カテゴリ:歴史( 70 )

世界史上における最強の文明とは何か? (What is the strongest civilization in the history of the world?)

日本人諸君、Hello, Americans !
(What is the strongest civilization in the history of the world?)
「世界史上における最強の文明とは何か?」
と聞かれたらどう答えるかね?

歴史好きの諸君だったら、古代エジプトとかメソポタミアとかヒッタイトとかシュメールとかローマ帝国とか答えるだろ。

みんな間違っているんだぜ。
いいかね、世界史上最強の文明とは、15世紀頃から西ヨーロッパで芽生えた近代科学思想とその後イギリスで起こった産業革命の合体を言うんだぜ。
近代科学思想の誕生には、誰もが知っているガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートンやデカルトやライプニッツが大いに貢献しているんだぜ。
この世界史上最強の科学技術文明でもって、白人たちは世界中を植民地にしていったんだぜ。
当時の白人国家とは、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、オランダ、ドイツ(プロシア)、ロシア等である。

なぜ白人国家に近代科学思想が広まったかと言うと、白人たちの言語はすべてインド・ヨーロッパ語族に属していて言語構造は同じだからなんだぜ。
たとえば、英語とロシア語は文章の構造は同じなんだぜ。だからロシア人は英語をすぐに理解できる。実際、ロシアは17世紀に既に西ヨーロッパで誕生した科学思想を導入している。日本で言えば江戸時代の初期だぜ。
蘭学が起こったのが江戸時代の中頃だろ。
近代科学思想の導入では、日本はロシアよりも百年遅れているんだぜ。
いや、二百年かもしれない。

蘭学とは何か?(Dutch learning)Part 1
https://kabukachan.exblog.jp/29154204/

蘭学とは何か?(Dutch learning) Part 2
https://kabukachan.exblog.jp/29154221/


西ヨーロッパと接しているトルコでも近代化が遅れただろ。
宗教の違いもあるが、やはり言語の違いが大きい。
ちなみに、トルコ語と日本語は言語構造は同じなんだぜ。
By the way, the Turkish language is similar to Japanese.

この世界史上最強の科学技術文明の象徴が、
幕末に日本にやって来たペリーの黒船なんだぜ。
日本は明治に見事にこの西洋の科学技術文明を取り込んだのである。有色人種の国家としてはナンバーワンである。あまりにも完璧に取り入れたものだから、なんと日露戦争で当時世界最強の軍事大国ロシアに勝ってしまったのである。
いいかね、日本海海戦と言うのは日本のパーフェクト勝利だったんだぜ。
すなわち、ロシアの軍艦40隻以上を海の底に沈めたんだぜ。

★日本人よ、日本海海戦を知れ!(日露戦争)
https://kabukachan.exblog.jp/29337749/

What did Japan fight for & against ? / Meiji Restoration ~ WW2
https://www.youtube.com/watch?v=7vZOKHemOOc&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j&index=126

この日露戦争の日本の勝利の後、日本は五大強国の仲間入りを果たし、世界の一等国となったのである。有色人種の国家としては初めてである。
すなわち、白人国家による世界植民地支配を日本が食い止めたのである。

Woodrow Wilson : Rejection of the Racial Equality
https://www.youtube.com/watch?v=v_M190ZBn3U&index=67&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j

いいかね、日露戦争の日本の勝利は、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の世界史上の大事件なんだぜ。

本来なら、日露戦争の世界的意義を日本の歴史教科書の前半のすべてのページを使って書いてもいいくらいだ。

ところが、学校の日本史の教科書には「日露戦争がありました」と一行しか書いていないだろ。新聞もテレビも同じだろ。
これは何故かと言うと、日本史の教科書を書いている人も教師も反日左翼、新聞、テレビは朝鮮系だからだぜ。

★在日メディア(日本のテレビ番組は朝鮮人が作っている)
https://kabukachan.exblog.jp/26763986/

中国人や朝鮮人の歴史観で日本史を日本人に教えているんだぜ。
中国人や朝鮮人にとって、日露戦争の日本の勝利ほど腹立たしく、
忌まわしい事件はないんだぜ。
日本の学校で、この歴史観を日本人に教えているんだぜ。



★反日の在日朝鮮人を生んだのはGHQだった
https://www.youtube.com/watch?v=sA93tp9OMdE


いいかね、日本人諸君、
マッカーサーとGHQは
日本人の思想改造を行なったんだぜw!

映画「猿の惑星」で立場が逆だが、猿が白人の頭脳の手術をして白痴にする場面があるだろ。
これと同じことを日本人に対して行なったんだぜ。

日本人を白痴にしてサルと同じにしておけば、二発の原爆投下や全国の都市に対して行なった大空襲が大虐殺であることがわからないだろ。

東京大空襲による死者( Mother and her baby were burnt alive in the Great Tokyo Air Raid.)
This evening, 100.000 people were killed in one night for the first time in the history of the world.

焼け野原の東京
The Great Tokyo Air Raid and the Bombing of Civilians in WW II

https://www.youtube.com/watch?v=J2Ts3v1o24o&index=168&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j





真の右翼とは何か?(真の愛国者とは何か?)
https://kabukachan.exblog.jp/29572278/

★日本人よ、ケント・ギルバート氏に歴史を学べ!
https://kabukachan.exblog.jp/26097469/


★Average American vs Average European - How Do They Compare? - People Comparison
https://www.youtube.com/watch?v=cuWOoQU0aKw

移民の国別比較
German ・・・ 49million
Irish ・・・・・ 39million
English ・・・・ 27million
Italian ・・・・ 18million
Polish ・・・・・10million
French ・・・・・ 9million
Scottish ・・・・・ 6million
Scotch-Irish ・・・ 5million
Dutch ・・・・・・ 5million
Swedish ・・・・・ 4million
Russian ・・・・・ 3million

その他、Welsh,Czech,Hungarian,Portuguese,Danish,and Greek となっている。


いいかね、日本人諸君、
お互いサル同士で
つまらんケンカは
やめようぜ。
それよりも
自分が世界に向かって
何が主張できるのかを考えろ。




おまけ!

Unveiling The Truth #21: Hitler's Escape From Germany (01-03-2014)
https://www.youtube.com/watch?v=53PnJFpOS50



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by kabu_kachan | 2018-07-13 04:44 | 歴史 | Comments(1)

ワールドカップ・ロシア大会(日本は負けたが結果的に良かった=大東亜戦争と同じ)

日本は負けたが、結果的に決勝T進出できてよかった。
これは大東亜戦争のときと同じじゃないか。

いいかね、日本人諸君、
日本は大東亜戦争で負けたが、結果的に東南アジア諸国が独立し、インドが独立し、中東の国々が独立し、アフリカの国々が独立していったんだぜ。

日本はアメリカに負けたが、結果的に良かったんだぜ。

Japan v Poland - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 47
https://www.youtube.com/watch?v=K7pVlD8Q660

FIFA World Cup™ 2018: Japan v. Poland - Post-Match Press Conference
https://www.youtube.com/watch?v=NLjLvhF0NBA

Colombia v Japan - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 16
https://www.youtube.com/watch?v=y4SeAfCg7-o

PES | COLOMBIA vs JAPAN | FIFA World Cup 2018 | Full Match Amazing Goals | Gameplay PC
https://www.youtube.com/watch?v=BKizl5GBGR8

Belgium v Japan - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 54
https://www.youtube.com/watch?v=fJeJuc27ggE

2018 FIFA World Cup Russia™ - BEL vs JPN : Post-Match Press Conference
https://www.youtube.com/watch?v=Q_Uq-kWI8-I



大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!【真珠湾攻撃74年】
https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w&list=PLF01AwsVyw328JWxhGfxIh8OlCax9dGxz

祖先の目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan 大東亜戦争の真実 水間 政憲
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

Honda, Japan show their best
https://www.youtube.com/watch?v=k1YK0e-UWNg

A great decade for Japan
https://www.youtube.com/watch?v=0oCr72bs4IQ

Hidetoshi Nakata: A Japanese football icon
https://www.youtube.com/watch?v=c-jQXJYENCI



本田圭佑、ダメだけど「次のため、そこは理解して」
[2018年6月29日12時8分]


決勝トーナメント進出を決め本田圭佑(右)は西野朗監督と握手する(撮影・PIKO)
決勝トーナメント進出を決め本田圭佑(右)は西野朗監督と握手する(撮影・PIKO)試合後、手をたたいてスタンドの声援に応える本田圭佑(撮影・PNP)
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<ワールドカップ(W杯)ロシア大会:日本0-1ポーランド>◇1次リーグH組◇28日◇ボルゴグラード


 日本代表MF本田圭佑(32=パチューカ)が、西野朗監督(63)の采配に理解を示した。

 W杯ロシア大会1次リーグ第3戦のポーランド戦。自身はベンチで、0-1の状況で、仲間がノーリスクのパスを回しながら試合終了の笛が鳴るのを聞いた。

 もし、1点を追うセネガルがコロンビア相手に追いつけば、日本は一転敗退。「その可能性があったのでホッとした」と明かしつつ、他会場の結果待ちのギャンブルに勝った西野監督の指示には「あそこで西野さんはリスクを取りに行った。個人的には素晴らしい采配だったと思う。僕が監督だったら、あの采配はできていなかった。そう客観的に見ていた自分もいた。結果がすべてなので、西野さんはすごいなと思いました」と感服した。

 場内のブーイングを浴びながら、作戦を遂行した仲間には「大事なのは結果。予選(1次リーグ)通過が目的だったので、出ていた選手には少し酷な部分があったけど、非常にポジティブな結果だったと思う」とたたえた。

 その上で、手放しで称賛できない自分もいた。「サッカーはエンターテインメントなので。結果主義ではダメ、と僕はずっと思っているので。ただ、結果を出さないと誰も俺の発言を聞いてくれない。だから結果を追い求めるけど、本当はダメなんです。いいサッカーしてナンボなんですよ」と持論を展開。「ファンには申し訳なかった」と謝りつつ「次に進まないと、面白いサッカーをしてファンを喜ばせることができなくなる。次のため、そこは理解してほしい」とファンに要望。2大会ぶりの決勝トーナメント進出という結果をつかみ取り、玉砕しても意味がない現実を理解してもらうため、チームメートをかばうようにしっかり発言して、取材エリアを後にした。


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by kabu_kachan | 2018-06-29 17:14 | 歴史 | Comments(1)

著名(有名、人気)ブロガー刺殺事件(ネット殺人事件)

いいかね、日本人諸君、
私がサル、サルと言うからといって、いちいちカッカするんじゃないぜ。
「俺はサルじゃないぜ」と自分で思っていればいいんだぜ。
どうも日本猿には、つまらん、くだらんことで言い争う習性がある。
もっと広く、高い視点から考えることができないんだよな。

ここで一句。
サルは皆 サルの視点で 考える
日本猿 視野の狭さは 世界一
私だけ 世界言語で 考える
英語とは 世界支配の 言語なり
日本語は 世界の中の サル言語
サルは皆 サルの世界に 閉じ籠る

サルは皆 サルの言語で ケンカする
私だけ 世界言語で ケンカする

サルは皆 サルを相手に ケンカする
私だけ 世界を相手に ケンカする


いいかね、幕末、明治維新のときに多くの日本人がくだらん論争で切り合い、撃ち合って死んでるんだぜ。
多くの日本の志士たちが無駄死にしているんだぜ。
これを考えるとき、日本民族はあまり賢い民族ではない。

いいかね、幕末、明治維新のとき、日本人が一滴の血も流さないで見事に近代化を成し遂げていたなら、日本人は世界最高の優れた資質を持った民族だったんだぜ。

「禿がどうのこうの」「低能がどうのこうの」程度の言い争いで殺人事件を起こすようでは、日本人の頭のレベルはやはりサルレベルなんだぜ。


ここで一句。

日本猿 くだらんことで 殺し合う

"ブログ史上最悪"Hagex刺殺は言論へのテロ?


24日、福岡市で開かれたITセミナーで講師の男性が刺殺された事件。25日午後になって殺された男性がネットウォッチャー・ブロガーとして知られる「Hagex」さんであることが新たに分かりました。ネット上には事件につながったとみられる2人の接点が残されていました。ネットの世界とリアルが交錯して起きてしまった事件。なぜ殺害にまで至ってしまったのでしょうか。

 パトカーと大勢の警察官で騒然とする福岡市の繁華街。24日午後8時前、福岡市中央区の起業支援施設でITセミナーの講師・岡本顕一郎さん(41)が男に背中を複数回、刺されて死亡しました。亡くなった岡本さんはインターネットセキュリティー会社の社員で、現場となった施設でネット炎上やトラブルについてのセミナーを開催。事件はその終了直後に起こりました。所属会社の社長は。
 所属会社社長・高野聖玄さん:「非常に人付き合いが良いといいますか、とっつきやすい人間だったので、今回のような事件に巻き込まれるのは信じられない思いです」
 警察は刺した男を追っていました。市内の交番に男が出頭。警察は出頭してきた福岡市東区の無職・松本英光容疑者(42)を殺人などの疑いで逮捕しました。事件の背景には、亡くなった岡本さんのもう一つの顔が関係していました。松本容疑者は動機について…。
 松本英光容疑者:「岡本さんとネット上でやり取りがあり、恨んでいた」
 インターネット上のトラブル。岡本さんは、Hagexという別名で、炎上商法に苦言を呈すなどネットウォッチャー、炎上評論家として活動していたのです。実は松本容疑者は、一部のインターネット上で「低能先生」と呼ばれていた人物とみられていて、Hagexこと岡本さんとインターネット上でトラブルがあったといいます。低能先生は一部、インターネットかいわいで誰かれ構わず「低能」などと誹謗(ひぼう)中傷を浴びせ、逆に「低能先生」というあだ名が付いたといいます。そして、犯行直後の松本容疑者とみられる人物の書き込みも。インターネット上で交流があり、酒を酌み交わすこともあったというネットニュース編集者の中川淳一郎氏は岡本さんの人柄について。
 岡本さんと親交があった編集者・中川淳一郎さん:「Hagexさんは、もともとネットで有名な方でした。ネットウォッチャーの第一人者。私は勝手にネットウォッチャー四天王という言い方をしていたんですけど、そこに入っている1人がHagexさんだった。初めて会った時に楽屋だったんですよ。その時にニコニコしていて、Hagexというハンドルネームを使っているからハゲだと思っていたらハゲていなかった。それで『お前ハゲてねえじゃねえか』と突っ込んで、『いやいや』ってやる感じの印象があって本当に物腰の穏やかな方で、ネットでは攻撃的ですが、彼はダブルスタンダードが許せないタイプ。インターネットをより発展させたいという気持ちがあったのは間違いない。愉快犯的なところもあったけど、悪口を書くことはあったけど、とどめはささない。何とか読み物として面白くしようとは考えていたと思うんですよ。彼もHagexとは別の本名で、ネットセキュリティとかIT秩序とかそういうことで活動しようと思っていた矢先、WEB上でHagexとは別の岡本って名前で、羽ばたく直前の人が何でこうなるのって寂しいし、悲しいし、残念です」
 今回の事件については。
 岡本さんと親交があった編集者・中川淳一郎さん:「今回のネットでもリアルでもって言ってるようなことではなくて、ちょっとやばいやつだった。やばいやつって実際、リアルで会ったら分かる。目つきがやばいなとか、ぼそぼそつぶやいてたとか、ネットだと分からないんですよ。そこが。それが恐ろしいところだと思います。絶望的な結論ではありますけど、いかに誰かから恨まれない、ないしは誤解されない、逆恨みをされないという人生を皆送るべきじゃないかなと思うんですね。そういう姿勢に立った場合にネット上で積極的に発言することがデメリットっていう考え方が広がる可能性がありますよね。ペンは剣よりも強しっていうけど、そんなのはどうでもいいです。人の命のほうが大事です。Hagexさんの低能先生を通報したというブログが殺意の導火線だとしたら、あれを書かなければよかったと思うし、世直ししたいとか正義を世に問うていきたいと思っているネットのSNSユーザー、ブロガーっていっぱいいますけど、割に合わねえなと」
 事件を受けて「はてなブログ」は、来月1日に東京で開催が予定されていたブロガーイベントの中止を発表しました。参加者の安全を考慮してのことだといいます。



Hagexさんが生前抱いていた不安、現実に 刺殺事件

編集委員・須藤龍也

2018年6月25日20時22分


 福岡市内であったIT関係セミナーの男性講師が刺殺された事件で、亡くなった岡本顕一郎さん(41)は「Hagex」の名前で活動する匿名ブロガーだったことが事件で知れ渡った。ブログはネット掲示板を引用し一言コメントを添えるスタイルで、1日5~10件ほど書かれていた。関心の高い話題は掘りさげ、逮捕された松本容疑者とみられる人物がネットで誹謗(ひぼう)中傷を繰り返していた件について「いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」「お下劣な言葉を(サイト上で)定期的に投げかけられているのだが、昨日は凄(すご)かった」と問題視していた。


著名ブロガー刺殺、ネット上の罵り合いが殺人事件に


 福岡市の繁華街で発生した殺人事件の被害者が著名ブロガーで、ネット上で中傷されたことを恨んでの犯行だったという話がネットで拡散しています。警察は正式発表していませんが、一部報道されている内容からすると、被害者が著名ブロガーであることは間違いないようです。

6月24日の午後8時ごろ、福岡市中央区の施設で「人が刺された」と110番通報があり、男性1人が背中をナイフのようなもので刺されていました。男性は病院に運ばれましたが死亡が確認されたとのことです。警察が報道機関に対して説明したところによると、死亡したのはインターネットセキュリティー会社スタッフの岡本顕一郎さんで、当日は、施設の会議室で開かれていたネット関係のセミナーの講師をしていたとのことです。

 岡本氏はネット上でHagex(ハゲックス)というニックネームでブログを書いており、当日のセミナーのテーマも、ブログのアクセス数をどのように増やすのか、ブログを書くことで生じるトラブルについてどう対処するのかについて解説するという内容でした。

 岡本氏のブログでは、ある人物が岡本氏を罵倒するメッセージを何度も岡本氏に送りつけており、岡本氏もこの人物に対して「低能先生」とブログ上で罵っていました。その後、岡本氏は刺殺されてしまうのですが、事件が起こった当日、岡本氏と対立していたと思われる人物がブログに投稿した内容が、犯行声明に見えるとの話がネットで話題となり、岡本氏への恨みから犯行に至ったのではないかとの噂が広がっていました。

 犯人は現場から逃走したものの、その後、自首しており、警察の事情聴取において「ネット上で恨んでいた」と供述しているそうです。

 ネット上はプライベートな空間と認識している人が大勢いますが、理屈上は誰でも閲覧できますから、あくまで公の空間ということになります。今回の事件の詳細についてはまだ分かりませんが、SNSやブログで発信する人は、どのような人が見ているのか分からないという現実についてもっと意識した方がよいのかもしれません。

(The Capital Tribune Japan)


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by kabu_kachan | 2018-06-26 22:12 | 歴史 | Comments(0)

極東国際軍事裁判(東京裁判)What is the international military tribunal for the far east ?

International Military Tribunal of the Far East

★The atomic bombs
https://www.youtube.com/watch?v=mVCy8CL1EN8

極東国際軍事裁判(東京裁判)


KSM】東京裁判の隠された真実 ベン・ブルース・ブレイクニー 米国人弁護人の発言
https://www.youtube.com/watch?v=N_KaXuTfnP4

東京裁判での死刑判決の矛盾をついたブレイクニー(米弁護士)とは?
https://www.youtube.com/watch?v=vGpCWeKtQ84

「東京裁判」速記録から削除された、米国人弁護士による原爆投下追及シーン
https://www.youtube.com/watch?v=iTG1OYSGMN8

東京裁判 「南京大虐殺」はこうして作られた!
https://www.youtube.com/watch?v=arXcTwv9vGU

極東国際軍事裁判 前編
https://www.youtube.com/watch?v=F-jnUehOMsk

【戦争犯罪とは何か?】 ② 【映画】 極東国際軍事裁判(東京裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=LbYnOrklxfE

東京裁判 vol2/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=c0UKc8EuCfw

東京裁判 vol3/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=SV23Ebt-Jms

東京裁判 vol4/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=UT9ap_FubAY

The International Military Tribunal)東京裁判 板垣征四郎 個人反証段階
https://www.youtube.com/watch?v=YGOYV8wk2wc

歪んだ正義① ― 東京裁判・原爆投下は正義だったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=wUvGN1JCgY4

【日いづる国より】ケント・ギルバート、米国人も恥ずかしい東京裁判と慰安婦像[桜H29/1/27]
https://www.youtube.com/watch?v=-7j3weNWtqk

【Tokyo Trial 】 Pride : The Fateful Moment
https://www.youtube.com/watch?v=0fJVFWvAV8Q&list=PLglPdV6wZ1n6uA3ckH6PGLbQS1VVjmIVH

The Truth about Japan's War 1/5 : Tokyo Trial, Radhabinod Pal
https://www.youtube.com/watch?v=lVbMaJIyhKQ

The Truth about Japan's War 2/5 : "True" Revisionism by Douglas MacArthur, US General
https://www.youtube.com/watch?v=ZgulpS39PzU

The Truth about Japan's War 3/5 : Fair Examination of History, Hamilton Fish III
https://www.youtube.com/watch?v=zBj9NgqaY4Y

The Truth about Japan's War 4/5 : Bushido
https://www.youtube.com/watch?v=ig_VvHFvSr8

The Truth about Japan's War 5/5 : WGIP (War Guilt Information Program)
https://www.youtube.com/watch?v=054h7aujgY0

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan 大東亜戦争の真実 水間 政憲
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

Truth of Greater East Asia War
https://www.youtube.com/watch?v=25rBxE3RyOI



Ben Bruce Blakeney (30 July 1908, Shawnee, Oklahoma – March 4, 1963) was an American lawyer who served with the rank of major during the Second World War in the Pacific theatre.[1]

International Military Tribunal of the Far East[edit]

In 1946–1948, he served as a defense counsel at the Tokyo War Crimes Tribunal, and defended Shigenori Tōgō, General Yoshijirō Umezu, and Admiral Soemu Toyoda, who was found not guilty. Among his arguments were that killing by a nation, wartime or peacetime, and even waging a war of aggression, could not be considered crime under international law, hence he took the bold step of addressing the atomic bombing of Hiroshima in relations to the attack on Pearl Harbor, saying:

If the killing of Admiral Kidd by the bombing of Pearl Harbor is murder, we know the name of the very man who[se] hands loosed the atomic bomb on Hiroshima, we know the chief of staff who planned the act, we know the chief of the responsible state. Is murder on their consciences? We may well doubt it. We may well doubt it, and not because the event of armed conflict has declared their cause just and their enemies unjust, but because the act is not murder. Show us the charge, produce the proof of the killing contrary to the laws and customs of war, name the man whose hand dealt the blow, produce the responsible superior who planned, ordered, permitted or acquiesced in this act, and you have brought a criminal to the bar of justice.[2]

After a number of defense counsel resigned in protest, Blakeney continued his work for the defense team, arguing that the court should not create a double standard where the Japanese were punished but others were allowed to go free for committing acts of war.[1] Blakeney, together with defense attorney George Furness, filed an appeal with the Supreme Court of the United States on behalf of the convicted Japanese officials, arguing that the ruling could not be upheld because General Douglas MacArthur had acted unconstitutionally in constituting the tribunal. The appeal was denied.[1]

Later life[edit]

In 1949, he began work as a lecturer of law at Tokyo University. Blakeney later worked with Tōgō Fumihiko to translate and edit "The Cause of Japan," by Tōgō Shigenori."[1] He was killed in a plane crash in 1963.


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by kabu_kachan | 2018-02-11 11:53 | 歴史 | Comments(0)

鉄砲を捨てた国~日本

日本は織田信長の時代に世界最大の鉄砲保有国に

なっていながら、なぜその後、

日本から鉄砲が消えたのであろうか?

西洋ではその後、鉄砲➡大砲➡軍艦と

軍事技術が進んだにもかかわらず、

日本は刀剣のままであった。

★平和ボケは軍事技術を退化させる。

マッカーサーの作った日本国憲法の狙いそのものである。




http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.htmlより。

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。

前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63)

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64)


最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター)
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」)

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。


慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1.日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。)
2.日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3.日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4.外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5.刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。


この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。


その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。


そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。





★西洋人(白人)が考える「日本の歴史」
http://kabukachan.exblog.jp/28475006/

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by kabu_kachan | 2018-02-03 16:14 | 歴史 | Comments(0)

蘭学とは何か?(Dutch learning) Part 2

Types of Rangaku[edit]

Medical sciences[edit]

Japan’s first fully-fledged translation of a Western book on anatomy (Kaitai Shinsho), published in 1774. (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

From around 1720, books on medical sciences were obtained from the Dutch, and then analyzed and translated into Japanese. Great debates occurred between the proponents of traditional Chinese medicine and those of the new Western learning, leading to waves of experiments and dissections. The accuracy of Western learning made a sensation among the population, and new publications such as the Anatomy (蔵志, Zōshi, lit. "Stored Will") of 1759 and the New Text on Anatomy (解体新書, Kaitai Shinsho, lit. "Understanding [of the] Body New Text") of 1774 became references. The latter was a compilation made by several Japanese scholars, led by Sugita Genpaku, mostly based on the Dutch-language Ontleedkundige Tafelen of 1734, itself a translation of Anatomische Tabellen (1732) by the German author Johann Adam Kulmus.

A Western book on medicine, translated into Kanbun, published in March 1808.

In 1804, Seishū Hanaoka performed the world’s first general anaesthesia during surgery for breast cancer (mastectomy). The surgery involved combining Chinese herbal medicine and Western surgery techniques,[2] 40 years before the better-known Western innovations of Long, Wells and Morton, with the introduction of diethyl ether (1846) and chloroform (1847) as general anaesthetics.

In 1838, the physician and scholar Ogata Kōan established the Rangaku school named Tekijuku. Famous alumni of the Tekijuku include Fukuzawa Yukichi and Ōtori Keisuke, who would become key players in Japan’s modernization. He was the author of 1849’s Introduction to the Study of Disease (病学通論, Byōgaku Tsūron), which was the first book on Western pathology to be published in Japan.

Physical sciences[edit]

Some of the first scholars of Rangaku were involved with the assimilation of 17th century theories in the physical sciences. This is the case of Shizuki Tadao (ja:志筑忠雄) an eighth-generation descendant of the Shizuki house of Nagasaki Dutch translators, who after having completed for the first time a systematic analysis of Dutch grammar, went on to translate the Dutch edition of Introductio ad Veram Physicam of the British author John Keil on the theories of Newton (Japanese title: Rekishō Shinsho (暦象新書, roughly: "New Text on Transitive Effects"), 1798). Shizuki coined several key scientific terms for the translation, which are still in use in modern Japanese; for example, "gravity" (重力, jūryoku), "attraction"[disambiguation needed] (引力, inryoku), and "centrifugal force" (遠心力, enshinryoku). A second Rangaku scholar, Hoashi Banri (ja:帆足万里), published a manual of physical sciences in 1810 – Kyūri-Tsū (窮理通, roughly "On Natural Laws") – based on a combination of thirteen Dutch books, after learning Dutch from just one Dutch-Japanese dictionary.

Electrical sciences[edit]

Japan’s first electrostatic generator (1776), called Elekiteru, developed through Rangaku. (National Museum of Nature and Science).
A curio shop in Osaka demonstrating and selling an Elekiteru. The sign at the entrance says "Newest curiosities from foreign countries."
Japan’s first manual on electric phenomena by Hashimoto Soukichi, published in 1811.

Electrical experiments were widely popular from around 1770. Following the invention of the Leyden jar in 1745, similar electrostatic generators were obtained for the first time in Japan from the Dutch around 1770 by Hiraga Gennai. Static electricity was produced by the friction of a glass tube with a gold-plated stick, creating electrical effects. The jars were reproduced and adapted by the Japanese, who called it "Elekiteru" (エレキテル, Erekiteru). As in Europe, these generators were used as curiosities, such as making sparks fly from the head of a subject or for supposed pseudoscientific medical advantages. In Sayings of the Dutch, the elekiteru is described as a machine that allows one to take sparks out of the human body, to treat sick parts. Elekiterus were sold widely to the public in curiosity shops. Many electric machines derived from the elekiteru were then invented, particularly by Sakuma Shōzan.

Japan’s first electricity manual, Fundamentals of the elekiteru Mastered by the Dutch (阿蘭陀始制エレキテル究理原, Oranda Shisei Erekiteru Kyūri-Gen) by Hashimoto Soukichi (ja:橋本宗吉), published in 1811, describes electrical phenomena, such as experiments with electric generators, conductivity through the human body, and the 1750 experiments of Benjamin Franklin with lightning.

Chemistry[edit]

A description of a Volta battery in Udagawa’s Opening Principles of Chemistry, published in 1840. The title reads "Decomposition of an alkali with a Volta column."
Chemical experiments in Udagawa’s 1840 Seimi Kaisō.

In 1840, Udagawa Yōan published his Opening Principles of Chemistry (舎密開宗, Seimi Kaisō), a compilation of scientific books in Dutch, which describes a wide range of scientific knowledge from the West. Most of the Dutch original material appears to be derived from William Henry’s 1799 Elements of Experimental Chemistry. In particular, the book contains a detailed description of the electric battery invented by Volta forty years earlier in 1800. The battery itself was constructed by Udagawa in 1831 and used in experiments, including medical ones, based on a belief that electricity could help cure illnesses.

Udagawa’s work reports for the first time in details the findings and theories of Lavoisier in Japan. Accordingly, Udagawa made scientific experiments and created new scientific terms, which are still in current use in modern scientific Japanese, like "oxidation" (酸化, sanka), "reduction" (還元, kangen), "saturation" (飽和, hōwa), and "element" (元素, genso).

Optical sciences[edit]

Telescopes[edit]

Edo women using a telescope. Early 19th century.

Japan’s first telescope was offered by the English captain John Saris to Tokugawa Ieyasu in 1614, with the assistance of William Adams, during Saris’ mission to open trade between England and Japan. This followed the invention of the telescope by Dutchman Hans Lippershey in 1608 by a mere six years. Refracting telescopes were widely used by the populace during the Edo period, both for pleasure and for the observation of the stars.

After 1640, the Dutch continued to inform the Japanese about the evolution of telescope technology. Until 1676 more than 150 telescopes were brought to Nagasaki.[3] In 1831, after having spent several months in Edo where he could get accustomed with Dutch wares, Kunitomo Ikkansai (a former gun manufacturer) built Japan’s first reflecting telescope of the Gregorian type. Kunitomo’s telescope had a magnification of 60, and allowed him to make very detailed studies of sun spots and lunar topography. Four of his telescopes remain to this day.

Microscopes[edit]

Microscopes were invented in The Netherlands during the 17th century, but it is unclear when exactly they reached Japan. Clear descriptions of microscopes are made in the 1720 Nagasaki Night Stories Written (長崎夜話草, Nagasaki Yawasō) and in the 1787 book Saying of the Dutch. Although Europeans mainly used microscopes to observe small cellular organisms, the Japanese mainly used them for entomological purposes, creating detailed descriptions of insects.

Magic lanterns[edit]

Mechanism of a magic lantern, from Tengu-tsū, 1779.

Magic lanterns, first described in the West by Athanasius Kircher in 1671, became very popular attractions in multiple forms in 18th-century Japan.

The mechanism of a magic lantern, called "shadow picture glasses" (影絵眼鏡, Kagee Gankyō) was described using technical drawings in the book titled Tengu-tsū (天狗通) in 1779.

Mechanical sciences[edit]

Automata[edit]

Tea-serving karakuri, with mechanism, 19th century. National Museum of Nature and Science, Tokyo.

Karakuri are mechanized puppets or automata from Japan from the 18th century to 19th century. The word means "device" and carries the connotations of mechanical devices as well as deceptive ones. Japan adapted and transformed the Western automata, which were fascinating the likes of Descartes, giving him the incentive for his mechanist theories of organisms, and Frederick the Great, who loved playing with automatons and miniature wargames.

Many were developed, mostly for entertainment purposes, ranging from tea-serving to arrow-shooting mechanisms. These ingenious mechanical toys were to become prototypes for the engines of the industrial revolution. They were powered by spring mechanisms similar to those of clocks.

Clocks[edit]

An 18th-century wadokei (Japanese clock).

Mechanical clocks were introduced into Japan by Jesuit missionaries or Dutch merchants in the sixteenth century. These clocks were of the lantern clock design, typically made of brass or iron, and used the relatively primitive verge and foliot escapement. These led to the development of an original Japanese clock, called Wadokei.

Neither the pendulum nor the balance spring were in use among European clocks of the period, and as such they were not included among the technologies available to the Japanese clockmakers at the start of the isolationist period in Japanese history, which began in 1641. As the length of an hour changed during winter, Japanese clock makers had to combine two clockworks in one clock. While drawing from European technology they managed to develop more sophisticated clocks, leading to spectacular developments such as the Universal Myriad year clock designed in 1850 by the inventor Tanaka Hisashige, the founder of what would become the Toshiba corporation.

Pumps[edit]

Vacuum pump drawing by Udagawa, 1834.
Description of perpetual lamps (無尽灯) using compressed air fuelling mechanisms.
Air gun developed by Kunitomo, circa 1820–1830.

Air pump mechanisms became popular in Europe from around 1660 following the experiments of Boyle. In Japan, the first description of a vacuum pump appear in Aochi Rinsō (ja:青地林宗)’s 1825 Atmospheric Observations (気海観瀾, Kikai Kanran), and slightly later pressure pumps and void pumps appear in Udagawa Shinsai (宇田川榛斎(玄真))’s 1834 Appendix of Far-Western Medical and Notable Things and Thoughts (遠西医方名物考補遺, Ensei Ihō Meibutsu Kō Hoi). These mechanisms were used to demonstrate the necessity of air for animal life and combustion, typically by putting a lamp or a small dog in a vacuum, and were used to make calculations of pressure and air density.

Many practical applications were found as well, such as in the manufacture of air guns by Kunitomo Ikkansai, after he repaired and analyzed the mechanism of some Dutch air guns which had been offered to the Shogun in Edo. A vast industry of perpetual oil lamps (無尽灯, Mujin Hi) developed, also derived by Kunitomo from the mechanism of air guns, in which oil was continuously supplied through a compressed air mechanism.[4] Kunitomo developed agricultural applications of these technologies, such as a giant pump powered by an ox, to lift irrigation water.

Aerial knowledge and experiments[edit]

Drawing of a Western hot air balloon, from the 1787 Sayings of the Dutch.
First demonstration of a hot air balloon in Umegasaki, Japan, in 1805 by Johann Caspar Horner.

The first flight of a hot air balloon by the brothers Montgolfier in France in 1783, was reported less than four years later by the Dutch in Dejima, and published in the 1787 Sayings of the Dutch.

In 1805, almost twenty years later, the Swiss Johann Caspar Horner and the Prussian Georg Heinrich von Langsdorff, two scientists of the Kruzenshtern mission that also brought the Russian ambassador Nikolai Rezanov to Japan, made a hot air balloon out of Japanese paper (washi) and made a demonstration of the new technology in front of about 30 Japanese delegates.[5]

Hot air balloons would mainly remain curiosities, becoming the object of experiments and popular depictions, until the development of military usages during the early Meiji era.

Steam engines[edit]

Drawing from the Japanese book Odd Devices of the Far West, completed in 1845 but published in 1854.
A steamship described in Odd Devices of the Far West.
Japan’s first steam engine, manufactured in 1853 by Tanaka Hisashige.

Knowledge of the steam engine started to spread in Japan during the first half of the 19th century, although the first recorded attempts at manufacturing one date to the efforts of Tanaka Hisashige in 1853, following the demonstration of a steam engine by the Russian embassy of Yevfimy Putyatin after his arrival in Nagasaki on August 12, 1853.

The Rangaku scholar Kawamoto Kōmin completed a book named Odd Devices of the Far West (遠西奇器述, Ensei Kiki-Jutsu) in 1845, which was finally published in 1854 as the need to spread Western knowledge became even more obvious with Commodore Perry’s opening of Japan and the subsequent increased contact with industrial Western nations. The book contains detailed descriptions of steam engines and steamships. Kawamoto had apparently postponed the book’s publication due to the Bakufu’s prohibition against the building of large ships.

Geography[edit]

Topographical work via European methods, 1848 print from Regional Survey Maps (地方測量之図, Jikata Sokuryō no Zu).
Japanese world map published in 1792, by Shiba Kōkan, "Complete Map of the Earth" (地球全図, Chikyū Zenzu).

Modern geographical knowledge of the world was transmitted to Japan during the 17th century through Chinese prints of Matteo Ricci's maps as well as globes brought to Edo by chiefs of the VOC trading post Dejima. This knowledge was regularly updated through information received from the Dutch, so that Japan had an understanding of the geographical world roughly equivalent to that of contemporary Western countries. With this knowledge, Shibukawa Shunkai made the first Japanese globe in 1690.

Throughout the 18th and 19th centuries, considerable efforts were made at surveying and mapping the country, usually with Western techniques and tools. The most famous maps using modern surveying techniques were made by Inō Tadataka between 1800 and 1818 and used as definitive maps of Japan for nearly a century. They do not significantly differ in accuracy with modern ones, just like contemporary maps of European lands.

Biology[edit]

Animal plate by Itō Keisuke.
Description of insects in the Sayings of the Dutch, 1787.
The first gibbon brought to Japan in modern times (1809), drawn by Mori Sosen

The description of the natural world made considerable progress through Rangaku; this was influenced by the Encyclopedists and promoted by von Siebold (a German doctor in the service of the Dutch at Dejima). Itō Keisuke created books describing animal species of the Japanese islands, with drawings of a near-photographic quality.

Entomology was extremely popular, and details about insects, often obtained through the use of microscopes (see above), were widely publicized.

In a rather rare case of "reverse Rangaku" (that is, the science of isolationist Japan making its way to the West), an 1803 treatise on the raising of silk worms and manufacture of silk, the Secret Notes on Sericulture (養蚕秘録, Yōsan Hiroku) was brought to Europe by von Siebold and translated into French and Italian in 1848, contributing to the development of the silk industry in Europe.

Plants were requested by the Japanese and delivered from the 1640s on, including flowers such as precious tulips and useful items such as the cabbage and the tomato.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:35 | 歴史 | Comments(0)

蘭学とは何か?(Dutch learning)Part 1

The Chinese characters (kanji) for "Rangaku". The first character "ran" is an abbreviation of the ateji for "Holland" (阿蘭陀, or with 2 Kanji 和蘭), o-ran-da, abbreviated to "ran" – because it is the emphasized syllable; cf. List of foreign place names in Japanese). The second character "gaku" means "study" and "learning".

Rangaku (Kyūjitai: /Shinjitai: 蘭学, literally "Dutch learning", and by extension "Western learning") is a body of knowledge developed by Japan through its contacts with the Dutch enclave of Dejima, which allowed Japan to keep abreast of Western technology and medicine in the period when the country was closed to foreigners, 1641–1853, because of the Tokugawa shogunate's policy of national isolation (sakoku).
A meeting of Japan, China, and the West, Shiba Kōkan, late 18th century.

Through Rangaku, some people in Japan learned many aspects of the scientific and technological revolution occurring in Europe at that time, helping the country build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base, which helps to explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the forced American opening of the country to foreign trade in 1854.

[original research?]

History[edit]

Account of Foreign Countries (増補華夷通商考, Zōho Kaitsū Shōkō), Nishikawa Joken, 1708. Tokyo National Museum.

The Dutch traders at Dejima in Nagasaki were the only European foreigners tolerated in Japan from 1639 till 1853 (the Dutch had a trading post in Hirado from 1609 till 1641 before they had to move to Dejima), and their movements were carefully watched and strictly controlled, being limited initially to one yearly trip to give their homage to the Shogun in Edo. They became instrumental, however, in transmitting to Japan some knowledge of the industrial and scientific revolution that was occurring in Europe: the Japanese purchased and translated scientific books from the Dutch, obtained from them Western curiosities and manufactures (such as clocks, medical instruments, celestial and terrestrial globes, maps, plant seeds), and received demonstrations of Western innovations, such as the demonstrations of electric phenomena, and the flight of a hot air balloon in the early 19th century. In the 17th and 18th centuries, the Dutch were the most economically wealthy and scientifically advanced of all European nations, which put them in a privileged position to transfer Western knowledge to Japan.[citation needed] While other European countries faced ideological and political battles associated with the Protestant Reformation, the Netherlands were a free state, attracting leading thinkers such as René Descartes.

Altogether, thousands of such books were published, printed, and circulated. Japan had one of the largest urban populations in the world, with more than one million inhabitants in Edo, and many other large cities such as Osaka and Kyoto, offering a large, literate market to such novelties. In the large cities some shops, open to the general public, specialized in foreign curiosities.

Beginnings (1640–1720)[edit]

Painting by Kawahara Keiga: Arrival of a Dutch Ship. Philipp Franz von Siebold at Dejima with his Japanese wife Otaki and their baby daughter Ine observing a VOC ship in Nagasaki Bay using a teresukoppu (telescope).

The first phase of Rangaku was quite limited and highly controlled. After the relocation of the Dutch trading post to Dejima, trade as well as the exchange of information and the activities of the remaining Westerners (dubbed "Red-Heads" (kōmōjin)) were restricted considerably. Western books were prohibited, with the exemption of books on nautical and medical matters. Initially, a small group of hereditary Japanese–Dutch translators labored in Nagasaki to smooth communication with the foreigners and transmit bits of Western novelties.

The Dutch were requested to give updates of world events and to supply novelties to the Shogun every year on their trips to Edo. Finally, the Dutch factories in Nagasaki, in addition to their official trade work in silk and deer hides, were allowed to engage in some level of "private trade". A small, lucrative market for Western curiosities thus developed, focused on the Nagasaki area. With the establishment of a permanent post for a surgeon at the Dutch trading post Dejima, high-ranking Japanese officials started to ask for treatment in cases when local doctors were of no help. One of the most important surgeons was Caspar Schamberger, who induced a continuing interest in medical books, instruments, pharmaceuticals, treatment methods etc. During the second half of the 17th century high-ranking officials ordered telescopes, clocks, oil paintings, microscopes, spectacles, maps, globes, birds, dogs, donkeys, and other 'rarities' for their personal entertainment and for scientific studies.[1]

Liberalization of Western knowledge (1720–)[edit]

Description of a microscope in Various stories about the Dutch (紅毛雑話), 1787.

Although most Western books were forbidden from 1640, rules were relaxed under Shogun Tokugawa Yoshimune in 1720, which started an influx of Dutch books and their translations into Japanese. One example is the 1787 publication of Morishima Chūryō’s Sayings of the Dutch (紅毛雑話, Kōmō Zatsuwa, lit. "Red Hair Chitchat"), recording much knowledge received from the Dutch. The book details a vast array of topics: it includes objects such as microscopes and hot air balloons; discusses Western hospitals and the state of knowledge of illness and disease; outlines techniques for painting and printing with copper plates; it describes the makeup of static electricity generators and large ships; and it relates updated geographical knowledge.

Between 1804 and 1829, schools opened throughout the country by the Bakufu as well as terakoya (temple schools) helped spread the new ideas further.

By that time, Dutch emissaries and scientists were allowed much more free access to Japanese society. The German physician Philipp Franz von Siebold, attached to the Dutch delegation, established exchanges with Japanese students. He invited Japanese scientists to show them the marvels of Western science, learning, in return, much about the Japanese and their customs. In 1824, von Siebold began a medical school in the outskirts of Nagasaki. Soon this Narutaki-juku (鳴滝塾) grew into a meeting place for about fifty students from all over the country. While receiving a thorough medical education they helped with the naturalistic studies of von Siebold.

Expansion and politicization (1839–)[edit]

The Myriad year clock, a Japanese-made perpetual clock-watch (wadokei), made by Tanaka Hisashige in 1851 (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

The Rangaku movement became increasingly involved in Japan's political debate over foreign isolation, arguing that the imitating of Western culture would strengthen rather than harm Japan. The Rangaku increasingly disseminated contemporary Western innovations.

In 1839, scholars of Western studies (called 蘭学者 "rangaku-sha") briefly suffered repression by the Edo Shogunate in the Bansha no goku (蛮社の獄, roughly "imprisonment of the society for barbarian studies") incident, due to their opposition to the introduction of the death penalty against foreigners (other than Dutch) coming ashore, recently enacted by the Bakufu. The incident was provoked by actions such as the Morrison Incident, in which an unarmed American merchant ship was fired upon under the Edict to Repel Foreign Ships. The edict was eventually repealed in 1842.

Rangaku ultimately became obsolete when Japan opened up during the last decades of the Tokugawa regime (1853–67). Students were sent abroad, and foreign employees (o-yatoi gaikokujin) came to Japan to teach and advise in large numbers, leading to an unprecedented and rapid modernization of the country.

It is often argued that Rangaku kept Japan from being completely uninformed about the critical phase of Western scientific advancement during the 18th and 19th century, allowing Japan to build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base. This openness could partly explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the opening of the country to foreign trade in 1854.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:30 | 歴史 | Comments(0)

ヒトラー(ヒットラー)は生きていた!(南米に逃亡)

ヒトラーの謎を解くことによって
第二次世界大戦の本質が分かる。
つまり、ヒトラーを利用して
後ろで儲けていた連中がいたと
いうことである。

Why The Rothschilds Invented Nazism - Eustace Mullins
https://www.youtube.com/watch?v=x541EQ2aXlM

Eustace Mullins ~ The Rothschilds & The Two World Wars
https://www.youtube.com/watch?v=tmgJE8hrL1Y

WWII Hitler Germany funded by the Bank of England (Rothschild's) as well Wall-street Industrial's
https://www.youtube.com/watch?v=KLwaNYFixXM

Windsors, Rothschilds & The Mystery of Adolf Hitler
https://www.youtube.com/watch?v=pLpTfD6TwF8


ヒトラーは自殺などしていない。
南米に逃げて生き続けていた。

Harry Cooper - Adolf Hitler's Life in Argentina (1945-1965)
https://www.youtube.com/watch?v=YtQYapKBWTU

この歴史観を世界中の人々が
持つようになるのはいつだろうか?


<(最近)機密解除されたCIA文書はヒットラーがこの南米国に逃げたと主張>
[Sputnik International:2017年11月01日 14:08]

Declassified CIA Docs Claim Hitler Escaped to This South American Country
https://sputniknews.com/latam/201711011058719692-cia-documents-hitler/


    ☟
★アドルフ・ヒトラー(ヒットラー)の正体
http://kabukachan.exblog.jp/26013882/

★ヒトラーの謎
http://kabukachan.exblog.jp/21753974/




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by kabu_kachan | 2017-11-10 10:37 | 歴史 | Comments(0)

ロスチャイルドとウラン鉱山

【ロスチャイルドとウラン鉱山】
『赤い盾』(広瀬隆 著)より引用。


(前略)わが国の「経済団体連合会十年史」を読むと、「財閥の解体」と題する章には、次のように書かれている。

赤い楯1----昭和21年(1946年)2月に発表された財閥の解体についてGHQの基本的見解は次の通りであった。
1.財閥は日本特有のものであって、他国でこれに類似するものとしては、ロスチャイルド以外にない。しかしロスチャイルドは現在存在しない。
2.・・・・

アメリカが冒頭からロスチャイルドに言及しているこの部分は、彼らの対決意識を想像させる興味深い一節である。では、そのGHQ(連合軍の総司令部)を動かしていたアメリカ最大のモルガン財閥とロックフェラー財閥は存在しなかったのか、と反問したくなる一文だが、アメリカの方式はロスチャイルドや日本の三井・三菱とは違っていたのである。彼らは系図より、むしろ能力と資金に重きを置いてビジネス界を作りあげ、新大陸の若い財閥を形成しはじめていた。ところがロスチャイルドの構造は、これまで示してきた通りである。多くの現象は、数百年の歴史を頭に入れておかなかければ解き明かすことはできない。地球の全史と言うべきものの頂点に立ったのが近代のロスチャイルドだったからである。

このメカニズムを解き明かすには、寝台のきしみ具合いをひとつずつ点検し、そこで生まれる赤児の父親と母親の名前を記録してゆかなければならないので、複雑な3次方程式を理解しておく必要がある。ところが一度この数式をマスターすれば、やはり正確な回答が得られる。GHQはそれを財閥と呼んだものらしい。

そして「ロスチャイルドは現在存在しない」と・・・・

歴史の浅いアメリカ人が指した甘い一手であった。広島と長崎に黒い雨が降った1945年、ロンドン・ロスチャイルド家で最年長となったアンソニーは、カナダに広大な山林の開発権を獲得していた。初代マイヤー・アムシュルから数えて5代目にあたる世代で、ネイサン(私の注:アムシュルの三男でロンドン家初代当主)の血を引いて生き残っていたのは、すでにこのアンソニーと、フランスでラジウム製造所を建設したドクトル・アンリのふたりだけであった。

アンリが前述のように「リオ・チント・ジンク」の創業一族と結婚し、スペインからアフリカまで広大な範囲の鉱山を完全支配していたのに対し、ロンドンの当主となったアンソニー・ロスチャイルドは、フランス人の重要な一族を寝室に迎えていた。パリ・ロスチャイルド家の鉱山会社「ペナロヤ」の創業ファミリー、イヴォンヌ・カーエンが妻だったのである。この女性は本書上巻で、すでに第2次大戦のなかで登場し、'テュッセン男爵とシュレーダー男爵の異様な世界'の系図32に'ユダヤ富豪カーエン家'として記されている人物、つまりユダヤ人救済のため、またナチスを打ち倒すため、イギリスの富豪を結集させたあの女性である。その富豪の富は、鉱山から誕生したものであった。

こうして戦後直ちに、ロンドンとパリが人材を交換する形で、今日のヨーロッパ原子力産業の骨格がほとんどロスチャイルド家の手でつくられた。アンソニーがカナダに買い取った山林の開発権は13万平方キロにおよび、それがわが国の面積の3分の1を超える広さであり、イングランドと同じ面積を支配してしまった。原爆成功のニュースによって原子力産業に突進したのはアメリカ人だけではなかった。アンソニーはこのカナダに、ウランの鉱山を開発する新しい事業に乗り出して行った。「ロスチャイルド財閥は現在存在しない」とは、同じ北アメリカ大陸に住む人間としてあまりに軽率な判断であった。ウォール街の頭のうえで、ロスチャイルドは世界最大のウラン鉱を掘り出していたのである。

いまや全世界の原子力発電のシンボルとなり、日本と全ヨーロッパから放射性廃棄物を集めるフランスと、ロスチャイルド家の鉱山会社の関係は、こうして誕生した。アンソニー・ロスチャイルドの妻カーエン家が創業した「ペナロヤ」とその親会社「ル・ニッケル」(現イメタル)を中心に、傘下にあるウラン・メジャーの「モクタ」などがフランス・ロスチャイルド家の鉱山事業であった。これに対してドーバー海峡の向こうにある「リオ・チント・ジンク」を筆頭に、その子会社の「リオ・アルゴム」がカナダをおさえ、この両社が南アを動かしてナミビアの「ロッシング鉱山」を支配、さらに「オーストラリア鉱業」と通じて3大陸をロンドンからコントロールしたのが、イギリス・ロスチャイルド家であった。

ところがフランスとイギリスの両家は、妻を相互に交換し、重役の席を相互に交換していたため、どちらがどちらとも定義できないウランの国際秘密カルテルを形成し、価格を自由に操作できる状況を生み出してしまった。ウランの3大生産地、カナダ・オーストラリア・南アが一家族の手に落ちたのである。これはオッペンハイマー=ロスチャイルド家のダイヤモンド・カルテル~金塊カルテルと同一のものであった。

しかしカルテルとは、その独占価格を崩す違反者をこの世から消し去ることによって、初めて成功するものである。以上のほかに、ウランの資源国がもうひとつあった。アメリカの西部は、ゴールド・ラッシュからウラン・ラッシュへと時代は移っていた。西部の原爆実験と共に、ユタ州を中心に広大なウラン鉱が次々と発見され、カリフォルニア、コロラド、ネバタなどの各州で掘り出されるウランが、こちらは別の力で糾合されつつあった。

1950年代に大量の核実験がおこなわれ、それと同時に西部では異様な光景が展開した。南アのキンバリー鉱山などでダイヤの利権を求めて労働者が殺到したように、アメリカ西部にカウボーイ・ハットをかぶった男たちが野宿のキャンプを張り、翌朝にはピストルの合図で一斉に走り出し、荒れ地に杭を打ち込んで自分の縄張りを宣言するという狂気のウラン争奪戦がおこなわれたのである。

そこに誕生したのが「ユタ・インターナショナル」を根城とするアメリカのウラン・カルテルであった。これは銅山業者の「ケネコット」と非鉄金属で世界一の「アサルコ」が支配するもので、ロスチャイルド家はこのアメリカン・カルテルと提携することさえ可能ならば、金銀ダイヤと同じように地球全土のウランを掌中に握れるのだ。

アメリカン・カルテルを動かすのは、J・Pモルガンの孫ヘンリー・スタージス・モルガンであった。ところが'赤い楯'は、シティーのモルガン・グレンフェルを通じてウォール街と交渉する方法を敢えて取らなかった。モルガン家と公然たる活動をおこなえば、全世界に手の内を読み取られ、カルテルという秘密行動そのものがライバル業者に防御意識を持たせてしまう。そうなれば、'現在存在しないロスチャイルド'に対してビジネス界が驚き、襲いかかってくであろう。これから買収してゆかなければならない鉱山の値が不当に高くなったり、価格操作が不可能になる。

ロスチャイルド家はどのように行動したのだろう。

何もしなかったのである。何ひとつアメリカ西部に働きかけなかった。ところが今日、アメリカン・カルテルはロスチャイルド家の傘下に入り、地球というボール全体が、リオ・チント・ジンクとイメタルのシンジケート団によって、たった一社のものとなっている。ロスチャイルド銀行が全ウランを動かしている。

このミステリーは、本書の第一章に語ったタイタニック号の物語を記憶されている方には、容易に解けるであろう。ユタ・インターナショナルというウラン・メジャーの支配者は、「ケネコット」と「アサルコ」の両社であった。しかしこの2社の'重役・社長・会長'の要職を占めてきたのが、ハリー・フランク・グッケンハイム、サイモン・グッケンハイム、ダニエル・グッケンハイム・・・・わが'赤い楯'の鉱山王だったからである。ロスチャイルド家がどのような契約を取り交わす必要があるだろう。

この関係は、わが国の官僚にまったく理解されていないようである。日本の外務省経済局がまとめた「70年代における資源外交」と題する分厚い報告書を開くと、「ル・ニッケル」と「アマックス」と「パティーニョ」による鉱物資源の争奪戦争が、くわしく解析されている。国境で分ければフランスとアメリカとボリビアの鉱山業者の争いに見えるが、系図が1枚で描かれていることに、日本の外交官は気づいていないのである。

こうしてアンソニー・ロスチャイルドがカナダに土地を購入すると同時に、ドゴール将軍はフレデリック・ジョリオ=キュリーを初代の長官として、原子力庁を創設した。この原子力庁には、大きな特色があった。公的な機関でありながら、「幹部には自由な活動が認められる」ということを、1945年10月18日の政令によって定めていたのである。ウランのロスチャイルド支配を知れば、これがどれほど危険な政令であったかは言うまでもない。しかもそのときドゴールの右腕となっていたのが、死の商人マルセル・ダッソーとギイ・ロスチャイルドであった。

ジョリオ=キューリーの妻イレーヌ・キューリーも原子力委員に任命され、実働チームのボスとして、アメリカのマンハッタン計画を監督したベラルトン・ゴールドシュミットが任命された。この男が化学部門を担当し、ウランの精製と濃縮など、ロスチャイルド家の事業に直結する世界を完全に支配した。名前はゴールドシュミットだが、ウランシュミットと呼んでもよい存在となった。33歳の若さで最重要ポストを握ったこの人物は、パリのキューリー研究所で助手として育てられ、やがて戦時中にはカナダに派遣されてウランの利権をおさえ、アンソニー・ロスチャイルドの土地買収に貢献してきた。

のちに全世界の原子力産業の頂点に立ち、スリーマイル島の事故のあと国際原子力機関(IAEA)の議長となったウランシュミット、この男がロスチャイルドのウラン・カルテルを完成させた人物であった。IAEA、その名はいまや、生体実験の代名詞として使われるようになった。ソ連のチェルノブイリ事故のあと動き回り、「このような事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」と全世界に告げた機関。この秘密組織は、白ロシアをはじめとする広大な範囲で被害が目に見えるようになった1990年、最も危険な汚染地域の住民に放射能測定用のフィルム・バッジを付けさせ、ひそかにこれを回収して、住民にはその結果を教えない。この住民には、死の影が一歩ずつ近づいている状況のなかで、生体実験を続けるIAEA。(後略)

(引用終わり)

まず経団連の「経済団体連合会十年史」にGHQが記したものとして、「ロスチャイルドは現在存在しない」というのが全く意味不明です。仮に世襲制のもとに事業を継続させることを財閥と定義したとしても、そのような血筋に重きをおいて事業を継続している会社はいくらでもあります。しかもロスチャイルドは存在しないどころか世界中の財閥に多大な影響力を及ぼし、世界の覇権者とさえされている財閥です。この「経済団体連合会十年史」の記述に私はロスチャイルドの存在をなくすことによって逆に世界で支配力を拡大させやすくするための企みを感じます。

そして終戦の年にはカナダの広大なウラン鉱山をアンソニー・ロスチャイルドは手に入れる。原子力の原点ともいえる'ラジウムの発見'をキューリー夫妻がした。そのラジウムの製造所をフランス・パリ家のアンリ・ロスチャイルドがつくった。そのアンリは南アとナミビアの地域を中心としてウラン鉱を支配する、と著者の広瀬氏がする「リオ・チント・ジンク」の創業一族と結婚する。一方でアンソニー・ロスチャイルドの妻はパリ・ロスチャイルド家のウラン鉱山会社「ペナロヤ」の創業ファミリーのイヴォンヌ・カーエン。

そのカーエンの「ペナロヤ」の親会社は同じウラン鉱山会社の「ル・ニッケル」(現イメタル)。さらにその傘下にウラン・メジャーの「モクタ」がある。一方リオ・チント・ジンクの子会社「リオ・アルゴム」がカナダをおさえる。アンソニー・ロスチャイルドもカナダのウラン鉱山を手に入れたがそのロスチャイルドの傘下のリオ・チント・ジンクの子会社リオ・アルゴムもカナダのウラン鉱山をおさえた、ということになります。さらにこの両社が南アフリカのナミビアの「ロッシングウラン鉱山」を支配し、「オーストラリア鉱業」と通じてオーストラリアのウラン鉱山も支配するようになった。結果、北米大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸の3大陸のウラン鉱をロスチャイルド一族が支配することとなった。

そしてそのロスチャイルド・ロンドン家とフランス家は妻を相互に交換し、重役の席を相互に交換していたため、どちらがどちらとも定義できないウランの国際秘密カルテルを形成し、価格を自由に操作できる状況を生み出した。つまりウランの価格をロスチャイルドが決めているということになります。

そしてアメリカ西部ではゴールド・ラッシュならぬウラン赤い楯7・ラッシュが起こり、ユタ州に「ユタ・インターナショナル」を根城とするアメリカのウラン・カルテルが出来上がった。このカルテルはロスチャイルドのものではなかった。しかしロスチャイルドはこのカルテルを自分のものにしようとはしなかった。だが不思議なことに、今日では(1995年当時では)アンリ・ロスチャイルドが婚姻関係を結んだリオ・チント・ジンクとアンソニー・ロスチャイルドが婚姻関係を結んだ「ル・ニッケル」(現イメタル)がその「ユタ・インターナショナル」を支配するようになった。

このミステリーの謎解きは、ユタ・インターナショナルの支配者は、「ケネコット」と「アサルコ」の両社であったが、この2社の重役、社長、会長をこれまたアメリカ・ロスチャイルド家のヴィクター・ロスチャイルドの娘アイリーン・ロスチャイルドと婚姻関係を結んだアメリカのウラン鉱山会社「グッケンハイム」の人間が占めていた、というオチだった。だからこのユタ・インターナショナルを支配するためにロスチャイルドは何もする必要がなかった。


そんな中で、第2次大戦後、アルジェリアに進出して、現地の人たちを奴隷のように働かせた自由フランス軍を率いていながら、大戦中ヒットラーがフランスに攻め込んできた時、ロンドンに一目散に逃亡したロスチャイルドの犬でもあるド・ゴールが原子力の原点である'ラジウムの発見'をしたキューリー夫人の娘ムコのフレデリック・ジョリオ=キュリーを初代の長官として、原子力庁を創設した。

この原子力庁というのがロスチャイルドのウラン支配を前提につくられたものであり、公的な機関でありながら「幹部には自由な活動が認められる」ということが政令で定められたものだった。しかもそのド・ゴールの右腕となっていたのが1950年にユダヤ財団理事長に就任したロスチャイルド・フランス家5代目当主のギイ・ロスチャイルドと湾岸戦争で、イラクのクウェート侵攻の際の爆撃機とそれをクウェートが迎撃した同じ爆撃機「ミラージュ」を売り込んだユダヤ人の死の商人マルセル・ダッソーだった。このことをとってみてもいかにロスチャイルドがウラン、原子力、戦争とそれに使われる武器などに深くかかわっているのかが分かります。

そしてキューリー夫人の娘ムコのジョリオ=キューリーの妻までも原子力委員に任命され、さらにはロスチャイルド家創始者のマイヤー・アムシュル・ロスチャイルドの長男アムシュル・マイヤー・ロスチャイルドの本家のドイツ・フランクフルト家の後を、ロスチャイルドと婚姻関係を結ぶことによって継いだゴールドシュミット家のベラルトン・ゴールドシュミットが原子力庁の実働部隊として任命された。

このベラルトン・ゴールドシュミットという男はフランスのパリのキューリー研究所で育てられ、マンハッタン計画(広島・長崎への原爆投下計画)の監督も務め、さらには終戦の年の1945年にアンソニー・ロスチャイルドが手に入れるカナダの広大なウラン鉱山の土地買収に、戦時中は貢献したバリバリのロスチャイルド一族の人間だった。

そしてさらにはこのウランシュミットことベラルトン・ゴールドシュミットは、「このような事故はサッカー場の騒動よりも軽微なものだ」とチェルノブイリ原発事故の後に全世界に告げ、そのチェルノブイリの最も危険な地域の住む人たちを早急に健康被害から守るのではなく、敢えてその危険な地域に住まわせ、生体実験を行い、その実験結果を本人に教えることすらしなかったIAEAの議長までも務めたということです。

この著者である広瀬氏の「赤い楯」のほんの一部分の、この引用文だけをとってみてもいかにロスチャイルド財閥が、戦争、原子力、そしてそれに使うウラン原料に多大な影響力を及ぼしているかがわかります。こうやって調べれば調べるほど、「世界の覇権者はロックフェラーだ!!」とする論説に懐疑的にならざるを得ません。



ロスチャイルドの歴史
http://kabukachan.exblog.jp/25345027/


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by kabu_kachan | 2017-09-12 22:32 | 歴史 | Comments(0)

NHKスクープドキュメント「沖縄と核」の感想。

まず最初に言っておくが、私はNHKの受信料を払っている。だから感想を書く。

NHKの「沖縄と核」という番組を見ていたが、この番組、何か肝心なことが抜けている。

米ソ対立で冷戦構造ができて、核兵器競争が激化して沖縄を中心として、一発触発の核戦争が起きるところであった・・・というような内容だったと思うが。

そもそも、このNHKは米ソ冷戦体制が猿芝居であったことに気付いていない。
当時のアメリカとソ連の両方に同じ穴の狢がいたんだぜ。(今でもいるが。)
だからアメリカの情報はソ連に筒抜け。
アメリカの核開発はソ連に筒抜けということ。
米ソ対立を煽って、両方に核兵器開発競争させておいて、両方に核兵器の原料を売って儲けた連中がいるんだぜ。
第二次世界大戦のとき、アメリカとドイツの両方に武器を売って儲けた連中がいるだろ。
日露戦争を裏で画策して儲けた連中がいるだろ。
戊辰戦争の時に、幕府側と薩長側の両方に武器を売って儲けた連中がいるだろ。
み~んな同じ穴の狢なんだぜ。

戦争が起きれば儲かる連中がいる。戦争が起きなくても戦争や対立を煽るだけで儲かる連中がいる。
爆弾原料会社も武器製造会社も武器商社も同じ連中によって握られていることを知っておかなければならない。



以下は馬渕睦夫氏の本の引用である。

米ソ冷戦は仕組まれたものである、と著者は言っています。


国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 国難の正体――日本が生き残るための「世界史」
(2012/12/25)
馬渕睦夫


 『 戦後世界の枠組みを決めたヤルタ会談で、なぜソ連だけが多くの恩賞を得ることができたのでしょうか。…ソ連はアメリカの武器貸与法による軍事支援を得ながら戦争を継続することができた…

 ソ連とアメリカの国力の差は絶大でした。たとえ、ソ連軍や人民の犠牲者が連合国の中で一番だったとはいえ、東欧をソ連に差出し、たった一週間日本と戦っただけで火事場泥棒的に南樺太や千島列島を戦利品として分け与える厚遇をする必要はどこにあったのでしょうか。

 戦争終結時、ソ連は悲惨なまでに脆弱化していた…他方アメリカは世界の富の半分を所有するほどに、圧倒的な国力を保持していました。

 そのようなソ連をアメリカに匹敵する大国として扱う必要があったのは、なぜでしょうか…

 アメリカはソ連に戦争の恩賞を過分に与えただけではありません。資本主義の天敵共産主義国ソ連との経済関係を促進したのは、なんとアメリカの資本家たちだったのです…

 そして、俄には信じがたいかもしれませんが、ソ連から見て共産主義イデオロギー上の不倶戴天の敵であるアメリカの大富豪は、実は話しがよく通じる相手であったのです。 』


 『 アメリカの資本家はソ連との貿易を促進し、ソ連の工業化のための投資を行うなど、ソ連を強化するために経済協力を進めます。その一方でアメリカ政府はソ連の脅威をアメリカ国民に植え付け、アメリカの軍拡を実行します。米ソ冷戦は、アメリカにとって、そしてソ連にとってはもちろんのこと、大いにメリットがあるドラマだったわけです。

 それでは、ソ連はなぜ崩壊し、冷戦が終了したのでしょうか。その理由を解明するには、ソ連という人工国家を産んだ1917年のロシア革命の実態を知る必要があります。ボルシェビッキ革命を指導したレーニンはユダヤ系でした…歴史教科書に出てくる他の革命指導者のトロッキー、ジノヴィエフ、スベルドルフ、ラデック、リトヴィーノフなどはユダヤ人でした。革命後のソ連政府幹部の八割以上がユダヤ人で、これらのユダヤ人のうち大多数はロシア革命を期に、トロッキーとともにアメリカから渡ってきたユダヤ人だった…世界のユダヤ勢力がソ連を支援した…

 …結局、ソ連はユダヤ人など少数民族が政権の中枢を担うという極めて不安定な人工国家でした。その不安定さゆえに、共産党支配は血の粛清を繰り返さざる得ない過酷な宿命にあった…ボルシェビッキ革命を支援した英米の金融勢力にとっては、ソ連は彼らの理想とする独占的経済秩序のいわば実験場であった…しかし、中央計画経済は内部に矛盾をはらんだシステムであって、次第に欧米諸国の経済発展から取り残された結果、ソ連経済は停滞しこの壮大な実験は成功の見通しがなくなりました。

 そこで、この実験を終了させる役割を担ったのが、1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフでした。1986年には原油価格の暴落などによってソ連経済は悪化し、チェルノブイリ原発事故が追い討ちをかけます。ゴルバチョフはペレストロイカ(民主化)とグラスノスチ(情報解禁)という思い切った改革路線を打ち出します。なぜゴルバチョフは共産主義システムを否定するような政策を取ったのでしょうか。

 偶然ではありません…ソ連は行き詰まって自然に崩壊したわけではない…ゴルバチョフによって意図的に解体させられたのです。 』 

いかがでしょうか?

ロシア革命はロシア人ではなく、ユダヤ人主導であった、

米ソの国力には大差があったが、冷戦を演出することで双方にメリットがあった、

ソ連は、意図的に崩壊させられた。。。

ゴルバチョフは、なぜそんな行動をとったのでしょうか?


戦争ビジネス
http://kabukachan.exblog.jp/21057912/


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by kabu_kachan | 2017-09-10 23:44 | 歴史 | Comments(0)