カテゴリ:歴史( 67 )

大東亜戦争の世界史的意義

★さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U


Henry Stokes
Japan as “the Light of Hope in Asia”
 
皆様、こんばんは。ヘンリー・ストークスです。
本日は皆様の前で、お話しの機会を頂き光栄です。このシンポジウムは1952年の日本とインドの国交樹立60周年を記念して開催されております。このような歴史的な瞬間を皆様と共にできることをたいへん光栄に存じます。
ことに20世紀で最も驚くべき展開は、500年続いた植民地支配、その禍が終焉を迎えたことにあります。
白人による支配が霧散してしまいました。誰もがまったく予想しなかったことです。
1930年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われたネルーは、「70年代には実現するかもしれない」と答えました。つまりそれは、「私の亡き後に」という意味です。
ところが1940年代初頭には、インド人たちの間に独立の気運が突如として高まりました。
なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。答えは簡単です。
第二次大戦が勃発し白人の植民地支配500年のドラマに出現した新興勢力が、白人の植民地支配に痛烈な打撃を与えたからです。
 
その新興勢力こそ、日本でした。

https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM

https://www.youtube.com/watch?v=5w5TC4ppsIE
 
インド独立のタイムテーブルは、ネルーの「70年代に達成できるかもしれない」というものから、一気に第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。
ここで、歴史の時間を20世紀から17世紀初頭まで少しもどしてみましょう。

インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。
イギリスはマドラス(1637年)ボンベイ(1661年) カルカッタ(1690年)に東インド会社を進出させました。
イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(1764年)、マイソール戦争(1799年)、シーク戦争(1845年)と続き、1857年から59年にかけては、反イギリス民族闘争で 有名な「セポイの乱」が起こりました。
こうしてイギリスがインドを抑圧支配する中で、1868年、日本で明治維新が起こりました。ほぼ同じころに、インドでは独立のために戦った歴史的な人物が生まれています。
1869年にはマハトマ・ガンジーが生まれ、1897年には、チャンドラ・ボースが誕生しています。
1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が「インド皇帝」として即位しました。つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に誕生したのです。
ボースは今でもインドで「ネタージ」と呼ばれています。ネタージとは「偉大な指導者」という意味です。
日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。Indian National Army インド国民軍です。
非暴力主義でイギリスの植民地支配と戦ったガンジーと 対照的に、ボースは司令官として戦闘を率いました。

1943年5月16日、ボースは来日し、嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、その上で、東條英機首相と会談しました。
ボースは日比谷公会堂で講演しました。そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。

「私が小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。」
「このアジアの国はロシアを大敗させました。 そしてその国こそが、日本だったのです。」

「このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波がインド全土を覆いました。」
「インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、 日本海海戦の勇壮な話が、沸き立っていました。」
「インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。」
「親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。」
「その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、 家に飾りました。」

ボースは「日本はアジアの希望の光です。」とハッキリ語っています。

ボースはこう続けます。
「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。」
「日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を与えてくれました。われわれはそのことを自覚し、心から日本に 感謝しています。」
「ひと度この機会を逃せば、今後100年以上にわたりこのような機会が訪れることはないでしょう。」
「勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています。」

重要なのは、言葉より行動でした。
ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。
ボースは「チャロ・デリー」 つまり「デリーへ!」と、 進撃を宣言し、人々はその メッセージを掲げて行進 しました。祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デ リー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。
「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」そう言ってボースは将兵たちを激励しました。
自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告をしました。
同年(1943年)11月5日より6日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。
これは人類の長い歴史において「有色人種によって行われた最初のサミット」となりました。

東條首相、満州国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコン殿下の首脳が一堂に会し、ボースはインド代表を務めました。

今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の傀儡」を集めて行った国内向け宣伝だったと唱えています。
しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。

会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。ボースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章としようではないか」と訴えました。
ボースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。

この500年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国々を植民地支配した壮大なドラマでした。そのなかにあって、日本は前例のない国でした。
第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別の撤廃を提案したのです。会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。
人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、「署名を拒否して帰国する」と言って退室しました。
議長であるアメリカのウィルソン大統領は「本件は平静に 取り扱うべき問題だ」と、日本に提案の撤回を求めました。日本で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めました。
イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席16カ国中11カ国の小国が 賛成し、圧倒的多数で可決されました。
あろうことかウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。
牧野は多数決採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」と採択を無視したのでした。

人種差別撤廃提案が11対5の圧倒的多数で可決したにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬ったのです。今日の文明世界ではありえないことです。いまアメリカの大統領は黒人ですが、そのようなことは当時は全く考えら れないことでした。
日本人も白人ではなく有色民族です。同じ有色民族として誇りある日本人は白人の植民地支配を看過することができ なかったのです。

ここでインドネシアについても触れておきましょう。
インドネシアの植民地支配は、1596年にオランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まります。
オランダの350年以上に及ぶ植民地支配に終止符が打たれたのは、1942年の日本軍の進攻によるものでした。オランダ軍は、わずか7日で降伏してしまいました。

インドネシアには、「白馬に跨る英雄が率いる神兵がやってきて、インドネシアの独立を援けてくれるという伝説」がありました。
日本軍の進攻は、伝説の神兵の到来を思わせました。日本兵は、神話の軍隊であったのです。
ジョージ・カナヘレは「日本軍政とインドネシア独立」という著書で、次の4点を掲げています。
1 オランダ語、英語の使用を禁止。これにより公用語としてインドネシア語が普及した。

2 インドネシア青年に軍事訓練を施した。これにより青年が厳しい規律や忍耐、勇猛心を植え付けられた。

3 オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え能力と責任感を身につけさせた。

4 ジャワにプートラ(民族結集組織)やホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、全国に支部を作り、組織運営の方法を教えた。

日本は第二次大戦でアジアの国々を侵略したとされますが、どうして侵略する国が、侵略された国の青年に軍事教練を施すのでしょうか?
彼らの精神力を鍛え、高い地位を与え、民族が結集する組織を全国につくり、近代組織の経営方法を教えることがありますか?

この事実は、侵略したのが日本でなかったことを証明しています。日本はアジアの国々を独立させるために、あらゆる努力を 惜しまなかったのです。
では一体、どこからの独立でしょうか?
もちろん、アジアの国々を侵略していた白人諸国の植民地支配からの独立です。

ジャカルタの中心にムルデカ広場があります。
ムルデカはインドネシア語で「独立」を意味します。
独立の英雄ハッタとスカルノの像とともに高さ37メートルの独立記念塔が立っています。
地下1階には、独立宣言の実物が納められています。
ハッタとスカルノが直筆でサインをしています。
そこに独立の日が「17-8-‘05」とハッキリ書かれています。17-8は8月17日の独立の日を示していますが、‘05、05年とはどういう意味でしょうか?

インドネシア人はイスラム教徒ですからイスラム暦ですが、これはイスラム暦ではありません。ましてやキリスト暦でもありません。では05年とは、いったい何暦でしょう?

実は’05年は、日本の「皇紀」なのです。1945年は、日本の「皇紀」では2605年にあたるのです。
初代の天皇である神武天皇が即位して建国をした時から数えた年です。
ハッタとスカルノは日本に感謝して皇紀を採用したのです。
インドネシア独立の生みの親は日本だったのです。
だから二人はインドネシアの独立宣言の独立の日を日本の「天皇の暦」によって祝福したのでした。

皆さん、こうした西欧の500年に及ぶ植民地支配は、世界中で広く認知されたことであります。
私たちは今日、植民地支配の禍の終焉をこうしてここに集い祝福しています。
日本は「日いづる国」です。真に自由なアジアを求めるみなさんで、手を取り合ってゆきましょう。 民主的なアジアの連帯を実現する重要な役割を、日本が果たすことを願っています。
日がまた昇ることを祈りつつ、本日の私の話しを締め括ら せて頂きます。
ご清聴ありがとうございました。
Henry S. Stokes

★『凛として愛』
https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg&index=47&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

日本人よ、胸をはれ! 自分たちの歴史に誇りを持とう!

我々の歴史には常に正義が味方していた。恥じることはない。普通に生きよ。何も特別なことをする必要もない。力む必要もない。卑下する必要もない。正々堂々と生きればそれで良し。

とまあ、そういうことをこの歴史は我々に教えてくれていますナ。たまには真の歴史を知るのもいいですナ。


★日本は植民地解放のヒーローだ!【ザ・ファクト#005】
https://www.youtube.com/watch?v=KIeJfgYeMMY&nohtml5=False


https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

https://www.youtube.com/watch?v=xrihV_GUQoc

https://www.youtube.com/watch?v=dSJxcPsY4B8

http://quasimoto.exblog.jp/i9/
[PR]
by kabu_kachan | 2013-01-05 20:06 | 歴史 | Comments(0)

日露戦争の世界史的意義

★さくらじ#102、ひと目で分かる水間政憲のカウンター・プロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=WEjUqOEuy5U


私の歴史観に大きな影響を与え続けてきた文章がある。以下は、渡部昇一上智大学名誉教授の著書『かくて歴史は始まる』からの一文章である。

★「コロンブス以来の大事件」

繰り返すが、日露戦争は指揮官が立派で、兵隊が勇敢だったということだけで勝てたのではない。
海上では下瀬火薬が、陸上では秋山将軍の機関銃の導入が、いずれも当時の欧米の軍事水準を超えていたからこそ、最強の軍隊に勝てたのである。


https://www.youtube.com/watch?v=k0k62fK2_DY



なにしろロシア軍は近世になってから、本当の敗北を知らないという常勝軍だった。ナポレオンにすら勝ち、また北アジア全域を支配して朝鮮にまで進出したのである。
そして、これは単にロシアに日本が勝ったというだけの戦争ではなかった。この戦争の結果は、じつに絶大なる影響を世界中に及ぼしたのである。




それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒した…事実、日露戦争の敗北から十二年後、ロシアの王朝は革命によって倒れた。これも日本に負けなかったら、事情は変わっていたであろう…という事実であり、世界史の大きな流れからすれば、コロンブス以来の歴史的大事件であった。

コロンブスの新大陸の発見が世界史上の大事件であったことを認めない人はいないであろう。
コロンブス以前の世界史では、それぞれの地域で起きた事件が別の地域に影響を与えるということは、ほとんどなかった。
アレキサンダー大王が現れても、それはアメリカ大陸には関係がないし、また、漢の武帝の即位がアフリカに影響を及ぼすということはなかった。

ところが、二章でも述べたように、コロンブス以後、世界中はひとつになった。ヨーロッパで起きた事件でアジアが動くという時代が始まったのである。

そして、この歴史の分水嶺から400年間に、世界史で何が起きたかといえば、白人が有色人種の土地にやってきては、それを植民地にするという事実に尽きるのである。

これに比べれば、その他の事件、たとえばアメリカの独立戦争(1775~83年)にしたところで、それは小さな出来事に過ぎない。

アメリカが独立しようと、イギリスという国の植民地になろうと、それはあくまで白人同士の内訌(ないこう)であって、世界史全体からすれば、どちらに転んでもいい話である。インディアンたちにとって、アメリカ大陸の支配者が誰であろうと、白人であるかぎりは状況は変わらない。白人の植民地支配のほうが、ずっと大きな問題だったのである。

フランス革命にしたところで、それは白人内部の問題であって、インド人にもシナ人にも、ほとんど影響を与えなかった。また、英仏間の戦争にしろ、当事者には大戦争であっても、世界史の流れから見れば、どうということはない。インドやカナダがイギリス領になるか、フランス領になるかの違いにすぎないのである。


日露戦争がなかったら、あるいは日露戦争に日本が負けていたならば、この白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、21世紀を迎えようとしている今日でも、世界中は植民地と人種差別に満ちていたであろうということには、豪毛の疑いもない。


ところが、日露戦争で日本が勝ったために、コロンブス以来400年ぶりに、世界の歴史の大きな流れが変わったのである。つまり、有色人種が白人の言いなりになりつづけるという時代に終止符が打たれた。それを日本が満天下に示したのであった。


そして、時間が経てば経つほど、誰の目にも日露戦争の世界史的意味は大きくなってくるのである。

ふたたび繰り返すが、ここ500年間の世界史の事件で、コロンブスの新大陸発見に匹敵する大事件は、日露戦争における日本の勝利しかない。


https://www.youtube.com/watch?v=ThokovrL1XM&list=PL6mu43UnNThAhNNLwejuQWyLAk0DGA17s&index=52



日露戦争前の国際情勢


一昔前には、ヨーロッパ人は有色人種(黄色人種を含む)は人間とはみなしていませんでした。猿とまではいかなかったが、猿と人間の中間の類猿人の部類とみなしていたのです。アフリカやアジアの地域を植民地にしたり、奴隷売買をしていたことで頷けることでしょう。特に日露戦争時のロシア皇帝は日本人を「東洋の猿」といってすっかり軽蔑していました。フランス人画家のビゴーが日本人を猿のように描いていたのは当時では当たり前のこととして通っていたのです。時代は下って、原爆投下も人種差別のたまものです。











★20世紀に入る頃の白人による植民地支配は、
 次のような状況になっていました。


南米大陸 (南アメリカ大陸)
  ポルトガル、スペインが支配

北米大陸 (北アメリカ大陸)
  イギリス、フランスが支配
  途中でアメリカが白人国家として独立

アフリカ大陸
イギリス、オランダ、フランス、ベルギー、ポルトガル、
スペイン、ドイツ、イタリアが支配

オーストラリア大陸
  イギリスが支配

中東アジア
  イギリスが支配

東南アジア
  インドネシアはオランダが支配
  マレーシアはイギリスが支配
  アメリカはフィリピン、ハワイを支配
  フランスはベトナムを支配
  イギリス、ドイツ、フランスでミクロネシア諸島を支配

極東アジア
  イギリス、フランスで中国を分割支配
  ロシアは満州を支配

上記の通り、地球上にある陸地は、ほぼ全てを白人が支配した状況になっていて、
最後の最後に残っていたのは、極東の日本と朝鮮半島だけでした。

日本を植民地にすれば、白人による世界支配は完了だったのです。






https://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp


https://www.youtube.com/watch?v=xrihV_GUQoc

https://www.youtube.com/watch?v=dSJxcPsY4B8


★「凛として愛」
https://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg&index=47&list=PL9EWxmPflX-pfl7CGtvZ-aUiXBfe1PcOp

★世界は日本をどう見ているか 
https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM


自己紹介〔↓〕

平瀬城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
平瀬城
長野県
平瀬城主郭部
平瀬城主郭部
城郭構造山城、居館
築城主平瀬氏
主な城主平瀬氏原虎胤
廃城年1553年
遺構曲輪、土塁
指定文化財なし

平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城

http://www.asahi-net.or.jp/~JU8T-HNM/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Hirase/index.htm

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。



[PR]
by kabu_kachan | 2012-12-29 08:59 | 歴史 | Comments(0)

真のユダヤ史(ユースタス・マリンズ著)(2)

戦後、ダグラス・マッカーサー将軍が日本占領連合軍最高司令官となったとき、新たな経済の絶対支配者としてウィリアム・ドレイパー将軍を帯同しました。ドレイパーはウォール街の銀行ディロン・リード社の共同経営者であり、同社は1924年に1億2000万ドルの債券を発行することによりドイツを再軍備へと踏み出させ、第二次世界大戦への道を避けられないものとしました。
ドレイパーの会社ディロン・リードを率いていたのはクラレンス・ラポウスキーでしたが、彼は自分の名前をディロンと改名したのです。ディロンはテキサス出身のユダヤ人で、その息子、C・ダグラス・ディロンはケネディ大統領の財務長官となりました。C・ダグラス・ディロンの娘は結婚してヨーロッパの貴族となっています。
第二次世界大戦後、ドレイパー将軍の指揮のもとで日本経済は、ドレイパーのほんとうの主人ロスチャイルド家が策定した路線に沿って再編されました。
当時、イギリスのジャーナリストのコンプトン・ペイカナムは「ニューズウィーク誌」の通信員をしていました。ペイカナムはまた天皇ヒロヒトの親友の一人でもありました。私はペイカナムを訪ねたことがあります。彼が私に語ってくれたのは、「天皇はユダヤ陰謀家たちの悪辣さを絶対に理解できない。なぜなら天皇は即位以来まったく信義というもの持たない人間と接触したことが一度もないからだ」ということでした。
日本民族は、ユダヤ人の持つ血への欲望ゆえに、第二次世界大戦中、信じがたいほどの残虐非道、すなわち東京大規模爆撃、広島・長崎への原爆攻撃などを耐え忍びました。これらの大量殺人は軍事的には何らの影響もともなわず、ただただ、あらゆる歴史においてもっともおぞましい大量惨殺にすぎなかったのです。
日本がユダヤによって原子爆弾の標的として選ばれたのは、原子爆弾のユダヤ人開発者らがユダヤの地獄爆弾を非白人系の民族にテストしてみたかったからにほかなりません。
ハリー・トルーマン大統領は原爆の使用については疑念を抱いていたのですが、サンヘドリンのもっとも邪悪な使用人の一人ジェームズ・ブライアント・コナントが原爆の使用を熱心に説き、とうとう説得させられてしまいました。コナントはハーバード大学総長になった化学者ですが、ウィンストン・チャーチルに依託されて、ドイツに対して使用するための炭疽爆弾を開発しました。
この爆弾は、ドイツに生存するすべての生物を殺戮し、長期間にわたってそこには誰も住むことができないようにするはずでした。しかしコナントが開発したときには、すでにドイツに使用する時期を失していました。彼は炭疽爆弾を日本に使用するように求めたのですが、ユダヤ陰謀家たちは日本に対して彼らの地獄爆弾をテストすることを決めたのです。
私は公式の法廷記録のなかで、ジェームズ・ブライアント・コナントこそが「第二次世界大戦の最大の戦争犯罪人」であると繰り返し述べてきました。彼はのちに敗戦国ドイツの高等弁務官となり、1955年にドイツ語に翻訳された連邦準備制度の歴史に関する私の著作の焚書を命じました。
コナントの補佐官はベンジャミン・ブッテンワイザーで、西半球におけるロスチャイルド権益の秘密アメリカ代理人であるクーン・ロエブ商会の共同経営者でした。ブッテンワイザーの妻、レーマン銀行一族のヘレン・レーマンは、アルジャー・ヒスの名高いスパイ事件(本書274ページ参照)の裁判で被告の弁護人を務めていました。ブッテンワイザーは、アルジャー・ヒスが刑務所に収監されていた期間、ヒスの息子のトニーを100万ドル相当のマンハッタンの邸宅で養育しました。
この情報をお伝えすることによって日本の皆さまが、ユダヤが日本民族に対して負わせてきた極悪陰険な国際的勢力についてのよりよき理解を得る一助にされることを私は心から希望します。

  1994年10月25日   ユースタス・マリンズ
[PR]
by kabu_kachan | 2012-10-30 16:32 | 歴史 | Comments(0)

真のユダヤ史(ユースタス・マリンズ著)(1)

日本の読者の皆さまへ[序文] (訳・太田龍・天童竺丸)

本書を日本の皆さまに読んでいただくことは、私の大きな名誉であります。大日本帝国が第二次世界大戦へと巻きこまれていく背後にあった事実を、日本民族は本書で初めて知ることになるでしょう。

フランクリン・デラノ・ルーズベルト政権は貿易等の経済制裁をもちいた日本に対する一連の挑発行為を通じて、むりやり日本に太平洋地域のアメリカの保有財産を攻撃させようと謀りました。ルーズベルトが日本軍の暗号を解読ずみであったため、ホワイトハウスには敵対行為がいよいよ勃発するのに先立って日本側の交信をすべて秘密裡に明かされていました。
1941年12月6日夜、サンヘドリン、すなわちユダヤ最高法院のホワイトハウス駐在員バーナード・バルークは、合衆国陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル将軍およびルーズベルト大統領と同席していました。何時間か経つうちに、三人はパニックにおちいりました。暗号解読された通信によって、日本海軍の機動部隊がパールハーバーに接近中であることが判明しましたが、同時に、攻撃前にアメリカ側に探知されたら攻撃を中止して日本に引き返せとの厳しい命令を、連合艦隊の作戦司令官は受けていたからです。
日本軍は果たして攻撃するだろうか?もし日本軍の暗号電文がホワイトハウスによって解読追跡されていることが知れたら、攻撃は取り止めになり、日本と合衆国を第二次世界大戦へ巻き込むという世界ユダヤの計画は水泡に帰すことになります。しかし日本軍は、監視下に置かれていることに気づくことなく、全力でハワイに向かって近づき、奇襲攻撃を開始しました。
ルーズベルト、バルーク、マーシャルは、近づきつつある攻撃に関するすべての情報を米国太平洋方面軍指揮官に漏れないよう入念な措置を講じました。
はっきりしていることは、もし彼らがパールハーバーの艦隊に警告を発していたら、日本は攻撃しなかったということです。沈黙をつづけることにより、ルーズベルトは日本のパールハーバー攻撃を推励したのです。そしてこのことが、大統領自身の国の何千人という若い兵士船員たちが、警告も受けず死んでゆく運命を決したのです。まさにレオン・トロツキーが口ぐせにしていた通り、「卵を二、三個割らなければ、オムレツは作れない」であったのです。
それからなんと、ルーズベルトはパールハーバーの司令官だったキンメルとショートとを、攻撃に対する準備ができていなかったという「重過失」の嫌疑で軍法会議にかけたのです。後日、キンメルの息子は、任期切れ寸前のジョージ・ブッシュ大統領に父親の特赦を嘆願しました。ブッシュは、「私には歴史を書き換えることはできかねる」と言って、そっけなく断わりました。

[PR]
by kabu_kachan | 2012-10-30 16:28 | 歴史 | Comments(0)

奴隷貿易をしていたキリシタン大名

豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎
徳富蘇峰の近世日本国民史に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっています。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』
改宗ユダヤ人であるザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(同じく改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタンの悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万もいるという。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』

豊臣秀吉は準管区長コエリヨに対して次のように命じています。
『ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ。』

2002.7.9日付北國新聞の「バテレン追放令」も当時の「宣教師達による日本人女性人身売買」について触れています。
豊臣秀吉のバテレン追放令第10条の「日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止」を紹介し、次のように述べています。
『バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。』

豊臣秀吉は、この奴隷狩りを止めさせるために、イエズス会の司祭、コエリュに詰問しています。
「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも開放しろ。そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」
これにコエリュが答えて
「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。問題なのは、外国船を迎える港の領主(キリシタン大名や天草四郎)であり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。」
このやり取りで、秀吉は激怒し、奴隷売買禁止令を発します。

天草四郎があれだけ最新鋭の鉄砲で武装できたのも、奴隷狩りの豊富な資金があったからです。
彼らは現在の絵や小説やドラマに描かれているようなムシロ旗に竹槍の武装などしてないんですね。
鎧を着て、銃で武装した組織的武士団です。
戦前までは、この事実はよく知られていたそうです。
そのため、古い物語などに出てくる天草四郎は魔回転生に出てくるような化け物として描かれています。
しかし、戦後はあべこべに日本人がキリスト教徒を迫害したのだと教科書で教育しています。
奴隷貿易で子供や女性を連行されたのは日本人の方なのに。


日本の歴史教育ではキリシタン殉教者の悲劇は教えます。
しかし、天正少年使節団が報告した日本人女性50万人が奴隷として売買されていた悲劇を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を、どうして教えないのでしょうか?
[PR]
by kabu_kachan | 2012-08-04 19:13 | 歴史 | Comments(0)

「昭和の大戦」への道   渡部昇一・著

★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★
  この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとりと言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または気づいていないふりをしている)点です。
  太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。
  このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。
  当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。
  つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。
  アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。
  結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。
[PR]
by kabu_kachan | 2012-07-14 20:40 | 歴史 | Comments(0)

ユダヤの日本侵略450年の秘密

ユダヤの日本侵略450年の秘密  
  太田龍・著  日本文芸社  1994年7月

 坂本龍馬はグラバーの指令で暗殺された!?

  長崎に居を構えるグラバーは、フリーメーソンの人脈に取りこまれていた坂本龍馬を使役して、薩長盟約に誘導した。問題は、薩摩である。薩摩もまた、徳川を討って島津の幕府を立てる藩代々の政治的意志をもっている。グラバーは、龍馬を使って薩長倒幕密約に持ちこむことに成功したのである。
  ユダヤ・フリーメーソンは薩摩をおだて、長州をおだて、ロンドンに留学生を招き、洋式兵器を供給し、両藩の私的利権の欲望をあおり立てた。大久保利通は、そのメカニズムを了解し受け入れた。ここに、ユダヤ悪魔教の手先となって、薩長が日本の国権を簒奪する。そして孝明天皇を弑逆し、幼帝をおのれの手中の「玉(ぎょく)」として奪うために、岩倉具視が共同謀議に参画する、という極秘の筋書きができあがったのである。
  伊藤博文は、この三者密約に合流した。西郷隆盛は、この桂小五郎・大久保利通・岩倉具視の謀略に乗せられ、踊らされ、利用された、と筆者は見る。
  他方、ユダヤはフランスを使って徳川幕府に洋式軍隊建設を働きかけた。いよいよ事態はユダヤの周到な計画通り、孝明天皇は暗殺、薩長対徳川の、日本民族を真っ二つに割る大内乱の幕が切って落とされようとした。ちなみに当時清国は、ユダヤに操作された太平天国の人工的動乱によって、1850年から約10年のあいだに、実に5千万人の人命を失った! ユダヤが日本列島でもその再現を狙っていたことは疑う余地はない。
  したがってこの時点では、龍馬はメーソンの傀儡と言ってよいのではないか。その龍馬がなぜ、慶応3年(1867年)11月15日に暗殺されねばならなかったのか。
  筆者は、この土壇場で龍馬が、フリーメーソンが日本の内乱を演出し、それを足がかりに日本の植民地化を図ろうとしている謀略に気づいたのではないか、そして、この秘密を知った(あるいは感づいた)日本人が、幕末に少なくともあと2人いた、と推察している。 
  その2人とは、徳川幕府の勝海舟、そしてもうひとりが、他ならぬ徳川15代将軍を継いだ徳川慶喜である。この2人が謀略を見破り、幕府と薩長の内戦の危機を阻止すべく、ついに慶応3年10月14日、朝廷に大政奉還を上奏した。
  龍馬は、これを知って、「――よくこそご決意くだされた! この上は、われらこの君(慶喜)のために、生命を捧げて働きまする」と、感極まって男泣きに泣いた、といわれている。龍馬暗殺はその1カ月後である。慶喜に大政奉還されては、倒幕派と幕府の内戦の火は消えてしまう。メーソン側としては、なんとしても戦を挑発しなければならない。(中略)
  グラバーは、この情勢を逆転させるために、倒幕路線の敵となってしまった龍馬の暗殺処分を、薩長、岩倉(具視)に教唆したのではないか。しかも、暗殺成功後、あたかも幕府・新撰組が龍馬殺しの犯人であるかのようなニセ情報を流したのではないか。
  11月15日の近江屋における龍馬(そして中岡慎太郎)暗殺後、12月9日のいわゆる小御所会議で、岩倉と薩長は公武合体派を追放する私的クーデターを引き起こしている。
[PR]
by kabu_kachan | 2012-04-03 11:06 | 歴史 | Comments(0)