カテゴリ:歴史( 73 )

大室寅之祐 と 明治天皇(明治天皇すり替え説)

日本人諸君、
NHKの「西郷隆盛」のドラマを
見ているかね。


西郷隆盛が明治天皇と相撲を取る
場面があるだろ。

この時の西郷隆盛の心境を
私なりに解釈すると、

西郷隆盛は、
大室寅之祐が明治天皇にすり替わっているのを
確かめるために相撲を取ったんだぜ。
大室寅之祐は長州の力士隊にいたから
相撲が好きなはずだぜ。
だから相撲を取ろうと言えば、
必ず乗ってくると思ったんだぜ。

この時の明治政府で、
大室寅之祐が明治天皇にすり替わっているのを
知っているのは
西郷隆盛と岩倉具視と伊藤博文の三人だと思う。
この後、幕末、明治維新で大した活躍もしていない
伊藤博文が大日本帝国の初代の総理大臣に
なれたのは、
大室寅之祐がもと伊藤博文が率いる
力士隊にいたことと
この大室寅之祐を明治天皇に仕立てた
立役者が伊藤博文だからなんだぜ。
すなわち、伊藤博文と明治天皇は
「あ・うん」の仲なんだぜ。
言い方を変えると、
日本国を変えたのが西郷隆盛であり
その後、明治日本の支柱となったのが
伊藤博文と明治天皇(大室寅之祐)なんだぜ。

767
(左:幕末長州奇兵隊士時代の大室寅之祐、右:明治天皇)

この動画に出てくる明治天皇も大室寅之祐に
       よく似ているだろ。
The Meiji Revolution (entire)
https://www.youtube.com/watch?v=gURiHVTJX4A
「吉田松陰」を知れ!
https://kabukachan.exblog.jp/23636906/


しかし、私は明治天皇の皇統が繋がっているのか断絶しているのかを議論しようとは思わない。
たとえ大室寅之祐が明治天皇にすり替わっているとしても、南朝系だから皇統は途絶えていないじゃないか。
明治天皇は日露戦争の時、自ら指揮を執ったと言われているだろ。そして日本を勝利に導いた。
これは明治天皇すなわち大室寅之祐が、高杉晋作の創設した奇兵隊の力士隊にいたからこそできたのではないのか。
宮中の中だけで育った睦仁親王では日露戦争を勝てなかったかもしれない。
伊藤博文と明治天皇(大室寅之祐)がいたからこそ、日本はロシアに勝てたんだぜ。
そう考えると、明治天皇(大室寅之祐)は日本の歴史上、最も偉大な天皇ということにならないかね?

明治天皇と日露大戦争
https://www.youtube.com/watch?v=fYOTO-29kCs



明治天皇と「田布施システム」
https://kabukachan.exblog.jp/22293229/

世界史上における最強の文明とは何か?
https://kabukachan.exblog.jp/29629355/





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by kabu_kachan | 2018-11-10 15:12 | 歴史 | Comments(0)

「日本の祭り」とは何か?

最初の一句・
ニッポンの 伝統文化は サル文化


日本人諸君、
日本には数多くの「祭り」があるだろ。
昔からの伝統のある祭りから最新の祭りまで
小さいのから大きいのまで無数にあるだろ。

しかし、無数にある日本の祭りの中で、
頭が進化する祭りがあるかね?

いいかね、頭が進化するシステム、すなわち、
文明が進化するシステムを作ったのは
西ヨーロッパの白人たちなんだぜ。
残念ながら、日本人じゃないんだぜ。
     ☟

The Scientific Revolution: Crash Course History of Science #12
https://www.youtube.com/watch?v=vzo8vnxSARg
地動説を主張したコペルニクスはポーランド人だろ。ポーランド語とロシア語は方言の違いみたいなもんなんだぜ。だから、ロシアはほとんど同時に西洋の科学思想を導入できたわけだ。日本とはまったく事情が違うだろ。

The Scientific Methods: Crash Course History of Science #14
https://www.youtube.com/watch?v=UdQreBq6MOY

Scientific Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=z6_i0dInceg

Introduction to the Scientific Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=rQ2dSTQwJo8

The Scientific Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=ZR3rcWZmvws

Copernicus and Galileo: A Scientific Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=y-XiG8S4o_A

The Scientific Revolution in Europe
https://www.youtube.com/watch?v=GjdeTfp69y8

God, Math and the Scientific Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=dImo6IsGpMc

Sir Isaac Newton The Gravity Of Genius
https://www.youtube.com/watch?v=oakEOK9GJcM

Isaac Newton: His life and Work - Simon Schaffer 1983
https://www.youtube.com/watch?v=GvW_Y9sw6hk

Newton versus Leibniz: Who Invented Calculus? - Tony Weathers - April 30, 2015
https://www.youtube.com/watch?v=xhm4AKTrT-Y

Documentary : Top 10 equations that changed the world | 1080p
https://www.youtube.com/watch?v=0K-t090uvL4

Calculus -- The Foundation of Modern Science | documentary national geographic,
https://www.youtube.com/watch?v=5VLzD33_yyQ

The Birth Of Calculus (1986)
https://www.youtube.com/watch?v=ObPg3ki9GOI

Big Picture of Calculus
https://www.youtube.com/watch?v=UcWsDwg1XwM


世界史上における最強の文明とは何か?
https://kabukachan.exblog.jp/29629355/

日本の伝統文化は頭が進化しないんだぜ。
阿波踊りを踊りながら唄っているじゃないか。
「踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損損」って。

いいかね、アホ踊りをいくらやっても、
高校生がアホ野球をいくらやっても
頭は進化しないんだぜ。
ここに気づかないから、
日本人はアホ民族なんだぜ。(笑)

日本民族はもともとアホ民族なんだぜ。
このアホ祭りを続けると言うことは、
これからもアホで生きていきますってことなんだぜ。

いいかね、日本人はアホのままだったから、
ペリーの黒船が来た時に大騒ぎをしたんじゃなかったのか?

いいかね、日本が和を尊ぶ国であるなら、
日本人が賢い民族であるなら、なぜこの後、
幕末、明治維新の時にくだらん論争で
日本人同士が殺し合いをやったのかね?
日本人同士が殺し合わなければ
国を変えることができなかったのかね?
それなら日本人はバカ猿そのもじゃないのかね?

いいかね、歴史好きの日本人諸君、
戊辰戦争と言うのは、アメリカの南北戦争でアメリカ人同士が殺し合って、その使い古した銃や大砲が上海に流れてきて、そのアメリカ人が使い古した銃や大砲を日本人が買って、日本人同士が殺し合った戦争なんだぜ。

これをバカ猿戦争っていうんだぜ。(笑)

サルはこの歴史をまったく反省しないんだよな。
サルだからな。(笑)
自分の都合と権益のことしか考えないサルってこと!




日本人諸君、そんなに祭りが好きなら
「世界プログラミング言語祭り」でもやってみろ。

サルだからできないだろ。(笑)

サルまる子ちゃん「何~~っ!」

日本猿 怒ることしか 能がない

Python? Javascript? What programming language should you learn? // helloMayuko
https://www.youtube.com/watch?v=2FgvaJJayyA

★A hands-on introduction to Python for beginning programmers
https://www.youtube.com/watch?v=rkx5_MRAV3A
日本人諸君、猿みたいな顔して見るんじゃないぜ!
    ☟
Image result for monkey smartphone


いいかね、何度も言うが、
インターネットの世界は
アメリカ人(白人)が英語で考えて
英語で構築したんだぜ。
既にこの時点で
英語による世界支配が完成しているんだぜ。
残念ながら、日本語じゃないんだぜ。
     ☟

★プログラミング言語(科学)と英語
https://kabukachan.exblog.jp/29511986/

★プログラミング言語の歴史(サルにわかるかな?)
https://kabukachan.exblog.jp/29506151/

★プログラミング言語と製作者の一覧
https://kabukachan.exblog.jp/29692400/


ノーベル賞と世界支配 <New World Order>
https://kabukachan.exblog.jp/26037987/

日本人よ、「世界最高頭脳」を目指せ!
https://kabukachan.exblog.jp/29079332/



おまけ!

History of Russia (PARTS 1-5) - Rurik to Revolution
https://www.youtube.com/watch?v=w0Wmc8C0Eq0

The Russian Revolution 1917
https://www.youtube.com/watch?v=cV9G1QUIm7w

Most Powerful People Who Run The World
https://www.youtube.com/watch?v=5IyRN-LrWsM



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by kabu_kachan | 2018-08-17 10:14 | 歴史 | Comments(0)

American people! Remember HIROSHIMA! Remember NAGASAKI!・世界史上最大の戦争犯罪

The Greatest War Crimes of The American Army in the history of the world
     ☟

Hiroshima: Dropping the Bomb
https://www.youtube.com/watch?v=NF4LQaWJRDg

★(日本人諸君必見!)Nobel Peace Prize Award ceremony 2017. Norway, Oslo. 10 December 2017. Nobel Peace Prize Ceremony
https://www.youtube.com/watch?v
=jdoS8-vnbhM


Anti-nuclear group ICAN receives Nobel Peace Prize
https://www.youtube.com/watch?v
=KllJBMm8l_4


Atomic Message: 70 years after Hiroshima & Nagasaki bombing (RT Documentary)
https://www.youtube.com/watch?v
=0MwHLjtDw1A


Atomic Cover-Up: The Hidden Story Behind the U.S. Bombing of Hiroshima and Nagasaki. 1 of 2
https://www.youtube.com/watch?v
=iQWZZoRPzyw


The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki
https://www.youtube.com/watch?v
=QUvM2uQR1cA


The Atom Strikes! (1948) Devastation Of Hiroshima And Nagasaki
https://www.youtube.com/watch?v
=U6t0IpDN-jg


Peter Jennings - Hiroshima: Why the Bomb was Dropped (1995)
https://www.youtube.com/watch?v
=9-WnLNLe3sk


The American People !
Listen to Me !

The japanese army liberated asian people from the western powers.
Japan prevented western countries from colonizing asian countries.
    ☟
【The Nanking Massacre is A BIG HOAX】

The Photos of Japanese Soldiers in China
https://www.youtube.com/watch?v
=QLPug32TpBI&list
=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB
86j&index=113


Truth of the Rape of Nanking in 1937 - 38 (verification)
https://www.youtube.com/watch?annotation_id
=annotation_3011392205&feature
=iv&index=77&list
=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB
86j&src_vid=0gQ-uCkXQ9g&v
=ijkqPi1p4NA


Truth of Greater East Asia War
https://www.youtube.com/watch?v
=25rBxE3RyOI


Japan Should Bring Back SAMURAI Spirit
https://www.youtube.com/watch?v
=GhcoC5l3qgU


Enola Gay at the Smithsonian / " Offset " : Hiroshima & Nagasaki ≒ Nanking
https://www.youtube.com/watch?annotation_id
=annotation_2313858793&feature=iv&index
=11&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB
86j&src_vid=Xp22MgKJYis&v=0gQ-uCkXQ9g


①Hiroshima & Nagasaki : Experiments (Nagasaki was the Christian (Catholic) Sanctuary in Japan)
https://www.youtube.com/watch?v
=NTcWKx__xvc&index=42&list
=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j



【『パール博士のことば』田中正明著より引用】

 東京裁判において真理に基づき堂々と日本を弁護した、インドのパール判事が昭和27年に広島を訪問した。そして平和公園の『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』という碑文に「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。」と語ったところ、小町にある本照寺の住職・筧義章氏が「檀徒の諸精霊のため『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。これを聞かれた博士は、筧義章氏がインド独立運動志士ラス・ビハリ・ホース氏の信任を受けていた事もあり、快く引き受けられた。



戦後広島で行われた 「世界連邦アジア会議」にパール判事は ゲストとして出席


" ノーベル賞受賞者を含む
多くの白人出席者を前に
45分の特別講演が行われました。
 

「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。
日本は投下される何の理由があったか。

当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、
この残虐な爆弾を実験として広島に投下した。

同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。

そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、
いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。

彼らの手はまだ清められていない。

こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」


出典:【主体主語がない】碑文に抗議するパール判事の言葉 【言葉のごまかし】|よんよんのやわらか爆発ブログ



「過ちは繰返さぬ」それがどんな過ちなのか、 わたくしは疑う


" そして別日に
原爆慰霊碑を訪れ
献花して黙祷を捧げます。

碑に刻まれた文字を通訳から聞く

「安らかに眠って下さい。
過ちは繰り返しませぬから」

彼は耳を疑い何度も
通訳が間違っていないか
確認しました。

通訳が間違っていないとわかり
顔の表情が厳しくなり
こう言います。


この「過ちは繰返さぬ」という過ちは
誰の行為をさしているのか?。

もちろん、
日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。

それがどんな過ちなのか、
わたくしは疑う。

ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、
その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。

落した者が責任の所在を明らかにして
「二度と再びこの過ちは犯さぬ」というならうなずける。
この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、
これまた日本の責任ではない。

その戦争の種は
西欧諸国が東洋侵略のために
蒔いたものであることも明瞭だ。


さらにアメリカは、
ABCD包囲陣をつくり、
日本を経済封鎖し、
石油禁輸まで行って挑発した上、
ハルノートを突きつけてきた。

アメリカこそ開戦の責任者である。


諸精霊に対して、 どうゆう言葉を手向けたらよいか


" 碑文の責任者の浜井広島市長と
論争に発展しました。

市長との論争の夜
宿泊先のホテルに
広島市の本照寺の住職さんが訪ねて来ました。

住職さんは判事にこう言います。

「わたくしども寺の檀徒も
大勢原爆でやられています。

また出征して多くの戦死者も出しています。
これらの諸精霊に対して、
どうゆう言葉を手向けたらよいか。

パール博士に
過ちは繰り返しませぬからに代わる
碑文を書いていただきたい。」


パール判事は即答。
快く引き受け碑文を書きました。


これが本照寺に建立されている
【大亜細亜悲願之碑】です。


For the peace of those departed souls
who took upon themselves the solemen vow
at the salavation ceremony of oppressed Asia,
"OH! Lord, thou being in my heart,
I do as appointed by you"

1952.11.5 Radhavinod Pal


激動し 変転する歴史の流れの中に
   道一筋につらなる幾多の人達が
   万斛の想いを抱いて死んでいった
   しかし
   大地深く打ちこまれた
   悲願は消えない
   抑圧されたアジア解放のため
   その厳粛なる誓いに
   いのち捧げた魂の上に幸あれ
   ああ 真理よ!
   あなたはわが心の中にある
   その啓示に従って われは進む

   1952年11月5日  ラダ・ビノード・パール



大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」


以前から不思議だった。なぜ「終戦記念日」は「敗戦記念日」ではないのか?なぜ、第二次世界大戦は、「太平洋戦争」と「大東亜戦争」と二種類の呼び方があるのか。


「「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった。この書は日本のプロパガンダではない。史実である。日本よ 呪縛から解放されよ!ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編。世界史を俯瞰して明らかになった大東亜戦争の真実」そのエッセンスを紹介しよう。


・日本軍は、大英帝国を崩壊させた。イギリス人の誰一人として、そのようなことが現実に起ころうとなどとは、夢にも思っていなかった。それが現実であると知った時の衝撃と屈辱は想像を絶するものだった。


・唯一の文明世界であるはずの白人世界で、最大の栄華を極めていた大英帝国が有色人種に滅ぼされるなど、理解することのできない出来事だった。『猿の惑星』という映画があったが、まさにそれが現実となった衝撃だった。イギリスだけではない。西洋文明そのものが衝撃を受けた。


・世界史では、様々な王朝や国家が勃興しては滅亡していった。征服につぐ征服、侵略につぐ侵略が世界史でもある。その中で、特異な存在として浮かび上がる日本の姿が私には見て取れる。その国は、その大国の興亡の中で永遠の太古からずっとひとつの文明がひとつの流れとして、征服されることなく21世紀の今日まで続いているのだ。


・もし日本が大東亜戦争を戦わなかったら、他のアジア諸国と同様に白人列強の植民地となっていたかもしれない。アジアにはいまだに欧米列強の白人が支配する世界が広がっていたかもしれない。つまり、白人列強による世界支配を終焉させ、人種平等の世界の実現へと舵を切らせる歴史的偉業を果たしたのが、日本が戦った大東亜戦争だったということだ。大東亜戦争は、日本が勝った。これは、厳粛な世界史の事実である。


・日本が「侵略戦争を起こした」というのは、真っ赤な嘘だ。アジアを侵略していたのは、欧米列強だだった。日本が戦った戦争は、そのアジアを支配し、搾取していたヨーロッパの列強と、アメリカを、結果的に排除することになった。それによってアジア諸国は、白人キリスト教徒により、数百年にわたる搾取と奴隷支配から、脱却し、独立をすることができたのである。


・日本は、奇蹟の国なのだ。もっと自信と誇りを持つべきだ。しかし、多くの日本人は、抵抗を感じている。なぜか?日本は「戦争犯罪」を犯した悪い国だったと、そう思い込まされているからだ。本当に、日本は悪い国だったのか。私は、違うと思う。日本は、世界史において、偉業を達成した。大東亜戦争を戦ったことだ。大東亜戦争は、侵略戦争などではない。日本は、戦争犯罪など犯していない。戦争犯罪がどうのこうのと言うのであれあ、まず「戦犯」とされるべきは、白人列強諸国である。


・日本は、アメリカに追い込まれて戦争を起こした。しかし、それは自衛戦争だ。アメリカに仕掛けられた戦争を、受けて立った。日本が大東亜戦争を戦ったのは、大アジアだった。アジアの広域で、日本は白人列強の軍隊を駆逐し、アジアの諸民族に独立する精神を目覚めさせ、アジア諸民族を植民地支配していた白人列強とアジア諸民族が独立戦争を戦うのを授けたのである。日本人が目覚めるべきは、大東亜戦争は世界史的な偉業であったということである。日本はアジアを侵略してなどいない。アジアを侵略したのは、白人列強諸国だった。そのアジアを、解放したのが大東亜戦争だった。




おまけ!

【討論】もし大東亜戦争の開戦が無かったら?[桜H30/8/11]
https://www.youtube.com/watch?v=mZ0_wOxSUyY


ここで一句。
ニッポンの サルが集まる 芸能界
バカ猿は テレビに出ては サル自慢
バカ猿は 自分がサルだと 気づかない
バカ猿は サルの話を 自慢する
バカ猿は」カネさえ貰えば サルのまま
バカ猿は いつまでたっても サルのまま
バカ猿は 退化するのを 良しとする
バカ猿と 進化は水と 油なり
バカ猿を 飼育するのが テレビ局



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by kabu_kachan | 2018-08-04 20:09 | 歴史 | Comments(0)

世界史上における最強の文明とは何か? (What is the strongest civilization in the history of the world?)

日本人諸君、
Hello, Americans !
Look at me !
Hiroshima: Dropping the Bomb
https://www.youtube.com/watch?v=NF4LQaWJRDg

Remembering the tragic aftermath of the Hiroshima bomb - BBC
https://www.youtube.com/watch?v=VvzDSnQCh6c

(What is the strongest civilization in the history of the world?)

「世界史上における最強の文明とは何か?」
と聞かれたらどう答えるかね?

歴史好きの諸君だったら、古代エジプトとか
メソポタミアとかヒッタイトとかシュメール
とかローマ帝国とか答えるだろ。

みんな間違っているんだぜ。
いいかね、世界史上最強の文明とは、15世紀頃から
西ヨーロッパで芽生えた近代科学思想と
その後イギリスで起こった産業革命の合体を言うんだぜ。

近代科学思想の誕生には、誰もが知っている
ガリレオ・ガリレイ(イタリア)や
アイザック・ニュートン(イギリス)や
デカルト(フランス)や
ライプニッツ(ドイツ)等が
大いに貢献しているんだぜ。

この世界史上最強の科学技術文明でもって、
白人たちは世界中を植民地にしていったんだぜ。
当時の白人国家とは、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、
イタリア、オランダ、ドイツ(プロシア)、ロシア等である。

The Meiji Revolution (entire)
https://www.youtube.com/watch?v=gURiHVTJX4A

なぜ白人国家に近代科学思想が広まったかと言うと、
白人たちの言語はすべてインド・ヨーロッパ語族に属していて
言語構造は同じだからなんだぜ。
たとえば、英語とロシア語は文章の構造は同じなんだぜ。
だからロシア人は英語をすぐに理解できる。

🔴 President Trump - Putin EXPLOSIVE Joint Press Conference at HISTORIC Summit in Helsinki, Finland
https://www.youtube.com/watch?v=49uvPQbqmOo
語順が同じだから、プーチンのロシア語と同時通訳の英語との間がほとんど同時になっている。


実際、ロシアは17世紀に既に西ヨーロッパで誕生した科学思想を導入している。
日本で言えば江戸時代の初期だぜ。
蘭学が起こったのが江戸時代の中頃だろ。
近代科学思想の導入では、日本はロシアよりも百年遅れているんだぜ。
いや、二百年かもしれない。
日本が西洋の科学思想を本格的に導入したのは
明治になってからなんだぜ!

蘭学とは何か?(Dutch learning)Part 1
https://kabukachan.exblog.jp/29154204/

蘭学とは何か?(Dutch learning) Part 2
https://kabukachan.exblog.jp/29154221/


西ヨーロッパと接しているトルコでも近代化が遅れただろ。
宗教の違いもあるが、やはり言語の違いが大きい。
ちなみに、トルコ語と日本語は言語構造は同じなんだぜ。
By the way, the Turkish language is similar to Japanese.

★世界言語とは何か(トルコ語と日本語は語順が同じである)
https://kabukachan.exblog.jp/29502572/

この世界史上最強の科学技術文明の象徴が、
幕末に日本にやって来たペリーの黒船なんだぜ。
日本は明治に見事にこの西洋の科学技術文明を取り込んだのである。
有色人種の国家としてはナンバーワンである。
あまりにも完璧に取り入れたものだから、
なんと日露戦争で当時世界最強の軍事大国ロシアに
勝ってしまったのである。
いいかね、日本海海戦と言うのは日本のパーフェクト勝利だったんだぜ。
野球で言うと完全試合である。
すなわち、ロシアの軍艦40隻以上を海の底に沈めたんだぜ。

★日本人よ、日本海海戦を知れ!(日露戦争)
https://kabukachan.exblog.jp/29337749/

What did Japan fight for & against ? / Meiji Restoration ~ WW2
https://www.youtube.com/watch?v=7vZOKHemOOc&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j&index=126

この日露戦争の日本の勝利の後、日本は五大強国の仲間入りを果たし、世界の一等国となったのである。有色人種の国家としては初めてである。
すなわち、白人国家による世界植民地支配を日本が食い止めたのである。

Woodrow Wilson : Rejection of the Racial Equality
https://www.youtube.com/watch?v=v_M190ZBn3U&index=67&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j

いいかね、日露戦争の日本の勝利は、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の世界史上の大事件なんだぜ。

本来なら、日露戦争の世界的意義を日本の歴史教科書の前半のすべてのページを使って書いてもいいくらいだ。

ところが、学校の日本史の教科書には「日露戦争がありました」と一行しか書いていないだろ。新聞もテレビも同じだろ。
これは何故かと言うと、日本史の教科書を書いている人も教師も反日左翼、新聞、テレビは朝鮮系だからだぜ。

★在日メディア(日本のテレビ番組は朝鮮人が作っている)
https://kabukachan.exblog.jp/26763986/

中国人や朝鮮人の歴史観で日本史を日本人に教えているんだぜ。
中国人や朝鮮人にとって、日露戦争の日本の勝利ほど腹立たしく、
忌まわしい事件はないんだぜ。
日本の学校で、この歴史観を日本人に教えているんだぜ。



★反日の在日朝鮮人を生んだのはGHQだった
https://www.youtube.com/watch?v=sA93tp9OMdE


いいかね、日本人諸君、
マッカーサーとGHQは
日本人の思想改造を行なったんだぜw!

映画「猿の惑星」で立場が逆だが、猿が白人の頭脳の手術をして白痴にする場面があるだろ。
これと同じことを日本人に対して行なったんだぜ。

日本人を白痴にしてサルと同じにしておけば、二発の原爆投下や全国の都市に対して行なった大空襲が大虐殺であることがわからないだろ。

東京大空襲による死者( Mother and her baby were burnt alive in the Great Tokyo Air Raid.)
This evening, 100.000 people were killed in one night for the first time in the history of the world.

焼け野原の東京
The Great Tokyo Air Raid and the Bombing of Civilians in WW II

https://www.youtube.com/watch?v=J2Ts3v1o24o&index=168&list=PLglPdV6wZ1n6FedmBFzhd2uMyrOixB86j

ここで一句。
白痴猿 テレビに出ては バカ笑い
白痴猿 カネのためなら サルのまま
白痴猿 飼育するのが テレビ局
日本人 サルで良し良し テレビ局
ニッポンの テレビが作る サル文化
スポーツと 祭りはサルの 得意技

WORLD WAR 2 AIR RAIDS ON TOKYO - PART 1
https://www.youtube.com/watch?v=7_Aj9Jw5MXo

WORLD WAR 2 AIR RAIDS ON TOKYO - PART 2
https://www.youtube.com/watch?v=eEMgA9LKrmE

WORLD WAR 2 AIR RAIDS ON TOKYO - PART 3
https://www.youtube.com/watch?v=wItTcDaMvTg

WORLD WAR 2 AIR RAIDS ON TOKYO - PART 4
https://www.youtube.com/watch?v=9hMf-bnjwG8

The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki
https://www.youtube.com/watch?v=QUvM2uQR1cA

Atomic bombing of Nagasaki - BBC
https://www.youtube.com/watch?v=ncq_Wye43TM


真の右翼とは何か?(真の愛国者とは何か?)
https://kabukachan.exblog.jp/29572278/

★日本人よ、ケント・ギルバート氏に歴史を学べ!
https://kabukachan.exblog.jp/26097469/


★Average American vs Average European - How Do They Compare? - People Comparison
https://www.youtube.com/watch?v=cuWOoQU0aKw

移民の国別比較
German ・・・ 49million
Irish ・・・・・ 39million
English ・・・・ 27million
Italian ・・・・ 18million
Polish ・・・・・10million
French ・・・・・ 9million
Scottish ・・・・・ 6million
Scotch-Irish ・・・ 5million
Dutch ・・・・・・ 5million
Swedish ・・・・・ 4million
Russian ・・・・・ 3million

その他、Welsh,Czech,Hungarian,Portuguese,Danish,and Greek となっている。


いいかね、日本人諸君、
お互いサル同士で
つまらんケンカは
やめようぜ。
それよりも
自分が世界に向かって
何が主張できるのかを考えろ。




おまけ!

Unveiling The Truth #21: Hitler's Escape From Germany (01-03-2014)
https://www.youtube.com/watch?v=53PnJFpOS50



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by kabu_kachan | 2018-07-13 04:44 | 歴史 | Comments(1)

ワールドカップ・ロシア大会(日本は負けたが結果的に良かった=大東亜戦争と同じ)

日本は負けたが、結果的に決勝T進出できてよかった。
これは大東亜戦争のときと同じじゃないか。

いいかね、日本人諸君、
日本は大東亜戦争で負けたが、結果的に東南アジア諸国が独立し、インドが独立し、中東の国々が独立し、アフリカの国々が独立していったんだぜ。

日本はアメリカに負けたが、結果的に良かったんだぜ。

Japan v Poland - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 47
https://www.youtube.com/watch?v=K7pVlD8Q660

FIFA World Cup™ 2018: Japan v. Poland - Post-Match Press Conference
https://www.youtube.com/watch?v=NLjLvhF0NBA

Colombia v Japan - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 16
https://www.youtube.com/watch?v=y4SeAfCg7-o

PES | COLOMBIA vs JAPAN | FIFA World Cup 2018 | Full Match Amazing Goals | Gameplay PC
https://www.youtube.com/watch?v=BKizl5GBGR8

Belgium v Japan - 2018 FIFA World Cup Russia™ - Match 54
https://www.youtube.com/watch?v=fJeJuc27ggE

2018 FIFA World Cup Russia™ - BEL vs JPN : Post-Match Press Conference
https://www.youtube.com/watch?v=Q_Uq-kWI8-I



大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!【真珠湾攻撃74年】
https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w&list=PLF01AwsVyw328JWxhGfxIh8OlCax9dGxz

祖先の目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan 大東亜戦争の真実 水間 政憲
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

Honda, Japan show their best
https://www.youtube.com/watch?v=k1YK0e-UWNg

A great decade for Japan
https://www.youtube.com/watch?v=0oCr72bs4IQ

Hidetoshi Nakata: A Japanese football icon
https://www.youtube.com/watch?v=c-jQXJYENCI



本田圭佑、ダメだけど「次のため、そこは理解して」
[2018年6月29日12時8分]


決勝トーナメント進出を決め本田圭佑(右)は西野朗監督と握手する(撮影・PIKO)
決勝トーナメント進出を決め本田圭佑(右)は西野朗監督と握手する(撮影・PIKO)試合後、手をたたいてスタンドの声援に応える本田圭佑(撮影・PNP)
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<ワールドカップ(W杯)ロシア大会:日本0-1ポーランド>◇1次リーグH組◇28日◇ボルゴグラード


 日本代表MF本田圭佑(32=パチューカ)が、西野朗監督(63)の采配に理解を示した。

 W杯ロシア大会1次リーグ第3戦のポーランド戦。自身はベンチで、0-1の状況で、仲間がノーリスクのパスを回しながら試合終了の笛が鳴るのを聞いた。

 もし、1点を追うセネガルがコロンビア相手に追いつけば、日本は一転敗退。「その可能性があったのでホッとした」と明かしつつ、他会場の結果待ちのギャンブルに勝った西野監督の指示には「あそこで西野さんはリスクを取りに行った。個人的には素晴らしい采配だったと思う。僕が監督だったら、あの采配はできていなかった。そう客観的に見ていた自分もいた。結果がすべてなので、西野さんはすごいなと思いました」と感服した。

 場内のブーイングを浴びながら、作戦を遂行した仲間には「大事なのは結果。予選(1次リーグ)通過が目的だったので、出ていた選手には少し酷な部分があったけど、非常にポジティブな結果だったと思う」とたたえた。

 その上で、手放しで称賛できない自分もいた。「サッカーはエンターテインメントなので。結果主義ではダメ、と僕はずっと思っているので。ただ、結果を出さないと誰も俺の発言を聞いてくれない。だから結果を追い求めるけど、本当はダメなんです。いいサッカーしてナンボなんですよ」と持論を展開。「ファンには申し訳なかった」と謝りつつ「次に進まないと、面白いサッカーをしてファンを喜ばせることができなくなる。次のため、そこは理解してほしい」とファンに要望。2大会ぶりの決勝トーナメント進出という結果をつかみ取り、玉砕しても意味がない現実を理解してもらうため、チームメートをかばうようにしっかり発言して、取材エリアを後にした。


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by kabu_kachan | 2018-06-29 17:14 | 歴史 | Comments(1)

著名(有名、人気)ブロガー刺殺事件(ネット殺人事件)

いいかね、日本人諸君、
私がサル、サルと言うからといって、いちいちカッカするんじゃないぜ。
「俺はサルじゃないぜ」と自分で思っていればいいんだぜ。
どうも日本猿には、つまらん、くだらんことで言い争う習性がある。
もっと広く、高い視点から考えることができないんだよな。

ここで一句。
サルは皆 サルの視点で 考える
日本猿 視野の狭さは 世界一
私だけ 世界言語で 考える
英語とは 世界支配の 言語なり
日本語は 世界の中の サル言語
サルは皆 サルの世界に 閉じ籠る

サルは皆 サルの言語で ケンカする
私だけ 世界言語で ケンカする

サルは皆 サルを相手に ケンカする
私だけ 世界を相手に ケンカする


いいかね、幕末、明治維新のときに多くの日本人がくだらん論争で切り合い、撃ち合って死んでるんだぜ。
多くの日本の志士たちが無駄死にしているんだぜ。
これを考えるとき、日本民族はあまり賢い民族ではない。

いいかね、幕末、明治維新のとき、日本人が一滴の血も流さないで見事に近代化を成し遂げていたなら、日本人は世界最高の優れた資質を持った民族だったんだぜ。

「禿がどうのこうの」「低能がどうのこうの」程度の言い争いで殺人事件を起こすようでは、日本人の頭のレベルはやはりサルレベルなんだぜ。


ここで一句。

日本猿 くだらんことで 殺し合う

"ブログ史上最悪"Hagex刺殺は言論へのテロ?


24日、福岡市で開かれたITセミナーで講師の男性が刺殺された事件。25日午後になって殺された男性がネットウォッチャー・ブロガーとして知られる「Hagex」さんであることが新たに分かりました。ネット上には事件につながったとみられる2人の接点が残されていました。ネットの世界とリアルが交錯して起きてしまった事件。なぜ殺害にまで至ってしまったのでしょうか。

 パトカーと大勢の警察官で騒然とする福岡市の繁華街。24日午後8時前、福岡市中央区の起業支援施設でITセミナーの講師・岡本顕一郎さん(41)が男に背中を複数回、刺されて死亡しました。亡くなった岡本さんはインターネットセキュリティー会社の社員で、現場となった施設でネット炎上やトラブルについてのセミナーを開催。事件はその終了直後に起こりました。所属会社の社長は。
 所属会社社長・高野聖玄さん:「非常に人付き合いが良いといいますか、とっつきやすい人間だったので、今回のような事件に巻き込まれるのは信じられない思いです」
 警察は刺した男を追っていました。市内の交番に男が出頭。警察は出頭してきた福岡市東区の無職・松本英光容疑者(42)を殺人などの疑いで逮捕しました。事件の背景には、亡くなった岡本さんのもう一つの顔が関係していました。松本容疑者は動機について…。
 松本英光容疑者:「岡本さんとネット上でやり取りがあり、恨んでいた」
 インターネット上のトラブル。岡本さんは、Hagexという別名で、炎上商法に苦言を呈すなどネットウォッチャー、炎上評論家として活動していたのです。実は松本容疑者は、一部のインターネット上で「低能先生」と呼ばれていた人物とみられていて、Hagexこと岡本さんとインターネット上でトラブルがあったといいます。低能先生は一部、インターネットかいわいで誰かれ構わず「低能」などと誹謗(ひぼう)中傷を浴びせ、逆に「低能先生」というあだ名が付いたといいます。そして、犯行直後の松本容疑者とみられる人物の書き込みも。インターネット上で交流があり、酒を酌み交わすこともあったというネットニュース編集者の中川淳一郎氏は岡本さんの人柄について。
 岡本さんと親交があった編集者・中川淳一郎さん:「Hagexさんは、もともとネットで有名な方でした。ネットウォッチャーの第一人者。私は勝手にネットウォッチャー四天王という言い方をしていたんですけど、そこに入っている1人がHagexさんだった。初めて会った時に楽屋だったんですよ。その時にニコニコしていて、Hagexというハンドルネームを使っているからハゲだと思っていたらハゲていなかった。それで『お前ハゲてねえじゃねえか』と突っ込んで、『いやいや』ってやる感じの印象があって本当に物腰の穏やかな方で、ネットでは攻撃的ですが、彼はダブルスタンダードが許せないタイプ。インターネットをより発展させたいという気持ちがあったのは間違いない。愉快犯的なところもあったけど、悪口を書くことはあったけど、とどめはささない。何とか読み物として面白くしようとは考えていたと思うんですよ。彼もHagexとは別の本名で、ネットセキュリティとかIT秩序とかそういうことで活動しようと思っていた矢先、WEB上でHagexとは別の岡本って名前で、羽ばたく直前の人が何でこうなるのって寂しいし、悲しいし、残念です」
 今回の事件については。
 岡本さんと親交があった編集者・中川淳一郎さん:「今回のネットでもリアルでもって言ってるようなことではなくて、ちょっとやばいやつだった。やばいやつって実際、リアルで会ったら分かる。目つきがやばいなとか、ぼそぼそつぶやいてたとか、ネットだと分からないんですよ。そこが。それが恐ろしいところだと思います。絶望的な結論ではありますけど、いかに誰かから恨まれない、ないしは誤解されない、逆恨みをされないという人生を皆送るべきじゃないかなと思うんですね。そういう姿勢に立った場合にネット上で積極的に発言することがデメリットっていう考え方が広がる可能性がありますよね。ペンは剣よりも強しっていうけど、そんなのはどうでもいいです。人の命のほうが大事です。Hagexさんの低能先生を通報したというブログが殺意の導火線だとしたら、あれを書かなければよかったと思うし、世直ししたいとか正義を世に問うていきたいと思っているネットのSNSユーザー、ブロガーっていっぱいいますけど、割に合わねえなと」
 事件を受けて「はてなブログ」は、来月1日に東京で開催が予定されていたブロガーイベントの中止を発表しました。参加者の安全を考慮してのことだといいます。



Hagexさんが生前抱いていた不安、現実に 刺殺事件

編集委員・須藤龍也

2018年6月25日20時22分


 福岡市内であったIT関係セミナーの男性講師が刺殺された事件で、亡くなった岡本顕一郎さん(41)は「Hagex」の名前で活動する匿名ブロガーだったことが事件で知れ渡った。ブログはネット掲示板を引用し一言コメントを添えるスタイルで、1日5~10件ほど書かれていた。関心の高い話題は掘りさげ、逮捕された松本容疑者とみられる人物がネットで誹謗(ひぼう)中傷を繰り返していた件について「いきなり罵倒がくると、たいていの人は怖がってしまう」「お下劣な言葉を(サイト上で)定期的に投げかけられているのだが、昨日は凄(すご)かった」と問題視していた。


著名ブロガー刺殺、ネット上の罵り合いが殺人事件に


 福岡市の繁華街で発生した殺人事件の被害者が著名ブロガーで、ネット上で中傷されたことを恨んでの犯行だったという話がネットで拡散しています。警察は正式発表していませんが、一部報道されている内容からすると、被害者が著名ブロガーであることは間違いないようです。

6月24日の午後8時ごろ、福岡市中央区の施設で「人が刺された」と110番通報があり、男性1人が背中をナイフのようなもので刺されていました。男性は病院に運ばれましたが死亡が確認されたとのことです。警察が報道機関に対して説明したところによると、死亡したのはインターネットセキュリティー会社スタッフの岡本顕一郎さんで、当日は、施設の会議室で開かれていたネット関係のセミナーの講師をしていたとのことです。

 岡本氏はネット上でHagex(ハゲックス)というニックネームでブログを書いており、当日のセミナーのテーマも、ブログのアクセス数をどのように増やすのか、ブログを書くことで生じるトラブルについてどう対処するのかについて解説するという内容でした。

 岡本氏のブログでは、ある人物が岡本氏を罵倒するメッセージを何度も岡本氏に送りつけており、岡本氏もこの人物に対して「低能先生」とブログ上で罵っていました。その後、岡本氏は刺殺されてしまうのですが、事件が起こった当日、岡本氏と対立していたと思われる人物がブログに投稿した内容が、犯行声明に見えるとの話がネットで話題となり、岡本氏への恨みから犯行に至ったのではないかとの噂が広がっていました。

 犯人は現場から逃走したものの、その後、自首しており、警察の事情聴取において「ネット上で恨んでいた」と供述しているそうです。

 ネット上はプライベートな空間と認識している人が大勢いますが、理屈上は誰でも閲覧できますから、あくまで公の空間ということになります。今回の事件の詳細についてはまだ分かりませんが、SNSやブログで発信する人は、どのような人が見ているのか分からないという現実についてもっと意識した方がよいのかもしれません。

(The Capital Tribune Japan)


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by kabu_kachan | 2018-06-26 22:12 | 歴史 | Comments(0)

極東国際軍事裁判(東京裁判)What is the international military tribunal for the far east ?

International Military Tribunal of the Far East

★The atomic bombs
https://www.youtube.com/watch?v=mVCy8CL1EN8

極東国際軍事裁判(東京裁判)


KSM】東京裁判の隠された真実 ベン・ブルース・ブレイクニー 米国人弁護人の発言
https://www.youtube.com/watch?v=N_KaXuTfnP4

東京裁判での死刑判決の矛盾をついたブレイクニー(米弁護士)とは?
https://www.youtube.com/watch?v=vGpCWeKtQ84

「東京裁判」速記録から削除された、米国人弁護士による原爆投下追及シーン
https://www.youtube.com/watch?v=iTG1OYSGMN8

東京裁判 「南京大虐殺」はこうして作られた!
https://www.youtube.com/watch?v=arXcTwv9vGU

極東国際軍事裁判 前編
https://www.youtube.com/watch?v=F-jnUehOMsk

【戦争犯罪とは何か?】 ② 【映画】 極東国際軍事裁判(東京裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=LbYnOrklxfE

東京裁判 vol2/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=c0UKc8EuCfw

東京裁判 vol3/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=SV23Ebt-Jms

東京裁判 vol4/4 (極東国際軍事裁判)
https://www.youtube.com/watch?v=UT9ap_FubAY

The International Military Tribunal)東京裁判 板垣征四郎 個人反証段階
https://www.youtube.com/watch?v=YGOYV8wk2wc

歪んだ正義① ― 東京裁判・原爆投下は正義だったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=wUvGN1JCgY4

【日いづる国より】ケント・ギルバート、米国人も恥ずかしい東京裁判と慰安婦像[桜H29/1/27]
https://www.youtube.com/watch?v=-7j3weNWtqk

【Tokyo Trial 】 Pride : The Fateful Moment
https://www.youtube.com/watch?v=0fJVFWvAV8Q&list=PLglPdV6wZ1n6uA3ckH6PGLbQS1VVjmIVH

The Truth about Japan's War 1/5 : Tokyo Trial, Radhabinod Pal
https://www.youtube.com/watch?v=lVbMaJIyhKQ

The Truth about Japan's War 2/5 : "True" Revisionism by Douglas MacArthur, US General
https://www.youtube.com/watch?v=ZgulpS39PzU

The Truth about Japan's War 3/5 : Fair Examination of History, Hamilton Fish III
https://www.youtube.com/watch?v=zBj9NgqaY4Y

The Truth about Japan's War 4/5 : Bushido
https://www.youtube.com/watch?v=ig_VvHFvSr8

The Truth about Japan's War 5/5 : WGIP (War Guilt Information Program)
https://www.youtube.com/watch?v=054h7aujgY0

(English subs, CC icon) Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan 大東亜戦争の真実 水間 政憲
https://www.youtube.com/watch?v=9tJekhxwiMI

Truth of Greater East Asia War
https://www.youtube.com/watch?v=25rBxE3RyOI



Ben Bruce Blakeney (30 July 1908, Shawnee, Oklahoma – March 4, 1963) was an American lawyer who served with the rank of major during the Second World War in the Pacific theatre.[1]

International Military Tribunal of the Far East[edit]

In 1946–1948, he served as a defense counsel at the Tokyo War Crimes Tribunal, and defended Shigenori Tōgō, General Yoshijirō Umezu, and Admiral Soemu Toyoda, who was found not guilty. Among his arguments were that killing by a nation, wartime or peacetime, and even waging a war of aggression, could not be considered crime under international law, hence he took the bold step of addressing the atomic bombing of Hiroshima in relations to the attack on Pearl Harbor, saying:

If the killing of Admiral Kidd by the bombing of Pearl Harbor is murder, we know the name of the very man who[se] hands loosed the atomic bomb on Hiroshima, we know the chief of staff who planned the act, we know the chief of the responsible state. Is murder on their consciences? We may well doubt it. We may well doubt it, and not because the event of armed conflict has declared their cause just and their enemies unjust, but because the act is not murder. Show us the charge, produce the proof of the killing contrary to the laws and customs of war, name the man whose hand dealt the blow, produce the responsible superior who planned, ordered, permitted or acquiesced in this act, and you have brought a criminal to the bar of justice.[2]

After a number of defense counsel resigned in protest, Blakeney continued his work for the defense team, arguing that the court should not create a double standard where the Japanese were punished but others were allowed to go free for committing acts of war.[1] Blakeney, together with defense attorney George Furness, filed an appeal with the Supreme Court of the United States on behalf of the convicted Japanese officials, arguing that the ruling could not be upheld because General Douglas MacArthur had acted unconstitutionally in constituting the tribunal. The appeal was denied.[1]

Later life[edit]

In 1949, he began work as a lecturer of law at Tokyo University. Blakeney later worked with Tōgō Fumihiko to translate and edit "The Cause of Japan," by Tōgō Shigenori."[1] He was killed in a plane crash in 1963.


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by kabu_kachan | 2018-02-11 11:53 | 歴史 | Comments(0)

鉄砲を捨てた国~日本

日本は織田信長の時代に世界最大の鉄砲保有国に

なっていながら、なぜその後、

日本から鉄砲が消えたのであろうか?

西洋ではその後、鉄砲➡大砲➡軍艦と

軍事技術が進んだにもかかわらず、

日本は刀剣のままであった。

★平和ボケは軍事技術を退化させる。

マッカーサーの作った日本国憲法の狙いそのものである。




http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.htmlより。

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。

しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。

前回紹介したノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」では、こう書かれている。

「…目標を定めた一千発の一斉射撃は、周章狼狽していようが泰然自若としていようが、敵とあらば見境いなく、相手を声も届かぬ離れた地点から撃ち殺した。鉄砲に立ち向かう場合、勇敢さはかえって不利になり、攻守ところを変えて自分が鉄砲隊になると、…鉄砲隊何千の一員として、攻撃を仕掛けてくる敵を掃討するべく土塁の背後で待ちかまえておればよいわけだ。それには大した技術もいらない。技量が問われるのは、今や兵士ではなく、鉄砲鍛冶と指揮官たる者に変わったのである。…ともあれ、鉄砲を持つ農民が最強の武士をいともたやすく撃ち殺せることを認めるのは、誰にとっても大きな衝撃であった。」(P63)

長篠の合戦の後まもなく、鉄砲に対する二つの態度が現れはじめる。戦国大名は大量の鉄砲を購入しつつも、自らは鉄砲を使って戦おうとはしなかった。

「武士の戦闘は刀、足軽のそれは鉄砲という分離は、もちろん、うまくいくはずのものではない。刀か鉄砲か、この二つは対立し続けた。」(p64)


最初に鉄砲を統制しようとしたのは関白太政大臣の豊臣秀吉とノエル・ペリンは著書で指摘している。

教科書では天正16年(1588)年に「刀狩令」が出ている。この命令は刀や槍などを農民から没収しただけではなく鉄砲も没収対象に入っている。

原文では
「一、諸国百姓、刀、脇差、弓、やり、てつはう(鉄砲)、其の外武具のたぐひ所持候事、堅く御停止候。その子細は、入らざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人にたいし非儀の動きをなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其の所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候間、其の国主、給人、代官として、右武具悉く取りあつめ、進上致すべき事。」とある。

秀吉は方広寺の大仏建立のための釘・鎹(かすがい)にすることを口実に、農民からこれらの武器を集め、農民の一揆を防止するとともに兵農分離を進めたのだが、そもそも方広寺の大仏は木造であったので、それほどの鉄が必要なはずがなかったのだ。

しかしヨーロッパには秀吉の刀狩令のようなものはなかった。しかし、鉄砲によって殺される人数や早さが増大したことから、鉄砲や銃について統制すべきと意見は根強くあったようだ。

例えば、
「大砲と火器は残忍で忌まわしい機械です。それは悪魔がじかに手を下した仕業だと信じます」(マーティン・ルター)
「あわれ、立派な勇士たちが、ごろごろ、卑怯な飛び道具で生命を落とさねばならぬ、なんという遺憾、…こんな下等な鉄砲なんてものさえなけりゃ、拙者だとても立派な軍人になっていましたろうに。」(シェイクスピア「ヘンリー4世」)

にもかかわらず、ヨーロッパではそれから後に急速に火器を発達させていくのだが、日本はでは逆に火器の統制に入っていく。


慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
   ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」

これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったので、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が刀鍛冶となったそうだ。

では、なぜ日本だけが鉄砲を捨てて旧式の刀剣の世界に戻ったのか。その理由について、ノエル・ペリンは少なくとも5つあると書いている。
要約すると、
1.日本では武士が総人口の7~10%を占めており、ヨーロッパのどの国の騎士団よりも規模が大きかった。(イギリスで0.6%程度。ヨーロッパではどの国も、優に1%を超える国はなかった。)
2.日本の武力および自然的条件から外国からの侵略が難しく、日本の国家的統合の維持は通常兵器で充分であった。
3.日本の武士にとって刀剣は戦いの武器にととまらず、「武士の魂」であった。
4.外国人の思想、わけてもキリスト教と商業に対する西洋人の態度が受け容れがたいとする潮流が存在した。
5.刀剣が飛び道具よりも品位の高い武器と考えられていた。

ということだが、あまりピンとこないところがある。


この本の訳者は現静岡県知事の川勝平太氏だが、氏の「鉄砲が動かした世界秩序」(「地球日本史1」所収)という論文では、ノエル・ペリン挙げた理由では隔靴掻痒の感が否めないとして、朱子学の影響を指摘しておられる。


その論文によると、秀吉の起こした文禄・慶長の役で連行された捕虜の中に朱子学者の姜沆(きょうこう)と言う人物がいて、相国寺の禅僧藤原惺窩(ふじわらせいか)は彼と深く交わり朱子学者に転向し、惺窩の作とされる「本作録」の序に「天下国家を治むる御心持の次第」七条が書かれており、それが徳川幕府に大きな影響を与えたという。

要するに藤原惺窩は、戦国の世が終わり、これからの時代は文治主義でなければならないと説き、徳川幕府は朱子学を公認して統治哲学とした。惺窩の門下の林羅山は徳川家康に仕えた後四代将軍家綱まで侍講をつとめ、林家を軸に昌平坂学問所が作られ、各藩はそれを真似て藩校を設立した。

朱子学の統治哲学とは、統治の正当性の源泉は力ではなく、徳である。徳を積めば身が修まり、家が斉い、国が治まり、天下は泰平になるというものである。

川勝氏は紹介した論文でこう書いている。
「17世紀前半、ヨーロッパにグロチウスが戦争を世界観の柱にして国際法を構想したとき、日本では惺窩、羅山が朱子学をもとに徳治を説き、それを統治の根幹に据えたのである。『文明(華)』を柱にした日本の世界観と、『戦争』を柱にしたヨーロッパの世界観とはユーラシア大陸の両端でほぼ同時に生まれ、前者は徳治にもとづく軍縮の道、後者は覇権にもとづく軍拡の道を歩んだ。」

「国際法を遵守しないような国は野蛮だ、というのは今日の常識である。だが、日本は、『戦争と平和』の世界観に基づく国際法を受容するまでは野蛮であったのか。否、それどころかまさに『華(文明)』意識のまっただ中にいた。
 徳川社会は天下泰平を楽しみ、戦争とは無縁の時代であった。戦争を柱とする世界観を持っていなかった。世界を弱肉強食の修羅場とみる見方を明治日本人はヨーロッパから受容することによって、日本人はその世界観に合った現実を自らつくった。日清戦争、韓国併合、第壱次世界大戦の戦勝、日中戦争の泥沼も、惨憺たる配線もその結果である。
 たとえ、それが他に選択の余地のないコースであったにせよ、鉄砲が生み出した西洋起源の世界秩序が、その成立の由来と、軍拡・戦争の歴史に照らすとき、文明の名に値するものかどうかは疑いうる。」

日本は鉄砲を捨てて、平和で豊かな国づくりを目指した。
17世紀半ば、江戸の人口が50万人になろうとする時には神田上水に続いて玉川上水が完成したが、ニューヨークで最初の水路が完成したのは日本に二世紀も遅れ、1842年の事であった。
日本の刀剣の世界に舞い戻っている間に西洋では軍事技術が進み、日本は軍事の分野で大きく西洋諸国に立ち遅れてしまった。そのためにペリー来航以降大きく日本の歴史が動くのだが、日本が全てにおいて西洋諸国に劣っていたのであれば、この時期に植民地化してもおかしくなかった。
幕末から明治期にかけて多くの外国人が日本に訪れ様々な記録を残しているが、当時の日本を高く評価している記録が少なくない。

ノエル・ペリンは、エドワード・モース、ヘンリー・ヒュースケン、タウンゼント・ハリス、ラザフォード・オールコック等の著書を引用しながら、明治期の日本は治安だけでなく保健・衛生面においても優れており、人々は道徳的で品位があり、豊かな生活をしていたことを紹介している。

ノエル・ペリンはこの著書を通して、核兵器による人類破滅の危機を憂慮し、以前は世界的に優れた軍事技術に到達しながら当時の最先端の兵器を放棄した日本の経験に学んで、核兵器を放棄できないのか、そしてそのお金を国民が豊かになるために投資すべきではないかと問うているのだ。


そして問うている相手はどこかというと、ノエル・ペリンの母国のアメリカをはじめとする軍事大国だろう。
日本で鉄砲を捨てたのは、当時は日本が世界有数の軍事大国であり、あわせて最高権力者の軍縮命令があったからこそできたのであって、権力者からのそのような命令がなくしては、どこの藩も自主的に単独で軍縮などできるはずがなかったことは明らかである。

今の軍事大国が、徳治にもとづく軍縮の道を協議し、共同歩調で大量破壊兵器の縮減を選択する日は将来訪れるのだろうか。
彼らは将来、全世界をどういう方向に導こうとしているのか。彼らは自国の版図を広げようと虎視眈々と狙っている狡猾な国なのか、世界中に紛争の種を蒔いて兵器産業の金儲けに加担している野蛮な国なのか。





★西洋人(白人)が考える「日本の歴史」
http://kabukachan.exblog.jp/28475006/

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by kabu_kachan | 2018-02-03 16:14 | 歴史 | Comments(0)

蘭学とは何か?(Dutch learning) Part 2

Types of Rangaku[edit]

Medical sciences[edit]

Japan’s first fully-fledged translation of a Western book on anatomy (Kaitai Shinsho), published in 1774. (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

From around 1720, books on medical sciences were obtained from the Dutch, and then analyzed and translated into Japanese. Great debates occurred between the proponents of traditional Chinese medicine and those of the new Western learning, leading to waves of experiments and dissections. The accuracy of Western learning made a sensation among the population, and new publications such as the Anatomy (蔵志, Zōshi, lit. "Stored Will") of 1759 and the New Text on Anatomy (解体新書, Kaitai Shinsho, lit. "Understanding [of the] Body New Text") of 1774 became references. The latter was a compilation made by several Japanese scholars, led by Sugita Genpaku, mostly based on the Dutch-language Ontleedkundige Tafelen of 1734, itself a translation of Anatomische Tabellen (1732) by the German author Johann Adam Kulmus.

A Western book on medicine, translated into Kanbun, published in March 1808.

In 1804, Seishū Hanaoka performed the world’s first general anaesthesia during surgery for breast cancer (mastectomy). The surgery involved combining Chinese herbal medicine and Western surgery techniques,[2] 40 years before the better-known Western innovations of Long, Wells and Morton, with the introduction of diethyl ether (1846) and chloroform (1847) as general anaesthetics.

In 1838, the physician and scholar Ogata Kōan established the Rangaku school named Tekijuku. Famous alumni of the Tekijuku include Fukuzawa Yukichi and Ōtori Keisuke, who would become key players in Japan’s modernization. He was the author of 1849’s Introduction to the Study of Disease (病学通論, Byōgaku Tsūron), which was the first book on Western pathology to be published in Japan.

Physical sciences[edit]

Some of the first scholars of Rangaku were involved with the assimilation of 17th century theories in the physical sciences. This is the case of Shizuki Tadao (ja:志筑忠雄) an eighth-generation descendant of the Shizuki house of Nagasaki Dutch translators, who after having completed for the first time a systematic analysis of Dutch grammar, went on to translate the Dutch edition of Introductio ad Veram Physicam of the British author John Keil on the theories of Newton (Japanese title: Rekishō Shinsho (暦象新書, roughly: "New Text on Transitive Effects"), 1798). Shizuki coined several key scientific terms for the translation, which are still in use in modern Japanese; for example, "gravity" (重力, jūryoku), "attraction"[disambiguation needed] (引力, inryoku), and "centrifugal force" (遠心力, enshinryoku). A second Rangaku scholar, Hoashi Banri (ja:帆足万里), published a manual of physical sciences in 1810 – Kyūri-Tsū (窮理通, roughly "On Natural Laws") – based on a combination of thirteen Dutch books, after learning Dutch from just one Dutch-Japanese dictionary.

Electrical sciences[edit]

Japan’s first electrostatic generator (1776), called Elekiteru, developed through Rangaku. (National Museum of Nature and Science).
A curio shop in Osaka demonstrating and selling an Elekiteru. The sign at the entrance says "Newest curiosities from foreign countries."
Japan’s first manual on electric phenomena by Hashimoto Soukichi, published in 1811.

Electrical experiments were widely popular from around 1770. Following the invention of the Leyden jar in 1745, similar electrostatic generators were obtained for the first time in Japan from the Dutch around 1770 by Hiraga Gennai. Static electricity was produced by the friction of a glass tube with a gold-plated stick, creating electrical effects. The jars were reproduced and adapted by the Japanese, who called it "Elekiteru" (エレキテル, Erekiteru). As in Europe, these generators were used as curiosities, such as making sparks fly from the head of a subject or for supposed pseudoscientific medical advantages. In Sayings of the Dutch, the elekiteru is described as a machine that allows one to take sparks out of the human body, to treat sick parts. Elekiterus were sold widely to the public in curiosity shops. Many electric machines derived from the elekiteru were then invented, particularly by Sakuma Shōzan.

Japan’s first electricity manual, Fundamentals of the elekiteru Mastered by the Dutch (阿蘭陀始制エレキテル究理原, Oranda Shisei Erekiteru Kyūri-Gen) by Hashimoto Soukichi (ja:橋本宗吉), published in 1811, describes electrical phenomena, such as experiments with electric generators, conductivity through the human body, and the 1750 experiments of Benjamin Franklin with lightning.

Chemistry[edit]

A description of a Volta battery in Udagawa’s Opening Principles of Chemistry, published in 1840. The title reads "Decomposition of an alkali with a Volta column."
Chemical experiments in Udagawa’s 1840 Seimi Kaisō.

In 1840, Udagawa Yōan published his Opening Principles of Chemistry (舎密開宗, Seimi Kaisō), a compilation of scientific books in Dutch, which describes a wide range of scientific knowledge from the West. Most of the Dutch original material appears to be derived from William Henry’s 1799 Elements of Experimental Chemistry. In particular, the book contains a detailed description of the electric battery invented by Volta forty years earlier in 1800. The battery itself was constructed by Udagawa in 1831 and used in experiments, including medical ones, based on a belief that electricity could help cure illnesses.

Udagawa’s work reports for the first time in details the findings and theories of Lavoisier in Japan. Accordingly, Udagawa made scientific experiments and created new scientific terms, which are still in current use in modern scientific Japanese, like "oxidation" (酸化, sanka), "reduction" (還元, kangen), "saturation" (飽和, hōwa), and "element" (元素, genso).

Optical sciences[edit]

Telescopes[edit]

Edo women using a telescope. Early 19th century.

Japan’s first telescope was offered by the English captain John Saris to Tokugawa Ieyasu in 1614, with the assistance of William Adams, during Saris’ mission to open trade between England and Japan. This followed the invention of the telescope by Dutchman Hans Lippershey in 1608 by a mere six years. Refracting telescopes were widely used by the populace during the Edo period, both for pleasure and for the observation of the stars.

After 1640, the Dutch continued to inform the Japanese about the evolution of telescope technology. Until 1676 more than 150 telescopes were brought to Nagasaki.[3] In 1831, after having spent several months in Edo where he could get accustomed with Dutch wares, Kunitomo Ikkansai (a former gun manufacturer) built Japan’s first reflecting telescope of the Gregorian type. Kunitomo’s telescope had a magnification of 60, and allowed him to make very detailed studies of sun spots and lunar topography. Four of his telescopes remain to this day.

Microscopes[edit]

Microscopes were invented in The Netherlands during the 17th century, but it is unclear when exactly they reached Japan. Clear descriptions of microscopes are made in the 1720 Nagasaki Night Stories Written (長崎夜話草, Nagasaki Yawasō) and in the 1787 book Saying of the Dutch. Although Europeans mainly used microscopes to observe small cellular organisms, the Japanese mainly used them for entomological purposes, creating detailed descriptions of insects.

Magic lanterns[edit]

Mechanism of a magic lantern, from Tengu-tsū, 1779.

Magic lanterns, first described in the West by Athanasius Kircher in 1671, became very popular attractions in multiple forms in 18th-century Japan.

The mechanism of a magic lantern, called "shadow picture glasses" (影絵眼鏡, Kagee Gankyō) was described using technical drawings in the book titled Tengu-tsū (天狗通) in 1779.

Mechanical sciences[edit]

Automata[edit]

Tea-serving karakuri, with mechanism, 19th century. National Museum of Nature and Science, Tokyo.

Karakuri are mechanized puppets or automata from Japan from the 18th century to 19th century. The word means "device" and carries the connotations of mechanical devices as well as deceptive ones. Japan adapted and transformed the Western automata, which were fascinating the likes of Descartes, giving him the incentive for his mechanist theories of organisms, and Frederick the Great, who loved playing with automatons and miniature wargames.

Many were developed, mostly for entertainment purposes, ranging from tea-serving to arrow-shooting mechanisms. These ingenious mechanical toys were to become prototypes for the engines of the industrial revolution. They were powered by spring mechanisms similar to those of clocks.

Clocks[edit]

An 18th-century wadokei (Japanese clock).

Mechanical clocks were introduced into Japan by Jesuit missionaries or Dutch merchants in the sixteenth century. These clocks were of the lantern clock design, typically made of brass or iron, and used the relatively primitive verge and foliot escapement. These led to the development of an original Japanese clock, called Wadokei.

Neither the pendulum nor the balance spring were in use among European clocks of the period, and as such they were not included among the technologies available to the Japanese clockmakers at the start of the isolationist period in Japanese history, which began in 1641. As the length of an hour changed during winter, Japanese clock makers had to combine two clockworks in one clock. While drawing from European technology they managed to develop more sophisticated clocks, leading to spectacular developments such as the Universal Myriad year clock designed in 1850 by the inventor Tanaka Hisashige, the founder of what would become the Toshiba corporation.

Pumps[edit]

Vacuum pump drawing by Udagawa, 1834.
Description of perpetual lamps (無尽灯) using compressed air fuelling mechanisms.
Air gun developed by Kunitomo, circa 1820–1830.

Air pump mechanisms became popular in Europe from around 1660 following the experiments of Boyle. In Japan, the first description of a vacuum pump appear in Aochi Rinsō (ja:青地林宗)’s 1825 Atmospheric Observations (気海観瀾, Kikai Kanran), and slightly later pressure pumps and void pumps appear in Udagawa Shinsai (宇田川榛斎(玄真))’s 1834 Appendix of Far-Western Medical and Notable Things and Thoughts (遠西医方名物考補遺, Ensei Ihō Meibutsu Kō Hoi). These mechanisms were used to demonstrate the necessity of air for animal life and combustion, typically by putting a lamp or a small dog in a vacuum, and were used to make calculations of pressure and air density.

Many practical applications were found as well, such as in the manufacture of air guns by Kunitomo Ikkansai, after he repaired and analyzed the mechanism of some Dutch air guns which had been offered to the Shogun in Edo. A vast industry of perpetual oil lamps (無尽灯, Mujin Hi) developed, also derived by Kunitomo from the mechanism of air guns, in which oil was continuously supplied through a compressed air mechanism.[4] Kunitomo developed agricultural applications of these technologies, such as a giant pump powered by an ox, to lift irrigation water.

Aerial knowledge and experiments[edit]

Drawing of a Western hot air balloon, from the 1787 Sayings of the Dutch.
First demonstration of a hot air balloon in Umegasaki, Japan, in 1805 by Johann Caspar Horner.

The first flight of a hot air balloon by the brothers Montgolfier in France in 1783, was reported less than four years later by the Dutch in Dejima, and published in the 1787 Sayings of the Dutch.

In 1805, almost twenty years later, the Swiss Johann Caspar Horner and the Prussian Georg Heinrich von Langsdorff, two scientists of the Kruzenshtern mission that also brought the Russian ambassador Nikolai Rezanov to Japan, made a hot air balloon out of Japanese paper (washi) and made a demonstration of the new technology in front of about 30 Japanese delegates.[5]

Hot air balloons would mainly remain curiosities, becoming the object of experiments and popular depictions, until the development of military usages during the early Meiji era.

Steam engines[edit]

Drawing from the Japanese book Odd Devices of the Far West, completed in 1845 but published in 1854.
A steamship described in Odd Devices of the Far West.
Japan’s first steam engine, manufactured in 1853 by Tanaka Hisashige.

Knowledge of the steam engine started to spread in Japan during the first half of the 19th century, although the first recorded attempts at manufacturing one date to the efforts of Tanaka Hisashige in 1853, following the demonstration of a steam engine by the Russian embassy of Yevfimy Putyatin after his arrival in Nagasaki on August 12, 1853.

The Rangaku scholar Kawamoto Kōmin completed a book named Odd Devices of the Far West (遠西奇器述, Ensei Kiki-Jutsu) in 1845, which was finally published in 1854 as the need to spread Western knowledge became even more obvious with Commodore Perry’s opening of Japan and the subsequent increased contact with industrial Western nations. The book contains detailed descriptions of steam engines and steamships. Kawamoto had apparently postponed the book’s publication due to the Bakufu’s prohibition against the building of large ships.

Geography[edit]

Topographical work via European methods, 1848 print from Regional Survey Maps (地方測量之図, Jikata Sokuryō no Zu).
Japanese world map published in 1792, by Shiba Kōkan, "Complete Map of the Earth" (地球全図, Chikyū Zenzu).

Modern geographical knowledge of the world was transmitted to Japan during the 17th century through Chinese prints of Matteo Ricci's maps as well as globes brought to Edo by chiefs of the VOC trading post Dejima. This knowledge was regularly updated through information received from the Dutch, so that Japan had an understanding of the geographical world roughly equivalent to that of contemporary Western countries. With this knowledge, Shibukawa Shunkai made the first Japanese globe in 1690.

Throughout the 18th and 19th centuries, considerable efforts were made at surveying and mapping the country, usually with Western techniques and tools. The most famous maps using modern surveying techniques were made by Inō Tadataka between 1800 and 1818 and used as definitive maps of Japan for nearly a century. They do not significantly differ in accuracy with modern ones, just like contemporary maps of European lands.

Biology[edit]

Animal plate by Itō Keisuke.
Description of insects in the Sayings of the Dutch, 1787.
The first gibbon brought to Japan in modern times (1809), drawn by Mori Sosen

The description of the natural world made considerable progress through Rangaku; this was influenced by the Encyclopedists and promoted by von Siebold (a German doctor in the service of the Dutch at Dejima). Itō Keisuke created books describing animal species of the Japanese islands, with drawings of a near-photographic quality.

Entomology was extremely popular, and details about insects, often obtained through the use of microscopes (see above), were widely publicized.

In a rather rare case of "reverse Rangaku" (that is, the science of isolationist Japan making its way to the West), an 1803 treatise on the raising of silk worms and manufacture of silk, the Secret Notes on Sericulture (養蚕秘録, Yōsan Hiroku) was brought to Europe by von Siebold and translated into French and Italian in 1848, contributing to the development of the silk industry in Europe.

Plants were requested by the Japanese and delivered from the 1640s on, including flowers such as precious tulips and useful items such as the cabbage and the tomato.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:35 | 歴史 | Comments(0)

蘭学とは何か?(Dutch learning)Part 1

The Chinese characters (kanji) for "Rangaku". The first character "ran" is an abbreviation of the ateji for "Holland" (阿蘭陀, or with 2 Kanji 和蘭), o-ran-da, abbreviated to "ran" – because it is the emphasized syllable; cf. List of foreign place names in Japanese). The second character "gaku" means "study" and "learning".

Rangaku (Kyūjitai: /Shinjitai: 蘭学, literally "Dutch learning", and by extension "Western learning") is a body of knowledge developed by Japan through its contacts with the Dutch enclave of Dejima, which allowed Japan to keep abreast of Western technology and medicine in the period when the country was closed to foreigners, 1641–1853, because of the Tokugawa shogunate's policy of national isolation (sakoku).
A meeting of Japan, China, and the West, Shiba Kōkan, late 18th century.

Through Rangaku, some people in Japan learned many aspects of the scientific and technological revolution occurring in Europe at that time, helping the country build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base, which helps to explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the forced American opening of the country to foreign trade in 1854.

[original research?]

History[edit]

Account of Foreign Countries (増補華夷通商考, Zōho Kaitsū Shōkō), Nishikawa Joken, 1708. Tokyo National Museum.

The Dutch traders at Dejima in Nagasaki were the only European foreigners tolerated in Japan from 1639 till 1853 (the Dutch had a trading post in Hirado from 1609 till 1641 before they had to move to Dejima), and their movements were carefully watched and strictly controlled, being limited initially to one yearly trip to give their homage to the Shogun in Edo. They became instrumental, however, in transmitting to Japan some knowledge of the industrial and scientific revolution that was occurring in Europe: the Japanese purchased and translated scientific books from the Dutch, obtained from them Western curiosities and manufactures (such as clocks, medical instruments, celestial and terrestrial globes, maps, plant seeds), and received demonstrations of Western innovations, such as the demonstrations of electric phenomena, and the flight of a hot air balloon in the early 19th century. In the 17th and 18th centuries, the Dutch were the most economically wealthy and scientifically advanced of all European nations, which put them in a privileged position to transfer Western knowledge to Japan.[citation needed] While other European countries faced ideological and political battles associated with the Protestant Reformation, the Netherlands were a free state, attracting leading thinkers such as René Descartes.

Altogether, thousands of such books were published, printed, and circulated. Japan had one of the largest urban populations in the world, with more than one million inhabitants in Edo, and many other large cities such as Osaka and Kyoto, offering a large, literate market to such novelties. In the large cities some shops, open to the general public, specialized in foreign curiosities.

Beginnings (1640–1720)[edit]

Painting by Kawahara Keiga: Arrival of a Dutch Ship. Philipp Franz von Siebold at Dejima with his Japanese wife Otaki and their baby daughter Ine observing a VOC ship in Nagasaki Bay using a teresukoppu (telescope).

The first phase of Rangaku was quite limited and highly controlled. After the relocation of the Dutch trading post to Dejima, trade as well as the exchange of information and the activities of the remaining Westerners (dubbed "Red-Heads" (kōmōjin)) were restricted considerably. Western books were prohibited, with the exemption of books on nautical and medical matters. Initially, a small group of hereditary Japanese–Dutch translators labored in Nagasaki to smooth communication with the foreigners and transmit bits of Western novelties.

The Dutch were requested to give updates of world events and to supply novelties to the Shogun every year on their trips to Edo. Finally, the Dutch factories in Nagasaki, in addition to their official trade work in silk and deer hides, were allowed to engage in some level of "private trade". A small, lucrative market for Western curiosities thus developed, focused on the Nagasaki area. With the establishment of a permanent post for a surgeon at the Dutch trading post Dejima, high-ranking Japanese officials started to ask for treatment in cases when local doctors were of no help. One of the most important surgeons was Caspar Schamberger, who induced a continuing interest in medical books, instruments, pharmaceuticals, treatment methods etc. During the second half of the 17th century high-ranking officials ordered telescopes, clocks, oil paintings, microscopes, spectacles, maps, globes, birds, dogs, donkeys, and other 'rarities' for their personal entertainment and for scientific studies.[1]

Liberalization of Western knowledge (1720–)[edit]

Description of a microscope in Various stories about the Dutch (紅毛雑話), 1787.

Although most Western books were forbidden from 1640, rules were relaxed under Shogun Tokugawa Yoshimune in 1720, which started an influx of Dutch books and their translations into Japanese. One example is the 1787 publication of Morishima Chūryō’s Sayings of the Dutch (紅毛雑話, Kōmō Zatsuwa, lit. "Red Hair Chitchat"), recording much knowledge received from the Dutch. The book details a vast array of topics: it includes objects such as microscopes and hot air balloons; discusses Western hospitals and the state of knowledge of illness and disease; outlines techniques for painting and printing with copper plates; it describes the makeup of static electricity generators and large ships; and it relates updated geographical knowledge.

Between 1804 and 1829, schools opened throughout the country by the Bakufu as well as terakoya (temple schools) helped spread the new ideas further.

By that time, Dutch emissaries and scientists were allowed much more free access to Japanese society. The German physician Philipp Franz von Siebold, attached to the Dutch delegation, established exchanges with Japanese students. He invited Japanese scientists to show them the marvels of Western science, learning, in return, much about the Japanese and their customs. In 1824, von Siebold began a medical school in the outskirts of Nagasaki. Soon this Narutaki-juku (鳴滝塾) grew into a meeting place for about fifty students from all over the country. While receiving a thorough medical education they helped with the naturalistic studies of von Siebold.

Expansion and politicization (1839–)[edit]

The Myriad year clock, a Japanese-made perpetual clock-watch (wadokei), made by Tanaka Hisashige in 1851 (National Museum of Nature and Science, Tokyo).

The Rangaku movement became increasingly involved in Japan's political debate over foreign isolation, arguing that the imitating of Western culture would strengthen rather than harm Japan. The Rangaku increasingly disseminated contemporary Western innovations.

In 1839, scholars of Western studies (called 蘭学者 "rangaku-sha") briefly suffered repression by the Edo Shogunate in the Bansha no goku (蛮社の獄, roughly "imprisonment of the society for barbarian studies") incident, due to their opposition to the introduction of the death penalty against foreigners (other than Dutch) coming ashore, recently enacted by the Bakufu. The incident was provoked by actions such as the Morrison Incident, in which an unarmed American merchant ship was fired upon under the Edict to Repel Foreign Ships. The edict was eventually repealed in 1842.

Rangaku ultimately became obsolete when Japan opened up during the last decades of the Tokugawa regime (1853–67). Students were sent abroad, and foreign employees (o-yatoi gaikokujin) came to Japan to teach and advise in large numbers, leading to an unprecedented and rapid modernization of the country.

It is often argued that Rangaku kept Japan from being completely uninformed about the critical phase of Western scientific advancement during the 18th and 19th century, allowing Japan to build up the beginnings of a theoretical and technological scientific base. This openness could partly explain Japan’s success in its radical and speedy modernization following the opening of the country to foreign trade in 1854.


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by kabu_kachan | 2018-01-17 21:30 | 歴史 | Comments(0)