カテゴリ:歴史( 67 )

大東亜戦争(太平洋戦争)とは何だったのか?

【終戦70周年だからではない。この大東亜戦争で310万人の日本人が死んでいるのである。このテーマは、これから先も日本人が永遠に問い続けなければならないのである】



★さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U


【水間政憲】従軍慰安婦捏造の根源「アメリカ」の真実[桜H25/8/26]
https://www.youtube.com/watch?v=NI1mUpEhack


『凛として愛』
https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg&index=47&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

https://www.youtube.com/watch?v=ySUiFmRTdjQ



●世界通念と白人世界


十八世紀がスペイン、ポルトガルの時代ならば、十九世紀はイギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカの世界となる。イギリスに起こった産業革命で鉱工業は飛躍的に進歩し、各国はその資源の入手と製品の捌け口を獲得する為、右手に剣を翳し左手に聖書を掲げて、世界制覇に乗り出した。即ち海外発展である。戦前の地図を見れば一目瞭然であるが、殊にイギリスは「我が領土に太陽の沈む所なし」と豪語しており、重要資源の殆んどが白人の手に握られていた。そして徳川幕末の頃には、アジアで彼等の植民地か支配権に入っていない国は日本しか残っていなかったのである。

幕末に渡来したペリーは、日本と仲良く貿易しようなどと、生易しい目的で来たのではない。英、仏、露も皆同じく、日本を属国に、あわよくば植民地にして自国の勢力圏に収めようという野望を持って、日本を屈伏させる目的で、遠く海を越えてやって来たのである。阿片戦争で屈辱的条約を結ばされた清国の悲劇を目の辺りにした日本の恐怖は、とても今の感覚では想像できないものがあったろう。

当時欧米諸国は武力を以て他国を征服し、支配権を拡張することに依って自国を発展させる最良の手段と為し、それが世界通念として認められていた時代であった。即ち帝国主義が全世界を風靡していた時代背景に於いて、彼等は我こそは祖国に忠実な愛国者であり、進取の気性に富んだ勇敢な戦士であると自認していたのである。その昔倭寇の血を引く江戸時代の人達も、若し鎖国がなかったならば、同じようにその仲間入りをして、フィリピン辺りを領土にしていたかも知れない。

現代では、帝国主義による拡張政策は侵略と呼ばれ、国家悪の元凶と考えられるようになったが、それは大東亜戦争という試練を経て会得した人類の思考の進歩であり、多大の犠牲を払ったあげくに達し得た理念である。換言すれば、大東亜戦争という一大転機がなかったならば、依然として帝国主義の世界が続いており、各国は領土拡張に鎬を削っていたであろう。

ここに於いて考えるべきことは、大東亜戦争に於いて日本は中国大陸をはじめマレー半島諸域及南洋諸島を悉く制圧はしたが、全てを独立させたことである。弱小民族の解放であり、彼等には迷惑をかけたがこれ以上の贈物はない。追放された白人達が、自分達のかつての侵略を棚に上げて限りなく日本を恨んで、戦勝国の名のもとに侵略国の汚名を着せたのである。


戦前には、白人種の前に卑屈な程に跪いていた有色人種が、何故、急速に自信と自覚を持つようになったのだろうか。戦後、英国宰相チャーチルが述懐して次のように言った。

「英帝国が終焉した理由は、英軍がアジア人の目の前で日本軍に惨敗したからである。一度失墜した権威を、もう一度掲げることは出来っこない。英軍は戦後も依然として強力だが、しかし世界の人々は、英軍がアジア人に負けたのを見てしまった」。

有色の日本人がホンコン、シンガポールで英軍に大勝し、フィリッピンの米軍を駆逐したのを目のあたりに見た世界の有色民族から、長年の間に習性とまでになったいた白人隷属の卑屈な気持ちがヴェールを剥がすかのように一掃され、「白人優位、白人不敗」の神話は、これを機に音を立てて崩壊したのであった。

白人優位の帝国主義世界が続く限り、日米戦争が昭和十六年に勃発しなくても、何年後かに起こったであろうところの避けて通ることの出来ない宿命であったと思われる。まさに大東亜戦争は、有色人種の白色人種に対する壮絶なる巻き返しであり、そしてその力と気迫を持っていた国は、その当時は日本しかなかったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=buELxe1Wwa4

このように此の黄白戦を見ると、日本は戦争に敗れたものの、四十余年がかりで大東亜戦争の戦争目的(政治目的)を立派に達成したと言う事が出来る。古今東西永遠に続く戦争はない。しかし政治は永遠に継続し、しかもそれは過去の足跡の上に積み重ねられるものである。

そして、この黄白の決闘以来、それまで世界の通念となっていた帝国主義が崩れ、国威宣揚の方策であり、美謀でさえあった戦争が罪悪という観念に変わり、世界平和と万邦協和こそ、それぞれの国が繁栄する最良の方法であることを知らされたのである。



●アジア諸民族の解放

戦前の世界地図を見れば一目瞭然である。世界の大部分が白人の植民地であり、支配地域であった。第一次世界大戦の後設けられた国際連盟は、白色人種だけの繁栄と幸福を図ることを目的とした機関であり、有色人種は白色人種に奉仕する為の存在でしかなかった。戦後民族自決の気運が急速に高まり、日本が標榜したアジア諸民族の解放はアジアのみに止どまらず、全世界から植民地が一掃されるに至ったのである。大正時代、国際連盟で人種差別撤廃を提案した日本が、白人諸国の大反対で否決されたことを思うと、まさに今昔の感がある。

https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp&index=1


戦勝国またはこれに準ずる国が戦後失った植民地、保護領自治領などの支配地は、主としてアジア、アフリカ、大洋州などの後進地域に多く、如何に白人が世界を制覇していたかが解る。

ソ連と中共は広大な領土を簒奪し、武力で他国を押さえ付けていたが、力による征服には必ず末路があり、平成になってソビエト帝国は崩壊し、中共の崩壊も時間の問題となりつつある。

神風特別攻撃隊

https://www.youtube.com/watch?v=0eXsQo-CpOg


https://www.youtube.com/watch?v=vOJ274wBTZc

祖先の目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI


●ミッドウェー海戦(1942年6月4日~1942年6月6日、米国の勝利)
米国の被害:空母1隻沈没、駆逐艦1隻沈没、戦闘機150機破壊、死者307名
日本の被害:空母4隻沈没、重巡洋艦1隻沈没、重巡洋艦1隻損傷、戦闘機248機破壊、死者3057名

ミッドウェー海戦
https://www.youtube.com/watch?v=H8QnJ-VIPCA


●ガダルカナル島の戦い(1942年8月7日~1943年2月9日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者7100名、捕虜4名
日本の被害:戦死者3万1000名、捕虜1000名


●ブーゲンビル島の戦い(1943年11月1日~1945年8月21日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者727名
日本の被害:戦死者1万8500名~2万1500名


●タラワの戦い(1943年11月20日~1943年11月23日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1696名、負傷者2101名
日本の被害:戦死者4690名


●クェゼリンの戦い(1944年1月31日~1944年2月7日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者348名、負傷者1462名、行方不明者183名
日本の被害:戦死者7800名、捕虜253名


●トラック島の戦い(1944年2月16日~1944年2月17日、米国の勝利)
米国の被害:空母1隻損傷、戦艦1隻軽度の損傷、戦闘機25機破壊
日本の被害:巡洋艦3隻沈没、駆逐艦4隻沈没、補助巡洋艦3隻沈没、潜水艦2隻沈没、小型戦闘艦3隻沈没、貨物船32隻沈没、戦闘機270機破壊


●エニウェトクの戦い(1944年2月16日~1944年2月23日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者313名、負傷者879名、行方不明者77名
日本の被害:戦死者3380名、捕虜105名


●サイパンの戦い(1944年6月15日~1944年7月9日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者3426名、負傷者1万364名
日本の被害:戦死者2万4000名、自殺5000名、捕虜921名

サイパン島攻防戦カラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=3Znjuzm2Miw


●フィリピン海海戦(1944年6月19日~1944年6月20日、米国の勝利)
米国の被害:戦艦1隻損傷、戦闘機123機破壊
日本の被害:空母3隻沈没、タンカー2隻沈没、戦闘機550~645機破壊


●グアムの戦い(1944年7月21日~1944年8月10日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1783名、負傷者6010名
日本の被害:戦死者1万8337名、捕虜1250名


●テニアンの戦い(1944年7月24日~1944年8月1日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者326名、負傷者1593名
日本の被害:戦死者5542名、捕虜252名、行方不明者2265名

玉砕の島 テニアン
https://www.youtube.com/watch?v=ow760fa-jJ8


●ペリリューの戦い(1944年9月15日~1944年11月15日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1508名、負傷者6635名、行方不明者36名
日本の被害:戦死者1万900名、捕虜202名


●レイテ島の戦い(1944年10月20日~1944年12月10日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者3504名、負傷者1万1991名
日本の被害:戦死者5万名、捕虜389名


●レイテ沖海戦(1944年10月24日~1944年10月25日、米国の勝利)
米国の被害:軽空母1隻沈没、護衛空母2隻沈没、駆逐艦2隻沈没、護衛駆逐艦1隻沈没、戦闘機200機破壊、死傷者2800名
日本の被害:空母1隻沈没、軽空母3隻沈没、戦闘艦3隻沈没、巡洋艦10隻沈没、駆逐艦11隻沈没、戦闘機300機破壊、死者数12500名


●ルソン島の戦い(1944年12月15日~1945年7月4日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者8310名、負傷者2万9560名
日本の被害:戦死者20万5535名、捕虜9050名


●マニラの戦い(1945年2月3日~1945年3月3日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1010名、負傷者5565名
日本の被害:戦死者1万6665名


●硫黄島の戦い(1945年2月16日~1945年3月26日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者6821名、負傷者1万9217名
日本の被害:戦死者1万8844名

実録 硫黄島玉砕
https://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY


●ミンダナオ島の戦い(1945月3月10日~1945年08月15日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1041名、負傷者3545名
日本の被害:戦死者1万9265名、捕虜1700名、行方不明者8235名


●ビサヤ諸島の戦い(1945年3月18日~1945年7月30日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者835名、負傷者1905名
日本の被害:戦死者1万4300名、負傷者1230名


●沖縄戦 (1945年4月1日~1945年6月21日、米国の勝利)
米国の被害:戦死者1万2000名以上、負傷者3万8000名以上
日本の被害:戦死者11万名以上、捕虜7000名以上

カラー映像で見る、沖縄戦
https://www.youtube.com/watch?v=tbomoVXRya4

★本当のことがわかる昭和史
https://www.youtube.com/watch?v=FcXUdAO0ngc


★ユダヤ米国 の <三大日本人虐殺>

http://kabukachan.exblog.jp/18798239/

●アメリカのユダヤ性
https://www.youtube.com/watch?v=by4OZfGhjgw

https://www.youtube.com/watch?v=oza0ROLO3hw

第1位 広島原爆投下(当時の死者数 14万人)
    日時<1945年(昭和20年)8月6日>

第2位 東京大空襲(当時の死者数 10万人)
    日時<1945年(昭和20年)3月10日>

第3位 長崎原爆投下(当時の死者数 7万人)
    日時<1945年(昭和20年)8月9日>


http://satehate.exblog.jp/7590315

http://kabukachan.exblog.jp/18798239

カーチス・ルメイが世界に誇る<日本焦土化作戦>

http://kabukachan.exblog.jp/22478581/





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by kabu_kachan | 2015-08-15 02:56 | 歴史 | Comments(0)

真珠湾攻撃と暗号解読

【相手国に宣戦布告をして戦争を始めた例は、歴史上、日本だけである】


現に、パールハーバー攻撃が開始される数時間前、マレーにおいて日本陸軍との戦端が開かれたイギリスでは、「だまし討ち」など一言も触れていません。

実は戦争前に宣戦布告を書面にして相手国に手交し、その後、戦端を開くなど、どこの国もやったことのないんですね、「今から開戦します」「さあ、お互い頑張りましょう」という戦争は、現実には起こりえません。


ヨーロッパで繰り返されてきた幾百・幾千という戦争、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国によるアジア・アフリカ・中東諸国への侵略戦争、第1次世界大戦しかり、第2次世界大戦の端緒となった独ソのポーランド侵攻やドイツのヨーロッパ侵攻そしてドイツのソ連侵攻、連合軍に加盟した多くの国々も、そしてソ連が日ソ中立条約を破り満州への侵略を始めた時も、 事前に宣戦布告などありませんでした。

さらに言えば、戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争も宣戦布告はありません。


それまでの世界の戦争慣例では、一発目をくらわせてから、自国の国民に向かって発表するのが 『宣戦布告』 の手続きです。日本も、真珠湾及びマレー半島の攻撃を開始した後、天皇陛下の名の元に宣戦布告 『米英両国に対する宣戦の詔書』を大本営から出す手順がしっかりとあり、実際そのようになされました。


「日本に、だまし討ちをされた!」 となったのは、第1次世界大戦で自国とは関係のないヨーロッパの戦場で多くの若者が死に、厭戦気分が蔓延していた当時のアメリカ国民を一気に戦争へと向かわせるため、ルーズベルト大統領(選挙戦において「あなたたちの子供を戦場には出さない」ということを公約にしていた)が策略した『作り話』だった。(と書いた本もいっぱい出てますよ)

真珠湾攻撃の真実を語る。2016年を振り返って。ほか、高山正之、が解説
https://www.youtube.com/watch?v=d4tkL4Wm44k

日本人よ目覚めよう
https://www.youtube.com/watch?v=lS0u6as6KAM

https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg&index=47&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

https://www.youtube.com/watch?v=PzymgZVDPAM&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp&index=14

★世界は日本をどう見ているか 

https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM

★世界が語る神風特別攻撃隊
https://www.youtube.com/watch?v=buELxe1Wwa4&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp&index=7

★なぜ、日本はアメリカと戦争をしたのか?
https://www.youtube.com/watch?v=6aFAw0i-lJQ

★神風特別攻撃隊(さくら)
https://www.youtube.com/watch?v=YfNAXY0BqsA&index=6&list=RDdSJxcPsY4B8


https://www.youtube.com/watch?v=EHZYOPI89SY&index=11&list=RDdSJxcPsY4B8

★日本人が知っておきたい戦争の真実Part.Ⅱ
https://www.youtube.com/watch?v=C8Ob-MqkfPI

日露戦争の世界史的意義

http://kabukachan.exblog.jp/19062401/

大東亜戦争の世界史的意義

http://kabukachan.exblog.jp/19094794/

★以下は、ケント・ギルバート著『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』からの引用である。

https://www.youtube.com/watch?v=0jLYMoDFIFY


真珠湾攻撃をアメリカがまったく予期していなかったというのが、今でも日米における基本的な「定説」になっていますが、これを額面どおりに受け取る人は勉強不足です。いくつもの事実が、この「定説」をを疑わせるに十分な証拠を提示しているからです。

https://www.youtube.com/watch?v=b87Rx4IV1no

たとえば、日本がハル・ノートを受け取った翌日の昭和16年(1941)11月27日には、ハワイの海軍基地司令官キンメルが、ワシントンから「戦争の脅威が逼迫している」という至急電報を受け取っています。そこでキンメルは早速ハルゼー提督に対し、空母「エンタープライズ」などからなる艦隊を出港させ、アメリカ海兵隊VMF-211飛行隊のポール・パトナム少佐指揮下の戦闘機を、ウェーキ島に派遣し、防備を固めるように命じました。このときハルゼーは、「これら海兵隊機はまさにライオンの口の中に飛び込むようなものだ」と感じており、ウェーキ島に行く途中に日本軍と遭遇したらどうすべきかと問うたところ、キンメルは「常識でわかるだろう」と返したと言います。つまり、敵を見たらやっつけろということですね。

また、この際に輸送される戦闘機隊を率いたパトナム少佐が、太平洋上の空母艦内で書いた12月3日付の手紙には、同艦隊の行動が最高レベルの機密扱いにあり、また連日、かなりの遠距離まで同戦闘機隊が偵察哨戒飛行を行なっていることを記したうえで、「それら(著者注:少佐の指揮する戦闘機部隊)は完全武装しており、日本軍の艦船や航空機を発見したら、我の部隊の発見を知らしめないために、それらを攻撃せよという命令となっています」と書いています(アメリカ海兵隊司令部広報部歴史家R・D・ヘインル・ジュニア准将著"Defense of Wake"P9)。

つまり、アメリカは前線部隊の将校に至るまで、ハワイに近いこの海域において日本海軍が出現し、交戦状態となる可能性が高いことを十分に知っていたわけです。
それどころか、当時の駐日アメリカ大使のグル―は、開戦の約一年前、昭和16年(1941)1月27日の段階でアメリカ国務省に対し、駐日ペルー大使や(酔っぱらった)日本人情報源からの情報として、もし日米関係が「トラブル」に陥った際には、日本軍が真珠湾に対して大規模な奇襲を仕掛けるという計画がある、ということを公電で報告さえしているのです(J.Robert Moskin,"American Statecraft: The Story of the U.S. Foreign Service" P403)。


これは、山本五十六が真珠湾攻撃を決断した直後の話であり、いかに日本海軍の情報が暗号以外でも漏れていたのかということがわかる、かなり情けない逸話ですが、このグル―大使は開戦直前の11月の段階でも、日本が真珠湾に対して軍事攻撃を行なうであろうことをワシントンに報告しています。


日本の情報がダダ漏れ状態であった理由の一つは、日本の暗号の多くが解読されていたからです。たとえば日本の外務省の暗号は、真珠湾攻撃の前に完全に解読されていたという事実は、もう今では周知のことです。

しかし日本側は、そのことにはほとんど気づいていませんでした。その証拠に、ハワイの日本領事館にいた喜多長雄総領事は、真珠湾内の艦船の動向を日本に向けて、開戦直前の段階でも発信し続けていましたが、それらはほとんどワシントンの暗号解析チームによって解読されていたこともわかっています(John Hohenberg,"Foreign Correspondence: The Great Reporters and Their Times P211)。


一方、日本海軍の暗号については、昭和17年(1942)のミッドウェー海戦の頃まで破られなかったというのが「定説」ですが、日本海軍の暗号の一部は戦前にはアメリカの手中に落ち、すでに破られていただろうと私は考えています。
「定説」に異を唱えると、なぜか変な圧力がかかってしまいます。私は「全部の海軍暗号」が破られていたとは言いません。しかし少なくとも、戦前に「複数の海軍暗号」がアメリカとイギリスによって解読されていたことは明らかになっています。


1923年の段階で、日本の海軍武官の持っていた暗号書をアメリカ海軍が密かに入手。アメリカ海軍情報部の暗号分析官として有名なアグネス・マイヤー・ドリスコール夫人によって一部が解読されています。この海軍暗号は「レッド」と呼ばれていますが、後に解読された日本外務省の暗号も同じく「レッド」と呼ばれており、混同しやすいので注意が必要です。


また、JN-39という日本の商船専用の暗号は、昭和15年(1940)5月の段階で解読されていますし、その他の一部の海軍暗号も、戦前からシンガポールにあったイギリス軍によっても解読されており、とくにイギリスの解読した暗号が日本海軍の開戦準備行動の兆候を捉えたともいわれます(Michael Smith,"The Emperor's Codes: Bletchley Park and the breaking of Japan's secret ciphers"P93)。


日本海軍の暗号の中でも最も難しかった一つは、JN-25というものであり、これがミッドウェー海戦の頃までまったく解読されなかったといわれています。これは確かに、真珠湾の前の段階では10パーセントほどしか解読されていなかったようです。一方でJN-25は、真珠湾前にはほとんど使われておらず、日米開戦後になってようやく大量に使われるようになったものだという話もあります。
これらの事実から見ても、「日本海軍の暗号がまったく解読されていなかった」という文章は間違いだとわかります。アメリカやイギリスは必死になって海軍暗号の解読を試みていたし、一部ではかなりの成果を挙げていたわけです。


また、日本の機動部隊が成功裏に行なったという「完全無線封鎖」の話ですが、実際に、真珠湾攻撃に参加した空母「赤城」の長谷川喜一艦長の日誌(12月6日付け)には、「一七〇〇作戦緊急信にて通信部隊発信  ハワイの北方八〇〇海里に敵潜一隻、他の一隻と通信しつつあり。吾連合方位測定中との情報あり。吾等の航行付近なれば一寸緊張させられる」と書かれているのです。


これは間違いなく、ハワイの北方八〇〇カイリにに敵潜水艦がいたことを把握した機動部隊の前哨部隊が、「無線」を発した話をしているわけです。しかも、アメリカの潜水艦もまた、機動部隊の位置を把握しようとしていることがうかがえます。


ハワイへの攻撃を予期し、あるは感づいていたのは、何もワシントンやアメリカ軍だけではありません。実は開戦の一週間以上前の11月30日、地元ハワイの複数の新聞は、「来栖が憮然として警告ー我が国は戦争の準備ができている」「今週末、日本がハワイを攻撃する可能性」などと報じており、かなりの情報がワシントン以外にも漏れはじめていたことがわかっています。


私が指摘したいのは、アメリカによる日本海軍の暗号解読状況や、日本機動部隊の完全無線封鎖の詳細ではなく、日本を散々挑発し、またこれだけ事前の兆候が多くあったにもかかわらず、アメリカが本当に日本の攻撃をまったく予測していなかったわけがないということなのです。


もし本当に何も知らなかったとすれば、我が祖国は相当に無能な国家ということのなりますが、もちろん、そんなことはありません。すべてを仕掛けたのはルーズベルト本人だったからです。

前述のとおり、ルーズベルト大統領はアメリカ国民に「攻撃を加えられた場合を除いて」、外地での戦争に息子たちを送りはしないと、アメリカ国民に対して繰り返し訴えていました。その一方で彼は、イギリスのチャーチル首相に対し、アメリカを戦争に参戦させる約束を交わしています。


それどころかルーズベルトは、
「私は決して宣戦はしない。私は戦争をつくるのだ」とさえ語っており、
真珠湾の前日に行なった家族との食事の席上では、
「明日、戦争が起こる」とまで述べているのです。


これだけの証拠や証言がありながら、しかも情報公開によって証拠は今後も強化されるというのに、従来の「定説」を必死に擁護し、「陰謀論者」や「歴史修正主義者」などのレッテルを貼るワンパターンな方法で、真実の隠蔽に必死な人たちを見かけると、「天動説」を支持した中世のキリスト教徒を見ているようで、もはや憐れみさえ覚えてしまいます。


Pearl Harbor & F.D.R. Conspiracy
https://www.youtube.com/watch?v=qR8Oe3mDF0s


★NHKスペシャル【真珠湾攻撃~暗号を解いた情報部員たち~】
https://www.youtube.com/watch?v=vQ4n3l9JtpA

★世界支配者となった偽ユダヤ・ハザール人と悪魔教タルムード
https://www.youtube.com/watch?v=bkwxS_I8mfk

★LOOSE CHANGE 911の嘘をくずせ
https://www.youtube.com/watch?v=oCw51psnjrk

★「俺たちはCFRが911テロを指揮したってことを知っているんだ!」
https://www.youtube.com/watch?v=Usbb5t5YqB4



【旧海軍の暗号方式  真珠湾前に解読 米軍史料発見で新説】

「ハワイ・真珠湾攻撃の前に、米側が、旧日本海軍が作戦指示に使った暗号をほぼ解読していたとする報告書が、米軍の史料から初めて見つかった」(写真は、「真珠湾攻撃前に旧日本海軍の暗号を解読した」と明記した米軍史料の写し=佐伯友章撮影)

....といった眠くなるようなニュースがいまさら入っています。

●旧 海軍の暗号方式  真珠湾前に解読 米軍史料発見で新説
2011年12月8日 07時03分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011120890070334.html

太平洋戦争が開戦した1941(昭和16)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃の前に、米側が、旧日本海軍が作戦指示に使った暗号をほぼ解読していたとする報告書が、米軍の史料から初めて見つかった。42年6月のミッドウェー海戦前に解読され、米軍の大勝につながったというのが定説だった。米側が開戦前に、旧海軍の動きをかなり把握していた可能性もでてきた。

報告書は「日本から奪った文書が暗号解読にどう役立ったか」との題で四七年三月、米海軍通信機密保全課内で作成された。戦史研究家の原勝洋氏(69)が三年前に米国立公文書館で見つけ、本紙に初めて公開した。

百七ページ、全七章にわたり、太平洋戦争で旧海軍から傍受、収集した各種暗号の解読に至る経過を検証している。第一章の冒頭二ページで、開戦前の解読成功に触れていた。

開戦当時、旧海軍が作戦指示に使った暗号は、まず暗号書で例えば「連合艦隊司令長官旗艦」なら「00867」と、言葉を五桁の数字に変換。その数字を「乱数表」を使って、別の数字に置き換える二段階方式だった。

報告書や原氏によれば、暗号解読の作業を一九三九(昭和十四)年夏から開始。二〇年代初頭、軍や警察のチームがニューヨーク日本総領事館に忍び込み、撮影した古い海軍暗号の法則をヒントに進められた。暗号書と乱数表は、旧海軍が随時、更新していたが、報告書には暗号方式を「真珠湾攻撃の前に解読できていた」と明記している。

ただ当時は米軍も対ドイツの情報収集に忙しい時期だった。報告書では、真珠湾攻撃について「十分な人員さえあれば、奇襲にはならなかっただろう」との注釈を付けている。

このため乱数表の解読で、第一段階となる言葉を数字に直した状態まではつかんでいても、数字に当てはまる旧海軍の専門用語を完全に割り出していなかった可能性もある。ただ原氏は「開戦前に解読していたと明記した史料はこれが初めて。どこまで旧海軍の指示が明らかにできていたかは、検証する必要がある」と話している。

米側は開戦前、日本の外務省が使用する外交暗号の解読に成功したが、より複雑な旧海軍の暗号解読は遅れたという見解が一般的だった。専門家の中には「米国は開戦前の解読で真珠湾攻撃を察知していたが、ルーズベルト大統領の謀略で日本を戦争に誘い込んだ」との主張もあるが、決定的な証拠がなく、論争が続いている。(東京新聞)


「 専門家の中には「米国は開戦前の解読で真珠湾攻撃を察知していたが、ルーズベルト大統領の謀略で日本を戦争に誘い込んだ」との主張もある」のだそうですが....ああ、また眠くなってきた。

そもそも日本に対米攻撃をさせようと仕組んだのがルーズベルト本人であって、1940年に子飼いの海軍大佐二人(Captains Anderson and Knox)に「日本にアメリカを攻撃させる8段階の方法」を研究させ8段階の全てを実行して、その結果、予定通り、首尾よく真珠湾攻撃が行われたのございます。

PEARL HARBOR
MOTHER OF ALL CONSPIRACIES
http://whatreallyhappened.com/WRHARTICLES/pearl/www.geocities.com/Pentagon/6315/pearl.html

暗号解読などとおの昔に終わっていて、連合艦隊の来襲なんぞ、重々わかっていて意図的に放置したわけです。ハワイの2000人はルーズベルトに殺されたというわけです。

攻撃を受けないとルーズベルト・ユダヤ人と背後のユダヤ権力が企図する遠大な計画が進められないからです。日本側の「協力者」もいたようで無事、真珠湾は予定通り攻撃されて、ドイツは日独協定にもとづいて自動的に対米宣戦布告し、米国民は騙されて欧州への派兵反対の声は消え参戦が可能になったわけでございます。米国は欧州戦線に派兵し、戦争は世界大戦へと拡大したのでありました。

ということで、あとは、ローゼンベルト・ユダヤ人とチャーチル・ユダヤ人とスターリン・ユダヤ人とヒットラー・ユダヤ人らによるユダ金さん提供の猿芝居大戦争が展開されたのでありました。(続きは次のRK著書でね。)

06.05.02 ★真珠湾攻撃をしたのはユダヤ人です。(RK文書)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/futuunokaiwa2.htm




このページを面白いと思った諸君、
下 ☟ のページも見てみてくれ。

★「山本五十六」を研究せよ!
http://kabukachan.exblog.jp/25711880/


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by kabu_kachan | 2015-07-13 00:14 | 歴史 | Comments(2)

「吉田松陰」を知れ!

【 吉田松陰 】
よしだ しょういん
(プロフィール)
長州藩士にして思想家、教育者、兵学者。
私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、維新の指導者となる人材を教え育てる。
ペリー再来の時には、密航を企て投獄される。
安政の大獄で再び投獄され、斬首刑に処される享年30(29歳没)。
しかし、その考えや格言は多くの人に影響を与えた。

https://www.youtube.com/watch?v=3Xp0HxvEiBo


幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

生涯

文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた。

しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗(一説ではプチャーチンの暗殺を計画していたともいわれる)。


嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、吉田松陰は幕府に自首した(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。 また、吉田のみならずこの密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命され長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。


★吉田松陰の名言

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)


至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり


志を立ててもって万事の源となす


志士は溝壑に在るを忘れず


己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず


凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし


体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す


人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん


死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし


生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし




宜しく先ず一事より一日より始むべし。


志をたてたなら、まず一つのことから、思いついた日から始めるべきである。

心ある立派な人の務めは、自分の身を修め、
まごころを尽くすことにある。


利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心をみださないといふことである。


学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。
したり止めたりであっては、ついに成就することはない。


今日の読書こそ、真の学問である。


人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。


君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。


君子の言葉を引用した名言です。
「道理に合った行動をすれば、後から利益がついてくる」という意味だそうです。

あまり怒りよると、とうとう腹もなんにも立たぬようになる。


入江杉蔵宛の書簡より。

死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。


高杉晋作に送った言葉。吉田松陰は牢獄の中だったそうです。


人を観察するのは、その人の目によってするのである。
胸のなかが正しいか、正しくないかは、ひとみがはっきりしているか、暗いかによってわかるものである。


一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、
一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。


人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。


汝は汝たり、我は我たり。


人を信ずることは、もちろん、はるかに人を疑うことに勝っている。


(続き)「わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。」吉田松陰『講孟箚記』より。

親思う心にまさる親心。

「辞世の句」より。

志定まれば、気盛んなり。

人は目標が決まれば、意気が高まり、その実現に向けて全力を尽くすことができます。
どのような障害にも立ち向かって、志を実現できるでしょう。


末の世において、道義を実践したならば、必ず、その時の人々から、極端と言われる。
逆に言えば、世人から極端と言われないなら、それは、決して道義ではなく、迎合に過ぎない。


思想を維持する精神は、狂気でなければならない。


小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。


過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ


凡(およ)そ学をなすの要は己(おの)が為にするあり。
己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。


学問をする上で大切なことは、自分を磨き自分を高めることにある。自分のためにする学問は、しっかりした人間を志(こころざ)す人の学である。人にほめられるためにする学問は、とるに足らない人の学である。

教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、
絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない


賢者は議論よりも行動を重んじる。


夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。


「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである。



★死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、

 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。


死んでも後世に残るだろうと考えるなら死んでもいい。
生き延びて大きな仕事ができそうだと思うならどんな状況でも生き続けろ。

★至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり。


誠を尽くして人に接すれば、心を動かさないものはこの世にない。
まごころを十分に発揮しようと思い努力することこそが人の道である。

★士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。


才能がなくても、徳がある人間になり、そして、学識がなくても行動力がある人間になればよい


悔いるよりも今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。

★かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂


★吉田松陰の辞世の句

弟子宛
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」


家族宛
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」


★吉田松陰の思想

【一君万民論】

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。但し、天皇のために万民が死にもの狂いで尽くす事が必要である。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。但し、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。


【飛耳長目】

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。


【草莽崛起】

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。"在野の人よ、立ち上がれ"の意。

安政の大獄で収監される直前(安政8年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。


【対外思想】

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり?略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・?都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲・台湾・フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。
(以上、Wikipediaより)

https://www.youtube.com/watch?v=DzRbED6qy70

★吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作(三人とも20代の若者である)

https://www.youtube.com/watch?v=LEl7QpRAqIM

https://www.youtube.com/watch?v=O-dtmo3rjXY

https://www.youtube.com/watch?v=mO9ibVg7l00

https://www.youtube.com/watch?v=ctFh3U8TU24

★吉田松陰・草莽崛起の思想
https://www.youtube.com/watch?v=NzsWmYLXxsc
https://www.youtube.com/watch?v=dQoF9Ff0rHo
https://www.youtube.com/watch?v=HS0cGYJDfkI
https://www.youtube.com/watch?v=WdqsnYapcD0

★高杉晋作
https://www.youtube.com/watch?v=81ojH0n4Jlo

https://www.youtube.com/watch?v=OkYDPInRxlc

★久坂玄瑞
https://www.youtube.com/watch?v=LIz9DxziZDQ



NHKは国民のお金で番組を作っているにも関わらず、番組をユーチューブに公開しない卑劣な放送局である。


武士の生き様~他人事ではない~                『新・霊界物語 第百八十六話』
https://www.youtube.com/watch?v=ZpLDOljekuY

高杉晋作、男の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=EU2tnCIB4GA




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by kabu_kachan | 2015-03-07 13:37 | 歴史 | Comments(0)

白人至上主義と日露戦争

大航海時代以後の西欧人が新大陸のインディアン、サハラ砂漠以南のネグロイドを差別したことは歴史上では顕著である。また、同じ西欧人であってもアイルランド人など差別を受けた歴史をもつ民族も多い。風説などにより、一方の人種が生物学的に原始的であるとしたり、知能が劣る・野蛮であるとして、野生動物のように考えていた時代もある。大航海時代以後の西欧人は近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していった。植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「白人が、非白人に文明を与えるのは義務である」とされた。この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」という価値観さえ生む結果となった(ラドヤード・キップリング『白人の責務』、セシル・ローズの"神に愛でられし国・イギリス"思想、ヒュー・ロフティング『ドリトル先生』シリーズの『アフリカゆき』『航海記』など)。この考え方は次第に肥大し、学術分野においても各人種間に特徴的な差異を「一方の人種が劣っている証拠」とする説が発表され、優生学の名で正当化された。この中にあって進化論は大いに捻じ曲げられ、後の文化人類学発達を大きく妨げたと考えられる。

当時はチャールズ・ダーウィンらの研究によって生物学(ひいては人種研究)が飛躍的な進化を遂げた時期ではあったが、その研究は現在に比べれば欠陥が多く、導き出された答えにも偏りが存在していた。研究を担う学者達がヨーロッパ人で占められていたのも、人種研究に関する公平さを欠く遠因となった。実際、先述した近代生物学の権威たるダーウィンの従兄弟は、白人至上主義の影響を多分に受け、今日では疑似科学・人種差別思想と考えられている優生学を創始したフランシス・ゴルトンであるが、ダーウィンはゴルトンの優生学に対して一定の評価を与えている。これはゴルトンの優生学のような人種思想が当時の欧州人にとって突飛な意見ではなく、学術的な世界ですら一般的な意見として罷り通っていたことを示している。古典的な段階における植民地主義や帝国主義の場合、この人種差別的なイデオロギーは露骨で素朴な型で広まっていた。


★この白人至上主義を世界史上、初めて打ち砕いたのが日露戦争における日本の勝利であった。
http://kabukachan.exblog.jp/19062401/

http://kabukachan.exblog.jp/22930168/

https://www.youtube.com/watch?v=_QOXodCXpTs

https://www.youtube.com/watch?v=xKj08mdnySs

https://www.youtube.com/watch?v=8wnUvp_zeIc

https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM

https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp



第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議では、日本が「人種的差別撤廃提案」を行なった。イギリスやオーストラリアが強く反対する中で採決が行われ、結果11対5で賛成多数となったが、議長のアメリカ大統領・ウッドロウ・ウィルソンが例外的に全会一致を求めた為、否決された。

1963年11月20日、国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言」を採択。1965年に国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を採択、1969年に同条約が発効した。1996年に日本で同条約が発効。

1976年に、「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める第20条の第2項を含む市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権規約)が成立した。同規約はまた第2条で"締約国は差別的言動を取り締まる法制が自国にない場合、然るべく整備する"、第5条で"差別を行なう自由や権利は何人にもない、本規約はそのような権利自由を認めない"と定める。

2001年、南アフリカのダーバンで開催された「国連反人種差別主義会議」(WCAR)では、南半球の国家代表たちによる人種差別、植民地主義、大西洋横断の奴隷売買、およびシオニズムに対する人種差別非難が相次いだ。会議は、パレスチナ人の権利保護要求、シオニズムに対する満場一致の非難を決議した。米国、イスラエルの代表団は、これに猛反発し、決議をボイコットした。

2009年4月20日からスイスのジュネーブで開催されたWCARでは、米国、イスラエルに加え、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ポーランド、オランダがボイコットした。

http://kabukachan.exblog.jp/22400185/


●インディアンへの差別

アメリカ合衆国は領土拡大の際の邪魔者として、インディアンを徹底的に排除する政策を採った。トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。

「インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添えたのは1879年になってようやくのことである。それ以後もインディアンは「Colored(色つき)」として1960年代までジム・クロウ法の対象とされたのである。

●アジア系住民に対する差別

黄色人種は白人社会から、勤勉さや教育熱心な文化が評価され、確実に白人社会に食い込んでいったこともあり、20世紀後半以降は一方的な搾取を受ける事態には至っていない。北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は有色人種の中にあって高く、平均して白人をしのぐことすら多い。その現れとして、アメリカの大学選考においてアファーマティブ・アクションによる優遇は無く、むしろ不利に設定されている。

一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民や日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も黄禍論を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は太平洋戦争中は市民権を停止され強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他の枢軸諸国出身者やその子孫はほとんど制限をうけることはなかったため、有色人種の日本人に対する人種差別とみなされている。

●南米

スペイン人侵入後の南米は、マヤ、アステカなどの征服地で彼らの国家を武力で滅ぼし、虐待・大量虐殺によって植民地支配し、インディアン、インディオを差別の中に置いた。

スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師がインディアン保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、インディアン(インディオ)で社会階層が分かれている国家が少なくない。

(以上、Wikipediaより)



★自己紹介

平瀬城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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平瀬城
長野県
平瀬城主郭部
平瀬城主郭部
城郭構造山城、居館
築城主平瀬氏
主な城主平瀬氏原虎胤
廃城年1553年
遺構曲輪、土塁
指定文化財なし

平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城

http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Hirase/index.htm

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。




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by kabu_kachan | 2015-01-24 19:00 | 歴史 | Comments(0)

カーチス・ルメイが世界に誇る<日本焦土化作戦>

1942年
●4月18日:【初の本土空襲(ドーリットル空襲)】(死者50人 )米軍が、東京の約800km東に停泊した空母から発艦のジミー・ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市、神戸市を奇襲攻撃。被害家屋262戸。 初の日本本土空襲。

1944年
●6月15日:【八幡空襲】 米軍のB-29爆撃機が初めて北九州を空襲。中国・成都基地から北九州の八幡製鉄所へ飛来・爆撃した。
●8月:疎開船「対馬丸」が撃沈された(死者1500名)。8月22日は、昭和19(1944)年に、沖縄からの疎開船「対馬丸」が、悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて学童700名を含む1500名が海没した日です。


●10月10日:【十・十空襲(那覇空襲)】(死傷者約800人) 米海軍機のべ900機(日本側発表500機)が沖縄県全域に対しての空襲。米軍が焼夷弾を初めて戦闘に使用した。那覇市では市街地の9割が焼失して市は壊滅した。本土初の本格的都市空襲。
●10月25日:【大村大空襲】(死者約500人) 東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を空襲。
●11月24日:【東京空襲】 東京・武蔵野町(現=武蔵野市)の中島飛行機工場に対する空襲が行われた。

1945年
●1月27日:【東京空襲】(死者449人) 米軍のB29爆撃機72機が東京・有楽町、銀座地区を空襲。




●3月10日:【東京大空襲】(死者約10万人)
カーチス・ルメイの指揮する米軍のB29爆撃機325機が東京を空襲。 午前0時7分東京湾上すれすれの低空から江東地域の爆撃が開始され、午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始された。まず人口密集地帯の周囲を火の壁で包囲し、逃げ道を失った人びとの頭上に、連続波状攻撃をかけた。 投下された爆弾は高性能焼夷弾など約38万発、総計約1,700トンであった。 5、6時間で26万戸の家屋が焼失し、死者約10万人、重軽傷者約11万人、罹災者の数は89万人にのぼりその多くが非戦闘員だった。
世界戦史上、わずか数時間で10万人が戦死したという記録は他にない。

これ☟ 何の表彰状かわかりますか?


https://www.youtube.com/watch?v=tXzyusfuFTo

https://www.youtube.com/watch?v=MKIeqsdWC1U&ebc=ANyPxKp2oUIPQ5KhGOza-1ItWJBJJdbwLMfN6GWhJ_9J55dV0xkvskJIi2iAniHAe4frzuhtnfo50aNHIirrSo0LUPyYzFV8Ug

https://www.youtube.com/watch?v=v4MIxvFU654

https://www.youtube.com/watch?v=M-vresuzSgU

https://www.youtube.com/watch?v=WQGfKlciL0o

https://www.youtube.com/watch?v=fY29PFmb_Dk

https://www.youtube.com/watch?v=lKnnVF3h6sE


★東京大空襲(日時1945年3月10日)・世界史上最大の日本人大虐殺

http://kabukachan.exblog.jp/19630838/


焼け野原の東京



●3月12日:【名古屋大空襲】(死者約602人) 米軍のB29爆撃機288機が名古屋を空襲。全焼約3万戸。
●3月13日~14日:【大阪大空襲】(死者約4,000人) 米軍のB29爆撃機274機が大阪を空襲。 焼失約13万戸。
●3月17日:【神戸大空襲】(死者約2600人) 米軍のB29爆撃機309機が神戸を空襲。 全焼6万5千戸、罹災者23万6千人。
●3月19日:【名古屋空襲】(死者1037人) 午前2時頃、米軍の爆撃機230機が名古屋市の市街地を空襲。 家屋約4万棟が焼失し、中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となった。 罹災者約15万人。
4月8日 玉野空襲
4月12日 郡山空襲

●4月13日:【城北大空襲】 (死者2459人) 米軍のB29爆撃機330機が東京の主として豊島・渋谷・向島・深川方面を空襲。、焼失20万戸。
●4月15日:【東京空襲】(死者841人) 米軍のB29爆撃機202機が東京の主として大森・荏原方面を空襲。 焼失6万8400戸。
●4月15日:【川崎大空襲】(死者約1000人) 夜半から16日未明にかけ米軍のB29爆撃機約200機が川崎を空襲。 川崎駅周辺や臨海部の工業地帯、川崎大師などに大きな被害が出で川崎区の大半が焼失した。
●5月10日 【徳山大空襲】(死者500人以上) 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。負傷者約1000人。  

●5月11日:【神戸空襲】(死者1093人)
米軍のB29爆撃機92機が神戸を空襲。
●5月14日:【名古屋空襲】 米軍のB29爆撃機480機が名古屋を空襲。名古屋城が焼失した。  
●5月24日:【東京空襲】(死者762名) 米軍のB29爆撃機525機が東京の主として麹町・麻布・牛込・本郷方面を空襲。 。焼失6万5000戸。
●5月25日:【東京空襲】 (死者3651人) 米軍のB29爆撃機470機が東京の主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面を空襲。焼失16万6千戸。
●5月29日:【横浜大空襲】(死者約1万人) 米軍のB29爆撃機約500機、P51約500機が横浜市中心地域に2,570トンの爆弾を投下し、ほぼ全域が焼失した。特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ヶ谷区星川町、南区真金町地区一帯。 、罹災者32万3,000人、全焼家屋約3万戸。
原爆投下目標だったため空襲をまぬがれていたが、28日に除外された。
●5月31日:【台北大空襲】(死者約3,000人) 台北市を空襲。
●6月1日【大阪大空襲】(死者3150名) B29・474機。焼失6万戸
●6月1日 【尼崎空襲 】(死者231人)【奈良空襲】
●6月5日:【神戸空襲】(死者3184人) 米軍のB29爆撃機481機が神戸を空襲。 、全焼5万5千戸、罹災人口21万3000人。

●6月7日:【大阪空襲】(死者1594人) 米空軍のB29爆撃機250機が大阪を空襲。 焼失5万6千戸。
●6月9日:【熱田空襲】(死者約2068人) 米軍のB29爆撃機47機が愛知県の熱田を空襲。
●6月10日 【日立空襲】 (死者1200人)
●6月10日:【千葉空襲】(死者152人) 米軍のB29爆撃機約100機が千葉を空襲。
●6月15日:【大阪空襲】(死者418人) 米軍のB29爆撃機469機がを空襲。 、焼失4万9千戸。
●6月17日 【鹿児島大空襲】(死者2,316人) B29・117機、焼夷弾810トン。負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
●6月18日:【浜松空襲】(死者1720人)焼失家屋15,400戸。
●6月18日 【四日市空襲】(死者736人) B29・89機。負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
●6月19日:【福岡大空襲】(死者約902人) 米軍のB29爆撃機239機が福岡を空襲。 罹災者約6万人。

●6月19-20日 【豊橋空襲】(死者624人) B29・136機。
●6月20日【静岡大空襲】(死者1,952人) 深夜から20日未明にかけて米軍のB29爆撃機137機が旧静岡市街地を空襲。 負傷者5,000人、焼失家屋26,891戸。
●6月21日:【名古屋空襲】( 死者426人 )米軍のB29爆撃機120機が名古屋を空襲。
●6月22日 【姫路空襲】(死者341人)川西航空機姫路製作所とその周辺。 B29・約60機、罹災者10220人。
●6月22日 【水島(現倉敷市)空襲】( 死者11人)重軽傷者46人。
●6月22日 【各務原空襲】(死者169人)現航空自衛隊岐阜基地付近。B29・44機。

●6月22日 【呉空襲】(死者1600人) 工廠への爆撃。
●6月26日 【奈良空襲】
●6月26日:【大阪空襲】(死者592人) 米軍のB29爆撃機約100機が大阪を空襲。 焼失約9千戸。
●6月28日 【呉大空襲】
●6月29日:【佐世保大空襲】(死者約1,300人) 米軍のB29爆撃機141機が佐世保を空襲。雨の深夜に不意を突かれた。 罹災者約6万5,000人。
●6月29日:【岡山空襲】( 死者1737人) 米軍のB29爆撃機約70機が岡山を空襲。岡山城や後楽園などの文化財も焼失。罹災者12万人。罹災家屋2万5,000戸。
●7月1-2日 【熊本大空襲】( 死者数469人)午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)市街地の約20%を焼失。、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人。
●7月1日-2日 【呉市空襲】(死者3,700人) B29・150機。
●7月2日 【下関空襲】 (死者324人)B29・143機。。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。

●7月3日:【姫路大空襲】(死者173人) 深夜から4日未明にかけ、米軍のB29爆撃機107機が野里方面を除く姫路全市を空襲。市街地の大半が焼け野原に。姫路城は焼失を免れた。
●7月4日:【高松空襲】( 死者1359人) 米軍のB29爆撃機90機が高松を空襲。罹災家屋18,913戸、罹災者8万6400人。
●7月4日 【徳島大空襲】(死者約1,000人) B29・129機。けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
●7月4日 【高知大空襲】(死者401人) B29・120機。罹災家屋約12,000戸。

●7月6日:【千葉空襲】(死傷者1679人) 米軍のB29爆撃機124機が千葉を空襲。
●7月6日:【甲府空襲】(死者1027人) 米軍のB29爆撃機131機が甲府を空襲。 全焼1万7920戸。
●7月7日 【清水大空襲】(現在の静岡市清水区) 
●7月9日:【和歌山大空襲】(死者約1200人)
夜から10日未明にかけて米軍のB29約100機が和歌山の紀ノ川北岸から和歌山市中心部にかけてを空襲。 和歌山城が炎上、国宝の天守閣をはじめとする多数の国宝や建築物が焼失した。

●7月9日:【堺空襲】(死者1860人) 米軍のB29爆撃機約100機が堺を空襲。 焼失1万8000戸。
●7月9日:【岐阜空襲】(死者約900人)
米軍のB29爆撃機約130機が岐阜を空襲。
●7月10日:【仙台空襲】(死者約1,000人) 米軍のB29爆撃機124機が午前0時3分より約2時間にわたって仙台を空襲し、約11万個の焼夷弾を投下した。 市街地の17%にあたる5平方キロメートルで約1万2000戸が被災し中心部は焦土と化した。 被災者約6万人。  
●7月12日:【宇都宮大空襲】(死者628人) 午後11時12分、米軍のB29爆撃機133機が宇都宮市を空襲、市街地の大半が焼失した。隣接の鹿沼市にも空襲。 罹災者約4万8000人。  
●7月12日:【敦賀空襲】(死者109人)
●7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。(少なくとも死者515人)
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土と青森県に及んだ。青函連絡船全12隻も被害に遭い、青函航路が途絶した。
●7月15日 室蘭艦砲射撃。(死者436人)室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。

●7月16日:【大分空襲】 夜半から17日にかけて米軍のB29爆撃機30数機が大分市の中心部を空襲。 2358戸が焼失。
●7月16日:【平塚大空襲】(死者343名)
米軍のB29爆撃機136機が平塚を空襲。市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
●7月17日:【沼津空襲】 (死者274人)
●7月17日:【桑名空襲】(死者416人、行方不明者51人) 未明、米軍のB29爆撃機が三重県・桑名を空襲。市内の約80%が焼失。
24日、午前10時頃からの攻撃で市内西北部一帯が粉砕された。
●7月17日 日立艦砲射撃。(死者317人)アメリカの戦艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻とイギリスの戦艦3隻によるもの。

●7月19日:【福井空襲】(死者1576人)
米軍のB29爆撃機128機が福井を空襲。
●7月19日:【日立空襲】(死傷者2199人)
米軍のB29爆撃機127機が日立を空襲。
●7月19日:【銚子空襲】(死傷者1181人)
米軍のB29爆撃機91機が銚子を空襲。
●7月19-20日 【岡崎空襲】(死者203人) B29・126機。
●7月24日 【半田空襲】(死者269人) B29・78機。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
●7月24日、28日 【津大空襲】 (死者1,239人)旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
●7月24日、28日 【呉軍港空襲】(死者780人) 米艦載機950機、B29・110機。航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 。

●7月24日:【大阪空襲】(死者187人)
米軍のB29爆撃機約400機を含む大小2,000機が大阪を空襲。 焼失554戸。

●7月25日【保戸島空襲】(児童125人、教師2人が即死)
米軍グラマン戦闘機が大分県津久見市保戸島を空襲。 3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現=津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死。
●7月26日 【松山大空襲 】(死者301人)B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。なお、松山地方裁判所検事正からの7月30日付の報告書には、死者301名、重軽傷者520名、行方不明12名、罹災民約82,000名と記されている。
7月26日 平空襲

●7月26日 【徳山空襲】(死者482人) B29・約100機。負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。

●7月28日:【青森大空襲】(死傷者1767人) 米軍のB29爆撃機61機が青森を空襲。午後10時37分に焼夷弾の投下を始め午後11時48分まで8万3000本の焼夷弾が降り注いだ。従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾の実験場にされた。 市街地の88%の1万8,000戸が焼失。 東北地方では最大の被害。
●7月28日-29日。2回目の【 一宮空襲】(死者727人)午後10時頃、B29約260機が愛知県 一宮市上空に侵入し、油脂焼夷弾の波状攻撃を行った。2回に及ぶ空襲で市街地面積の80%が灰燼に帰し、罹災戸数は全市戸数の83%にあたる10,468戸、罹災者は全市人口の71%にあたる41,027名、内死者727名、負傷者4,187名に達した。

●7月29日 【浜松艦砲射撃】(死者177人)周辺の被害も含む。
●7月29日:【大垣空襲】(死者50人) 米軍のB29爆撃機が岐阜県大垣市を空襲。罹災者約30,000人 市街地の大半は焼失し、国宝大垣城、開闡寺(大垣別院)なども焼失した。 全半壊家屋約4,900戸。
大垣市は工場が多かった計6回空襲を受けた。
●8月1日:【水戸空襲】(死傷者1535人)
米軍のB29爆撃機99機が水戸を空襲。
●8月1日:【八王子空襲】(死者400人余り) 2日未明にかけて米軍のB29爆撃機169機が八王子を空襲。落とされた焼夷弾は数十万発、1600tにも及んだという。市街地の80%が焼失。  
●8月1日:【長岡空襲】(死者1470人余り) 米軍のB29爆撃機125機が長岡を空襲。 焼失11,986戸。
●8月2日:【富山大空襲】(死者2737人) 米軍のB29爆撃機170機が富山を空襲。市街地のほとんどの約2万5000戸が焼失。 罹災者約11万人。
原爆以外では地方都市として最大の被害。
なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。

●8月5日:【前橋・高崎空襲】(死傷者1323人) 米軍のB29爆撃機92機が前橋・高崎を空襲。
●8月6日:【広島原爆】 (死者14万人)ウラン型原子爆弾投下。

★ユダヤ米国 の <三大日本人虐殺>

http://kabukachan.exblog.jp/18798239/

https://www.youtube.com/watch?v=QXpET921toU

https://www.youtube.com/watch?v=b6cgYNQHIJE

●8月7日:【豊川海軍工廠空襲】(死者2477人)
●8月8日:【福山大空襲】( 死者354人)米軍のB29爆撃機91機が福山を空襲。 市民の82%にあたる約4万7000人が被災した。 焼失家屋数約1万戸。
●8月8日 【八幡大空襲】(死者2952人)B29・127機。焼失家屋数14,380戸。

●8月9日:【長崎原爆】 (死者7万人)プルトニウム型原子爆弾投下。

原子爆弾(ウラン型とプルトニウム型)製造競争

http://kabukachan.exblog.jp/22451429/

●8月10日:【花巻空襲】【熊本空襲】
●8月11日:【久留米空襲】 (死者212人)焼失家屋4506戸。
●8月14日~15日:【最後の空襲】 無条件降伏を決定した8月14日から翌15日未明にかけて米軍は日本の都市に対して「最後の空爆」を敢行した。7市にわたり、少なくとも2,300人が死亡した。
●【大阪大空襲】(死者は500人から600人)
:14日早朝、米軍のB29爆撃機145機が大阪市を空襲。
●【土崎空襲】(死者250人以上):米軍のB-29爆撃機100機以上が秋田市土崎を空襲。 日本で唯一無傷の石油精製工場であった土崎港〔つちざきみなと〕の日本石油秋田製油所(現=新日本石油加工秋田事業所)の破壊を目的としたもの。
●【小田原空襲】(死者約50人):米軍のB-29爆撃機が神奈川県小田原市を空襲。高梨町、青物町、宮小路、一丁田など、焼失家屋約400戸、罹災者1500人以上。  
●【熊谷空襲】(死者266人):14日深夜、米軍のB29爆撃機約80機が埼玉県熊谷市を空襲、市街地の7割を焼失した。。


●【伊勢崎空襲】(死者29人):米軍のB29爆撃機84機が群馬県伊勢崎〔いせさき〕市とその周辺地域を空襲。市街地の約40%が焼失。焼失家屋約2000戸。
●【岩国大空襲】
●【山口県光市光海軍工廠空襲】

https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

https://www.youtube.com/watch?v=a6R1so_HmFQ



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by kabu_kachan | 2014-08-15 05:11 | 歴史 | Comments(0)

太平洋戦争=ロスチャイルド対ロックフェラーの構図

では、太平洋戦争の時はどうだったか?

日本は負けるとわかっていながら、何故、米と戦ったのか?
その前提としてロスチャイルドは何を狙っていたのか? この頃には第一次大戦で大儲けしたロックフェラーが、ロスチャイルドを凌ぐほどの勢力にのし上がって来ていた。

太平洋戦争直前の勢力図は、ロスチャイルドが日本・中国を支配下に収め、ロシアもその勢力圏にあった。一方、ロックフェラー(米)は、アジアではフィリピンを拠点にしていたに止まる。こういう状況で、第二次世界大戦が始まる。

第二次大戦はどこが仕掛けたのか?
ロスチャイルドにとってのメリットはなく、欧州全域が戦場になることで失うものの方が大きい。∴ロックフェラーが仕掛けたと考えるべきであろう。実際、第一次大戦では欧州が戦場と化したことでロスチャイルドは疲弊し、戦場にならなかった米が一人勝ちして、ロックフェラーがのし上がっていった。第二次大戦はロックフェラーにとって「二匹目のドジョウ」である。実際、第二次大戦の引き金となったナチス独はロックフェラーが支援していた。

それに対して、ロスチャイルドは英仏で対抗しようとしたが、予想外にナチス独が強く、ロスチャイルドは苦境に陥った。そこでロスチャイルドが考えたのが、ロシア・中国の縄張りの防衛と、日米開戦によって米を戦争に引きずり込み、米(ロックフェラー)の力を削ぐことであった。

ロスチャイルドの指令によって、旧日本陸軍は北進論から南進論に転換。関東軍の過半が南方に移動した。ここでも、日露戦争の時と同様、ロスチャイルドは「資金援助する」とか何とか言って、日本をそそのかしたor「絶対勝てる」とお墨付きを与えたに違いない。太平洋戦争も日露戦争と同様、ロスチャイルドに乗せられたと考えるべきだろう。

一方、米(ロックフェラー)は第二次大戦当初は、参戦に消極的だった。この段階ではロスチャイルドの番頭格であったロックフェラーは、ロスチャイルドと全面的に事を構えるのは危険だと考え、あくまで第一次大戦の時と同様、欧州を戦場化して儲けるという目論見だったからである。ところが、開戦当初のナチス独の快進撃を見て判断を転じる。日本との関係でも、1939年以前は米(ロックフェラー)は日米開戦を避けようとしていた。そのために日本の海軍を通じて「米と戦えば必ず負ける」という情報をリークしていたのであるが、1940年前後から開戦へと判断を転じる。ナチス独の快進撃でロスチャイルドが身動きできなくなっているのを見て、日本と開戦することで、日本を支配下に組み込むと共にあわよくば中国にも一気に勢力を拡大するという方向に戦略転換したのである。

このように、日米開戦までの流れは、陸軍がロスチャイルドに乗せられていただけではなく、海軍の真珠湾攻撃も米ロックフェラーに乗せられたものと考えれば整合する。こう考えると、明治維新以降、日本の支配階級は、長州・陸軍はロスチャイルド、薩摩・海軍はロックフェラーに踊らされてきただけという姿が浮かんでくる。

とりわけヤバイのは、敵国である米の指令に基づいて戦争に踏み切った海軍である。真珠湾攻撃を指揮したのは米留学組の山本五十六だが、彼の戦術には信じられないほど稚拙なものが目立ち、負けるつもりでやっていたのではないかと見る識者も多い。

http://kabukachan.exblog.jp/19100570/

http://kabukachan.exblog.jp/19105622/

http://kabukachan.exblog.jp/19106978/

http://kabukachan.exblog.jp/19106989/

戦後の旧陸軍勢力の中心人物が元陸軍参謀の瀬島龍三であるが、敗戦直前の瀬島の動きに注目する必要がある。
敗戦確実となった1945年初頭から、政府は敗戦交渉に動いている。
英米とは国体護持という条件で話がついたということになっているが、これには裏があって、その条件として米が広島・長崎で核実験をする、つまり原爆投下を認めることと引き換えに国体護持を取り付けたという話がブログ界で噂されている。これが事実ならば、昭和天皇も含めて原爆が落とされることは、はじめからわかっていたということになる。


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=252825より。


★テレビに出てくる知識人が、まったく知らないかまたは知らないふりをしていることがある。
<ロスチャイルドとロックフェラー>は、世界中の軍需産業を手中におさめているといこと。
http://kabukachan.exblog.jp/21057912/

http://kabukachan.exblog.jp/24180021/

たとえば、日本と中国が尖閣問題で戦争になったとする。すると、<彼ら>は日本と中国の双方に裏からこっそりと武器を売りつけて儲けるのである。

https://www.youtube.com/watch?v=YSwY_HMqt0o

日本の皆様、中国の皆様大いに戦って殺し合ってください。非ユダヤ人同士の殺し合いは大いに結構です。我々(=偽ユダヤ人)には関係ありません。
と、<彼ら>は密かに喜んでいる。
http://www.youtube.com/watch?v=FgsF3jl-xb4

明治維新(戊辰戦争)も日露戦争も太平洋戦争もすべてこの手で日本人は乗せられてきた。いい加減に日本人はこのことに気づかなければならない。

http://kabukachan.exblog.jp/21000845/

原爆を作って、非ユダヤ人である日本人の頭の上に落として人体実験をしたのも、すべて<奴ら>の仕業である。

http://satehate.exblog.jp/7590315

http://kabukachan.exblog.jp/22451429



★〔改訂版〕ユダヤ米国が世界史上に誇る「三大日本人虐殺」


http://kabukachan.exblog.jp/18798239/


★ちなみに、以下は3.11東日本大震災のときの地震の波形です。



北朝鮮の人工地震波形と同様、余震などの前兆がなく突然地震が起きています。

★人工地震を発生させるのに、一個の核爆弾だけを爆発させて引き起こしても、その地震波形を見れば、人工地震だとすぐにばれてしまうので、奴らは、2個なり3個の核爆弾を数秒間の間隔で、連続して爆発するようにあらかじめ仕組んでおくのである。

阪神淡路大震災は、2個の核爆弾を連続して爆発させて引き起こしたものであり、東日本大震災は、3個の核爆弾を連続して爆発させて引き起こしたのである。


https://www.youtube.com/watch?v=w_QjcemlzNU&index=1&list=PL26BDDD60FE326572


おまけ

http://quasimoto.exblog.jp/21751556/


★自己紹介(私の起源)

平瀬城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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平瀬城
長野県
平瀬城主郭部
平瀬城主郭部
城郭構造山城、居館
築城主平瀬氏
主な城主平瀬氏原虎胤
廃城年1553年
遺構曲輪、土塁
指定文化財なし

平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城

http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Hirase/index.htm

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。



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by kabu_kachan | 2014-07-26 18:47 | 歴史 | Comments(2)

世界史上、初めて『日本が人種平等を主張』

日本国民は明治以来、二つの大きな夢を描いてきた。日本の独立を全うして、世界の一流国と伍するようになることと、人種平等の理想の世界を実現することだった。

第一次世界大戦が終わると、パリ講和会議が1919(大正8)年に開かれた。ベルサイユ宮殿で調印されたことから、ベルサイユ講和会議とも呼ばれている。
この会議によって、今日の国連(国際連合)の前身に当たる国際連盟が創設された。日本全権団がこの会議において、新設されることとなった国際連盟の中で、「人種平等の原則」を定めることを強く主張したことは、よく知られている。

★大東亜戦争は「植民地解放」と「人種平等」を実現した戦いだった!
https://www.youtube.com/watch?v=U7AsnClmn-w&list=PLF01AwsVyw328JWxhGfxIh8OlCax9dGxz

★祖先が目指したもの
https://www.youtube.com/watch?v=wT3xdKAhcqI


https://www.youtube.com/watch?v=PzymgZVDPAM&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp&index=14

それにもかかわらず、全世界にわたって植民地を持っていた西洋の列強国によって、拒まれた。そこで、日本の孤独な戦いとなった。

日本の提案に、先頭に立って猛反対したのが、アメリカのウィルソン大統領だった。ウィルソン大統領は第一次大戦後に、「民族自決」・・・各民族がそれぞれ独立する自由を許されるべきこと・・・を提唱した理想主義者として、歴史に名を刻んでいる。しかし、ウィルソン大統領の「民族自決」は、白人だけに適用されるものだった。有色人種ははじめから、除外されていた。白人以外は眼中になかった。イギリスや、フランスをはじめとする諸国も、反対した。

https://www.youtube.com/watch?v=UdpaTT5EYI0&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp&index=2

「民族自決」を提唱し、理想主義者としてその名を刻んだウィルソン大統領だが、実態は白人だけの民族自決であり、白人以外は眼中になかったのだ。

アメリカやイギリスなどの連盟諸国はとても「民族主義国」と呼ばれるような国ではなかった。しかも、アメリカやイギリスは、自国内や植民地で公然と人種差別を行なっていたから、民主主義国を自称する権利が、はたしてあったのだろうか。


当時、アメリカは国内で、黒人を法的に差別していた。黒人に対する差別は、当然のこととして、全国でひろく行なわれていた。野球はアメリカの国技であるが、黒人が野球選手になれるようになったのは、第二次世界大戦後のことである。
第二次世界大戦によって日本がアジア諸民族を解放すると、アメリカも国内で黒人を差別できなくなった。


今日では、西洋諸国において第二次世界大戦はアメリカや、イギリスをはじめとする「民主主義勢力」とドイツや、日本などの「ファシスト勢力」の戦いだったと信じられている。

ドイツはソ連と同じファシスト国家だった。しかし、いったい国の内外で有色人種を差別して、人権を踏みにじっていたアメリカや、イギリスなどの連合諸国を「民主主義国」と呼ぶことができるものだろうか?


日本が1940(昭和15)年9月に、ナチス・ドイツと同盟条約を結んだのは、日本がナチス・ドイツの独裁政治を良しとしたからでも、ナチスのように世界征服を目指したからでも、その人種政策に賛成したからでもなかった。その時の世界政治の力関係のなかで、アメリカに対抗しようとして、そうしたのだった。
これはアメリカやイギリスが、スターリンのソ連と組んだのと変わりがなかった。だからといって、アメリカやイギリスが、ソ連と同じような国であったとは、とうてい言えまい。


日本が第二次世界大戦を戦った結果として、数世紀にわたって白人の覇権支配のもとに置かれていたアジア・アフリカ諸民族が、鎖から解き放たれた。アジア・アフリカ諸民族は、はじめて陽光をみることができて、自由を回復できた。
アメリカもそのために、黒人を差別し続けることが、できなくなったのだった。今日、タイガー・ウッズがゴルフ界のスーパースターとして活躍しているのも、第二次世界大戦が人種平等の世界をもたらしたからである。黒人がゴルフ競技や、テニスの選手権に参加できるようになったのも、日本の力によるものだった。

★なぜ日本人は、 大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)を戦ったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=SuANLbviDFw


★もう一度言うが、タイガー・ウッズたち黒人がゴルフやテニスに参加できるようになったのは、日本が第二次世界大戦を戦った結果、数世紀にわたる白人のアジア・アフリカ諸民族に対する植民地支配が崩れたためである。

★<日露戦争~太平洋戦争>と米国黒人社会


http://kabukachan.exblog.jp/24625062/


★白人による黒人奴隷貿易とアメリカの奴隷制度


http://kabukachan.exblog.jp/20941342/

https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

https://www.youtube.com/watch?v=xrihV_GUQoc


人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。(Wikipediaより)



【3S政策・日本人洗脳白痴化計画】『新・霊界物語 十九話』
https://www.youtube.com/watch?v=w30RSuafR1M


【大東亜戦争】韓国・中国の「日本悪玉論」は大ウソ!日本は植民地解放のヒーローだ!【ザ・ファクト#005】
https://www.youtube.com/watch?v=KIeJfgYeMMY&nohtml5=False






★自己紹介(私の起源)

平瀬城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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平瀬城
長野県
平瀬城主郭部
平瀬城主郭部
城郭構造山城、居館
築城主平瀬氏
主な城主平瀬氏原虎胤
廃城年1553年
遺構曲輪、土塁
指定文化財なし

平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城

http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Hirase/index.htm

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。



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by kabu_kachan | 2014-07-25 15:02 | 歴史 | Comments(0)

明治天皇と「田布施システム」

鬼塚英昭氏の著書『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』より。

http://www.youtube.com/watch?v=qZve5N-_doI


 孝明天皇が暗殺され、その子の睦仁親王も暗殺され、大室寅之祐が明治天皇、否、「てんのうはん」となって日本は狂ったのである。この事実をイギリスの公使パークスと外交官アーネスト・サトウが知り、すべてが彼らのシナリオ通りとなり、日清戦争を仕掛けよ、日露戦争をやれ、そし大東亜戦争へと突き走らされたのである、言葉が汚くて申し訳ないが、英雄視されている坂本龍馬ごときは俗物中の俗物にして、日本を戦争に導いた極悪人だと思っている。

 私がたびたび引用した新井喜美夫は「すべての病根は明治維新にあったと言わざるを得ない」と書いている。(中略)
 それにしても、益田勝実は奇妙なことを書いている。「……明治憲法が『神聖ニシテ侵スべカラズ』と規定したものに置きかえられたのは、かれらが現実の天皇と天皇の名によって力をふるう者とをいかに怖れたかをあらわし……」

 明治天皇は「てんのうはん」と長州の人々に呼ばれていた、このニセ天皇を支え続けた人間たちは、「自分たちの秘匿しぬこうとする最後の結集形態」を永遠に隠そうとして、「てんのうはん」をして「神聖ニシテ侵スべカラズ」と規定したのである。しかし、「てんのうはん」の真相は軍人のエリートや近衛文麿などの貴族たちは知っていたのである。だから天皇は彼らを一気に葬り去るべく、「不幸中の幸い」を求めて大東亜戦争を勃発させるべく瀬島龍三に命じて作戦を立てさせたのであった。「和」とは簡単に書けば、「てんのうはん」の悪あがきのことである。

    *       *

鬼塚英昭氏の新著『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』は、大東亜戦争はアメリカが事前に計画、予定した「オレンジ・プラン」の通りに進行したと書いている。原爆の投下だけは当初の計画にはなかった、と。

 明治維新のときに長州の田舎侍どもが「公武合体」を企図する孝明天皇と本物の幼い明治天皇を暗殺して、大室寅之祐を替え玉にしたことが諸悪の根源であり、日本の歴史をあまりにも大きく変えてしまったのである。

 薩長政府は、明治天皇が偽物であることを国民にも、外国にも秘密にしようとして、逆にイギリスやアメリカに足下をみられ脅されるようになったのだ。
 天皇が偽物であることをばらすぞと脅されれば、日本政府は米英の言いなりにならざるを得なくなったのであろう。

 あるいはそうなるように、イギリスが長州を嵌めたのかもしれない。後々ゆするために、天皇を暗殺させたと見るべきかもしれない。
 幕末に来日した英国のアーネスト・サトウが、孝明天皇の毒殺説を聞いたことを記しているそうだが…。

 英国公使パークスが、薩長に手引きして徳川政権を倒させたのである。有名な西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城の取引という美談も、実は内戦で横浜が戦火に見舞われると商売に障害がでるからとパークスが西郷と勝に命じて戦争させなかっただけのことだ。

長くなるが、鬼塚氏の本から引用する。

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は真実からはるか遠い異次元の坂に上る雲を描いている。日露戦争もほとんど予定通りに進行した。世界を支配する者達の一片のドラマであった。
 どうして大東亜戦争が予定通りに進行していったのかを考察するとき、天皇と瀬島龍三が進めた「和工作」が見えてくる。天皇はスキャンダルが公になることを恐れ、大東亜戦争を計画通りに進める以外に皇統を維持できないように仕組まれていた、と考える以外に解は見出せない。

 真珠湾攻撃がはっきりした日から、オレンジ計画は具体化し、計画通りに真珠湾は攻撃された。それも中途半端な攻撃であったが、これも計画通りであった。
 ということは、山本五十六、南雲忠一、草鹿龍之介、源田実たち司令官がアメリカの意を知り尽くし行動したということである。天皇と瀬島龍三の「和工作」の推進係であったことになる。続く珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦と彼らがオレンジ計画通りに動き、最初の真珠湾攻撃以外は敗北に敗北を重ねていったのである。

 彼らはソロモン海戦でついに力尽きた。続くインパール作戦、サイパン玉砕、レイテ沖海戦、硫黄島玉砕、沖縄決戦、これらすべて瀬島を中心とした参謀たちが、オレンジ計画通りに敗北を重ねるのである。これは単なる偶然ではありえない。日本の「和工作」とアメリカの「オレンジ計画」がほとんど日本人の知らないところで深く結ばれていたからである。
 
   *       *

 天皇と瀬島龍三の「和工作」とは、天皇が陸海軍の内乱を恐れていたということである。当時、陸軍内では皇道派と統制派が、海軍内には条約派(ロンドン軍縮会議推進)と艦隊派(軍縮反対)が抗争していた。それにヒロヒトは頭を痛めていたのだ。

 こうした陸海軍内の対立抗争が天皇制の護持すなわち「和」を危うくさせた。
 その解決法として、ヒロヒトはわざわざ負け戦を仕掛け、昭和20年夏には軍人たち全部を葬ったのであった。軍部がなくなればこそ、天皇制の護持が可能となった。要するにアメリカのオレンジ計画に乗って、ヒロヒトは軍部を潰し自らの身の安全を保障してもらったのである。

 瀬島の作戦計画は、首尾よく日本の軍部を壊滅させる敗北への道であった。
 こうして見てくると、2・26事件とは皇道派(北進派=対ソ連戦を指向する派閥)を暴発させたうえで壊滅させるためにヒロヒトが仕組んだ作戦であったことも納得がいく。

http://www.youtube.com/watch?v=omlnJLmcDYM

 だからヒロヒトはあえて陸軍統制派の東条英機を首相に任命し、開戦に向けさせた。そして瀬島に大東亜戦争(南方作戦)をデザインさせて、その案を諒承した。また、原爆を広島、長崎に投下することもアメリカ側に諒承を与えた。


http://www.asyura2.com/12/cult9/msg/453.html


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by kabu_kachan | 2014-06-28 09:41 | 歴史 | Comments(3)

坂本龍馬と幕末、そしてペリー提督とアメリカ

【秘密結社スカル&ボーンズ】

1832年に、米国の名門イェール大学に秘密結社スカル&ボーンズが設立されます。

The New World Order, World War 3, ISIS, The Secret Agenda Of Elite 2016 END OF DAYS COMING
https://www.youtube.com/watch?v=5My0TIXgs3Q


★創設者はアルフォンゾ・タフトとウィリアム・ラッセル。

アルフォンゾ・タフトは、ユリシーズ・グラント政権で司法長官と陸軍長官を務めました。息子は第27代米国大統領のウィリアム・タフトです。
ウィリアム・ラッセルは、ロスチャイルドとベアリングが支配する阿片貿易の利権を分けてもらった麻薬貿易会社ラッセル社の一族です。ラッセル社は、英国が独占するインド産阿片より質が悪いけど安価なトルコ産阿片を中国に持ち込み、そこで得た資金で「マサチューセッツ銀行」を設立(のちのボストン・ファースト・ナショナル銀行)しています。
スカル&ボーンズは、1856年には「ラッセル信託基金」の名の下に正規の法人格を取得しています。

ウィリアム・ラッセルがドイツに留学した際、どうやらイルミナティと接触したようで、帰国後にその秘密の儀式を真似て設立されたのがスカル&ボーンズです。

イルミナティとの違いは、スカル&ボーンズはホワイト・アングロサクソン・プロテスタントのみで構成されるという点ですね。ですから、WASPのみで構成された米国版イルミナティと言っても良いと思います。

初期の段階のスカル&ボーンズは、阿片貿易で巨万の富を得たニューイングランドの有力商家が中心でした。
17世紀に最初にアメリカにやってきたピューリタンの末裔たちが第1グループとされ、ホイットニー家、ロード家、ワッズワース家、アレン家、バンディ家、アダムス家、スティムソン家、タフト家、ギルマン家、パーキンス家などがあります。
第2グループは、18世紀から19世紀に巨万の富を得た名家で、ハリマン家、ロックフェラー家、ペイン家、ダヴィソン家、ピルスベリー家、ウェイヤハウザー家、そしてブッシュ家などですね。

★スカル&ボーンズの基本戦略

ウィリアム・ラッセルがドイツ留学から持ち帰ってきたもう一つのものが、ヘーゲルの弁証法です。スカル&ボーンズは、このヘーゲルの弁証法を戦略として採用しています。
どんなものかというと、簡単に言えば、まずテーゼ(定立)を立てて、それに対してアンチテーゼ(反定立)をぶつけて、ジンテーゼ(総合)を導き出すというもので、正+反=合という図式で表わせます。
自らの優位を導くために、世界の中に意図的に対立を引き起こし、緊張が極まったところで自分たちを有利に導く解決を提供するという方法論です。
●これもイルミナティと同じで、キーワードは「分裂と混沌」ですね。


★教育界とスカル&ボーンズ

スカル&ボーンズは教育界に大きな影響を与えてきました。
ティモシー・ドワイトがイェール大学長。
アンドリュー・ホワイトがコーネル大学の初代学長。
ジョン・ロックフェラーはロックフェラー大学とシカゴ大学を創立。
ダニエル・ギルマンは、カルフォルニア大とジョン・ホプキンス大の初代学長になっています。
このギルマンがロックフェラーたちと一般教育委員会を設立し、米国の学問を方向づけました。
また、ギルマンの愛弟子にジョン・デューイがおり、デューイはアメリカ「進歩主義教育運動」の思想的な柱となっています。 このジョン・デューイの教育思想と理論は、戦後日本の教育にも多大な影響を与えています。


★米政界とスカル&ボーンズ

スカル&ボーンズの中でも特に重要な人物がヘンリー・L・スティムソンです。
スティムソンは、セオドア・ルーズベルト、ウィリアム・タフト、ウッドロー・ウィルソン、カルビン・クーリッジ、ハーバート・フーバー、フランクリン・ルーズベルト、ハリー・トルーマンと7人の大統領の側近を務めました。


★彼は原爆を製造したマンハッタン計画の最高責任者でもあります。


陸軍長官であったスティムソンは、陸軍省内でスカル&ボーンズのグループを結成しています。
ジョン・マックロイ、ロバート・ロヴェット、マクジョージ・バンディ、ウィリアム・バンディ、ディーン・エイクソン、ジョージ・マーシャル、アヴェレル・ハリマン、プレスコット・ブッシュなど世界大戦時の重要な閣僚たちが名を連ねています。
このグループが、第二次世界大戦前から戦後にかけての重要な戦略政策を練り上げ、日独両国の占領政策の立案にあたりました。

また、このグループは戦略事務局(OSS)を創設し、以降、その後身である中央情報局(CIA)はスカル&ボーンズ人脈を中心に構成されています。
その他、スカル&ボーンズは、大学、財団、銀行、石油会社なども傘下に擁し、政府機関にも幅広く人材を送り込んできました。
もちろん、元大統領のブッシュもスカル&ボーンズ出身です。


★ロスチャイルドの代理人たち

1837年、米国のジョージ・ピーボディがブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入。ネイサン・ロスチャイルドの代理人となります。
ブラウン・ブラザーズのブラウン家はベアリング家の親戚ですね。ジョージ・ピーボディはギター・ピーボディ証券の一族でピーボディ基金の設立者として知られています。 このジョージ・ピーボディには子供がいなかったので、後継者としてジュニアス・モルガンを指名しました。これによりモルガン商会がロスチャイルドの秘密の米国代理人となります。
なぜ"秘密"なのかと言えば、当時、ユダヤ人は嫌われ者だったので「ユダヤ人なんかから金を借りたくない」という人たちがいっぱいいたんですね。そういう人たちはモルガン商会からお金を借りるわけです。
モルガン商会は「トラストのトラスト」と呼ばれ、十数社の鉄道事業を買収し再編成。1892年にはGEを設立し電気事業を再編。1901年には鉄鋼王カーネギーを買収してUSスチールを設立し鉄鋼業を再編。1907年には全米の電話を独占するAT&Tを買収します。
第一次世界大戦時には、英仏両国政府から公式代理人として選ばれ、戦時国債を米国で販売。米国における英国の公式貿易代理業者でもあり、あらゆる戦時物資を自らの所有する企業から購入して英国に送りました。
1920年には死の商人デュポンと組んでGMを支配。その他、テキサコ、IBM、シティバンク等にも投資を行い巨大化していきます。この頃には「モルガン商会は銀行ではない。アメリカの国家であり、アメリカの法律であり、アメリカの制度である」とまで言われたほどの影響力を持っていました。


1837年、フランクフルト・ロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントが米国へ派遣されます。
ベルモント商会は企業買収を繰り返し、ディロン・リードなど全米の金融機関を支配下に収めていきます。
オーガストは1849年にペリー提督の娘キャロラインと結婚。


★ユダヤ人ジャーナリストが書いた『ユダヤの告白』という本では、ペリー提督を日本に送り込んだのは、このオーガスト・ベルモントだと書かれています。その目的は、彼らは中国に阿片を売りつけていましたから、ついでに日本にも阿片を売りつけようとしたらしいです。本当かどうかわかりませんが、当時の状況を考えれば十分あり得る話だと思います。
ベルモント商会は、このペリー家やモルガン家と結びつきボストン財閥を形成していきます。

オーガストは、1856年には民主党の党首になり、約20年間、政治と実業界に影響を与えました。


1848年、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』を発表しました。
執筆を依頼したバルーフ・レヴィという人物が、マルクス宛の手紙の中で、その目的を打ち明けています。
「この新しい人類の社会組織の中で、我々ユダヤ人はいかなる国家に属することもなく、また他の民族から何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、やがてその影響は全世界に及ぶことになるでしょう。そして、もし彼らの中の何人かの賢者が、これら労働大衆のうちに確固たる指導権を打ちたてることに成功するなら、プロレタリアの勝利によって次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これらプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることができます。要するに、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入るのです。かくして我々ユダヤ人のメシアが到来する時、ユダヤ人は全世界の民の財産をことごとくダビデの星の下につかさどるであろうと言い伝えられてきたタルムードの予言が実現されることでしょう。」


1848年、ロスチャイルドにつながる"二百家族"によってフランス銀行が独占的に支配されます。 この銀行支配を通じて産業界も"二百家族"によって支配されることになります。


1853年、米国よりペリー提督が艦隊を率いて来航し、砲艦外交によって開国を迫まります。 砲艦外交って言うのは、要するに大砲で脅して言う事を聞かせる"押し売り"みたいなものです。


1859年、トーマス・ブレーク・グラバーが来日。武器商人として明治維新の裏で暗躍します。
長崎では今もこのグラバーの屋敷が観光名所になっていますね。
グラバーは中国に阿片を売りまくって阿片戦争を引き起こした麻薬貿易商社ジャーディン・マセソン商会の代理人で、ロスチャイルド傘下のロイズ保険や香港上海銀行等の代理店も務めていました。
ちなみに、今や世界一の金融グループとなった香港上海銀行ですが、ロスチャイド、ベアリング、サッスーン、ジャーディン・マセソンという錚々たる麻薬貿易商人が設立時の役員として名を連ねています。つまり、中国へ売りつけた阿片の代金をイギリスに送金するためにつくられたのが香港上海銀行です。

★ジャーディン・マセソンが資金を出して、グラバーが手引きをし、1863年には伊藤博文や井上馨など五人の長州藩士が英国に密航しています。
また、1865年には五代友厚ら17人の薩摩藩士も英国に密航させています。のちに彼らが明治政府の要人となるわけですね。
武器商人であるグラバーは、坂本龍馬の亀山社中を通じて薩長に武器弾薬を提供しました。
グラバーは英語教師もやっていて、教え子であった岩崎弥太郎と共に三菱財閥の基礎もつくっています。


http://rothschild.ehoh.net/lecture/rothschild_03/index.htmlより。


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by kabu_kachan | 2014-05-24 13:07 | 歴史 | Comments(3)

坂本龍馬の正体

明治維新は、スコットランド系フリーメーソンの武器商人トーマス・グラバーの存在なしには、成しえる事はありませんでした。 

織田信長の戦国時代に、既に銃が勝敗を決める武器として認知されていたにも関わらず、徳川時代になると刀に逆戻りしますが、世界の軍事史でも武器が逆行するのは極めて珍しい事であります。  これは、徳川が銃の怖さを知っていた為で、徹底的に取り締まっていたのです。  徳川時代の鎖国とは、諸大名が欧米から銃や火薬を輸入しないように、徳川が管理していたもので、実際は徳川の独占貿易と呼ぶべきであります。  実際、長崎は開かれていたのですから。


1865年4月に、アメリカの南北戦争が終わり、売れ残った小銃などが大量に上海市場に出回っていました。  

これを仕切っていたのが、ロスチャイルド系の総合商社であるジャーディン・マセソン商会で、上海に事務所を構えていました。 悪名高き阿片を、中国人たちに売りつけていたのもこの会社です。

グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店も兼ねることにもなりました。  これらの商社は全て、中国への阿片貿易で巨万の富を築き上げた会社です。

当時、日英通商条約の第三条に、 「軍用の諸物は、日本の役所の外に売るべからず」 とあり、表向きにはジャーディン・マセソン商会は、武器を薩長に売ることは出来ませんでした。

そこで、ジャーディン・マセソン商会は、代理人のグラバーを巧妙に使い、グラバーは物々交換という形で、この条約の網の目をかいくぐりました。

グラバー商会は、長州から米・麦・塩などでの支払いを認め、それをジャーディン・マセソン商会に持ってゆき、それを薩摩藩が買い上げるというもので、薩摩藩とイギリスは既に武器取引を行っていた実績があり、気心が知れていたために、この三角貿易は成立したのです。

グラバーは、この取引に坂本龍馬を代理人として使い、この貿易に絡んで仲の悪かった薩摩藩と長州藩を結んだのが、坂本龍馬がつくった貿易商社「亀山社中」であるのです。

坂本龍馬は、徳川幕府側の勝海舟と親密な関係にあり、幕府側への工作、また幕府を欺く目的には適していたことと、グラバーも日本でビジネスをするなら、表向き徳川幕府を敵に回すのは得策で無いからです。

亀山社中は、1865年5月に結成され、7月になると長州藩の井上馨と伊藤博文が長崎でグラバーと会って、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでおり、龍馬が最初に買い付けた7800挺は会社が設立されて、わずか3ケ月後の事でした。

この時、亀山社中の実務、及び資金提供を行ったのが小曾根英四朗で、1864年2月に長崎に来た勝海舟から龍馬を紹介されています。

商売に関して、ど素人の坂本龍馬が、会社設立後わずか3ケ月で大きなビジネスができたのは、ジャーディン・マセソンとグラバー商会、そして薩摩藩、長州藩の間で段取りが全て出来上がっていたからであります。

明治維新の英雄である坂本龍馬は、ロスチャイルドがバックに控えるジャーディン・マセソン商会、そしてその代理人であるグラバーの操り人形であったと言う事ができると思います。

巨大資本を持ち武器商人でもあったロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が裏にいるからこそ、薩摩藩・長州藩、そして徳川幕府も、しがない脱藩浪人の坂本龍馬に一目置かざるを得なかったのです。

そして、黒幕の思い通りに動かなくなった龍馬は、彼らにとっては用無しで、残された運命は抹殺。  

私の推測に過ぎませんが、彼らはフリーメーソンつながりで、イギリス・オランダ・フランス・アメリカは組んで(実際1865年5月 「四国共同覚書」を作成しています)、欧米のワンパターンである植民地の統治法である、「自分たちは双方につき、仲間割れを起こさせる」という作戦で、日本国内の国力を弱めた後で、植民地化する予定、また戦争の長期化による武器ビジネス拡大予定だったのに対し、坂本龍馬の公武合体思想、及び秘密を知りすぎたところが問題視され、刺客を向けられたのではないかと考えております。

もちろん、明治新政府のメンバーたちは、彼らの手下となって地位を得た人達ばかりですから、龍馬暗殺の実行犯を知っていても、闇に葬り去る事は簡単であったと思います。



http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/620.htmlより。




坂本龍馬暗殺<幕末の政情>
http://kabukachan.exblog.jp/21000845/

明治維新と長州ファイブ
http://kabukachan.exblog.jp/20996621/

サッスーン財閥とジャーディン・マセソン商会
http://kabukachan.exblog.jp/22125528/

★馬渕睦夫 誰も知らない明治維新の真実!坂本龍馬は本当にヒーローだったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=N0N_L_EVLsE


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by kabu_kachan | 2014-05-23 10:05 | 歴史 | Comments(0)