イディッシュ語はドイツ語起源ではない

【イディッシュ語はドイツ語起源ではない】

東欧ユダヤ人(アシュケナジー)はドイツから流入したのではない。

https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk

何度も紹介している以下のサイトは、東欧ユダヤ人の研究としては、日本最高のものだと思う。


http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/_floorA4F_ha.html


まずは、Wikipediaより。

イディッシュ語スラブ系説[編集]


通説によれば[要出典]イディッシュ語

ライン川地方に起源をもち、

変形した
ドイツ語を基礎に、

スラブ諸語ヘブライ語アラム語ロマンス諸語

からの
借用語を交えたものとされてきた。

1993年、テルアビブ大学の教授である言語学者ポール・ウェクスラー (Paul Wexler) は
イディッシュ語がスラブ系言語に起源を持ち、
後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、
東欧のアシュケナジムはユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族にごくわずかの中東系ユダヤ人が合流したものであるとする
『The Ashkenazic 'Jews': A Slavo-Turkic People in Search of a Jewish Identity』を発表している。

ポール・ウェクスラーの説は、

12世紀以前にユダヤ人との接触やキリスト教化

への反発を背景に、ユダヤ教に改宗した
スラヴ人

がアシュケナジムの主体となったと説明しており[27]

ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある。
In 1991, Paul Wexler proposed a highly heterodox model that took Yiddish, by which he means primarily eastern Yiddish,[14] not to be genetically grounded in a Germanic language, but rather as "Judeo-Sorbian" (a proposed Western Slavic language) whose vocabulary had been largely replaced by High German in the 9th to 12th centuries, when, according to his theory, large numbers of German-speakers settled in Sorbian and Polabian lands, and some of them, after converting, developed a Judeo-Slavic tongue which was subsequently relexified with Old High German.[11] Wexler's model has met with little academic support, and strong critical challenges, especially among historical linguists.[11][14]



10世紀のカザール(ハザール)王国
https://www.youtube.com/watch?v=7Jz7xdf75tQ

★ここでハザール王国起源説を否定する動画も載せておく。
https://www.youtube.com/watch?v=ORgFRsV_O5c
https://www.youtube.com/watch?v=MHKcLAuz670
https://www.youtube.com/watch?v=0zt9EgTj3Ug

ハザール王国起源否定説
https://www.youtube.com/watch?v=Z1ruB2GB2j0
https://www.youtube.com/watch?v=Q0g00-eWJys
★上の動画 ⇧ は
 間違っている。
(クララさ~ん!)

Insight - Hollywoodism
https://www.youtube.com/watch?v=cwgLczzn5gk

An Empire of Their Own: How the Jews Invented Hollywood is a non-fiction book whose topic is the careers of several prominent Jewish film producers in the early years of Hollywood. Author Neal Gabler focuses on the psychological motivations of these film moguls, arguing that their background as Jewish immigrants from Eastern Europe shaped their careers and influenced the movies they made.

Gabler's main thesis is that these producers (whom Gabler terms "Hollywood Jews") generally came from poor, fatherless backgrounds, and felt like outsiders in America because of their Jewishness. In Hollywood, these producers were able to run their own industry, assimilate into the American mainstream, and produce movies that fulfilled their vision of the American Dream. Gabler asserts that the nature of their business and their movies can often be traced back to their feelings of alienation as immigrants.

The book also explains that the business background of the Hollywood Jews in theatre-ownership, retail distribution, and the garment industry shaped the approach these studio owners took to crafting movies for a popular audience, one similar to the marketing of films as commodities as well as works of art.

The book won the 1989 Los Angeles Times Book Prize for history[1] and the 1989 Theatre Library Association Award.[2]

Khazars full video
https://www.youtube.com/watch?v=KE4Ess9NnDk

Forbidden Knowledge - History of the Khazar Empire - Lecture by Jack Otto
https://www.youtube.com/watch?v=5TVd8ovSPl4

The Khazarian Conspiracy: Fake Jews of the Synagogue of Satan!
https://www.youtube.com/watch?v=tE7S4uYAEAs

The Hidden History - The Khazar Empire
https://www.youtube.com/watch?v=k2oW63XkBhw

Get this! 90% of Proclaimed Jews are not Jews at all (KHAZARS Exposed)
https://www.youtube.com/watch?v=DoCNZWIgP7w

Texx Marrs Khazar Fake Jews And The Coming Destruction Of Israel
https://www.youtube.com/watch?v=qsbSVtxS83c

Khazar : Secret Ruling Empire of The World Exposed : Sheikh Imran Hosein
https://www.youtube.com/watch?v=b6rEts1BuN8


★東欧ユダヤ人(アシュケナジー)は西方(ドイツ)から来たのではない。東方(ロシアや中央アジア)から来たのである。
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次に世界最高水準の「東欧ユダヤ人の研究」サイト,
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb100.html
から引用する。

■■■第1章:「出ドイツ仮説」の検証 <その1>


現在、世界に存在するユダヤ人の90%以上は、アシュケナジーム(アシュケナジー系ユダヤ人)と呼ばれ、オリエントやアラブ出身のスファラディム(スファラディ系ユダヤ人)とは区別されている。

一般にアシュケナジームのルーツについて“定説”とされてきたのは、西欧のユダヤ人が東部へ向かって流れ出して、ドイツ・ラインラントから東部へ移住したというものであった。

いわゆる「出ドイツ仮説」と呼ばれるもので、東欧のユダヤ人の祖先は西ヨーロッパ、特にドイツからの移住民であったと信じられてきたのである。

しかしこの伝統的「出ドイツ仮説」は、ラインラントのコミュニティーの規模の小ささ、ラインの谷間から出て行くほどの積極性のなさ、逆境下でのあまりにも紋切り型な対応の仕方、そして、当時の年代記などにその移動を示唆する記述が全くないなど、様々な問題を抱えている。

 


「アシュケナジーム」というヘブライ語は、中世のラビ文献中では「ドイツ」の意味に使われており、一般に誤った印象を与える恐れのある語である。この語のイメージが、現代ユダヤ人の90%以上を占める東欧のユダヤ人の祖先は、ライン川から興ったとする伝説を生み出す原因となったのである。また、東欧のユダヤ人たちが使用していたイーディッシュ語は、ドイツ語からの借用語が多く、このことも「出ドイツ仮説」を支える結果となっていた。


●イーディッシュ語というのはユダヤ教の礼拝に用いられている言葉で、ナチスによるホロコースト以前は日常の話し言葉としても広く用いられていたが、今日ではソ連やアメリカの少数の伝統主義者の間で残っているだけである。

イーディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語で、ヘブライ文字を使って書かれる。現在は、絶滅しかかっている言語であるためにかえってアメリカやイスラエルでは学問の対象として注目を集めるようになった。しかしそれまでは、20世紀に入ってからでさえ、ヨーロッパの言語学者の間では
単なる奇妙な訛り言葉でまともな学問の対象にはならないと考えられていた。

●イーディッシュ語におけるドイツ語からの借用語の多さは注目に値するが、どこの地方のドイツ方言が含まれたかを辿ることによって、逆に「出ドイツ仮説」が正しくないことが判明する。

ユダヤ史研究家ミエセスは、イーディッシュ語の語彙、音声、統語法を中世の主なドイツ語方言の幾つかと比較研究して、次のように結論している。

「フランスと国境を接する地域のドイツからの言語要素は、イーディッシュ語には全く見られない。J・A・バラスがまとめたモーゼル-フランコニア語起源の語彙リストからは、ただの一語もイーディッシュ語に入っていないのである。もう少し西部ドイツの中心に近いフランクフルト周辺の言語も、イーディッシュ語に入らなかった。……つまり、イーディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツは除外されてよい。……では、ドイツ・ユダヤ人は昔々、フランスからライン川を渡ってドイツへ移住してきたという定説が間違っていたということなのだろうか? 然り。ドイツ・ユダヤ人──アシュケナジームの歴史は、書き直されなくてはならない。歴史の間違いは、しばしば言語学の研究によって訂正されるものである。アシュケナジームはかつてフランスから移住してきたとするこれまでの定説も、訂正を待つ歴史の誤謬の一つなのである。」


このように、ミエセスは、イーディッシュ語の中のドイツ語要素が西ヨーロッパ起源のものではないとして、これまでの定説を覆した後、イーディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは、いわゆる「東中部ドイツ方言」であると指摘している。この方言は、15世紀頃までオーストリアのアルプス地方およびバイエルン地方で使われていたものである。

つまり、イーディッシュ語に入ったドイツ語は、東ヨーロッパのスラブ・ベルト地帯に接する東部ドイツのものだったのである。



●ここで重要になってくるのが、中世の東欧・ロシアでは、ドイツの文化がもてはやされていたという点だ。例えばポーランドに住む人々は、ドイツ人の文化を喜んで受け入れ、ドイツ式のやり方を真似た。貴族階級さえもドイツ式を好むようになり、ドイツから来たものは何でも美しく素晴らしいと考えた。

当時、ポーランドにいたユダヤ人──アシュケナジームたちも、社会的成功のためにドイツ語を学ばざるをえなかったであろう。また、先住のポーランド人と商取引をする立場の人は、商業用ポーランド語も学ばねばならなかったであろう。手工業者や材木商人はドイツ人顧客にはブロークン・ドイツ語で話し、荘園内の農奴にはブロークン・ポーランド語で話し、そして家庭ではヘブライ語にドイツ語やポーランド語を適当に交ぜて、混成国際語としてのイーディッシュ語が形成されていったと推測される。


●もともとイーディッシュ語は長期にわたる複雑な過程を経て完成された言語である。書き言葉として現われるのは19世紀になってからであり、それ以前にはずっと「話し言葉」としてのみ使用されており、しかも決まった文法もなく、人が好きなように外国語を加えることができた。決まった発音も綴りもなかった。

ポーランドのユダヤ人の中で、ドイツ語の誘惑に精神的でも物質面でも抵抗をしたのはカライ派のみである。彼らはラビの学問も物質欲も拒否した。したがって、彼らはイーディッシュ語には決してなじまなかった。


●1897年の第1回全ロシア国勢調査によると、ロシア帝国(ポーランド含む)内には1万2894人のカライ派ユダヤ人がいた。彼らのうち9666人がトルコ語(ハザール方言)を母語としており、2632人がロシア語、そしてイーディッシュ語はたった383人であった。

しかし、カライ派というのはあくまで例外的存在といってよいだろう。一般論として、移住民というものは2、3世代のうちにはもとの言語を捨て、新しい土地の言語を採用するものなのである。例えば、現代アメリカの場合を考えてみても、東ヨーロッパからの移民の孫の世代はポーランド語やウクライナ語を話さない。そればかりか、祖父母のしゃべるチンプンカンプンな言葉をこっけいとさえ思うだろう。

このことから考えても、これまで多くの歴史学者たちがハザールからポーランドへの移住を裏付ける証拠を無視してきた理由というのが、ハザール人がハザール語とは異なった言語を使っている──移住後500年以上も経っているのに──という点だったとはとても理解しがたいことである。


●ついでながら付け加えると、聖書に登場するイスラエル12支族の子孫たちは、言語的適応性を示す見本と言えるほど、多くの言語になじんできている。最初、彼らが話していたのはヘブライ語である。バビロン補囚時代になるとカルデア語、イエスの時代にはアラム語、アレキサンドリアではギリシア語、スペインではアラビア語──ただし後にはラディノ語となる。

ユダヤ人は宗教上のアイデンティティーは守り続けたが、言語の方は都合のよいものにどんどん変えていったのである。ハザール人はイスラエル12支族の子孫ではない。しかし、彼らはイスラエル12支族のコスモポリタン気質と、その社会的特徴とを共有しているのである。

■■■第2章:「出ドイツ仮説」の検証 <その2>


次に、当時のドイツのユダヤ人の状況を具体的に眺めて、「出ドイツ仮説」を検証してみたいが、

これまで定説とされている、西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けた──は、歴史的にみて根拠が薄いことが分かるのである。

●記録に残っている限りでは、ドイツにおける最初のユダヤ人コミュニティーは、906年のものである。この年、イタリアのルッカからマインツへ移住したカロニムスという人物の率いる一団があった。同じ頃、シュパイヤーやウォルムスにもユダヤ人が住んでいたという記録が見出される。

もう少し時代が下ると、トレブ、メス、ストラスブール、ケルンなど、ライン川沿いのアルザス地方にもユダヤ人コミュニティーができていたらしい。

この頃のユダヤ教会の記録類を見ると、ドイツでは3つの都市(ウォルムス、マインツ、シュパイヤー)だけが挙げられているにすぎない。これらのことから、11世紀初頭のラインラントでは、この3都市以外のユダヤ人コミュニティーは、まだとるにたらない程度の存在であったとみなしてよいだろう。


●1096年に第1回十字軍が起き、ラインラントのユダヤ人たちはキリスト教徒の十字軍によって大勢が虐殺された。この時の犠牲者は、ウォルムスでは約800人、マインツでは900~1300人と、ヘブライ側文献では一致している。もちろん、死よりは改宗を選んだ人々もいただろうし、文献には生き残った人の数は記されていない。

しかし、この両都市でのユダヤ人総数は、死者だけの人数とされている数よりさほど多かったとは考えられず、ウォルムスとマインツで生き残ったユダヤ人の数は、それぞれせいぜい300人程度にすぎなかったと推測されている。


以上のように、ドイツ・ラインラントにおけるユダヤ人の人口は第1回十字軍以前でさえ、ほんの少人数であったと考えられ、十字軍が通過した後はますます減少してしまったということが考えられる。

しかも、ライン川より東の中央・北部ドイツには、当時──そしてその後かなり長い間──ユダヤ人コミュニティーは全く存在すらしていなかったのである。

●以前、ユダヤ史学者の間では、1096年の十字軍がドイツ・ユダヤ人の大集団を、ポーランドへ押し出したと考えられていたようであるが、これは今や伝説と化してしまった。当時はハザールの歴史についてはほとんど何も知られていなかったため、東ヨーロッパに何処からともなく出現した大量のユダヤ人の出どころが他には考えられず、辻褄の合いそうな仮説で埋め合わせしてきたのだ。


最近の文献では、ラインラントからドイツ東部へ向かってのユダヤ人の移住について、ましてや遥か東のポーランドへの移住に関しては全く触れられていない。

この旧学派に属するユダヤ人学者シモン・デュブノブは「東へ向かった第1回十字軍は、ユダヤ人集団を更に東へ追いやった」といったん書いたすぐ後、次のように付け加えざるをえなかった。「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つこの移動の状況に関し、詳しい記録は一切残されていない」。


●ところが一方では、次々と繰り出される十字軍の時代に、ドイツ・ユダヤ人コミュニティーがとった悲惨な行動の記録は豊富に残されているのである。

例えば、自ら死を選んだ者あり、抵抗して殺された者あり、中には幸運にも生き残った者もいた。この生き残り組は、緊急時には一応法律上はユダヤ人を保護する立場にあった司教や軍事長官の城塞にかくまわれていたのだった。ただ、この種の保護は常に有効であったとは言えないが、ともかく十字軍が嵐のように通り過ぎた後、生き残った者たちは略奪された我が家へ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)へと戻って行って、そこで新たな出発をしたのであった。


●年代記には、トレブで、メスで、その他の地域で、このパターンの繰り返しが見られる。第2回以降の十字軍遠征の頃になると、ユダヤ人側の対応の仕方も手慣れたものになってくる。

「新しい十字軍が沸き起こると、マインツ、ウォルムス、シュパイヤー、ストラスブール、ウュルツブルクその他の都市のユダヤ人たちは、書物その他の財産を新しい隣人に託して、近くの城塞へと逃げこんだ。」

これらの史料の一つである『追想録』を書いたエフライム・バー・ヤコブ自身も13歳の頃、ケルンからウォルケンブルク城へ逃れた避難民の一人であった。ソロモン・バー・シモンによると、第2回十字軍の時代には、マインツのユダヤ人はシュパイヤーにかくまわれ、やがて故郷へ戻って新しいシナゴーグを再建したという。


これが年代記に一貫して現われるモチーフである。ユダヤ人が東部へ向かって流れ出していったという記述は一言もないのだ。更に指摘するならば、ドイツ東部は当時はまだ「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であった。そしてそれからも、数世紀にわたって「ユーデンライン」であり続けるのである。

●なお、13世紀に入るとドイツのユダヤ人コミュニティーは多少回復の兆しを見せる。しかし、これはほんの短い猶予期間にしかすぎなかった。14世紀になると、フランスとドイツのユダヤ人には、また新たな迫害の手が伸びてきたのであった。

その最初の悲劇は、フィリップ4世の領地からの全ユダヤ人追放であった。フィリップ4世に追い出されたユダヤ人たちは、フィリップ4世の版図外にあるプロバンス、ブルゴーニュ、アキテーヌ、その他のフランス内の封建領土へと逃れて行った。

「フランスのユダヤ人がまさに崩壊の危機に瀕していたこの時代にも、ドイツのユダヤ人人口がフランスからの流入によってその数を増したという記録は全く残されていない」とユダヤ史研究家ミエセスは述べている。


●また、ユダヤ人がフランスからドイツを通り抜けポーランドへ移動していったという記録も、この時代にはもちろん、その他の時代にも全く見当たらない。

フィリップ4世以後の時代になると、ユダヤ人は一部呼び戻された(1315年および1350年)が、もとの状態に回復することは不可能であったし、新たに湧き起こる迫害を阻止することもできなかった。

14世紀末頃まではイギリス同様、フランスも事実上「ユーデンライン」(ユダヤ人に汚されていない土地)であったと言えるであろう。
●14世紀のユダヤ史上第2の悲劇は「黒死病(ペスト)」であった。東方、クリミア半島からやってきたこの疫病は、1348~1350年の2年間だけで、ヨーロッパ全人口の3分の1(地域によっては3分の2)を消し去った。

この黒死病は、十字軍に続いて、東欧のユダヤ人の起源の謎を解く“第2の鍵”だと長らく考えられていたのであるが、黒死病の場合も、ユダヤ人の「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無である。

黒死病の時も、ユダヤ人の生き残りへのたった一つの道は、十字軍の時と同様にドイツを出ることではなく、ひたすら団結して砦のような場所か、多少は敵意の少ない地域にかくまってもらうというものだった。


●黒死病の時代にユダヤ人が移住を行なった唯一の例としてミエセスが言及しているのは、シュパイヤーのユダヤ人がハイデベルクに逃れたというものであるが、これでも、ほんの10マイル程度の移動にしかすぎない。


黒死病の通りすぎたあとのフランスとドイツでは、ユダヤ人コミュニティーは事実上消滅してしまった。その後、ほんの2、3の小集落が細々と生活していただけで、スペインを除く西ヨーロッパ全域はそれから200年間というもの「ユダヤ人に汚されていない土地」(ユーデンライン)であった。

16~17世紀になって、イギリス、フランス、オランダに、近代コミュニティーを開いたユダヤ人たちというのは、スファラディム(スペイン系ユダヤ人)と呼ばれる全く別の系統のユダヤ人である。彼らはそれまで1000年以上にもわたって住んでいたスペインから、この頃になって追い出されたのであった。


●このように、これまで定説となっていた西ヨーロッパ・ユダヤ人のラインラントからポーランドへの大脱出──その途上、彼らは敵意に満ちた非ユダヤ人地帯であるドイツを通り抜けたとされていたのだが──は、歴史的にみて根拠が薄いことがわかる。「出ドイツ仮説」を裏付ける証拠は皆無といってよいのだ。

●以上、アーサー・ケストラーの『第13支族』をもとにして論を展開(再構築)してみたが、誤解してほしくないのは、西側から東欧地域へのユダヤ人の流入は「ゼロ」だと言っているわけではないということである。当然、ポーランドなどの東欧地域には、西側から流れ込んだユダヤ人もいたであろう。しかし、それは通常考えられてきたような規模ではなく、ごくごく少数だったと推測されるのだ。この件(ポーランドのユダヤ人)に関しては、次章から更に具体的に触れていこうと思う。

■■■第3章:ポーランドのユダヤ人口爆発の秘密


■■ポーランドのユダヤ人


●興味深いことに、ポーランド建国にまつわる言い伝えの中に、ユダヤ人が重要な役割を担っている話がある。この言い伝えによると、スラブ系部族同盟が王として選んだのは、アブラハム・プロコウニクという名のユダヤ人であった。彼はへりくだって王位を固辞し、先住民族の中からピャストという名の百姓を王に推した。こうして、ピャストは、962年頃から1370年までポーランドを治めたピャスト王朝の創始者となったのである。

ピャスト王朝下のポーランド人とその隣人リトアニア人は、急速にその領土を拡張したため、移住者を呼び入れることによってその土地を植民地化し、そこに都市文化を築き上げる必要に迫られていた。彼らはキプチャク汗国によって占領された地域のアルメニア人、南部スラブ人、ハザール(ユダヤ)人などの移住者を積極的に受けいれた。移住者の中には、クリミア・タタール人のような捕虜も多数含まれていた。

●この頃のポーランドは農業国で、貴族たちの所有する荘園に分割され、その土地は農奴によって耕されており、商業もまだドイツほど発展してはいなかった。そこで王侯や貴族たちは、国の建設を助けてくれるユダヤ人たちを一種の「代用市民階級」として扱い、1334年以来特権を与え、独自の自治組織を作らせた。

とりわけボレスワフ5世と、ポーランド史上ただ1人の大王カシミール(カジミェシュ3世)は、ユダヤ人を好遇したことで知られている。ユダヤ人たちは期待にこたえ、手工業の知識や豊かな商売体験を生かしてポーランドの発展に尽力した。

●1569年、ポーランドにリトアニアが統合され、ポーランド王国は北はバルト海から南は黒海にまで拡がった。そしてその住民はポーランド人、ウクライナ人、白ロシア人、リトアニア人、ハザール(ユダヤ)人など様々な民族から成り立っていた。

ユダヤ人は、はじめはクラカウ、ルボフ、ルブリンなど大都市に住んでいたのだが、やがてポーランド王国の全域の町や村に住みつき、そこにユダヤ人集落「シュテトゥル」を作って生活した。彼らのうちの少数は、そこで農奴が耕す貴族の土地を管理したり、衣服やぜいたく品を商ったり、材木や毛皮を扱ったりして生計をたてたが、大部分の者は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜作りなどによって暮らしていた。これは後の時代のロシアのシュテトゥルにおいても同じようなものであった。

●ポーランドの「ユダヤ人議会」は1581年にルブリンで初めて開会された。この議会は少なくとも1年に1度開かれ、その議員のなかから「ユダヤ人総帥団」という1つの評議会、すなわち総帥団長、ラビ総長、総書記、総財務管理官を選出することになった。

こうしたことによって、ユダヤ人はかつてない制度を意のままにすることができた。たしかに他の国々でも「ユダヤ人地方議会」やそれに類する組織は認められてはいたが、しかしそれらはポーランド=リトアニア連合王国におけるほどの重要性を持つには至らなかった。

■■東方から流れ込んできた25万ものユダヤ人集団


ポーランドのユダヤ人の数は、16世紀のはじめ頃は5万ぐらいであった。しかし、その後1世紀半のうちに7倍も増えた。17世紀半ばには35万人以上、人口の10%に及およんだ。ユダヤ人は広く各種の職業に従事するようになり、また君侯に重用されて国政を整え、ユダヤ文化もこの地で栄えた。18世紀の半ばには彼らの数は75万人以上になった。

いったいなぜこの時期突然、爆発的にポーランドのユダヤ人の数は増えたのであろうか?

これは、東欧ユダヤ人のルーツを探る上で、非常に注目すべき現象である。

●実はこの時期、ポーランド国内には東方、ロシアからリトアニアを経て、ユダヤ人の移住者が多く流れ込むようになったのだ。たいてい彼らは社会的、経済的な困窮から移住したり、居住地区以外の地方から追放されたユダヤ人で、決して自らをロシア人だとはみなさず、ユダヤ人(リトアニア系ユダヤ人)だとみなしていた。

後の時代に数多くの西欧ユダヤ人が、移住してくる東欧ユダヤ人に対して当惑し、拒絶反応を示したのと同じように、ポーランドのユダヤ人の、とくに同化の意志のある者のかなりの部分は、東方からやってくるリトアニア系ユダヤ人移住者を不信の目で、それどころか反感と侮蔑の目で見ていた。

●こうした東方から移住してくるユダヤ人(総計で約25万人にのぼった)は、イーディッシュ語の別の方言を話し、ユダヤ人社会の外ではポーランド語ではなくロシア語を使い、まわりの世界からずっと遠く離れて自分たちだけで閉じこもり、外面的にも振舞いの点でも、非常に貧しく汚い格好をしていた。

そのため、貴族、キリスト教僧侶、市民たちの間に、彼らへの反感が高まり、反ユダヤ的気運が強まっていった。ポーランドのユダヤ人も非ユダヤ人も、ポーランド人とユダヤ人との共生の失敗と、勢いを強めるユダヤ人敵視との責任を、このリトアニア系ユダヤ人にいつでも即座に負わせる用意ができていた。彼らは身代わりとして、ロシア人嫌悪のはけ口にされたのである。

●17世紀に入るまでポーランドのユダヤ人は、政府から自由を与えられ優遇されて、生活はうまくいっていた。ポーランド社会に溶け込んで経済の分野で比較的重要な役割を受け持っていたユダヤ人も多くいた。

しかし、東方から20万人以上もの大規模な「ユダヤ人集団」(リトアニア系ユダヤ人)が流入してくるようになると、雲行きは怪しいものに変わっていったのである。


17世紀の半ば、ついにポーランドで悲劇が起きた。ボグダン・フメリニツキーを首領に頂くウクライナ・コサックによって、ポーランドのユダヤ人は大虐殺の犠牲になったのである。このウクライナ人たちは、ウクライナをポーランドの支配から解放する名目で立ち上がったのであるが、ユダヤ人が「身代わりの羊」にされたのだ。

更にその後、ポーランドは東からロシアのツァー、西からはスウェーデンのカール10世の侵入をうけ、数十万のユダヤ人が殺されたのである……。

このガリチア地方がハプスブルク帝国領となったのは1772年である。翌1773年6月、ヨーゼフ2世は初めてガリチア地方の視察旅行を行なったが、おびただしいユダヤ人の貧困に衝撃を受けた皇帝は、当地の役人に向かって、「これらの者たちはいったい何を食べて生きているのか?」と質問したというエピソードが残っている。

●ガリチア地方では毎年、大勢のユダヤ人が飢えで死んだ。貧困のため、身売りするユダヤ人女性もあとをたたなかった。

精神分析学者フロイトの患者アンナ・O(本名ベルタ・パッペンハイム)は、ユダヤ女性解放運動の草分けとして知られる。その彼女の最も知られた著作は、ガリチア地方の売春と女性売買に関する実態報告書である。調査のために当地を訪れた彼女は、ユダヤ人の窮乏に驚き、その改善なくして女性売買の根絶はありえぬと説いたのである。

●ガリチア地方を支配するようになったハプスブルク家の政策は、ユダヤ人にとくに好意的というわけではなかった。絶対主義的「寛容」の時代に、その他の国々においてと同じように、特にユダヤ人の兵役義務と職業の自由に関して争いが起きた。

1773年以降、結婚はオーストリアの総督の認可が必要になった。男子の総領のみが結婚を許され、結婚によって「家長」となったが、これはボヘミアやモラヴィアと同様であった。1785年には、さらに結婚の認可は一定のドイツ人の教養水準と結びつけられた。

すでに1776年には、酒場の経営と貴族の領地の賃借が、ユダヤ人に対して禁じられていた。1789年にヨーゼフ2世は「特別寛容令」を発布したが、これは、ユダヤ人の自治制の範囲を狭め、経済上の禁止事項をいっそう強化し、居住制限を行なうもので、名字をつけることを義務づけ、厳しい結婚政策を承認するものであった。

この時期、ロシアとハプスブルク帝国との交易は拡大を続け、ユダヤ人はここから利益を得るようになった。とくに国境の町ブロディは、商品の重要な積み替え基地となり、ガリチア地方の押しも押されぬ“ユダヤ人の首都”となった。

ブコヴィナでも原則として、同じような事情が支配していた。ブコヴィナは1775年、トルコからオーストリアへ割譲され、それ以来、ガリチア地方に属していた。


ハプスブルク帝国の全領域でのユダヤ人住民の数は、40万人弱(1785年)から約100万人(1803年)に上昇した。

ちなみに、この当時の西欧のユダヤ人の数は、17世紀半ば頃のフランクフルトには2千人、ウィーンには3千人、ベルリンには1770年に、4千人弱のユダヤ人しか住んでいなかった。このことからも、いかに東欧に住むユダヤ人の数が西欧よりも圧倒的に多かったかが分かるだろう。

★結論
18世紀には、東欧ユダヤ人(アシュケナジー)たちは黒い太線で囲まれた区域に住んでいた。


ロシアと中央アジアから流入した、ポーランドを中心とした地域に住んでいた東欧ユダヤ人(アシュケナジー)たちは、西と東の両方からの迫害を逃れるために、集団でアメリカに渡った。その数300万人である。その大半がニューヨークに移住した。アメリカにロシア系ユダヤ人(白人)が多い理由がこれで分かるというものだ。

言っておくが、以上で述べていることは全て、ヒトラーが出現する以前の出来事である。

   ☟
「アメリカのユダヤ人」の研究
http://kabukachan.exblog.jp/25292635/

★アメリカとロシアの関係=日本と朝鮮の関係
http://kabukachan.exblog.jp/26431821/


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by kabu_kachan | 2016-01-15 11:05 | 言語 | Comments(0)
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