虐殺が本当にあったとしたら、その当時、噂にならないわけがない。


石 実は、私も日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載っていませんでした。


渡部 それは重要な証言ですね。


石 もちろん、日本軍がどんなにひどいことをしたかということはさんざん教わってきました。それでも南京の「ナ」の字もなかった。


渡部 南京虐殺について、公式に日本政府に抗議してきた政府はない。


石 蒋介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。


 最初、南京で30万人殺されたという記述を読んだときに、素朴な疑問を感じたわけです。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。どこそこで100万人の捕虜を殺したとか、そういう記述が歴史書によく出てきますが、そういうところを掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、2000年前の記述でもじゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない。


渡部 当時、戦争が起こりそうになると、お金のある南京の市民は大部分が逃げたんです。逃げるところのない人たちや外国人が南京に残っていた。そのときの20万人という人口はかなり正確な数なんです。ところが、それから1カ月後に、市民を食わせなければならないので日本が食糧を調達したときには25万人になっていた。


石 増えているんですね(笑)。そもそも30万人なんか殺せない。仮に30万の死体があったとして、その数字を誰が集計したのか。物理的に不可能です。


 しかし、日本の知識人が南京虐殺をことさらに言いふらしたり、日本を攻撃することによって社会的地位を得たりというのが私には信じられない。本来なら逆でしょう。


★【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』製作へ
https://www.youtube.com/watch?v=1UrY5_YLcSw&nohtml5=False


河本大作説の疑問


渡部 その「逆」のこと、つまり本来の姿に戻す動きが、少しずつ起こりはじめているとは思います。しかし、先ほど言ったように「敗戦利得者」たちの反日的な言動はいまだに尾を引いている。日教組も子供たちに「すべて日本が悪い」と教えてきたわけですから。とくに、そうして地位を築いた人は新たな歴史的事実が出てきても、面子があるからいまさら持論を引っ込めるわけにはいかない。


 秦郁彦さんは『南京事件』という著書のなかで、4万人虐殺説をとっている。30万人説を否定して4万人説をとったから良心的であるように言われていますが、私はこれを批判したことがあるんです。まず市民と戦闘員の死者を区別していないという問題が一つ。それから、曽根一夫という男の証言を重視していること。この曽根という人は2冊くらい南京大虐殺の本を書いている。ところが、この男は南京には行っていないんです。私は仙台で偶然、曽根氏の親類に会ったことがあるんですが、その親類は「あのつきには困ったものだ」と言っていました(笑)。つまり、まったくあてにならない男なんです。


石 4万人という根拠は何ですか。


渡部 それなりにいろいろ計算したらしい。「捕虜を処分せよ」という命令を、「すべて殺せ」と解釈しているんですね。当時の命令では、それは「解き放て」という意味です。食糧も不足しているから、捕虜に食わせる余裕がなかった。それをすべて殺したと計算したんですね。それから戦闘捷報か何かを調べて4万人という数字を出しています。しかし、私は市民に関して言えば限りなくゼロに近いと思う。


 秦先生がいい研究もなさっていることは認めるけれど、やはり面子にこだわっているのではないかと思いますね。張作霖爆死事件も日本軍のしわざだと言われてきたけれど、田母神俊雄さんが「そうでないという説もある」と書いたら、秦さんはものすごく怒って、朝日新聞か何かで「そんなことを言うのは上杉謙信が女であるというようなものだ」と批判した。


 ところが、張作霖爆死事件を日本軍が起こしたという説には根拠がないんですよ。首謀者は河本大作大佐ということになっていて、戦後、河本大佐の手記なる告白記事が『文藝春秋』に出たことがありますが、これは彼の甥である左翼の人間が書いたデッチ上げでした。東京裁判で、パル判事は張作霖事件に関する証言はすべて伝聞証拠にすぎなかったと断定しています。そもそも当時、河本大作は生きて中国に捕らわれていたのだから、証言させればよかったのに、中国が抑えていた。なぜ呼ばなかったのかというと、彼を証人として出廷させるといろいろまずいからだったと思う。


 最近では研究が進んで、ソ連主犯説が濃厚になっています。そういう状況にあって、田母神さんはあくまで穏やかに、「日本軍の犯行ではないという説もある」と言っているのに、激昂して日本軍犯行説を周知のこととして反論するのは、「南京でも虐殺がなければならない」「張作霖も日本軍に爆殺されたのでなければならない」という「東京裁判史観」が崩されるからですよ。それはエゴでしかない。自分のエゴと業績を守るために相変わらず「日本は大虐殺した」と言い続けるのです。


有色人種の解放戦争


石 日本にとっても意味のない戦争をした結果、国益を損なった。日本が中国の挑発に乗らず、もっと大局的な判断をして戦争の不拡大を貫く道はあったのでしょうか。


渡部 南京が陥ちたとき、トラウトマンというドイツの外交官が和平案を出したんですよ。そのときの日本の参謀次長──参謀総長は閑院宮という宮様ですから、実質上の参謀総長です──その多田駿中将は、ぜひとも停戦してくれと涙を流して近衛首相に頼んだ。しかし、近衛首相の周囲はコミンテルン系の左翼ばかりだった。それで「蒋介石政権を相手にせず」という声明を出して、スターリンの思惑どおり、大陸の泥沼にはまり込んでしまった。


 それから日本はものすごい消耗戦を続け、ついにはアメリカと戦争せざるを得なくなった。ルーズベルトは絶対日本と戦争する気でいましたからね。ヒトラーのためにイギリスが息の根を止められそうになっていたから、アメリカはイギリスを助けなければならなかった。ところが、アメリカ国民は第一次大戦に参入してろくなことがなかったから、ルーズベルトはヨーロッパの戦争には絶対参入しないという公約を掲げて当選したんです。にもかかわらず、チャーチルがしきりに助けを求めてくるし、蒋介石からも参戦を懇願してくる。


 だから、アメリカは日本が対米開戦せざるを得ない状況に追い込んだ。これは三国同盟の弱さをつかれたということもあります。三国同盟はもともと日独防共協定でしたから、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだときに、これは三国同盟の意図に反すると言って、同盟を破棄していればよかったかもしれない。しかし、それは死んだ子の年を数えるようなもので、長い目で見れば結局、有色人種の解放戦争はしなければならなかったかもしれません。


石 それが大東亜戦争の歴史的功績ですね。国際的に人種観が変わった。


渡部 いまの人には戦前の白人の人種差別のひどさがわからない。日本人のような全然犯罪者を出さない、優秀な移民団でも、1人も入れないというところまで差別された。


 そもそも、白人に勝てる有色人種もいるということが日露戦争で日本が勝利するまで、白人も有色人種も思ってもみなかったんです。当時、日露戦争は世界の注目の的だったから、誰もが驚いた。


 大東亜戦争のときも、実際、機動部隊を持っている国というのはアメリカと日本しかなかった。イギリスにもドイツ、フランス、ソ連にもない。アメリカと対抗して戦争ができるのはヒトラーのドイツでもなければチャーチルのイギリスでもない。日本だけだった。インドのネルーや、ベトナムのホー・チ・ミンなど、世界中の独立運動の指導者は、みんなそこからインスピレーションを得た。有色人種のイメージを180度変えたのは日本だったんです。


石 そういう意味では、大東亜戦争というのは有色人種と白人の全面戦争でもあったわけですね。


渡部 日露戦争に続いて2度目ですね。それで日本はアメリカから憎まれた。アメリカは人種差別を前提としてできている国です。もしはじめから人種差別はないという彼らの独立宣言が本当なら、インディアンの土地を奪ったり、アフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたりできませんよ。だから、白人と同じステータスの有色人種が現れたということはアメリカにとって非常に不愉快なことだった。日本と戦争をしたころのアメリカの海軍には有色人種もいましたが、軍艦の厨房(台所)以外には配属されなかった。なぜなら、大砲を撃たせたり飛行機に乗せたりすると、有色人種が出世して上官になる可能性があるから。それは白人には耐えられない。戦前のシンガポールでも、マレー人は奴隷に近く、その上に中国人がいて、中国人はマスターであるイギリスに仕える。そういう差別構造を日本が完全にぶち壊した。


 だから、日露戦争はコロンブスのアメリカ大陸発見以来、数百年に一度起こるかどうかの大事件であったとみないと世界史はわからない。20世紀初頭は、人種差別は当然という世界でした。そして21世紀のはじめには、国という名に値しないような国でも国連で一丁前の口をきくようになっています(笑)。この百年の差はどこに起因するかといえば、日露戦争と大東亜戦争しかない。


石 日本はあらゆる国際の場で堂々と「人種差別を破ったのはわれわれです」と言うべきですね。


渡部 そうです。第一次大戦のあと、日本が国際連盟で人種差別撤廃を提案したとき、それをぶち壊したのはアメリカだった。そういうことはプライドと地位をかけて言わなければいけない。ところが、政治家が勉強していない。勇気・胆力がない。


 捕鯨問題で世界を相手に日本の立場を主張した元農水省の小松正之さんの話を聞いたことがあるんですが、「自分が頑張れたのは十数年間、クジラについて勉強したからだ。ちょっと話を聞いてわかったような気がしたというくらいでは必ず言い負かされる」とおっしゃっていた。やはり10年以上研究しないと信念にならないというんですよ。政治家も、それくらい勉強してほしいと思いますね。



(注1)通州事件 昭和12年(1937)7月29日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(冀東防共自治政府軍)が起こした大規模な日本人虐殺事件。通州の日本軍守備隊と、日本人居留民(多数の婦女子と朝鮮人を含む)約106名が、人間とは思えぬような方法で中国兵によって惨殺され、シナに対する国民の怒りは頂点に達した。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは言うまでもない。

(注2)盧溝橋事件 昭和12年(1937)7月7日の夜10時、蘆溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。翌八日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こり、状況が曖昧なまま、日中は戦闘状態に入った。事件から4日目の7月11日に、事態収拾のため現地協定が成立した。

(注3)五四運動 大正8年(1919)、第一次大戦後のヴェルサイユ条約で、山東省におけるドイツの権益を日本に移譲することが容認されたのを発端に起こった中国の反帝国主義・反日運動。5月4日に発生したため、この名がある。

(注4)大紅門事件 昭和12年(1937)7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され、日本兵4名が死亡した事件。

(注5)廊坊事件 同年7月25日に北京の郎坊駅で国民革命軍が日本軍を襲撃した事件。

(注6)広安門事件 同年7月26日、中国の了解のもとに北京・広安門の居留民保護に赴いた日本軍が中国軍から銃撃された事件。


わたなべ・しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr. phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『知的生活の方法・音楽篇』(渡部玄一・共著)などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一の日本の歴史』(全7巻)、『渡部昇一ベストセレクション』シリーズ刊行。



せき・へい 評論家。1962年、中国四川省成都生まれ。北京大学哲学部卒業。四川大学哲学部講師を経て、88年に来日。95年、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関に勤務ののち、評論活動へ。07年、日本に帰化する。著書に『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)、『中国はもう終わっている』(徳間書店)、『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか』(ビジネス社)、『私はなぜ「中国」を捨てたのか』『もう、この国は捨て置け!』(ワック)など多数。




★ロシア革命はユダヤ人が中心となって起こしたのであり、コミンテルンもユダヤ人が中心となって作った共産主義を世界に広める組織であり、もちろん共産主義思想もユダヤ人であるカール・マルクスが作ったものである。
そしてルーズベルトもユダヤ人であった。




1/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=zo8Nn3-48Ts&nohtml5=False


2/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=6xWI4yKs9Qw&nohtml5=False


3/3【討論!】『慰安婦』『南京』中国謀略戦の真実
https://www.youtube.com/watch?v=F0zUFwWgTao&nohtml5=False



【水島総】「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」特別編集版
https://www.youtube.com/watch?v=YTu-UZkvXCM&nohtml5=False



十五年戦争史観をこの一冊で完全粉砕!「ひと目でわかる『大正・昭和初期』の真実」
https://www.youtube.com/watch?v=RyPk_oblRiM


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by kabu_kachan | 2016-06-10 15:26 | 日中戦争 | Comments(0)

日本の独立

日本は、江戸時代まで独立国だったんですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=9-r5o1H_YSk&nohtml5=False


★石原慎太郎東京都知事 ワシントン演説
https://www.youtube.com/watch?v=pWW-V__i6g0

日本が欧米列強の半植民地国になったのが、1858年に結ばされた不平等条約であった。

そして再び日本が独立国になったのが、日露戦争の勝利のあと、6年後の1911年の関税自主権回復の時であった。そもそも回復と言うのがおかしい。もともとの権利である。

日本は50年以上の間、欧米列強の半植民地国であった。そしてこの間、へたをすると他のアジア諸国のように植民地国にされるかもしれないという危険が付きまとっていたのである。

いいですか。日本は世界史上初めて有色人種国家の中で、欧米の植民地化の圧力をはねのけて完全な独立国になったのである。

日露戦争の勝利がいかに大きな意味を持つかわかるであろう。

この日露戦争の勝利から太平洋戦争でアメリカに負けるまでの間、日本は今以上の完全な独立国であった。

【朗読】 「マッカーサーの告白」 全ての日本国民に読んでほしい...語り継ぎたい...
https://www.youtube.com/watch?v=Civn9JgoTHw&nohtml5=False


以下の説明はわかりやすい。


『月刊日本』2009年3月号 羅針盤

http://sakainobuhiko.com/2009/02/post-46.htmlより。


 福沢展の開催は、慶應義塾の創立一五〇年を記念してであったが、実はこの年(1858年)安政五年には、日本の運命に比較にならないほど重大な影響を与えた歴史的事実があったことは、昨年殆どまともに回顧されなかった。それはアメリカを始めとして、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの国々と行われた、修好通商条約の調印である。開国というと、ペリー来航の翌年嘉永七年(一八五四)に結ばれた和親条約を思い浮かべるかもしれないが、これは極めて限定的なものであって、真の開国は修好通商条約によってからである。それによって横浜・神戸なども開港して海外貿易が始まり、外国人も大量に渡来するようになったのである。そしてこの条約を朝廷が承認するかいなかの勅許問題から、尊王攘夷運動が発展し、さらに倒幕運動に及んで明治維新に至った。修好通商条約から明治維新まで、この間わずかにちょうど十年であり、真の激動期であった。


 さらに問題はこの修好通商条約(安政五カ国条約)の中身だった。それはいわゆる不平等条約であったのである。不平等条約のポイントはというと、治外法権と関税自主権の欠如の二つである。治外法権とは領事裁判権とも言うように、外国人が犯罪を犯した場合、その国の領事に裁判権があり日本にはない。関税自主権の欠如とは、関税を日本自身で決定できず、相手と相談して決めなければ成らない。不平等条約のままでは、本当の主権国家とは言えないのである。したがってこの不平等条約の改正が、明治国家の外交の最大目標になった。しかしいったん締結した条約は容易に変えてくれない。治外法権が撤廃されたのは、明治三十二年(一八九九)、関税自主権の確立に至っては、明治四十四年(一九一一)である。すなわち不平等条約の改正には、明治時代いっぱい掛かったのである。強大な脅威であった清国およびロシアとの、日清戦争・日露戦争を戦い抜き、小なりといえども列強の仲間入りを果たして、ようやく列強から対等と認められたのである。当時の人々は、独立を守るために、不平等条約を改正するために、懸命な努力を重ねたのだ。


 しかし今の日本人は、先人の苦労をまともに回顧しようとしない。慶應創立一五〇年は回顧するが、不平等条約一五〇年には全く考えが及ばないのである。江戸東京博物館で、「ペリー&ハリス」展というのは在ったが、私の知る限りにおいて、昨年、不平等条約一五〇年をまともに取り上げた言論を、殆ど目にしたことはなかった。そもそも福沢諭吉の思想の根本は、独立なのである。したがって福沢諭吉の思想を盛んに顕彰していても、その本質は日本の歴史と結び付けて理解されておらず、結局空念仏に終始してしまうだろう。その中にあって、両者を明確に結びつけた唯一の例外といえるのが、慶應義塾一五〇年記念式典での、天皇陛下のお言葉であり、慶應創立の年が安政条約調印の年であることを、的確に言及されている。(産経新聞、平成二〇年一一月九日)


 現在の日本は真の独立国、本当の主権国家とはとても言えない状態にある。かつてブレジンスキーは、日本はアメリカの保護国だと言ったらしいが、実態はさらにそれ以下ではないのか。つまり保護国というよりも植民地である。敗戦後六十年(これは明治と大正を合わせた年数)以上も経つのに、日米安保条約によってアメリカ軍が駐留し続けている。端的に言って軍事的植民地である。経済的にもバブルの膨張と破裂を仕組まれて、第二の経済大国とは言うものの、現実は二流以下に転落している。そして何よりも精神の植民地に成り果てているのが、最大の問題であろう。精神が植民地化されているから、あらゆる意味で植民地状態に陥っている現実さえ、その実態を明確に認識できないのである。



★日本はアメリカの属国である
http://kabukachan.exblog.jp/23340903/


★日本人よ、涙せよ!
http://kabukachan.exblog.jp/24939240/


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by kabu_kachan | 2016-06-05 07:33 | 日本人覚醒 | Comments(0)

日本におけるテロ・謀略

米国1%の日本におけるテロ・謀略は、北朝鮮人脈が担っています。


米国1%の日本におけるテロ・謀略は、北朝鮮人脈が担っています。

「オウムの背後に北朝鮮。そのまた背後にCIA」なんです。

北朝鮮人脈は、創価カルト、統一カルト、ヤクザ業界、似非右翼業界を支配しています。

米国1%が失権すれば、北朝鮮人脈の日本からの略奪、支配構造も崩壊します。

だから、とにかく必死になって、真相究明者を攻撃します。様々な方面から、様々な手口を使って。

2016/5/30 09:40

記事の中で見られなくなっているものがありますが、こちらでどうぞ。

http://richardkoshimizu.hateblo.jp/entry/20150811/1439238712
(統一・創価の在日たちは、北朝鮮とつるんで、オウムで何をしようとしたのか? )

http://richardkoshimizu.hateblo.jp/entry/20150804/1438698308
(ロックフェラーと金正日の韓国併合・朝鮮半島共産化共同大作戦)

http://richardkoshimizu.hateblo.jp/entry/20150805/1438711957
(統一教会・創価学会さん、オウム事件の本番の決行日は決まりましたか?)

http://richardkoshimizu.hateblo.jp/entry/20150805/1438706757
(ウォール街のユダヤ大王様、あなたがこれからでっち上げる極東有事の後は、勝共安部晋三首班の軍事独裁ユダヤ傀儡政権樹立で、反動分子狩りですね)

peco

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by kabu_kachan | 2016-06-04 05:23 | Comments(0)

自虐史観

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、太平洋戦争後の日本歴史学界において主流であった歴史観批判・否定的に評価する側が用いる言葉である。彼らは、戦後の歴史観が自国の歴史の負の部分をことさら強調する一方で正の部分を過小評価し、日本を貶めるものであると主張している。

ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観東京裁判史観がある。「自虐史観」への批判者たちが連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による戦後統治極東国際軍事裁判(東京裁判)を通じて「日本は悪である」との考え方を「押し付けられた」とみなしているためである。

「自虐史観の病理」の著者である藤岡信勝は自虐史観の対義語として「自由主義史観」を造語した。秦郁彦は「自虐史観」も「東京裁判批判」も語義は曖昧だと指摘する[1]


自虐史観とは[編集]

戦後の歴史観を「自虐史観」と呼ぶ層の主張は概ね以下のとおりである。

太平洋戦争での敗戦により、GHQによる統治が行われる中で、歴史学界や教育界の一部(学校教育の現場、日本教職員組合に入っている教師ほか)などでは、占領政策を支え、GHQに迎合するかたちで、なぜ敗戦に至ったのかという視点から過去への反省がなされることとなり、その過程で戦前の日本国民が共有していたすべての価値観は根底から覆され、否定される事になった。アメリカとの比較で日本の近代化の遅れや、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、戦前には皇国史観が歴史研究に影響を及ぼしたことを踏まえ、マルクス主義の影響を強く受けた歴史研究(唯物史観)が主流となった。また、GHQによる「真相はこうだ」などの歴史検証番組の放送や、墨塗り教科書、戦前の思想的基礎となった図書の焚書などもそれに拍車をかけた[誰によって?]

沿革[編集]

秦によると1970年代に入った頃に、まず「東京裁判史観」という造語が語義がやや不分明のままに論壇で流通し始めたという[2]

冷戦終結で日本の最大の同盟国アメリカ合衆国が唯一の超大国となったことから、その庇護を受ける日本でも日中戦争太平洋戦争侵略戦争ではなかったとして伝統文化などにおいて歴史を再評価する傾向が表れ、自由主義史観を唱えた教育学者藤岡信勝らによる「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主として近代史において、これまで主流であった歴史認識を「自虐史観」であるとして批判する。そして戦後の歴史教育日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となったと批判している。その教育を受けた結果、「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省謝罪を」という意識を植え付けられ、いわゆる戦後民主主義教育によって連合国の思うがままの誤った歴史観、つまり自虐史観が蔓延したとして、「つくる会」の言うところの「暗黒史観」や「土下座教育」の改善を主張している。秦はこうした主張の主力を占めるのは、渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や非専門家の論客であり、「歴史の専門家」は少ないと指摘している[3]

2014年平成26年)1月には自由民主党が運動方針案に「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書編集検定・採択で必要措置を講ずる」と明記した[4]


秦 郁彦(はた いくひこ、1932年昭和7年)12月12日 - )は、日本官僚歴史学者、現代史家。元日本大学法学部教授。法学博士東京大学、1974年)。

山口県田布施町出身。鉄道省の技術官吏である父は太平洋戦争中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して戦死した[1]1952年に山口県多々良学園高校卒業東京大学法学部に進み在学中は戦史研究に没頭し、丸山真男の指導を受けてA級戦犯を含む多くの旧日本軍将校らからのヒアリングを実施した[要出

専攻は、日本の近現代史第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史。その他、昭和史に関する著作がある。

日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は開戦に至る日本外交を描いており、1987年の新装版刊行に際しての朝日新聞社の書評では「開戦外交史の通史としてこれをしのぐものは現れていない」と評価された。近現代史に関わる事典の編纂も行った[要出典]






【半藤一利・保阪正康・秦郁彦の歴史観は異常】


1 :名無し三等兵:2014/09/03(水) 13:43:49.98 ID:5ZREEOge

若狭
『私は高校で歴史を教えていましたが、専門家と違って一次史料に当れるチャンスが、そんなにあるわけではない。
「先生、これはどうして?」と生徒に聞かれたときに、できるだけ努力して原典を読んで採ってきました。
かつて、田母神さんの講演の前座を務めたことがありますが、その時にこんなことを言いました。
「3H(秦郁彦氏、保阪正康氏、半藤一利氏)とよばれている昭和史の研究家の方々がおられますが、
3Hなんていう鉛筆は硬くて使い物にならない」と(笑)』

渡部
『3Hさんたちは、戦後昭和史を一生懸命調べたんですよ。ふつうの人が知らない情報もいっぱい持っておられる。
でも「一番肝心なこと」が抜けている。それは、「その時、外国は何をやっていたのか」という視点・論点です。
まさに、「その時、外国は何をやっていたのか」に最初に言及した人は、東條英機です。
前述した「東條英機の宣誓供述書」なんですよ。

東條さんは、「支那事変以来、日本はずっと『受け身』であった」と言っている。
「何かをされるから、それに応えてやらざるを得なかった」と証言している。
それは、当時の人間も知っていたことです。
しかし、戦後の昭和史研究の人たちは、一生懸命調べたけれども、「東京裁判史観」に結びつくような結論にしか至らない』



東京裁判史観


いくつかの本から「東京裁判史観」の定義を引用すると、

•(東京裁判の)裁判所の下した判決の内容はすべて正しく、満州事変にはじまり、大東亜戦争に終わった、日本が関係した各種事件、事変、戦争は、すべて日本が東アジアおよび南方諸地域を略取し、支配しようとした、被告たちの共同謀議に基づく侵略戦争であって、戦前、戦中の日本のなした各種行為、行動はすべて「悪」であった。

•日本が支那を侵略したために、太平洋戦争に突入したなどという歴史観。まさにアメリカの占領政策によって植えつけられた誤った史観。自己否定、卑屈、盲従、無定見をもたらす精神構造のこと。今最大の問題となっている日本人の精神の荒廃は、東京裁判で始まっているといえる。

•昭和3(1928)年以降の日本国の対外政策・外交方針は一口に言って侵略的であり、道義にもとるものである。武力行使を発動したときには、常に国際法で言うところの戦争犯罪を伴っていた。



この史観を信奉する日本人は以下の二つのタイプに分類できる。

•この東京裁判史観信奉の立場に立ってものを言い、あるいは文章を書くほうが、自己の保身のため、あるいは処世術として自分にとって有利であり、好都合であるという風に考えて、この史観信奉の立場に立つ輩、すなわち、いわゆる進歩的文化人、一部の学者、評論家、作家、マスコミ 。

•東京裁判についてはほとんど何も知らないけど、有名な学者や評論家たちが、あの判決は正しいと言っているから、きっと正しいに違いないと考えて、判決内容をそのまま信じ、その結果、東京裁判史観信奉の立場に立つ一般人 。

反日日本人、自虐史観派は「教科書で特定の政治勢力や宗教を攻撃したり、他民族を蔑視したりしてはいけない。ナショナリズムやイデオロギーを強調してはいけない」などと主張しているが、彼らは国粋的な支那や朝鮮の教科書は絶対に批判しない。こいつらは要するに支那や朝鮮の工作員と同じことをやっているというだけの話なのである。


ちなみに、支那や朝鮮では自虐史観を持つ学者は少なくとも社会的には存在しない。そんなことをすれば殺されるからである。日本は恵まれた国である。

この東京裁判史観は、日本の初等・中等教育における教育方針、教科書の編集、記述方針を完全に支配してしまった。この史観が教育界を支配してしまったのは昭和24、5年の頃で、日教組が教育界を支配していった趨勢とほぼ並行している。教科書作成のガイドラインである「学習指導要領」という文書が、日教組の巧妙な浸透によって彼らの思い通りに策定されるという形でこの勢いが進行してしまった。

この史観には講座派史観が取り入れられている。いずれも「自虐史観」の典型である。

自虐史観
講座派史観
階級闘争史観

戦後、日本人の考え方、あるいは歴史観を歪曲した最大の原因として「東京裁判」とその判決文に示された日本悪玉論があった。判決書の中で最後に主文が書いてあり、誰を絞首刑にするなどと書いてある。その前にその理由が書いてあり、そこに連合国側に都合のよい歴史観が書いてある。日本はかくかくの悪いことばかりした。たとえば、南京大虐殺など、と。


http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/tokyosaiban_shikan.htmlより引用。



【緊急記者会見】ユネスコが中国の「南京大虐殺」捏造資料に太鼓判~戦勝国の歴史創作を許すな!
https://www.youtube.com/watch?v=wkYRGh0xpHQ


1/3【討論!】南京の虚構を暴く!
https://www.youtube.com/watch?v=7BD4EeZl71U

2/3【討論!】南京の虚構を暴く!
https://www.youtube.com/watch?v=b_XaRjfjvE8


3/3【討論!】南京の虚構を暴く!
https://www.youtube.com/watch?v=soBmChuHDhM



★中国帰還者連絡会(中帰連)は、なぜ捏造創作証言を行い続けるのか?

以下
http://asvaghosa.blog.fc2.com/blog-entry-234.htmlより引用

………支那共産党による、いわゆる「戦犯」(正確には「違法に拘留した捕虜」)への洗脳についての説明を紹介する。

以下「あやしい調査団・ 満洲どよよん紀行」撫順2(戦犯管理所と戦犯裁判)より抜粋

中共建国の翌年の昭和25年(1950年)、日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中共にプレゼントされ、撫順に収容された。
いよいよ、後日、彼ら自身に「鬼から人間に戻った」と言わしめる洗脳が始まったわけである。
戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳して、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートであった。
一方ハルピンの尉官級以上の人たちも「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になったものは許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造できないものは重く処罰する、としつこく繰り返された。
中共側は共産主義思想に転向してこそ初めて過去の旧思想時代の犯罪を自供できる、と主張していた。
つまり「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中共国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。
尉官以上の人が取り調べを受けたのに対し、下士官・兵は坦白(※罪や誤りを告白する,白状する)大会の方法がとられ、自分たちで自らを洗脳していった。
ソ連のラーゲリに居た頃も下級兵士ほどアクチブになり易かったのだ。
「認罪運動」
そして本格的な取り調べが開始された。「坦白するものには軽く、逆らい拒むものには重く」という取り調べの方針が告知され、そのスローガンは所内の至る所に掲示された。これをきっかけに「認罪運動」というものも始まった。
「私はこんな酷いことをした」と戦犯全員の前で自白する発表会がもたれた。
この「坦白大会」には、中共党幹部も同席し、管理所の洗脳工作経過を視察するものであったが、戦犯達も自分が何を要求されているのかが判り、いよいよ追いつめられていった。
認罪学習は、徹底して行われた。みんなでしつこく何回も何回も犯罪行為を確認し、自己批判・相互批判が繰り返された。
「学習」とは言うものの、罪の自白とつるしあげ合戦である。「なんだ、それぐらい、俺なんかもっと凄いもんね」「お前、それぐらいじゃ足りんだろう」などとエスカレートしていったのだった。
工作員(取調官だが、なんともストレートな名前である)は、一人ひとりについて何年もかけて集めた証言、告発書をもとに尋問した。つまり、罪状は最初から決まっており「自白すれば軽く、拒めば重く」と言われれば、工作員の言うままに合わせるしかない。
毎日呼びだされ、尋問を受ける。尋問というより説得であった。総括書は出す度に点検され、ここが違うとか、こう書けとか注文された。
相手の予定調書と違ったことを自白すればそれは自分がウソや間違いを言っていることになるのだ。
こういう経過で、日本語にはない罪行や、中共側のでっち上げや過剰な言い分まで認めざるを得なかった。
とにかく、一日でも早く日本に帰りたい、そのことしか頭になかった。
また、中共側は余計な自白を歓迎した。
本人の罪状だけでなく、伝聞した日本軍の罪状まで採集していった。
戦犯たちは総括書という形で、文章にして提出した。当然、文章の巧拙や想像力の大小によって、罪業に迫力の差がでてくる。
文章の上手い戦犯はほめられ、他の戦犯の文章指導や代筆までやり、悪鬼そのものの日本軍が作成されていった。
監禁されるとその苦痛や憤り、自己崩壊から逃れるため、加害者の立場に自分を置こうとする場合がある。
相手側の一員になった気持ちになるのだ。
撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、そのうえ不起訴になったら中共の温情に感謝する、看守達と抱きあって泣いたりしたのだ。
このように、撫順戦犯管理所に収容された日本軍将兵たちの6年間は「坦白大会」などの「認罪運動」による「洗脳」の日々だった。

そして、何年も洗脳され続けた後にやっと釈放された無実の元日本軍将兵たちだが、驚くべきことに彼らの殆どが日本に帰っても洗脳が解けないまま余生を送った


つまり・・・・・これ!
映像の世紀 南京大虐殺12 元日本兵の証言 金子安次
https://www.youtube.com/watch?v=9WE21PjC2gY&nohtml5=False

証言 侵略戦争-1 「人間から鬼へ、そして人間へ」
https://www.youtube.com/watch?v=uSfLsbPtI3A&nohtml5=False



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by kabu_kachan | 2016-06-03 10:02 | 歴史 | Comments(0)