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2015年 03月 19日 ( 1 )

ユダヤ人のアメリカ移住史(2)

ユダヤ人のアメリカ移住は5波(5つの波)にわたっており、それぞれ出身地と性格を異にしている。

最初にやってきたのは、第1章で紹介したように、カトリック教国のスペインとポルトガルから追放されたユダヤ人(スファラディム)だった。1654年、ブラジルを経由してニューヨークに到着した。

ユダヤ人たちは、インディアンに対する防塞建設のために献金したり、警備隊に参加したりするなど、市民として認めてもらうためにさまざまな努力をつづけた。独立戦争の際には、多くのユダヤ人がワシントンの下で銃をとって参戦している。

 

アメリカ独立後も、州によってユダヤ人に対する扱いは異なっていた。宗教的にこりかたまったマサチューセッツ州はユダヤ人を排除し、逆にメリーランド州は完全な信仰の自由を認めるといった具合だったが、やがてスペイン系ユダヤ人の多くは、企業家としてのたゆまぬ努力によって、しだいに経済的実力を蓄積してゆく。

ロード・アイランドのユダヤ人アーロン・ロペスはタバコと砂糖の輸出業者として成功した。ニューヨークでは「バルーク家」「ラザラス家」「ネイサン家」「コルドーサ家」などが傑出し、「ニューヨーク証券取引所」や「コロンビア大学」の創立者になる。彼らのなかにはキリスト教に改宗して、上流階級と婚姻関係を結んだり、キリスト教徒の排他的な「ユニオン・クラブ」に入会を許された者もいる。


ユダヤ移民の第2波は、1820年から1870年頃まで続く。これは主にドイツからやって来た。特に1848年の革命の敗北によってアメリカに避難したものが多かったので、彼らは「フォーティエイター」と呼ばれている。


第1波のスペイン系ユダヤ人が貴族だとすれば、第2波のドイツ系ユダヤ人はたたき上げのブルジョアになった。ニュルンベルク出身のヨセフ・セリグマン、ヴュルツブルクの貧しい鞍作りの息子だったヨセフ・ザックス、ドイツ系スイス人のグッゲンハイムなど。例外はフランクフルトのロスチャイルド家の代理人だったアウグスト・シェーンベルク(のちオーギュスト・ベルモントと名乗る)で、ヨーロッパ風の洗練された貴族的マナーでアメリカ人を魅了した。

 

ドイツ系ユダヤ人は、母国ドイツとヨーロッパ各地のユダヤ系資本とのコネクションを武器として、国際的な資本移動の仲介役として活躍した。鉄道業を中心にした当時のアメリカ国内の主要な企業活動に対する国際的資金調達こそ、彼らの活躍の場となった。ドイツ系ユダヤ人が所有・利権支配した投資銀行は、その後長らく、アメリカ国内の投資銀行業界を二分する勢力のひとつとして栄えた。

★ユダヤ国際金融資本家の誕生

http://kabukachan.exblog.jp/19077084/


行商人から身を立てためざましい例としては、のちにウォール街で有名になった「ゴールドマン・サックス社」の創業者である、マーカス・ゴールドマンがいる。彼は1848年にフィラデルフィアに上陸して、2年間その地で行商をし、それから衣服店を開いて資金を増やしていったのである。

 

また、投資銀行業界に次いで、百貨店・通信販売業もドイツ系ユダヤ人が最も威勢をふるった業種である。「R・H・メイシー社」「ブルーミングデール社」「ファイリーン社」「ラザラス社」「リッチ社」「ニーマン・マーカス社」など、今日、アメリカを代表する一流百貨店の相当多くが、ドイツ系ユダヤ移民が設立した小売商店に、その起源を発している。


フィラデルフィアに腰をすえた「グッゲンハイム家」や、スプリングフィールドとシカゴに本拠を置く「ローゼンウォルド家」(世界一の通信販売会社「シアーズ・ローバック」)などを除くと、たいていのドイツ系ユダヤ人の成功者はニューヨークに集中している。

 

1865年に、虎の子の500ドルを手にニューヨークに到着したユダヤ人ヤコブ・シフは、ブローカーとして成功した。1875年にソロモン・ローブの娘と結婚し、「クーン・ローブ商会」の主となる。このユダヤ人金融業者ヤコブ・シフが日露戦争当時、財政難に苦しむ日本政府の発行した国債を一手に引き受けて、日本の窮状を救った話は有名である。

 

なお、この時期のドイツ系ユダヤ人の成功例として、ジーンズの発明者であるリーヴァイ・ストロースの名前を忘れることはできない。リーヴァイ・ストロース(本名はロブ・シュトラウス)が、故国バイエルンを後にして、サンフランシスコへやってきたのは1853年のことであった。この時、彼は24歳の若者であった。

彼は日用雑貨品を売る仕事についたが、売れ残ったテント用の厚手の布地から作業ズボンを作るという画期的なアイデアを思いつき、すぐ実行した。すると、またたくまに評判になった。こうして、後年、「ジーンズ」と呼ばれる「リーヴァイスのズボン」が生まれたのである。

彼の「リーヴァイス社」は、世界で最初の最も有名なジーンズ製造会社となり、今でもジーンズはアメリカを象徴する衣服として若者の間で大人気である。

 

さて、ここで、アメリカ・ユダヤ人口の変動を見てみたい。

アメリカ独立当時のアメリカ・ユダヤ人口は、取るに足りない少数であった。独立前夜のアメリカ全人口300万人中、ユダヤ人口は約2500人であったと言われている。たったの2500人である。

その後も、アメリカ・ユダヤ人口の増加ぶりはまことに緩慢で、1840年当時でも総数1万5000人にすぎなかった。


しかし、スペイン系ユダヤ人(スファラディム)を中心としてきたそれまでのアメリカ・ユダヤ人社会に、ドイツ系ユダヤ人が合流した結果、以後ようやくユダヤ人口も増加が目立ち始めた。1848年には総数5万人、1860年代半ばには20万人に達していた。


しかし、ドイツ系ユダヤ移民の渡米は長くは続かなかった。1870年以後は急速に衰え、1880年当時でもユダヤ総人口は合計23万にすぎず、アメリカ全人口中の0.5%弱にしかならなかった。

しかも、彼らドイツ系ユダヤ人は、民族・宗教集団として行動することを嫌い、ユダヤ人政治クラブを組織したり、ユダヤ人としての政治見解を表明することなどを特に嫌悪していたのである。彼らは典型的な「同化主義ユダヤ人」であった。彼らが所有する百貨店の経営上の特色は、決してユダヤ色をみせず、あくまで地域社会の文化的・宗教的規範の中に溶け込もうという姿勢を貫くことであった。

 

 
1880年代初頭、アメリカ・ユダヤ人社会史上に、決定的な転換期が訪れた。

当時、ロシア国内で始まった「ポグロム」(ユダヤ人迫害)の嵐で、大量の東欧ユダヤ人がアメリカに流入することになったのである。ユダヤ移民の第3波である。まさに、どっと押し寄せてくるという感じでやって来た。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行したが、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。

ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、帝政ロシアは、間違いなく、ユダヤ人が最も大量に殺された国であった。(当時のロシアは、世界で最も多くユダヤ人が住む国であった)。「ポグロム」はロシアから東ヨーロッパにかけて大規模に広がり、この結果、多くのユダヤ人がアメリカに渡ってきたのである。

 

19世紀末から20世紀初頭にかけて、帝政ロシアでは激しいユダヤ人虐殺が進行した。このロシアにおけるユダヤ迫害は 「ポグロム」と呼ばれ、このとき殺されたユダヤ人のほとんどはアシュケナジームであった。


1880年に23万にすぎなかったアメリカ・ユダヤ人口は、1900年にはついに100万を突破した。この間の20年間、アメリカ総人口が1.5倍増であったのに対し、ユダヤ人口は4.4倍に達したのであった。そして、その後も東欧ユダヤ人のアメリカ流入は続いて、20世紀初頭までに総数280万人に達する莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに流れ込んだのだった。

これにより、世界で一番ユダヤ人が多い国は、徐々にロシアからアメリカにバトンタッチされていくことになる。(東欧ユダヤ人はアメリカ・ユダヤ人口の85%を占めるようになった)。

 

ニューヨーク市の中心部に近い移民集住地区「ロワー・イーストサイド地区」は、おびただしい数の移民集団が住み始めて超過密状態になった。1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時そこは、インドのボンベイを除けば地球上で最も人口密度の高い都市空間であったといわれている。

 

アメリカのビジネス・エリート社会において、先着のドイツ系ユダヤ人(西欧ユダヤ人)は、そのたぐいまれな国際的金融コネクションを駆使して投資銀行業界で威勢をふるい、更に同化主義的でユダヤ教色が希薄であったことから、準ワスプ(WASP)的な"好ましいユダヤ人"としての待遇を獲得していた。

一方、後からやって来たユダヤ教色の強い東欧ユダヤ人(主にロシア系ユダヤ人)は、ワスプから蔑視された。初期の貴族的なスペイン系ユダヤ人や、第2波のドイツ系ユダヤ人と違い、ロシアの寒村やゲットーからやってきて、ニューヨークに住み着いたユダヤ人たちは、いかにも異様だった。

20世紀初頭のアメリカでは、平均的なワスプ系の人々は、当時、移民の大半を占めていた東欧ユダヤ人を、文化的・生物学的に劣等な輩と見下し、アメリカ社会に同化困難な異質な存在とみなしていた。心の奥でそう思うだけでなく、それを態度であらわし、露骨な差別行為を行なうことさえ、当時としては珍しくなかった。

 
アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学外国語学部教授)は、次のように述べている。

「東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人とは著しく異なっていた。中産階級化し、宗教的には改革派ユダヤ教を奉じ、英語を取得して急速なアメリカ化を遂げていたドイツ系ユダヤ人はアッパーイーストサイドやアッパーウェストサイドの優雅なアパートメントに住んだ。これに対して、東欧系はイーディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極めて貧しかった。

両者は風俗習慣も異なり、この時期には別々のコミュニティーを形成した。2つの種類のユダヤ人はそれぞれ『アップタウン・ジュー』、『ダウンタウン・ジュー』と呼ばれるようになった。」

「東欧系ユダヤ人の移住が増えるにつれ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は急増した。1917年ニューヨーク市全体では、784の恒久的なシナゴーグと343の一時的シナゴーグがあった。かなり堂々としたシナゴーグもあったが、大部分の会衆は、故郷のシュテトゥル出身者からなる小さな団体であった。そのような会衆は普通のテネメントハウスを礼拝の場所としてしつらえていた。シナゴーグは同時にクラブハウスであり、信仰熱心なメンバーが聖書を読んだり、故郷の情報を得たり、アメリカについての情報を得たりする溜り場でもあった。」

https://www.youtube.com/watch?v=7Jz7xdf75tQ

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ユダヤ人のアメリカ移住史(1)
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by kabu_kachan | 2015-03-19 21:20 | Comments(0)